次の日のことだった。
 放課後の生徒会室──大河くんは生徒会長の腕章を机にそっと置く。僕は目の前が真っ白になる。

「……やっぱり、おれにはムリだ。生徒会長は小野先輩がやったほうがいい」

 その言葉は、予想以上に重く胸に響く。彼の瞳は真剣そのもので、決して冗談ではない。僕は口ごもった。
自分でも驚くほど、心の奥が蠢いていて。なんだか、自ずと心臓が締め付けられるような感覚が走る。
 また……誰かに負担をかけてしまったのか。僕が至らないから。
 でも、違った。彼は不満そうに投げ出すわけでもなく、ただ自分の考えに従って、決断を下していた。その潔さが、逆に胸に突き刺さる。

「そんな……僕なんか……」

 自然に口から出た弱々しい言葉も、すぐに大河くんに遮られる。

「“僕なんか”じゃないっすよ」

 反射のような言葉だった。胸に直接、届いたような気がする。目の前の後輩が、僕の自己肯定感の低さに関係なく、真正面から僕を見てくれていたという事実に、僕は動揺した。
 その動揺が、照れ隠しなのか、自分を知られてしまうことによる抵抗感からなのか。僕には検討もつかない。

「小野先輩、マジですごいから」

 いつものキラキラとした笑顔とは違う。
 軽く言っただけの言葉なのに、どこか力があり、重みがあった。
僕は思わず視線を落とす。褒められることに慣れていない自分にとって、この言葉は想像以上の破壊力を持っていた。

 ※※※

 次の日も、大河くんはいつも通りに生徒会室に現れた。
僕が会議資料を整理していると、ドアを押し開ける音と共に、彼の明るい声が響く。

「小野先輩、おはよう!」

 無意識に僕は肩を少しすくめてしまった。
このテンションに毎日向き合うのは、僕にとってかなりの体力を使う。
だけど同時に、彼の真剣さには、いつも少しだけ心を揺さぶられるものがある。

「おはようございます、大河くん。昨日は会議を進行してくれてありがとう。助かりました」

 挨拶のつもりで言った言葉が、自然と出てしまう。
昨日で就任期間は終わりになってしまったものの、彼が生徒会長をやってくれたおかげで、僕は裏でいくつもの根回しを進める余裕ができたのだ。
 大河くんは、はにかみながらも自分の席に座る。
そして、ふと横田さんと西野さんに向かって、

「昨日の件、すみません。生徒会長代理として、いろいろ手が回らなくて」 

 と会釈した。年上に敬語を使わなかったり、生徒会室に乗り込んできたり、など。初対面から礼儀があまりなっていなかった彼が、真面目に謝罪をしたことに驚き、二人は顔を見合わせる。
 横田さんはニコニコ笑いながら手を振った。

「いやいや、そんなことないよー。大河くん、一生懸命だったじゃん」

 西野さんは少し微笑みながらも、落ち着いた声で言う。

「ただ、もう少し手順を考えて行動できるとよりスムーズかもしれないね。会議の時間や資料の整理も含めて」

 大河くんは二人の意見を素直に受け止め、うなずく。そこが彼の魅力だと僕は思う一方で、少し切なくもなるのだ。
 もし、この子が生徒会長をやっていたら……いや、そんなことはない。半年間の経験値がある僕がやった方がうまく回せるんじゃないか。
 昨日の出来事を思い出しながら、僕はそう感じていた。
大河くんは生徒会長の仕事の難しさに気づきつつある。ただ、どこかで自分の能力に限界を感じて、思い詰めているのだと思う。

「おれ、これからも手伝います。生徒会、好きなんで」

 彼は真剣に生徒会の仕事に向き合ってくれている。だからこそ、こういう言葉を物怖じもせず言えるのだろう。
 書類の整理や掲示物の張り替え、呼びかけの準備。完璧とは言えず、手順を間違えることもある。突っ走って、ちょっとした混乱を生むこともある。
 でも、彼の努力は僕にも周りにもすぐに伝わるから。

 「こういうのも経験ですから」と、瀬戸くんは眉をひそめながらも真面目にフォローする。

 横田さんは「男の人が手伝ってくれるなら心強い」と笑顔で言う。

 西野さんも「ありがとう、大河くん」と、穏やかに声をかける。
 僕はそれを横目で見ながら、胸の奥で何かがくすぐられるのを感じた。なぜか、この子の一生懸命さを見るだけで、何とも言えない感情が生まれる。

「大河くん、あと少しだけ、生徒会長続けてみるのはどうですか?」

 もう一度だけ、今までのように自信を持って物事に取り組んでほしい。そう思えば、自然とそう提案していた。

「え? でも……」

 彼は困惑しているようだった。反して、生徒会のみんなは影でグッジョブと僕にジェスチャーをする。

「まだ生徒会長をして間もないから、慣れないことが多いのも当たり前だと思うんです。今のままでは大河くんも消化不良でしょうし、もしかしたら、今後頑張っていく中で違う景色が見えてくるかもしれません。もう少しだけ頑張ってみませんか?」

