翌朝。
 図書室のドアを開けると、机を拭いている湊がいた。

「あ、おはよ……」

 声をかけるより先に、湊がこちらを振り向いた。

「名前呼んでいいって、昨日のは本気ですか?」

「ぶっ…………!」

 開口一番のそのセリフに、俺は盛大に噎せた。

「なんで……なんでまだ覚えてんの!?」

「“忘れろ”は忘れませんって言いましたよね」

「いやいや、あれは……!」

 湊は、布巾を握ったまま、真面目な顔で続けた。

「先輩がああ言うの、珍しいから。……すごく、嬉しかったんです」

「う……」

 朝一番から、この破壊力。
 昨日のあれは、本当に気まぐれの一言だったはずなのに。

「昨日のは、冗談だって」

「冗談だったら、あんな顔しませんよ」

「っ……!」

 まじまじと顔を見られ、思わず視線を逸らす。

 湊の言葉は、刺さる。
 真っ直ぐすぎて、冗談で流せない。

「……ごめん、変なこと言った」

「変じゃないです。……じゃあ、今日からは苗字で呼びます」

「いや、別にそこまで……」

「じゃあいつか名前で呼んでいいんですよね?」

「だから昨日のは――」

「冗談じゃないって、俺は思ってます」

 そう言い切った湊の横顔は、妙に大人びて見えた。

 ……年下なのに、なんでこんなに真っ直ぐなんだろう。



 文化祭シーズンが近づき、図書委員は展示企画の準備に追われていた。
 今年は「おすすめ本のブックカフェ風展示」に決定。
 その準備のペアに、なぜか俺と湊が組まれることになった。

「二人でやった方が会話のテンポ良さそうだよねー」

 という委員長の言葉に、周りも納得した顔。
 ……俺は複雑だったが。

「志摩先輩、これ掲示用の紙、三枚でいいですか?」

「うん、それで――」

 渡された紙を受け取ろうとした瞬間、小指が触れた。
 湊は一瞬ぴくっと動いて、すぐに引っ込める。
 そして、何事もなかったように淡々と作業に戻った。

 ――なにその反応。
 気にさせたいのか、気にさせたくないのか、どっちなんだよ。

「湊、それ……貼り方すごい綺麗だね」

「え、そうですか?」

「うん。丁寧」

「……志摩先輩が褒めてくれるの、嬉しいです」

 ぽそっと言われて、胸の奥がざわついた。

「……なぁ湊」

「はい?」

「最近、敬語、揺れてない?」

「揺れて……ますか?」

「なんか、“ゆ”って言いかけて止まるし」

「…………」

「ほら、今も」

「っ……! ま、間違えました!」

「間違い……?」

「間違いです!」

 そう言ってノートを勢いよく閉じた湊の耳は、真っ赤だった。

 その赤みが、頭から離れなかった。
 ……まさか、本当に“名前呼び”を練習してるのか?

 そんなこと、あるのか。
 いや、湊なら……あるのかもしれない。



 放課後、展示の準備が続く日々。
 作業の最中、湊はときどき俺をじっと見つめている。

「……なに?」

「いえ。先輩って、本当に優しいから」

「……?」

「俺、いつも助けられてばっかりで。もっとちゃんと、先輩の力になりたいです」

「十分なってるよ」

「……ほんとですか?」

「ほんと。湊は頼りになるよ」

 湊は、照れたように笑う。
 胸が、すごく温かくなった。

 でも――その温かさは、
 ある出来事をきっかけに、すれ違いへと変わっていく。