翌週の木曜、六時間目のチャイムが鳴ったとき、俺は自分でもびっくりするくらい早くプリントを配り終えていた。
「成瀬、今日も残り頼んでいいか?」
「いけます。職員室に持っていくだけですよね」
担任にそう返しながら、心のどこかで時計を気にしている。
図書準備室の鍵を借りるには、先生が職員室からいなくなる前に行かなきゃいけない。のんびりしていると、また話し込まれてタイミングを逃す。
先週の木曜、白石に「来週も来ます」と宣言されてから、一週間。
さすがに、あれはその場のノリだったんじゃないかと思っていた。
いや、思うようにしていた、に近い。
だって、一年のイケメンが、わざわざ図書委員でもないのに、毎週放課後をつぶしてまで、二年の地味な先輩を手伝う理由なんて、どこをどう探しても見つからない。
それでも、「もしかしたら」という期待が、少しだけ胸の中でふくらんでいるのが分かる。
こういうのを、自意識過剰というのだろう。
プリントの束を職員室に置き、図書室の扉の前で立ち止まる。
横の小さなドアの向こうを想像して、深呼吸をひとつ。
「…来てない方が、普通だしな」
自分に言い聞かせながら、ノブを回した。
ガラリ。
「お疲れさまです、先輩」
静かな声が、いつもの紙とインクの匂いに重なった。
思わず、足が止まる。
準備室の机の前に、白石が座っていた。
机の上には、段ボール箱がいくつも積まれている。
そのひとつはすでに開けられていて、中には新刊の本がぎっしり詰まっていた。ガムテープの切れ端が、きれいに一列に並んでいるあたり、作業が始まっていたことがよく分かる。
しかも、白石の手には、軍手。
「…本当に来たんだ」
口から出たのは、そんな言葉だった。
「来るって言いました」
あたりまえ、という顔で白石が答える。
軍手を片方外して、机の端に置いた。
「先輩が来る前に、開けられるだけ開けた方が早いかなと思って」
「いや、そこまでは…」
「授業、早めに終わったので」
さらっと言われて、言い訳の余地がない。
俺が教室でプリントをまとめているあいだに、一年教室からここまで移動して、段ボールを運んで、ガムテープを剥がしていたってことだろうか。
段ボールの山を見ていると、じわじわと申し訳なさと、ありがたさが混ざった妙な感情が湧き上がる。
「なんか、ごめんね。本来なら俺の仕事なのに」
「手伝いたくてやってるので」
白石はほんの少しだけ目を細めた。
それが、うれしそうなのか、ただの事実報告なのか、まだうまく読み取れない。
「先輩が全部終わるまで残ってるより、二人でやった方が、早く帰れますし」
「ああ…それは、そう」
合理的な理由をくっつけられると、ますます断りづらい。
軍手を受け取って、俺も机の向こう側に回る。
「じゃあ、ラベル貼りは俺がやるから、白石は分類番号を書いてもらってもいい?」
「分かりました」
こうして、二週目の木曜も、「ふたりの準備室」が始まった。
カッターでガムテープを切る音。
段ボールから本を出すときの、紙の重い感触。
新しいインクの匂いが、狭い部屋にふわっと広がる。
先週と同じようで、少しだけ違う。
そんな時間が、そこから何週か、あっという間に積み重なっていった。
◇
ある木曜は、やたらと暑かった。
窓の外から差し込む光の角度が変わっていて、準備室の中も、じんわりと熱をため込んでいる。
机の端には、見慣れたミルクティーと、白石のブラックコーヒー。
ペットボトルのラベルが汗をかいていて、それを指でなぞると、ひんやりした水滴が伝っていく。
「白石って、なんでそんなに本読むの」
ラベルを撫でながら、ふと気になって聞いてみた。
白石は手を止めずに、本にラベルを貼りながら、少しだけ視線を落とす。
「…人と話すより、楽なので」
「楽?」
「本だと、最初から最後まで、勝手に話が進んでくれるので」
返ってきた答えが、思っていたよりも正直で、思わず笑ってしまった。
