雨の匂いがした。
 図書室の窓を叩く水音が細かく弾けて、放課後の空気をしっとりと落ち着かせている。今日は委員会の仕事が長引いて、帰る頃には雨脚が強くなっていた。

「……あれ、傘ないの?」

 廊下で、見慣れた後ろ姿を見つけた。
 一年の早瀬湊。図書委員の後輩で、わりとよく話す相手だ。いつも人懐っこいのに、なぜか今は窓の方をじっと睨んでいる。

「あ、志摩先輩……。今日、朝は晴れてて、忘れました」

「マジか。結構降ってるよ。濡れて帰るの?」

「……いや、まあ、走れば」

「バカ。風邪ひくって。俺、駅まで一緒だからさ、入ってけば?」

 傘を軽く持ち上げると、湊は一瞬ぽかんとした。
 次の瞬間、耳まで赤くなる。

「いいんですか!?」

「そんな驚くこと? 俺、けっこう面倒見いいんだよ」

「いや、知ってますけど……その、迷惑じゃなければ」

「迷惑なわけ。ほら、行くよ」

 階段を降りて、昇降口を出ると、雨が地面を白く跳ね返していた。ふたりで傘に入ると、本当に近い。
 湊の肩がときどき俺の腕に触れ、そのたびに彼はびくっとする。

 こんなに距離が近いのは初めてだ。
 湊は、俺の二の腕あたりを見ないように、やや上を向いて歩いている。

「あの……すみません」

「何が?」

「……志摩先輩の、肩。濡れちゃってて」

「ああ、ちょっとは仕方ないでしょ。湊、小さく入ってないで、もっとこっち来なよ」

「えっ、いや……!」

 頑なに距離を詰めない湊に笑ってしまう。
 気を遣うくらいなら、もっと図太くしてくれればいいのに。

「一緒に帰るの、嫌だった?」

「ちがっ……! 嫌なわけないです! むしろ、その……」

「むしろ?」

「……あ、いや……」

 もごもごしている湊を見ていると、妙に可愛い。
 こういうところ、後輩らしいというか、人懐っこそうに見えて人見知りなところというか。
 図書委員に入ってきた頃はもっと素っ気ない感じだったのに、気づけば自然と話しかけてくれるようになっていた。

 駅前の横断歩道を渡る頃には雨脚がさらに強まっていた。
 屋根のある場所まで駆け込むと、湊は前髪をぱさりと払う。

「すみません、本当に助かりました」

「湊んち、どっちの方?」

「この商店街を抜けた先の住宅街です」

「へー。じゃあ一緒だね」

「……え?」

「俺もその辺り。前から帰り道似てるなと思ってた」

 そう言うと、湊は目を丸くした。

「じゃ、じゃあ毎日、帰り……」

「まぁタイミング合えばね」

「……そっか」

 ほんの一瞬だけ、嬉しそうに笑った気がした。

 ――その顔が、意外と可愛くて。
 俺の方が目を逸らす羽目になった。

「……湊さ」

「はい?」

「あのさ……」

 口が勝手に動いた。
 雨で少し疲れていたのかもしれない。
 あるいは、あの笑顔を見たせいかもしれない。

「……いつか、“悠人”って呼んでくれるくらい、仲良くなれたら……ちょっと、嬉しいけど」

「っ……!」

 ――あ。
 言った瞬間に後悔した。

 湊は一瞬固まり、それから、顔中に赤みが広がっていった。
 湊の手が震え、濡れた前髪の下で大きく瞬きをする。

「ゆ、ゆう……と……?」

「い、いや、今のは、あの、眠くて変なこと言っただけ!」

「ね、眠いってレベルじゃなく……え、でも、嬉しい、ってそれ……」

「忘れて! 今のなし!」

「……忘れたくないです」

「わ、わすれてっ!」

 湊は、視線をそらしたまま俯き、俺の方をちらりと見て小さく笑った。

「……はい。忘れません」

 雨のせいか、胸が熱くて、呼吸が変に早かった。

 この後輩、こんな顔、するんだ。
 そう思ったら、駅前の明かりが滲んで見えた。

 ――この時はまだ、
 ここから先の“揺れ”なんて想像していなかった。