放課後、図書準備室で君を好きになった。

 ホームルームが終わったあと、俺の机の上には、プリントの山ができていた。

「成瀬、ごめん、これ三年の分までホチキス留めしといてくれない? 委員会だって忘れててさ」
「悪いな成瀬、配布用の名簿、クラスごとに分けといて。すぐ戻るから」

 教卓のところで先生に呼び止められ、クラスメイトにも次々に頼まれて、気づけば教室に残っているのは俺ひとりだった。

 窓の外は、もうオレンジ色だ。

 机の列のあいだを行ったり来たりしながら、ホチキスをカチカチ鳴らしていると、自分で選んだわけでもないのに「学級委員」とか「図書委員」とかの腕章の重さを、変に実感する。

 断れればいいのにな、と毎回思う。
 でも、頼まれると、いつも「いいよ」と言ってしまう。

 いい人ぶってるわけじゃない。ただ、断ったあとの気まずさを想像すると、喉がつかえるだけだ。

「よし、これで全部…かな」

 最後のプリントを職員室行きのトレーにまとめて、教室の電気を消す。
 廊下に出ると、他のクラスはとっくに真っ暗で、階段の踊り場だけが白く照らされていた。

 ここからが、もう一つの仕事。

 図書委員の残り作業があることを思い出して、俺はため息をひとつ落とす。
 図書室の横にある小さな扉。その奥が、図書準備室だ。

 ノブを回すと、紙とインクと段ボールの匂いが、むわっと鼻をくすぐる。
 机が二つと、腰の高さの本棚。壁際には、まだラベルが貼られていない本の山と、貸し出しカードの箱。
 三畳あるかないかの狭い空間は、放課後になると、だいたい俺専用になる。

 誰もこない。
 誰にも見られない。

 ここで一気に仕事を片づけて、やっと家に帰る。

 準備室の電気をつけて、椅子を引き、ラベル用のシールとスタンプを手元に寄せる。
 今日中に終わらせるリストを見て、小さく肩を回した。

「…よし」

 自分にだけ聞こえる声でつぶやいて、作業を始める。
 カタカタとカードを箱から出し、分類番号ごとに並べ替える。
 しんとした静けさのなかで、紙の擦れる音と、自分の呼吸だけがやけに大きく聞こえた。

 こういう時間は、嫌いじゃない。

 教室では、誰かに話しかけられれば笑って返すし、相談を持ちかけられれば真面目に考える。
 でも、心の中はずっとバタバタしていて、そのバタバタが少し落ち着くのが、この準備室だった。

