最初から、誰も私のことなど信じてはいなかった。
今朝まで公爵家の令嬢だった私が、いまは旅装に身を包み、ひとり雪の山脈へ向かっていた。
――すべては、あの日。
私がついだ紅茶を口にした婚約者の愛人が、床に崩れ落ちた。誰かが叫び侍従が駆け込んでくる。その混乱の中ひとりの侍女が呟いた。
「この紅茶……」
たったそれだけで、全員の視線が私に刺さった。否定する隙も与えられず、彼は剣を抜き、私へと突きつけた。
彼の顔は怒りではなく、どこか“安堵したように”見えた。
――やっと捨てる理由ができた、とでも言いたげに。
私は命乞いのために、地面に額を押しつける。その背後で、愛人が微かに笑った気配がした。
……あの顔だけは、今でも忘れない。
地位は奪われ、家族には“疫病神”と罵られ、屋敷を追い出された。
屋敷を追い出される瞬間、母が言った。
「あんたさえ、生まれてこなければ」
――あぁ、そんなにも要らない存在だったのか。
馬車を降りた街は、明るく、人々の声と灯りが溢れている。
私の胸の内に広がる冷たい静けさとは、まるで別世界のようだった。
宿を探そうと歩き出したとき、喧噪に混じって、耳を突き刺すような声が響いた。
「この役立たずが!」
通りの中心、人だかりの向こうで罪人が雪と泥の上を引きずられていた。
ムチが振り下ろされるたび、雪が赤く散った。
罪人は抵抗もせず、ただ鎖に引かれるまま膝をついている。
――どうしてだろう。
胸の奥に、あの日と同じ痛みが広がる。
「ちっ……本当に使えねぇ奴だな!」
鞭を振るっていた男が舌打ちし、再び鞭を振り上げる。
気づけば、私は人だかりを押し分けて前に出ていた。
「危ないですよ、こいつは――」
「その人、私に買わせてくれない?」
男がぽかんと口を開け、周囲がざわめく。
「……は?」
「あなたが扱いきれないのなら、私が引き取るわ。値段は言い値でいい」
街の喧噪が遠のいて、私と罪人だけが切り離されたようだった。
「冗談じゃねぇ……こいつは処刑が決まってるんだ。買うなんて――」
言いかけたその瞬間、札束を男めがけて勢いよいよくまきちらした。
最後の財産はもう、この先使う予定はない。
札は風に乗って舞い上がり、雪の上にひらりと降り積もる。
「……これで足りないなら、まだあるわ」
男の動きが止まった。
「……あんた、正気か? どこのお嬢様か知らねぇが、こんな男に大金払うなんて」
私は散らばる札を踏み越え、鎖につながれた男の前へ進む。
「あなた名前は?」
男は答えない。ただ、ゆっくりと顔を上げ、こちらを見た。
諦めと怒りとも違う。もう何も期待していない人間の、真っ白な瞳。
「なんの真似だ、クソ女」
「ただ名前を聞いただけよ?」
「……答える義理なんて、ねぇだろ」
「ええ。だから聞いただけよ」
言い返せないのか、わずかに舌打ちをし、視線を逸らした。
「……クロード」
彼は吐き捨てるように小さく答えた。
「そう、クロード。私はレイラよ」
男は鼻で笑いながら、クロードの首につながる鎖を私の手に差し出す。
「絶対、鍵は取られねぇようにしとけよ」
男の掌が開き、小さな鍵が私の手のひらに落ちた。
「……ありがとう」
残されたのは、鎖の先に立つ無表情なクロードと、私だけだった。
「まずは傷の手当ね。それからお腹も空いたでしょうし」
そう声をかけた瞬間、クロードの手が私の手首を掴んだ。
強引に路地へと引きずり込まれる。
「ちょ――」
背中が荒い壁に押しつけられた。
「……何が目的だ」
「私はただ、目的地までついてきて欲しいの」
「なんだよそれ。他にあるんだろ? 金か、暇つぶしか……」
クロードが口角を歪める。
「あー、それとも抱いてほしいとかか?」
「そんなつもりはないわ」
私は真正面から彼を見返した。
「一人旅は寂しいから。あなたを買ったのは、それだけよ」
