文化祭前日。
 展示の準備は佳境に入り、放課後になっても図書室には俺と湊だけが残っていた。

 外は雨。
 あの日と同じ匂いがする。

「湊、これ……もう少し右?」

「……はい」

「なんか、元気ないよね」

「別に」

「ずっと避けてるじゃん」

「避けてません」

「俺、なんかした?」

「してないです」

「じゃあ、どうして……」

「志摩先輩には関係ないですっ……!」

 湊が、初めて声を荒げた。
 びっくりして固まる。

 湊は、唇を噛んで俯いたまま震えている。

「……この前、クラスの人に名前呼ばれてたの、見ました」

「え?」

「……“ゆうと”って。肩も組まれてて。……楽しそうで」

「あれはノリで……!」

「それでも、嫌でした」

 湊はぽつぽつと続けた。

「俺は……ずっと苗字でしか呼べなくて。
 先輩との距離、縮めていいのかも分からなくて。
 でも……誰かが軽く名前呼んで、先輩が笑ってるのを見たら……」

「……湊」

「俺なんて、いらないんだって思った」

 湊の声は、泣き出す寸前のように震えていた。
 胸が、ぎゅっと締め付けられる。

「ほんとは……ずっと言いたかったんです。
 “悠人”って名前で呼びたいって。
 でも、冗談だって言われて……。
 名前呼びの練習してたのも馬鹿みたいで……」

「……練習、してたの?」

 湊は、かすかに頷いた。

「……ノートに、書いてみたり……声に出してみたり……。
 でも、迷惑だと思われたらって。
 年下がぐいぐい行くの、嫌がる先輩もいるって聞いたから」

「……」

「なのに、あんな風に誰かが呼んでて……。
 俺じゃ、だめなんだって……」

 ――そんなわけ、ない。

 胸の奥に溜まっていた言葉が、溢れそうになった。

「湊」

「……はい?」

「俺、嬉しかったよ」

「え?」

「名前で呼ばれたいって、冗談じゃない。
 ただ……恥ずかしくて、ごまかしただけで」

「……!」

「俺のこと、特別に見てくれてるの、ずっと気づいてた。
 それが嬉しくて、でもどうしたらいいか分からなくて……。
 俺こそ、湊の気持ち、ちゃんと見ようとしてなかった」

 湊の目が大きく揺れた。

「……志摩、先輩」

「ねえ、湊」

 ゆっくりと一歩近づく。
 湊は驚いて後ろに下がるが、本棚に背中が当たって止まった。

「呼んでよ」

「え……」

「俺の名前。……湊が、呼んでくれたらいいなって、ずっと思ってた」

「で、でも……」

「呼んで」

 湊は、小さく深呼吸をした。
 震えた声で、絞り出すように言った。

「……ゆ……ゆうと」

「うん」

「悠人」

「……!」

 胸の奥が熱くなった。
 名前を呼ばれるだけで、こんなに心が動くのか。

「……嬉しい」

 声が、自然と漏れた。

 湊の瞳が潤んでいる。

「悠人……先輩」

「もう一回」

「……悠人」

「もっと」

「……悠人。
 俺、ずっと……ずっと好きでした。
 先輩じゃなくて、ひとりの人として。
 “悠人”の全部が、好きです。
 俺に……その名前、呼ばせてください。
 彼氏候補じゃなくて……ちゃんと、彼氏になりたい」

 その言葉が、胸の真ん中にまっすぐ落ちた。
 迷いは、一瞬で消えた。

「……ありがとう。
 湊に言われるの、こんなに嬉しいんだ……知らなかった」

「悠人……?」

「俺も……湊がいい」

 そっと、彼の手を握る。

「彼氏候補じゃなくて、ちゃんと……彼氏で」

「っ……!」

 湊の手が震え、ぎゅっと握り返してくる。

「……じゃあ、おれ……これからいっぱい呼んでいいですか?」

「いいよ」

「ずっと……悠人って呼んでいいですか?」

「ずっと呼んで」

「……悠人」

 涙ぐんだ笑顔で、俺の名前を呼ぶ湊を見て、
 胸の奥の孤独が、静かに溶けていった。