ここ数日、生徒会室に入ると、みんなの声より先に大河くんの声が必ず耳に届く。
何をするにも楽しそうで、誰にでも笑顔を向けて、元気を振りまいている。見るだけで周囲が明るくなる、あの圧倒的な存在感。
 でも、僕の心はまるで嵐の海のようにざわついていた。
初めて、自分でも整理できない感情が湧き上がり、頭の中が混乱している。
嬉しい気持ちなのか、焦る気持ちなのか、あるいは──不安なのか。
 毎朝、生徒会室に入るたび、彼の明るい声に釣られて、無意識に目で追ってしまう。
目が合うと、ほんの一瞬だが、胸の奥にぴりっとした痛みが走る。

 そして、同時に自己嫌悪の声が頭の中で響くのだ。
 こんな自分だから、また動揺が日々のパフォーマンスに反映される……どうして、こんな簡単な他愛もないことで動揺するんだろう。
 僕は心の中で自分を責めながら、資料の山に視線を落とす。手元の書類は目に入らず、指先はただページをなぞるだけで、何も考えられなかった。
 大河くんは相変わらず元気で、誰にでも笑顔を振りまいている。
その笑顔を見て、僕は自分の胸の奥で芽生えた感情に、ぎこちなくも気づいてしまった。
 それが友人に向けられるものだとしても、恋愛対象に向けられるものだとしても。
 ……僕は、大河くんのことが、好き、なのかもしれない。

 自覚してしまった瞬間、体がぞわりと震える。

 でも、同時に恐怖もあった。
こんな気持ちを持つ自分を認めることは、許されないのではないか。そんな思いが頭をもたげる。

 それから、僕はわざと大河くんを避けることにした。
少しでも冷静でいられるように、距離を取るしかないと思ったのだ。
避けることで、少しでも心を落ち着けられるなら、それが安全だと思ったからだ。彼を傷つけかねない自分の身を保身するだけの行動だということは、酷く理解していた。

「先輩ー、今度放課後、駅前のファミレスで期間限定のパフェ食べない?」
「……」

 しかし、避ければ避けるほど、心は苦しくなった。
廊下の向こうで、彼が他の生徒と談笑しているのを見るだけで、胸が締め付けられる。


「小野先輩! おれのこと無視してる?」

 僕は何も答えられない。自分の感情の不器用さに、自己嫌悪が募る。
 放課後、生徒会室で書類整理をしていると、隅の方で大河くんが瀬戸くんと小声で話している声が耳に入った。

「……やっぱり、おれ先輩に無視されるの耐えられない」

 大河くんの声に、思わず手が止まる。

「確かに無視はいただけないですけど。この世に先輩なんてたくさんいるんですから、わざわざ会長に固執しなくてもいいのでは? 色んな人がいれば、一人くらい反りが合わないひともできますよ」
「小野先輩みたいになりたいって気持ちも大きいよ。けど、小野先輩は、なんというか、特別なんだ」

 特別、それって一体、どういう意味だろう。

「大河くん、君は焦りすぎです。会長も大変な時期なので、余裕がないんですよ。いつか、先輩がまた前みたいに話しかけてくれるまで気長に待ちましょう」

 瀬戸くんがちょっと苦笑しながら答えた。
 そのとき、ふと、瀬戸くんと目があった気がして。半年の付き合いがある瀬戸くんは、僕が地獄耳だというのを知っていることを思い出す。

「わかってるんだけどさ……」

 その会話を盗み聞きしながら、色々と思うところがあった。
 
今まで、大河くんは僕のことを尊敬してくれているだけだと信じていたと思う。けど、彼自身も心の中で、僕への感情を特別と普通の間でどうやって振り分けようか、葛藤しているのだ。そう考えると、なぜか胸が痛む。

 翌日も、僕は少し距離を取ったまま大河くんを見ていた。
彼は相変わらず元気で、笑顔を振りまいている。
 けれど、僕が瀬戸くんと会話をしていたとき、彼は大袈裟に力を込めて資料を机の上に
どんと置き、その場を逃げるように後にした。
 その後ろ姿から、目を離せない。冷たくて、苛立ちを抑えきれないような雰囲気。それでも、僕が大河くんの後を追いかけることはできなかった。