「……ほんと、頭のおかしいやつだな」
「そうね。自分でもそう思う」
私はポケットに忍ばせた鍵を取り出し、彼の掌へそっと乗せた。
「これはあなたに返すわ」
鎖の金具が、かすかに揺れる。
「……いいのかよ」
信じられないように彼は鍵を見つめる。
「今にも俺は、お前を殺すかもしれないんだぜ」
その声に、私は一瞬も動じず目をそらさなかった。
「構わないわ」
言葉の端に微かに笑みを含ませると、クロードの瞳が僅かに揺れた。沈黙のあと、彼は小さく肩をすくめる。
「……お前みたいなやつは嫌いじゃねぇよ」
それからクロードには新しい服を買い、食事を済ませたあと、私たちは宿で眠ることにした。
暖炉の火が微かに揺れる部屋は静かで、雪の音だけが遠くで響いていた。
だが、深夜――ゴソゴソとした物音で目を覚ます。
目をうっすら開けると、そこにクロードが立っていた。
壁時計を見ると、深夜2時だった。
「こんな時間に何をしているの?」
問いかけると、彼はままならない足取りで部屋に入ると、そのまま地面に倒れ込んだ。
「……!」
慌てて駆け寄ると、彼は眠っていた。顔は汗で濡れ、酒と香水の匂いが混じっていた。
「行くな――」
うなされる声が漏れる。
「え?」
「リル、ケイル……」
クロードは名前を呼びながら身を震わせている。何かに追われる夢を見ているのだろうか。
私はそっと彼の手を取り、掌に体温を伝える。
「大丈夫よ」
私の声に肩の力が抜け、わずかに呼吸が整うのを感じた。
雪の夜は静かで、二人だけの呼吸と微かな暖かさだけが部屋に残った。
◆
「……あんなに酔うまで飲むなんてやめた方がいいわ」
「そうしねぇと眠れねぇんだよ」
「それって、うなされていたのと関係あるの? 誰かを呼んでいたみたいだったけど」
クロードの眉がぴくりと動く。
「たしか、リルとケイルって――」
そう言った瞬間にクロードは机を叩きつけて勢いよく立ち上がった。
「お前には関係ねぇだろ」
少しの沈黙。
「そうね、ごめんなさい」
そのまま私たちは宿を出て電車に乗り込んだ。ふたりで向き合って座り、窓を見つめる。
「雪って綺麗だと思わない?」
「……雪は嫌いだ」
クロードそう一言だけ答えた。
「あれ、ヴァレンシュ家の娘じゃねぇか」
「本物かよ……家ごと腐ってるって噂の!」
周りの乗客が次々とヒソヒソとささやき始める。
「ヴァレンシュ様が、こんな電車なんか使ってんじゃねぇよ!」
そう言って、手に持っていたコーヒーを勢いよく私にかけてきた。
熱い液体が服を濡らし、周りがざわめく。
クロードは面白そうに口角を上げた。
「なんだ、有名人なのか」
私は笑って座り直す。
「コーヒーをかけられたのは初めてよ」
私がそう言うと愉快そうだった顔が少し歪んだ。
「その顔、気にくわねぇ」
それでも笑う私に、彼はさらに眉をひそめた。
夜になると、再びクロードが出ていこうとするのを私は引き止める。
「どこへ行くつもり?」
クロードが低い声で呟きながら、一歩ずつこちらへ近づいてくる。
「行くなって言ってんのか?」
布団が軋む音とともに、私はベッドに押し倒された。
「お前が――代わりに相手してくれんのかよ」
吐き捨てるような声音なのに、その奥に縋りつくような温度がある。
私は息をのみながらも、目をそらさなかった。
「……あなたが求めているものは、私にはあげられないの」
その瞬間、クロードの表情がわずかに歪んだ。
「……ふざけんなよ」
低く噛みしめるような声。
次の瞬間、クロードの拳が私の横で布団をぐしゃりと掴んだ。
「自分は……平気なフリしやがって」
胸の奥をえぐるような声音だった。
「傷ついてるくせに、なに笑って誤魔化してんだよ……!」
「……じゃあ、どうしろって言うの?」
押し倒された体勢のまま、静かに続ける。