「それ、分かるかも。人間相手だと、気を遣うもんね」
「そうですね」
短くうなずいてから、白石は一冊の背表紙をじっと見つめた。
その横顔が、少しだけ遠くを見ているみたいに見える。
「でも、先輩とは、そんなに疲れないです」
「え?」
「ここだと、決められた仕事もあるし。本の話もできるし」
言いながら、ラベルをぺたりと貼る。
その手つきは相変わらず無駄がなくて、見ていて気持ちいい。
「本の話って言っても、俺、そんなに詳しくないけど」
「先輩、前に言ってました。これ、映画になってるって」
「ああ、これ? シリーズで、三作くらい映画になってるよ。主人公、めっちゃ走るんだよね」
机の上の文庫本を指さすと、白石の目が少しだけ丸くなった。
「そうなんですか」
「うん。原作とは違うところもあるけど、映画は映画で面白いよ。アクションが派手で」
「…観てみます」
ぽつりと落ちた言葉は、小さいけれど、しっかりしていた。
白石の表情が、少しだけ柔らかくなる。
その変化が分かるようになってきた自分がいて、なんとなく面白い。
「先輩、映画、好きなんですか」
「うん。友だちと観に行ったり、一人で行ったり。ポップコーンは塩派」
「ポップコーン」
白石はオウム返しみたいに繰り返してから、カバンの方へちらっと視線を向けた。
ポケットのところに、小さなメモ帳の角が覗いているのが見える。
何か書いたような仕草をした気がしたけれど、深くは聞かなかった。
もしかすると、気のせいかもしれないし。
◇
別の木曜には、俺が学校の愚痴をこぼした。
「今日さ、また先生に頼まれてさ。文化祭の準備委員の書類、追加で印刷してきてくれって」
「文化祭、まだ先ですよね」
「そうなんだよ。今やらなくてもいいじゃんって思うんだけどさ。職員室で『成瀬くん、お願いね』って笑顔で言われたら、断れないって」
ラベルを貼りながらぼやく俺の横で、白石はカードを並べる手を止めた。
「…断ってもいいと思いますけど」
「え?」
「先輩、断る練習した方がいいと思います」
真顔で言われて、笑ってしまう。
「白石は、なんでもはっきり言えそうだよね」
「そんなことないです」
「いや、あると思う。言いたいことがあったら、ちゃんと言うタイプでしょ。見てたらなんとなく分かる」
そう言うと、白石は一拍置いてから、少しだけ目をそらした。
「相手が、先輩じゃなければ」
「ん?」
「いえ」
小さな声で何か言った気がしたけれど、はっきりは聞こえなかった。
俺が首をかしげると、白石は「次の棚、やりますね」とだけ言って、立ち上がる。
ああいうときの白石は、たぶん、何かを隠している。
でも、それが何なのかまでは、まだうまく掴めなかった。
◇
そんなふうに、他愛ない会話を挟みながら作業していたある週。
「コンセント、位置変えた方がいいですね」
白石が、延長コードを指さした。
机の足のあたりをぐるっと回っていて、確かに足を引っかけそうだ。
「たしかに。ちょっと引っ張るね」
俺はしゃがんで、タップを持ち上げる。
そのとき。
「わっ」
コードに自分の足を引っかけた。
体が前に傾く。バランスを崩した瞬間、腕をぐっと引っ張られた。
「先輩」
白石の声と同時に、胸のあたりが固いものにぶつかる。
目の前には、白いワイシャツの生地。
状況を理解するより早く、強くつかまれた腕の感触だけがはっきりしていた。
「ごめ…!」
顔を上げると、すぐ目の前に白石の顔があった。
いつもより、少し近い距離。
視線が、俺の腕に落ちている。
つかんでいる手は、意外と熱い。
「大丈夫ですか」
「あ、うん。びっくりしただけ」
なんとか笑ってみせる。
白石はすぐにつかんでいた手を離したけれど、その指先が、まだ俺の制服の袖のあたりで挙動不審な感じに動いた。
「すみません。強く、つかみすぎました」
「いや、助かったから。俺、よくこういうので転びそうになるからさ」