 昼休み、生徒会室で書類整理をしている大河くんの様子を廊下から見ていると、様子を見兼ねた瀬戸くんが彼に近づいて話しかけていた。

「大河くん、さっきから何考えてるんですか? なんか元気ないですよ」
「え、いや……別に」

 でも、声のトーンが少し上ずっているのがわかる。

「本当に? まだ会長のこと、気にしてるんじゃないですか?」
「えっ……なんでわかるんだ?」
「俺にはわかってますよ。君、俺と会長が仲睦まじそうに話しているところを見る度に嫉妬していますよね」

 僕はその会話を聞きながら、その場でしゃがみこむ。壁に背をもたれながら。
 体操座りをして、自身の膝をぎゅっと抱きかかえるように顔を埋めた。
 嫉妬……それは確かに好きだからこそ湧き上がる感情だ。大河くんはまだ自覚していないが、心の奥底では僕を特別に意識している。その事実に、感情が迷子になった。

 嬉しいはずなのに、同時に自己否定が沸き上がる。
こんな感情を抱いていいはずがない──そう思う自分と、でも無意識に彼に惹かれている自分がせめぎ合う。

 放課後の生徒会室。
大河くんは、いつも通り書類に向かって作業している。
でも、机の端に座る僕の方を何度もちらりと見ていた。
 ……気づいてしまったのか? いや、大丈夫。まだ自覚してないはずだ。
 次の瞬間、僕は胸がきゅんとするのを感じた。
彼の視線の中に、無意識の戸惑いと、ほんの少しの焦りが混ざっているのがわかってしまったから。
 僕が気持ちを落ち着かせるために生徒会室を出て扉を閉めた。扉越しに、大河くんの小さな声が僕にも聞こえてしまう。

「なあ。俺、会長のこと、意識してるのかも」

 思わず、前へ進む足が止まった。まだ明確に好きと言葉には出していなくても、声のトーン、言い方から、自分の気持ちにほんの少し気づき始めたことが伝わる。

「やっと? 日頃の好き好きオーラがあからさますぎて、大河くん本人が自分の気持ちに気づいてないことに、私たちがもどかしくなったくらいだよー」
「それは間違いないですね。君、犬みたいにみんなの後ろを着いてきますけど、会長への態度の良さは群を抜いてますし」

 扉に備え付けられた小さな窓から、生徒会室の様子を覗き見ると、瀬戸くんの言葉で、大河くんの顔が少し赤くなっていることに気づく。
その様子を見て、僕の胸は締め付けられた。……やっぱり、僕のことを……意識してくれているんだ。恋愛的な意味で。
 初めて、自分の胸の奥で小さな確信が生まれた。
大河くんは、無意識のうちに僕を特別視している。
そして、嫉妬心や戸惑いを抱えながらも、それを認め始めている。
 生徒会メンバーにいじられ、可愛がられる姿を見つめながら、僕はそっと心の中でつぶやく。
 僕の胸の奥にある感情も、やっぱり恋で、間違いないんだ、と。
 まだ自分でも言葉にできない感情だけど、胸の奥で確かに燃えているものを感じる。
同時に、この感情の答え合わせに逃げてはいけないという思いも芽生えていた。
 初めて、自分の感情に向き合おうと決心した僕は、次の行動を静かに考え始めるのだった。

 ※※※

 僕と入れ替わりで大河くんが生徒会室を出たあと、空気はいつもと変わらず、窓から柔らかい光が差し込んでいた。
 しかし、僕の胸は張り裂けそうなくらいにざわついている。大河くんを意識してから、混乱の連続で、心の整理がつかない。
 どうしたら、このぐちゃぐちゃをきれいに片付けられるのだろう。書類の整理も、計画をまとめるのもできるのに、感情の整理はいつまで経ってもつかない。
 目の前では、瀬戸くんが手際よく書類を確認している。横田さんは明るく声をあげて、細かい計算を確認している。西野さんは穏やかに資料をまとめつつも、時折僕の顔をチラリと見て、何か気づいているような目で見つめてきた。
 ……そう、きっと僕の様子はおかしいのだ。
ふーっと浅く深呼吸をしてしまう。

