空き教室の扉を開けたとき、大河くんはホチキス止めを終えた書類を抱え、帰ろうとしていた。
 疲れた顔をしているけれど、どこか晴れやかな表情だ。まっすぐに目を見る姿は、やっぱり僕には眩しすぎる。
 頭の中が伝えたい感情の羅列で埋まって、言葉をどう切り出していいか、わからなかった。

「……大河くん、本当にすみません。今まで急に大河くんのことを避けてしまっていて……」

 
僕の声は震え、息も上がっている。避けてしまった自分を悔やみ、責める気持ちが渦巻く。初めての感情に心が翻弄され、まともに呼吸することも忘れそうだ。
 彼は黙って僕の様子を伺っている。何も言わないけれど、全身で聞いてくれるその姿が、心に直接響く。

「僕、いろいろ混乱してしまったんです。初めてのことばかりで、自分がどうしたらいいかよくわかりませんでした……。けど、今は分かります」

 彼の瞳の奥に、僕を否定しない優しさがあった。見つめられるだけで、胸が熱くなる。


「ぼ、僕は、大河くんのことが、すきなんです……」


 絞り出すように告げた。心臓が破裂しそうなほど速く鼓動する。息を整えようとするが、言葉は止まらない。
 大河くんは目を丸くしたあと、朗らかに目を細める。無邪気で、温かく、僕の心の奥まで届く笑顔だった。その笑顔に、ずっと守られてきたような錯覚を覚える。

「小野先輩……おれ……」


 彼はぐっと言葉を詰まらせた。ホチキス止めの書類を抱えた手が少し震えている。僕の心も、それを見てさらに高鳴る。

「こんな人を好きになって、後悔しないか、と君にずっと問いたかった。けれども、大河くん、こんな僕だから、君は僕を好きになってくれたんですね」


 言葉はゆっくりと、しかし確かに、誠実に紡ぐ。
 言い終えたあと、僕は大河くんの肩に手を置き、少しだけ強く握った。

「もし、君に出逢わなかったら、僕は一生人を愛することに怖れていたと思います。だから、僕が初めて好いた人が君だったのは、当然の摂理です。君との出逢いをきっかけに、この長い人生で、僕はたくさんの人と出逢い、愛し、愛されていくでしょう」

 胸がいっぱいで、涙をこらえようとしたけれど、自然に溢れてしまう。大河くんの微かな温もりと、真剣な視線が、僕を包み込み、否定の感情を消していく。

「けど、僕がこれからの人生で恋愛的な意味で愛する人は、大河くん、ただひとりです」

 僕が想いを伝え終えた頃、大河くんはやっと声を絞り出す。

「……小野先輩。おれも……先輩のことが好きだ……」

 その瞬間、彼は無言のまま僕を抱きしめた。腕の温かさ、胸の鼓動、全てが僕に伝わる。
 長い間、心のどこかで否定していた自分の存在も、すべて認められた気がした。努力してきた自分も、迷っていた自分も、全てそのままでいいと感じる。

「先輩はっ、おれにとっての“光”なんだ」

 彼の声は少し震えていたかもしれない。それでも、言葉の奥には確かな力が宿っている。


「先輩はちゃんとすごいっすよ。なんてたって、このおれが好きになったオトコだからな」

 今までで一番、豪快で、はち切れそうなほどの目一杯の笑みだった。
 その言葉は僕の胸に深く刺さり、更に涙が溢れていく。自分を否定せずに受け止めてくれる人がいる。信じられないほどの安堵と幸福が胸に満ち足りていた。
 大河くんは少し恥ずかしそうに、でも真剣な表情で僕を見つめる。

「安心して。先輩が先輩のことを好きになるまで、おれがいっぱい先輩のいいところ伝えるから」

 その言葉に、僕は涙を拭きながら頷く。大河くんの言葉には、僕への思いやりと自己肯定の意味が込められていた。生きていること、存在していることが、誰かに認められる価値になるのだと初めて実感する。
 廊下の向こうから教室の中へ、西野さん、横田さん、瀬戸くんが走ってくる気配を感じた。僕たちの様子を見守ってくれていたのだろう。
 西野さんはにっこり笑い、横田さんは人差し指を立てて、「よかったね」と小さな声で囁く。瀬戸くんは少し照れくさそうに目をそらすが、その顔にも安心の色が浮かんでいた。

「これで『新生徒会』設立ね」

 
西野さんが楽しそうにみんなに語りかける。
 その言葉に僕たちは一瞬、戸惑う。けれども、その横で順を追って説明してくれた。

「実はね。生徒会にはまだ庶務の枠が空いていてね。一年生で有能な子が入ってきたらスカウトしようって前生徒会長が考えて、去年は誰も就任しなかったの。だから、大河くん、君を新しい庶務として迎えることにしたんだよ」

 僕と大河は見つめ合い、二人で頷く。

「はいっ……! おれ庶務として、精一杯頑張ります」

 これからは四人ではなく、新たな五人での生徒会が始まる。目の前の世界が期待で鮮やかに見え、未来が希望に満ちていることを実感した。
 彼が僕の手を握り、さらに優しく歯を見せて笑う。

「小野先輩、全人類さ、生きてるだけでえらいけど、これからおれと生きていく先輩ってめちゃめちゃ偉くないか? だって、おれってちょうサイコーでかっけーくて。先輩は、そんなおれの生きる意味になってるわけだ」
「つまり、どういうこと……?」

 目を丸くさせながらも、僕は彼の言うことに耳を傾ける。
 
「だからな、小野先輩も、もっと自分を大切にしていいってこと」

 なんて、優しくて、たくましい子なんだろう。
 僕が手をぎゅっと握り返すと、胸に熱いものが流れていく。もう、自分を否定する必要はない。大河くんに愛される自分も、迷っていた自分も、全部まるごと受け止めていい。

「これまでも、これからも、生きてるだけで……偉いんだ……」


 小さく自分に言い聞かせる。僕たちは生きているだけで価値があり、愛されることもできる。僕の中に、長い間消えかけていた希望の光がゆっくりと灯る。
 空き教室の窓から差し込む夕日が、僕たちを柔らかく包む。手を握ったまま、僕は思う。この温かさを胸に、これからも生きていこう。自分を大切に、そして大河くんと共に。
 教室を出てからも、生徒会メンバーは笑顔で迎えてくれた。僕たちは皆にお礼を言い、新しい生徒会としての一歩を踏み出す。

 隣の芝生は青く見えるというように、僕たちにとって周りのみんなはとてもすごく見える。しかし、それは視点を変えれば、僕たちだって誰かにとって、とてもすごい存在なのかもしれない。
 努力が報われるとは限らないし、幸福が平等とは限らない。人生は自分が思っているよりずっと難しくて、生きづらかった。だからこそ、そんな世界で自分自身と懸命に戦って、生きているだけで、僕たちはちゃんとえらいんだ。

「おれと生きてるだけでえらい! なんてな」


 大河くんの声が、僕の胸に深く響く。僕は彼の手を握り返し、口角をあげる。生きているだけで、僕は十分に価値があるのだ、と。
 その言葉の意味は、ただの慰めではなかった。大河くんが自分の目で見て、自分の努力や成長、そして存在そのものを認めてくれたからこそ、初めて腑に落ちる確かな肯定だった。
 胸の奥に温かさと喜びが込み上げる。涙をぬぐい、僕は小さく笑ってしまう。
 もう、自分を否定する必要はない。愛される自分も、愛する自分も、全部そのままでえらいのだと、ようやく心から思えた。

【完】