誤魔化すみたいに笑うと、白石は小さく息を吐いた。
安心したような、それでいて、まだどこか落ち着かないような顔をしている。
その目に、心配以外の何かがちらついた気がした。
でも、気のせいかもしれない。
そう思って、あえて深く考えないようにした。
考え出すと、たぶん、変に意識してしまうから。
◇
ラベルの山がひと段落した頃、いつものようにミルクティーを飲みながら、なんとなく聞いてみた。
「白石ってさ」
「はい」
「なんで、毎週来てくれるの」
木曜の放課後。
当たり前のように準備室にいる白石を見ていると、ふとそんな疑問が浮かぶ。
図書室に来る一年は他にもいるけれど、ここまで関わってくるのは白石だけだ。
俺の問いに、白石はペンをくるりと指で回してから、視線を宙に泳がせた。
「…なんで、ですかね」
「なんでって。自分でも分かってないの」
「理由を言葉にすると、変かもしれないので」
「え。ちょっと気になるんだけど」
軽く笑いながら言うと、白石は少しだけ考えるように、机の木目を見つめた。
「先輩が、ひとりでやってるの見てると」
「うん」
「落ち着かなくて」
「落ち着かない?」
「はい」
短くうなずいてから、言葉を探すみたいに続ける。
「先輩、ちゃんと全部終わらせようとするじゃないですか。誰もいないところでも」
「まあ、終わらせないと帰れないし」
「その姿を見ると、なんか…よく分からないけど、そわそわして」
「そわそわ」
「なので、一緒にやった方が、落ち着きます」
言い方だけ聞くと、だいぶ自己中心的だ。
俺が楽になるからとかじゃなくて、自分が落ち着きたいから来ている、みたいな。
そう思ったのか、自分でも少しおかしくなって、笑ってしまう。
「それ、結構わがままだよ」
「そうかもしれません」
白石はあっさり認めた。
「先輩が、嬉しそうだと」
「うん」
「僕が、勝手に安心するだけなので」
その言い方は、やっぱりどこか、自分のことしか言っていない。
でも、不思議と嫌じゃなかった。
むしろ、「優しいから」じゃなくて、「自分のために」ここにいると言い切ってくれた方が、嘘がない感じがする。
「なんか、それ聞いてたら、俺の方が図太くなれそうだわ」
「図太く」
「だってさ、白石に『断る練習した方がいい』って言われて、ちょっとだけ先生に『今は無理です』って言う練習してみたんだよ」
「本当ですか」
「うん。今日のプリント、他の男子にも半分手伝ってもらったし。まあ、まだ心臓バクバクだったけど」
そう言うと、白石の目がほんの少しだけ丸くなった。
「すごいと思います」
「いや、そんな大げさな」
「大げさじゃないです」
即答だった。
そこだけは、やけに強い。
「先輩が、ちょっとでも楽になってるなら、よかったです」
「…なんか、それ、ありがとうって言うべき?」
「言わなくていいです」
素直じゃない言葉とは裏腹に、白石の表情は、さっきより少しだけ柔らかかった。
◇
そんなふうに、木曜の放課後が何度か過ぎていくうちに、ひとつ、自分でも認めざるをえないことが出てきた。
木曜が近づくと、少しだけ、気分が軽くなる。
授業中、窓の外の空を見ては、「今日放課後、どれくらいで作業終わるかな」とか、「新しい本、来てるかな」とか、どうでもいいことを考える。
廊下で見かける一年の集団の中に、無意識のうちに白石の姿を探している自分もいる。
たぶん、それは「仕事が楽になるから」とか、「二人でやった方が早く終わるから」とか、そういう理由だけじゃない。
けれど、その先まで考えようとすると、心のどこかが、「まだ早い」とブレーキをかけてくる。
だから今のところは、こうまとめておくことにした。
木曜の放課後が、ちょっと楽しみになってきた。
図書準備室で、誰かと一緒に作業して、くだらない話をして、たまにミルクティーを奢られて。
そんな時間があるのは、悪くない。