「小野会長〜っ、どうしたの? なんだか元気ないみたいだけど……」

「会長、今日は少し手元の仕事に集中した方がよろしいかと」

 続けて、横田さんと瀬戸くんが、さりげなく声をかけてくれる。
でも、今の僕ではその優しさすらも、心を乱す刺激になっていると感じるほどだった。
 もう隠せない。僕、大河くんに──初めて、誰かに恋をしちゃったんだ。
 次の刹那、口から出たのは、予想以上に冷静な声で。
自分でも驚くほど、心の奥から素直に告げることができた。

「……あの、僕、大河くんのことを好きになってしまいました」

 彼らの会話が一瞬止まる。
瀬戸くんのメガネ越しの視線、横田さんの目の輝き、西野さんの少し驚いた表情。
 しばらくしてから、西野さんがにっこりと微笑んで、優しく言う。

「大丈夫よ。あなたと大河くんは両思いだから」

 ……両思い。
その言葉に、心を落ち着けるために、目を瞑る。
僕の心は恐怖で締め付けられた。
 そんなものは幻想かもしれない。思いを伝え合い、恋人同士になるということは、これからも苦楽を生涯共にするということ。僕一人なんかに、希望と期待が詰まった輝かしい大河くんの未来を委ねるなんて。僕はやがて、彼を不幸にしてしまうんじゃないか?
 頭の中でぐるぐると不安と恐怖が渦巻く。
もし、自分が大河くんにとって不幸の原因になるのなら、どうすればいいのか。自分なんかが好きになったこと自体が、彼に迷惑をかけるんじゃないか。

「……でも、僕なんかを好きになるより、他の人を好きになる方が大河くんは幸せになれるんじゃないかと思ってしまって」

 自然と口をついて出るその言葉に、瀬戸くんがやれやれと言うように小さく笑う。

「そんなの分かんないと思いますけどね。誰かを好きになることに、幸せも不幸もないですよ。好きな人に好きになってもらえることって、それだけで幸せを感じるものですから」
「でも、自分なんか……」

 横田さんが軽く手を肩に置いて、釘を刺すように言った。

「『自分なんか』って言って、大河くんの気持ちを受け入れないのは失礼だよっ! それって、誰かの好きを否定しているってことなんだから」

 その言葉に、僕は目を見開いてしまう。ずっと、自分を卑下して生きてきた僕に、誰かがこんなことを言ってくれるなんて。
 ……そうか。僕は、大河くんが好きになってくれた自分を、否定しちゃいけないんだ。いや、したくない。
 胸の奥が熱くなる。
初めて、自分が自分を肯定する瞬間を意識した。
 好きな人が、自分のことを好きでいてくれる。その自分を、僕は受け入れたいと思う。
 決意が、胸の中で静かに芽生える。
僕は、もう迷わない。

「……わかりました。僕、彼に思いを伝えます」

 西野さんと横田さんは目に光を立ち込めさせて、瀬戸くんは静かにうなずく。

「その通りです。大河くんは空き教室でホチキス止めの作業をしているから、きっとそこでまだ会えると思いますよ」

 空き教室。仕事の役割を分担した際、資料が一緒くたにならないように、いつも大河くんが一人で作業している場所。
その場所なら、僕の気持ちを伝えるには最適だとも思った。

 そして、僕は立ち上がり、全力で廊下を駆け出す。他の人より劣っているから、せめて真面目でいないと、と。品行方正に振る舞ってきた自分が、全力で廊下を走るなんて……これが初めてのことだった。
 大河くん、待ってて。今度こそ、伝えるから。
 廊下を駆け抜けると、胸が高鳴り、心臓が早鐘を打つ。
不思議と怖さよりも、前へ進む力の方が強い。

 扉の向こうに空き教室が見えた瞬間、息を整えながら一歩ずつ近づく。扉を開く手が確かに震えていた。とうとう大河くんの姿を目にして、僕の心は高鳴る。
 この人のために、今度こそ、僕は逃げない。
 握りしめた拳をほどき、深く息を吸う。
そして、勇気を振り絞って、彼の名前を呼ぶ。

「大河くん……!」

 静かな空き教室に、僕の声が響き渡る。
大河くんは手を止め、驚いた顔で振り向いた。
その表情に、僕の心は再びぎゅっと締め付けられる。
 今、全部、想いをぶつけるんだ。
 胸の奥に渦巻く感情を抑えきれず、僕は一歩前に進んでいく。初めての、真剣な告白への第一歩だった。