「いちいち真に受けていたら、キリがないのよ。今までだって、ずっと……」
私がそう言ったあと、部屋の空気が静かに沈んだ。
「……だから笑ってりゃいいってか?」
低い声。怒りはまだある。けれど、その奥に別の色が滲んでいた。
私は答えられなかった。
クロードが、さらに顔を近づけた。逃げ場のない距離で、まっすぐ私を見下ろす。
「そんなの……強さじゃねぇよ。ただ壊れる寸前だろ」
その言葉に、胸の奥で何かがほどける音がした。
「……違うわ」
言った瞬間、声が震えた。
「私はむしろ清々してるの……」
必死に笑おうとした。けれど唇はうまく動かず、視界がじわりと揺れた。
クロードの目がわずかに見開かれる。
「なに泣いてんだよ」
意地悪な言い方なのに、その声はひどく優しかった。
頬を伝う感触で、初めて自分が泣いていることに気づいた。
止めようとしても、涙は勝手に溢れてくる。
「……あなたのせいよ」
クロードは、何も言わなかった。
「ずっと平気なフリしてたの」
震えた声が、静かな部屋に落ちていく。
私は俯いたまま、拳をきゅっと握りしめた。
「泣いたら、何かが壊れてしまう気がして……」
今まで押し込めていたものが、ゆっくりと浮かび上がってくる。
視界が滲んで、クロードの表情がよく見えない。
「……バカか、お前は」
次の瞬間、クロードは雑な仕草で私の手首を掴み、ぐいっと引き寄せた。
拒む間もなく、胸元に押し込まれるように抱き寄せられる。
「泣きてぇなら、泣けよ」
耳元で落とされた声は、ひどく不器用で、優しかった。
クロードは、私を見下ろしたまま動かなかった。
「ごめんなさい……こんな見苦しい顔、見せて」
するとクロードは、ふっと短く笑った。
「……泣いてる方が、断然いいわ」
胸の奥に、何かが落ちた音がした。
「え……?」
クロードは視線をそらし、舌打ちするみたいに小さく息を吐いた。
「平気なフリして笑ってる顔より……よっぽど……マシだ」
「……クロード」
呼びかけると、彼は一瞬だけ私を見て――
その瞳の奥に、かすかな優しさが揺れた。
「……私、もっとあなたのこと知りたいの」
涙を拭ったあとの声は、自分でも驚くほど静かだった。
クロードは、一瞬だけ眉をひそめたが――
次の瞬間、ため息をつくようにして、私の隣へ寝転がった。
「面白い話なんてねぇからな」
ベッドが沈んで、肩と肩が触れそうな距離。
クロードは天井を見つめたまま、ぽつり、ぽつりと言葉を落としていった。
「俺は北の国の生まれだ。あそこは雪が毎日のように降る」
低くて少し掠れた声が、静かに部屋を満たす。
「両親は……俺が生まれてすぐ死んだ」
あくまで淡々と話すその横顔に、胸が締めつけられた。
クロードは三人兄弟の長男。下には8歳の妹と7歳の弟。クロードは貧乏だけど幸せだったと笑う。
そこまで言って、クロードは口をつぐんだ。
本当は聞きたかった。
どうして今、彼がひとりなのか。
どうして罪人なんて呼ばれているのか。
けれど――聞けなかった。
彼の痛みを無理やり押し隠したようなその声を、これ以上傷つけたくなかった。
「……レイラ?」
名を呼ばれて、返事をしようとしたのに。
クロードの温度が近くて、私はそのまま、眠ってしまった。
◆
窓の外を流れていく雪景色を眺めながら、胸の奥がくすぐったい。
昨日のことを思い出すとなんだか、そわそわして仕方がなかった。けど、隣に座るクロードは、特に何も気にしていない様子で外を眺めていた。
……ちょっとだけ、拍子抜けする。
「ねぇ、クロード」
「なんだよ」
いつも通りの不機嫌そうな声。
それが妙に安心するから不思議だった。
「私のことは、レイラって呼んで欲しいの」
「……今更なんだよ」
「だって、あなたいつもお前かお嬢様って呼ぶから」
「別に間違ってねぇだろ」
ふんとそっぽを向くクロード。
しかし、少ししてから口を開いた。