その「誰か」が、決まって白石湊だという事実に、まだあまり深い意味を見ないふりをしながら。
「成瀬、今日も残り頼んでいいか?」
「いけます。職員室に持っていくだけですよね」
担任にそう返しながら、心のどこかで時計を気にしている。
図書準備室の鍵を借りるには、先生が職員室からいなくなる前に行かなきゃいけない。のんびりしていると、また話し込まれてタイミングを逃す。
先週の木曜、白石に「来週も来ます」と宣言されてから、一週間。
さすがに、あれはその場のノリだったんじゃないかと思っていた。
いや、思うようにしていた、に近い。
だって、一年のイケメンが、わざわざ図書委員でもないのに、毎週放課後をつぶしてまで、二年の地味な先輩を手伝う理由なんて、どこをどう探しても見つからない。
それでも、「もしかしたら」という期待が、少しだけ胸の中でふくらんでいるのが分かる。
こういうのを、自意識過剰というのだろう。
プリントの束を職員室に置き、図書室の扉の前で立ち止まる。
横の小さなドアの向こうを想像して、深呼吸をひとつ。
「…来てない方が、普通だしな」
自分に言い聞かせながら、ノブを回した。
ガラリ。
「お疲れさまです、先輩」
静かな声が、いつもの紙とインクの匂いに重なった。
思わず、足が止まる。
準備室の机の前に、白石が座っていた。
机の上には、段ボール箱がいくつも積まれている。
そのひとつはすでに開けられていて、中には新刊の本がぎっしり詰まっていた。ガムテープの切れ端が、きれいに一列に並んでいるあたり、作業が始まっていたことがよく分かる。
しかも、白石の手には、軍手。
「…本当に来たんだ」
口から出たのは、そんな言葉だった。
「来るって言いました」
あたりまえ、という顔で白石が答える。
軍手を片方外して、机の端に置いた。
「先輩が来る前に、開けられるだけ開けた方が早いかなと思って」
「いや、そこまでは…」
「授業、早めに終わったので」
さらっと言われて、言い訳の余地がない。
俺が教室でプリントをまとめているあいだに、一年教室からここまで移動して、段ボールを運んで、ガムテープを剥がしていたってことだろうか。
段ボールの山を見ていると、じわじわと申し訳なさと、ありがたさが混ざった妙な感情が湧き上がる。
「なんか、ごめんね。本来なら俺の仕事なのに」
「手伝いたくてやってるので」
白石はほんの少しだけ目を細めた。
それが、うれしそうなのか、ただの事実報告なのか、まだうまく読み取れない。
「先輩が全部終わるまで残ってるより、二人でやった方が、早く帰れますし」
「ああ…それは、そう」
合理的な理由をくっつけられると、ますます断りづらい。
軍手を受け取って、俺も机の向こう側に回る。
「じゃあ、ラベル貼りは俺がやるから、白石は分類番号を書いてもらってもいい?」
「分かりました」
こうして、二週目の木曜も、「ふたりの準備室」が始まった。
カッターでガムテープを切る音。
段ボールから本を出すときの、紙の重い感触。
新しいインクの匂いが、狭い部屋にふわっと広がる。
先週と同じようで、少しだけ違う。
そんな時間が、そこから何週か、あっという間に積み重なっていった。
◇
ある木曜は、やたらと暑かった。
窓の外から差し込む光の角度が変わっていて、準備室の中も、じんわりと熱をため込んでいる。
机の端には、見慣れたミルクティーと、白石のブラックコーヒー。
ペットボトルのラベルが汗をかいていて、それを指でなぞると、ひんやりした水滴が伝っていく。
「白石って、なんでそんなに本読むの」
ラベルを撫でながら、ふと気になって聞いてみた。
白石は手を止めずに、本にラベルを貼りながら、少しだけ視線を落とす。
「…人と話すより、楽なので」
「楽?」
「本だと、最初から最後まで、勝手に話が進んでくれるので」
返ってきた答えが、思っていたよりも正直で、思わず笑ってしまった。
「それ、分かるかも。人間相手だと、気を遣うもんね」