 もちろん、無理強いをする気はなかったが、彼がいい返事をしてくれることを僕はどこか確信していた。

「まあ、そこまでいうなら……」

 だって、そう照れ臭そうに言う彼の表情は、以前のように、夜空に輝く星々のように眩かったから。

 ※※※

 昼休み、僕は思い切って彼を誘いにいくことに決めた。様子を見兼ねた横田さんの助言があったからこそだということはここだけの秘密だ。
 生徒会室でせっせと作業をする姿を見つけ、隣で書類と弁当を広げる。

「大河くん。よければ、昼食を一緒に食べませんか?」

 緊張して、声が地味に裏返ってしまう。彼はそれに気にも止めず、目を輝かせてうなずいた。

「もちろんだっ。先輩と二人でご飯なんて、初めてかもな」

 ……初めて、って言われるだけで少し緊張する。でも、その自然な笑顔に、なぜか胸が熱い。
 箸を持つ手が微かに震えている自分に気づく。大丈夫だ、小野光。同級生の友達とご飯を食べるのと同じようなこと、なはず。
 そんな僕の心情を他所に、彼は唐突に口を開く。

「実は、最初──小野先輩のこと少し嫌いだった」
「え……」

 胸が跳ねた。確かにやたらと僕を目の敵にしているな、と思うことはあったけれど、本当に嫌われていたとは。
 悲しいとは違う、少し複雑な気持ちに陥る。

「自分のこと卑下してて、周りより自分はだめだって思ってるなら、何でわざわざ人を引っ張る立場になろうとしたんだろうって。周りにこいつなら大丈夫だっていう安心感と仕事に対する責任感が持てないなら、辞めればいいのにって思ってて」

 言われた言葉に、僕はうまく答えられなかった。
たしかに、僕は自分の行動が良くないと思っているからこそ、ミスをしても僕だから仕方ないと思ってしまう節がある。
 当然、ミスをしていいと考えているわけではないけれど、自分のやることに対する自信はいつもなかった。

「けど、実際は先輩本当にすごいし、生徒会の仕事も、根回しも、人の気持ちを汲み取ることもできる。だからこそ、生徒会長を任せられてて人望もあるんだって気づいたんだ。だから、今はそんなに嫌いじゃない」
「僕なんて、何も……」

 いつもならここで誰かに褒められることを、素直に受け取れず、すぐお世辞かと思ってしまう癖が出ていた。
 けれども、大河くんはその言葉を遮る。

「その“僕なんて”ってやつ、やめたら」

 真剣な目が、僕を逃がさない。

「小野先輩のすごさ、周りはみんな気づいてる。自分だけ無視してるの、もったいないと思う」

 言葉がすっと沈み、目頭が熱くなる。お世辞じゃない。本心から出た言葉だと、直感でわかるのだ。
 ふいに疑問に思うことがあった。

「じゃあ、逆になんで大河くんって、こんなふうに常に自信満々で、自分自身のことを信じていられるんですか?」

 思わず口をついて出た僕の疑問に、彼は「え?」と瞬きをしてから、少しだけ笑った。いつもの堂々とした雰囲気とは違う、どこか昔を思い出しているような表情。
 触れてはいけないことだったか、と一瞬身を引いてしまったが、「そんなことないな」と大河くんは言葉を続ける。

「あのさ、おれ、昔はホントに要領悪くてさ。何もできなくて、空気読めないで人傷つけることもあって……だから、気づけば“すごい”のハードルが自分の中でめちゃくちゃ低くなってたんだと思う」

 意外だった。彼の口からそんな言葉が出てくるなんて、想像もしなかった。彼はそのまま昔話を語っていく。

「おれ、すっげー頑張ったので。勉強も、人との関わりも、部活も。全部。だから、あのときのおれに比べたら今のおれってスゴイんだよ。一つも二つも成長しててさ。あの頃、本当に辛かったしダメだったけど……だからこそ“ふつう”にできる今の自分を褒めていいんだって思えるようになった」

 大河くんの声は、強いのにどこか震えていた。

「誰も褒めなかったんだよ、あの頃のおれを。でさ、せっかく成長したのに、誰にも褒められなくて認められなかったら……あの頃の必死だったおれを否定するみたいで、それが嫌だった」

 胸がぎゅっとした。僕なんかより、ずっと強いと思っていた彼の中に、そんな痛みがあったなんて。
 そういえば、彼は僕より二つも年下だったなと言うことを思い出す。
 大河くんはいつもの調子でふっと笑って締めくくった。

「だからさ。周りがなんて言おうと、おれはすごいし、かっけーし、サイコーなんすよ。おれはみんなよりできないことが多いぶん、みんなの“すごいところ”を見つけられる。周りをもっと見れて、みんなが自分をちゃんと見つめられるように後押しできる存在になりたくて……ここに来た。生徒会ってさ、おれにとってはそれができる場所だったんだ」

 そう言う大河くんの横顔は、眩しいほどまっすぐで──僕は、そのまぶしさに胸が熱くなる。
 純粋な彼を目の前にしてどこか気恥ずかしくなり、その後の会話はあまり弾まなかった。
 あっという間に弁当を食べ、書類整理をしていると、横田さんがふと興味深そうに僕たちを見つめる。

