試合は終盤、1点ビハインド。二死満塁。亮太に打席が回ってきた。

マウンドに立つ相手投手の威圧感、そして「満塁」という状況が、亮崎の精神を限界まで追い詰める。

「(このまま、嘘で三振するか。それとも…)」

亮太は、ついに覚悟を決めた。憧れの神崎選手のフォームという**「枷」**を完全に断ち切った。彼の体は、倉庫の片隅で燻っていた東野亮太自身の魂に支配された。

本能的な動きだけで、バットを振り抜いた。

カキーン!!

それは、スタジアムの喧騒さえも一瞬で遠ざける、鋼を叩くような快音だった。打球は夜空へ。逆転満塁ホームラン。

亮太はベース上で、自分が放った**「世界一の嘘」が、皮肉にも「唯一の真実」**となったことを知った。

歓声と紙吹雪が渦巻く中、亮太はベースを一周する数秒間の空白の間に、自分が再び野球の光の中に戻ったことを噛みしめた。

試合後、ロッカールームの冷たいタイルの上に座り込む亮太。鏡の中の「神崎シュウ」に、彼は問う。

「あれは、僕のホームランですか?」

スマホが振動した。療養中の神崎選手からだ。 「ありがとう、亮太君。あれは、君自身の打球だ。」

亮太の目から涙が溢れた。その安堵は一瞬で消えた。

ロッカールームの床には、ベテラン記者、エレナ・ロペスの名刺が落ちていた。

《あのスイングは神崎のものではない。彼は誰だ?》

そして、ドアの外。ライバル選手、ブレイク・サントスが顔を上げずに呟いた。 「あんなスイング、俺は見たことがない。あれは、神崎シュウの本能なんかじゃない…」

亮太は顔を洗い、神崎のキャップを深く被り直した。

鏡の中の「神崎シュウ」の顔に、東野亮太自身の決意の光が宿る。

「…久我さん。大丈夫。明日も、私は神崎シュウを演じます。」

それは、東野亮太が、自分の才能と、その才能が生まれた偽りの人生を守るために、能動的に選択した、世界で最も大きな嘘だった。