「そうですね」
短くうなずいてから、白石は一冊の背表紙をじっと見つめた。
その横顔が、少しだけ遠くを見ているみたいに見える。
「でも、先輩とは、そんなに疲れないです」
「え?」
「ここだと、決められた仕事もあるし。本の話もできるし」
言いながら、ラベルをぺたりと貼る。
その手つきは相変わらず無駄がなくて、見ていて気持ちいい。
「本の話って言っても、俺、そんなに詳しくないけど」
「先輩、前に言ってました。これ、映画になってるって」
「ああ、これ? シリーズで、三作くらい映画になってるよ。主人公、めっちゃ走るんだよね」
机の上の文庫本を指さすと、白石の目が少しだけ丸くなった。
「そうなんですか」
「うん。原作とは違うところもあるけど、映画は映画で面白いよ。アクションが派手で」
「…観てみます」
ぽつりと落ちた言葉は、小さいけれど、しっかりしていた。
白石の表情が、少しだけ柔らかくなる。
その変化が分かるようになってきた自分がいて、なんとなく面白い。
「先輩、映画、好きなんですか」
「うん。友だちと観に行ったり、一人で行ったり。ポップコーンは塩派」
「ポップコーン」
白石はオウム返しみたいに繰り返してから、カバンの方へちらっと視線を向けた。
ポケットのところに、小さなメモ帳の角が覗いているのが見える。
何か書いたような仕草をした気がしたけれど、深くは聞かなかった。
もしかすると、気のせいかもしれないし。
◇
別の木曜には、俺が学校の愚痴をこぼした。
「今日さ、また先生に頼まれてさ。文化祭の準備委員の書類、追加で印刷してきてくれって」
「文化祭、まだ先ですよね」
「そうなんだよ。今やらなくてもいいじゃんって思うんだけどさ。職員室で『成瀬くん、お願いね』って笑顔で言われたら、断れないって」
ラベルを貼りながらぼやく俺の横で、白石はカードを並べる手を止めた。
「…断ってもいいと思いますけど」
「え?」
「先輩、断る練習した方がいいと思います」
真顔で言われて、笑ってしまう。
「白石は、なんでもはっきり言えそうだよね」
「そんなことないです」
「いや、あると思う。言いたいことがあったら、ちゃんと言うタイプでしょ。見てたらなんとなく分かる」
そう言うと、白石は一拍置いてから、少しだけ目をそらした。
「相手が、先輩じゃなければ」
「ん?」
「いえ」
小さな声で何か言った気がしたけれど、はっきりは聞こえなかった。
俺が首をかしげると、白石は「次の棚、やりますね」とだけ言って、立ち上がる。
ああいうときの白石は、たぶん、何かを隠している。
でも、それが何なのかまでは、まだうまく掴めなかった。
◇
そんなふうに、他愛ない会話を挟みながら作業していたある週。
「コンセント、位置変えた方がいいですね」
白石が、延長コードを指さした。
机の足のあたりをぐるっと回っていて、確かに足を引っかけそうだ。
「たしかに。ちょっと引っ張るね」
俺はしゃがんで、タップを持ち上げる。
そのとき。
「わっ」
コードに自分の足を引っかけた。
体が前に傾く。バランスを崩した瞬間、腕をぐっと引っ張られた。
「先輩」
白石の声と同時に、胸のあたりが固いものにぶつかる。
目の前には、白いワイシャツの生地。
状況を理解するより早く、強くつかまれた腕の感触だけがはっきりしていた。
「ごめ…!」
顔を上げると、すぐ目の前に白石の顔があった。
いつもより、少し近い距離。
視線が、俺の腕に落ちている。
つかんでいる手は、意外と熱い。
「大丈夫ですか」
「あ、うん。びっくりしただけ」
なんとか笑ってみせる。
白石はすぐにつかんでいた手を離したけれど、その指先が、まだ俺の制服の袖のあたりで挙動不審な感じに動いた。
「すみません。強く、つかみすぎました」
「いや、助かったから。俺、よくこういうので転びそうになるからさ」
誤魔化すみたいに笑うと、白石は小さく息を吐いた。