 だから、今日も当然、ひとりで終わらせるつもりでいた。

 ガラリ。

 不意に、扉の開く音がした。

 反射的に顔を上げると、入り口に、見慣れない一年生が立っていた。
 黒髪で、背が高い。制服の着崩しもなくて、いかにも真面目そうなのに、どこか目を引く整った顔立ち。

 白石、だ。

 一年の、白石湊。
 入学してすぐ、廊下で名前を聞いた。女子たちが「イケメンがいる」と騒いでいて、何回もその名前が出てきたから、自然と覚えてしまった。

 けれど俺の中での印象は「図書室の隅で、いつも本を読んでいるやつ」で止まっている。
 同じ図書委員ってわけでもない。名簿を見たとき、白石の名前はなかったはずだ。

「あれ…図書室、もう閉めたよ」

 思わずそう声をかけると、白石は一度だけ小さくうなずいてから、まっすぐこっちに視線を向けた。

「知ってます」

 低めだけどよく通る声だった。
 それから、当たり前みたいな顔で、準備室に入ってくる。

「手伝います」

「え?」

 その言葉が、すぐには理解できなかった。

「この前から、放課後ここで作業してますよね、先輩」

「まあ…うん。図書委員だから」

「ひとりで大変そうだったので」

 さらっと言われて、俺はあわてて手を振る。

「あ、大丈夫。慣れてるし。図書委員じゃない人がやる仕事でもないしさ」

「見てるだけ、暇なので」

 俺の断り文句は、あっさり切り捨てられた。

 何をどう見ていたのかは聞かない方がいい気がして、口をつぐむ。
 白石は椅子を引き寄せて、俺の向かいに座った。

「このラベル、貼ればいいですか」

「あ、うん。棚の番号と、このリストの番号を合わせて…」

 気づけば、作業の説明を始めている自分がいた。
 よく知らない一年に仕事を振ってしまっていることに薄い罪悪感を覚えつつ、白石の手元にラベルと本を渡す。

 彼は無駄な会話を挟まず、渡された通りに作業を始めた。
 字もきれいだし、貼る位置もぴったり揃っている。几帳面なのが見て取れた。

「…器用なんだね」

 思ったことがそのまま口から出ると、白石は手を止めずに、ほんの少しだけまぶたを伏せた。

「こういうの、嫌いじゃないので」

 それだけ。
 淡々としているのに、変に棘がない言い方だった。

 しばらく、二人で黙ってラベルを貼り続ける。
 紙の音と、シールをはがすぺりっとした音だけが、準備室に重なる。

 下段の棚に移るころには、俺たちは自然と同じようにしゃがみ込んでいた。

「この列、お願いします」

「分かりました」

 狭い通路に肩を並べる形になって、急に距離が近くなる。
 視界の端に、白石の横顔がある。思っていたより睫毛が長くて、少し目をそらした。

 意識しないようにしようとすると、余計に意識してしまう。
 手元に集中しようと、ラベルの番号を確認しながら、本を一本ずつ棚に差していく。

「…あ」

 同じ背表紙に、同時に手が伸びた。

 指先が、かすかに触れる。
 自分のものじゃない体温を、はっきり感じてしまって、慌てて手を引っ込めた。

「ご、ごめん」

「いえ」

 白石も本から手を離し、こちらを見る。

 そのとき、ふっと、口の端だけが上がった。

 噂で聞く「クールで無表情なイケメン」とは少し違う。
 誰にも見せていないんじゃないかと思うくらい、柔らかい笑い方だった。

「先輩の方が、早かったですよね」

「え、いや、そんな…」

 何が早かったのかよく分からないけれど、顔が熱くなるのを自覚する。
 しゃがんでいるせいで、逃げ場もない。

 俺が視線を泳がせているあいだに、白石は何事もなかったように本を棚に戻した。

 立ち上がって、ラベルの位置を確認していると、隣で椅子のきしむ音がした。

「少し、休憩しませんか」

「え?」

 顔を上げると、白石が準備室の入口の方を顎で指した。

「飲み物、買ってきます」

「あ、大丈夫。本当に。俺の分までは…」

「すぐそこなので」

 そう言って、彼はもうドアノブに手をかけていた。
 引き止めるタイミングを逃して、その背中を見送る。

 数分もしないうちに、ドアが再び開いた。

「お待たせしました」

 白石の手には、コンビニのビニール袋と、ペットボトルが二本。
 机の上に、片方をことりと置く。

「こっち、先輩の分です」

「え…」

 ラベルを見る。
 薄いベージュのラベルに、「ミルクティー 微糖」の文字。

 俺がいつも自販機で買っているやつだった。

「なんで、これ」

「この前も、それ飲んでましたよね」

「ああ…」

 思い出す。テスト前で、眠気覚ましに甘いものが欲しくて、図書室の自販機で買ったときのこと。
 そんな細かい場面を、覚えている人なんていると思っていなかった。

「たまたま、見ただけですけど」

 俺の考えを読んだみたいなタイミングで、白石が言う。
 その顔はやっぱり無表情に近くて、さっきの柔らかい笑みは、どこにも見当たらなかった。

「ありがとう。助かる」

「いえ」

 キャップをひねる。
 ひんやりしたミルクティーが喉を通っていくと、一気にさっきまでの疲れがほどけていく気がした。

「白石って、図書委員じゃないよね」

 ペットボトルを机に置きながら、前から気になっていたことを口にする。

「はい。違います」

「なのに、なんでわざわざ手伝ってくれるの」

 俺の問いかけに、白石は少しだけ考えるように視線を落とした。

「…先輩、断らなそうだったので」

「え?」

「全部、ひとりでやろうとするタイプですよね」

 ぐさっと胸の奥を刺された気がして、言葉に詰まる。

「この前も、先生に頼まれて、プリントの山を運んでました」

「ああ、あれは、その…」

 言い訳を探して口ごもると、白石は小さく首を振った。

「嫌なことを無理に引き受けてる感じじゃなくて、ちゃんとやろうとしてるのが、すごいなって思いました」

「…別に、すごくはないよ。断れないだけ」

「断らない方が、楽なときもありますよね」

 さらりと言われて、顔を上げる。
 無口そうに見えるのに、やたらと本質的なことを言う後輩だ。

 白石は、俺の反応を確かめるように一瞬だけ視線を重ねてから、立ち上がった。

「なので、せめて、ここでは二人でやった方がいいかなと」

「ここ、で?」

「図書準備室。狭いので」

 理由になっているような、なっていないような。
 でも、さっきまで「ひとりで終わらせるしかない」と思っていた作業が、「二人でやってもいい」と言われたことで、急に軽くなった気がした。

「…まあ、正直、助かるけど」

「よかったです」

 さりげない声だったけれど、その言い方には、ほんの少しだけ安堵が混じっているように聞こえた。

 それからの時間は、本当にあっという間だった。

 二人で残りの棚を終わらせ、貸し出しカードを番号順に並べ替え、今日のノルマを全部クリアするころには、窓の外はすっかり夕暮れ色に変わっていた。

「ありがと。かなり早く終わった」

「いえ。来週も、手伝っていいですか」

「え?」

 片づけをしていると、不意にそんな言葉が落ちてきて、手が止まる。

「そんな、毎週とか、悪いよ。自分の時間もあるでしょ」

「木曜の、この時間なら空いてます」

 さらっと言われる。
 その言い方があまりにも自然で、俺の方が戸惑った。

「もしかして、そのために、部活とか入ってない?」

「それは、もともとです」

 即答だった。
 嘘をついている感じはしない。ただ、本当の理由がその一言だけとは思えない。

「でも、白石が手伝ってくれると、確かに助かるけどさ」

「じゃあ、来週も来ます」

 俺の返事を待つまでもなく、当然のように決定されてしまった。

「ちょ、ちょっと。せめて、俺がお願いする側じゃない?」

「では、今の言葉で成立したということで」

 そう言って、白石はほんの少しだけ唇をゆるめた。
 笑った、というには控えめだけれど、その変化が目に見えて分かる。

 また、その顔だ。

 クラスの女子たちが騒いでいる正面からの整った笑顔じゃなくて、ここだけに落ちる、小さなやわらかさ。

 胸の奥が、少しだけざわついた。

「…変なやつ」

 聞こえないくらいの声でつぶやいて、ペットボトルをゴミ箱に捨てる。
 準備室の電気を消し、扉を閉めた。

 廊下に出ると、窓の向こうに、薄い夕焼けが残っている。
 鍵を職員室に返しに行くために歩き出したとき、ふと、背中に視線を感じた。

 振り返ると、誰もいない。

 気のせいかと思ってそのまま歩き出す。
 けれど、図書準備室の扉の向こうで、さっきまでいた一年生が、どんな表情をしているのか。

 そんなことが、やけに気になった。

 放課後の図書準備室で会う人。

 今日、その人の名前を、ちゃんと意識して覚えた気がする。