「ねえ、大河くん、どうやってこの資料をまとめたの?」
「え、えっと……あ、おれがやったわけじゃなくて……小野先輩が指示してくれたから、手順通りに整理した」

 思わず僕も苦笑する。
大河くんの言葉は正直すぎて、何だかかわいい。彼は自分の頑張りを素直に出そうとしているだけなのに、どうしてこんなに優しい気持ちになれるのだろう。

「ふーん、やっぱり小野会長ってすごいねっ。大河くん、一人でやるのは無理だったんだ〜」 

 横田さんの声に、少し顔を強張らせる大河くん。

「い、いや、おれも頑張ったんんだ、本当に! 手が回らなかっただけで……」

 その焦る様子が愛おしくて、気づかぬうちに微笑んでしまう。

「大河くん、焦らなくても大丈夫。君はよくやってくれているし、その頑張りは、十分に意味があります」

 そう言うと、彼は少し驚いたように僕を見た。

「本当か? ありがと……先輩」

 その一言で、心の中の何かがぽっと温かくなるのを感じる。

 僕が大河くんの言葉を真っ向から受け取っているように、彼は僕の言葉を真っ向から受け取ってくれていると思う。

 午後の会議中でも、大河くんは何度か発言を躊躇う場面があった。
そのたびに僕は、手元の資料を示したり、軽くうなずいたりしてサポートする。

 すると彼は安堵の表情を浮かべ、少しずつ発言できるようになった。

「小野先輩、本当に感謝してる……」

 その言葉の裏に、焦りだけでなく、少しの誇らしさと安心感が混ざっているのに気付く。
 生徒会メンバーでの会議が終わると、西野さんがさりげなく声をかけてくれた。

「会長、昨日も大河くんのフォローしてたんでしょ? あの子、まだ不慣れだけど、会長の背中見て学ぶところ多いと思うわ」

 知らず知らずにうなずく。

「はい……彼が一生懸命だから、こちらも手を抜けないんです」

 横田さんも笑いながら、

「でも、大河くん、今朝よりはだいぶ落ち着いた顔してるよ! 会長がフォローしてくれたおかげだねっ」

 僕は言葉少なに微笑む。
自分の存在が、誰かの支えになることの実感は、思った以上に心に響くものだ。
 しかし、その隣で書類整理をしながら、大河くんは真剣な表情で語り始めた。

「小野先輩、おれ、やっぱり生徒会長は無理だ。手が回らないし、焦ることも多くて……先輩の方が絶対うまくやれる」

 僕は少し戸惑った。上手くやっていけていると思っていたからこそ、整理がつかないところがあった。
 ただ、これが彼の選択ならば、僕は尊重するべきだ。

「少し寂しい気持ちもあるけど。うん……今はまだ、僕がやるのが正解だと思う。君は、もっと周りを見て、自分も楽しんでほしい。無理に責任を背負わなくてもいい」 

 大河くんは、一瞬目を見開き、少し照れたようにはにかむ。

「……小野先輩って、本当にすごいっすね。なんでも抱え込んでるのに、周りを見て……尊敬する」

 その言葉に、僕は思わず顔が熱くなる。
褒められることに慣れていないんだ、僕は。
 彼は僕を嫌いじゃない、と確信したそのときから、僕に対して、懐きすぎてはいないか。心の準備をする間もなく、次々と発せられる甘い言葉に心臓が持たない。

「い、いや……そんな、褒めるほどのことじゃ……」
「本心だよ。お世辞じゃないから」

 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で小さな光が灯る。お世辞ではなく、純粋な本心で僕を認めてくれている……薄々、感じ取っていたものが、今、確信に変わった。

 それからの日々も、大河くんは生徒会室に居座り、手伝いを続ける。
書類整理、会議の準備、昼食の時間、掃除……どれも一緒にやることで、自然と距離は近くなっていく。
 ある日の昼休み、二人で弁当を食べているとき、彼がぽつりとつぶやいた。

「小野先輩。おれ、先輩のこともっと知りたい。考えてることとか、どうやってみんなを見てるのかとか……」

 その言葉に、僕は思わず息を飲む。

 知られたくない部分まで丸裸にされてしまいそうで、少しだけドキドキする。

「……そんなに、僕に興味があるんですか?」

 彼はうなずき、照れ笑いを浮かべる。花がふわりと舞うような優しげな表情につられて、僕も口元が緩んでしまう。

「はい。だって、先輩、かっこいいから」

 かっこいい、という単純な言葉に、ぎゅっと唇を噛む。友愛や父性愛、兄弟愛ともちょっと違う。心の奥で、何かが芽吹き始めていることは確かだった。
 大河くんは、純粋に僕を尊敬し、信頼してくれている。
その気持ちに応えることで、僕は自分を少しずつ肯定できるようになってきた。
 名前のつかない感情。
けれど、彼と過ごす時間が、僕にとってかけがえのないものだと、確信していた。