安心したような、それでいて、まだどこか落ち着かないような顔をしている。
その目に、心配以外の何かがちらついた気がした。
でも、気のせいかもしれない。
そう思って、あえて深く考えないようにした。
考え出すと、たぶん、変に意識してしまうから。
◇
ラベルの山がひと段落した頃、いつものようにミルクティーを飲みながら、なんとなく聞いてみた。
「白石ってさ」
「はい」
「なんで、毎週来てくれるの」
木曜の放課後。
当たり前のように準備室にいる白石を見ていると、ふとそんな疑問が浮かぶ。
図書室に来る一年は他にもいるけれど、ここまで関わってくるのは白石だけだ。
俺の問いに、白石はペンをくるりと指で回してから、視線を宙に泳がせた。
「…なんで、ですかね」
「なんでって。自分でも分かってないの」
「理由を言葉にすると、変かもしれないので」
「え。ちょっと気になるんだけど」
軽く笑いながら言うと、白石は少しだけ考えるように、机の木目を見つめた。
「先輩が、ひとりでやってるの見てると」
「うん」
「落ち着かなくて」
「落ち着かない?」
「はい」
短くうなずいてから、言葉を探すみたいに続ける。
「先輩、ちゃんと全部終わらせようとするじゃないですか。誰もいないところでも」
「まあ、終わらせないと帰れないし」
「その姿を見ると、なんか…よく分からないけど、そわそわして」
「そわそわ」
「なので、一緒にやった方が、落ち着きます」
言い方だけ聞くと、だいぶ自己中心的だ。
俺が楽になるからとかじゃなくて、自分が落ち着きたいから来ている、みたいな。
そう思ったのか、自分でも少しおかしくなって、笑ってしまう。
「それ、結構わがままだよ」
「そうかもしれません」
白石はあっさり認めた。
「先輩が、嬉しそうだと」
「うん」
「僕が、勝手に安心するだけなので」
その言い方は、やっぱりどこか、自分のことしか言っていない。
でも、不思議と嫌じゃなかった。
むしろ、「優しいから」じゃなくて、「自分のために」ここにいると言い切ってくれた方が、嘘がない感じがする。
「なんか、それ聞いてたら、俺の方が図太くなれそうだわ」
「図太く」
「だってさ、白石に『断る練習した方がいい』って言われて、ちょっとだけ先生に『今は無理です』って言う練習してみたんだよ」
「本当ですか」
「うん。今日のプリント、他の男子にも半分手伝ってもらったし。まあ、まだ心臓バクバクだったけど」
そう言うと、白石の目がほんの少しだけ丸くなった。
「すごいと思います」
「いや、そんな大げさな」
「大げさじゃないです」
即答だった。
そこだけは、やけに強い。
「先輩が、ちょっとでも楽になってるなら、よかったです」
「…なんか、それ、ありがとうって言うべき?」
「言わなくていいです」
素直じゃない言葉とは裏腹に、白石の表情は、さっきより少しだけ柔らかかった。
◇
そんなふうに、木曜の放課後が何度か過ぎていくうちに、ひとつ、自分でも認めざるをえないことが出てきた。
木曜が近づくと、少しだけ、気分が軽くなる。
授業中、窓の外の空を見ては、「今日放課後、どれくらいで作業終わるかな」とか、「新しい本、来てるかな」とか、どうでもいいことを考える。
廊下で見かける一年の集団の中に、無意識のうちに白石の姿を探している自分もいる。
たぶん、それは「仕事が楽になるから」とか、「二人でやった方が早く終わるから」とか、そういう理由だけじゃない。
けれど、その先まで考えようとすると、心のどこかが、「まだ早い」とブレーキをかけてくる。
だから今のところは、こうまとめておくことにした。
木曜の放課後が、ちょっと楽しみになってきた。
図書準備室で、誰かと一緒に作業して、くだらない話をして、たまにミルクティーを奢られて。
そんな時間があるのは、悪くない。
その「誰か」が、決まって白石湊だという事実に、まだあまり深い意味を見ないふりをしながら。