「気が向いたらな」
ぶっきらぼうなのに、どこか柔らかかった。それだけで胸の奥がまた少しくすぐったくなる。
電車を降りると、雪解けの匂いが混じる風が頬をなでた。
もう、明日には目的地に着きそうだ。
そう思うと胸が少しざわついた。元々そういう約束だったのに。
いざ近づいてくると、喉の奥に小さな棘が刺さったみたいに痛む。
「ねぇ、クロード――」
その時だった。
すれ違いざま、男が強く肩をぶつけてきた。
「っ……!」
クロードがよろめく。
次の瞬間、男の手には――私のバッグ。
「あっ、私の鞄!」
反射的に追いかけようと足を踏み出したその瞬間に鈍い音がして、横から何かが倒れる気配がした。
「……え?」
振り返ると、雪の道に倒れ込んだクロードがいた。
「クロード――!」
逃げていく男の姿が視界の端で小さくなる。
駆け寄った私の手のひらに、生ぬるい感触が広がる
「え……血?」
その一言を口にした瞬間、ようやく理解が追いついた。
さっき私のカバンを奪って逃げた男――あいつがクロードを刺したのだ。
「どうしよう……誰か、誰か助けてください!」
叫んでも、通りの人々は冷たい視線を投げかけるだけで足を止めない。
むしろ避けるように私たちの横を通り過ぎていく。
私はすれ違おうとした男の腕を掴んだ。
「すみません! 近くに病院は――!」
男は鬱陶そうに眉をひそめ、ちらりと倒れかけのクロードに目を向けた。
「首のその痕……こいつ罪人だろ? そんな奴、誰も相手にしねぇよ」
「そんな……刺されてるんですよ!」
「他を当たれって言ってんだよ!」
振り払われ、私はよろめいた。
どうして、誰も助けてくれないの――
「悪い、お前の鞄……取られちまった……」
クロードが血の気の失せた顔で、私を気遣うように笑う。
「鞄なんて……どうでもいいの!」
「……手、かしてくれ」
弱々しい声。私は震える手を差し出す。
クロードはその手を掴み、よろめきながら立ち上がると引きずるようにして路地裏へと歩く。
細い通りの奥に入ったところで、彼の体が限界を迎えたように崩れ落ちる。
「……クロード!」
私は駆け寄り、倒れ込んだ彼の体を支えた。
腕の中で、クロードの重さがずしりと伝わる。
「……ここなら……少しは……目立たねぇ……」
「クロード。しっかりして……!」
路地裏の薄暗がりに、私の声だけが虚しく響いた。
私の手は震えていた。自分の動きで彼が痛むかもしれないと思うと怖かったけど、それでも何かしないと、とにかく必死だった。
「まともに死ねるなんて……思ってなかったよ。俺みたいなのは、死んじまった方がいいんだ」
クロードの声は、かすれていて、震えていて、諦めと自嘲で染まっていた。
「死んでいいはずの人なんて、いないわ」
私のせいだ――そんな考えが頭の中でぐるぐると渦を巻く。
私をどこかのご令嬢”だと思い込んだ男が、金目的で荷物を持ってクロードを狙ったんだ。
もし私と一緒になければ、クロードは刺されなかった。
涙が、堰を切ったようにあふれた。
「おい……泣くなよ。こんなんで死なねぇって」
「だって……あなたが……」
言葉が途切れ、涙がぼろぼろと落ちる。
そんな私を見つめながら、クロードが浅く息を吸った。
「……レイラ。俺の話……聞いてくれるか?」
レイラ――。
初めて、名前を呼ばれた。
その音が、胸の奥で小さく震える。
「……ええ。聞かして」
クロードは目を伏せ、血で濡れた指先を握りしめた。
「俺さ……」
◆
あぁ、そうだ。
思い出したくもねぇのに……血の匂いとともに、あの日の景色が勝手に蘇ってくる。
ずっと北の端の、小さな家だった。
ボロい屋根から雪が落ちるたび、妹のリルが笑って、弟のケイルは「また穴あいた!」って文句言って。
貧乏でも、あったけぇ場所だった。
俺は二人のために働いて、飯を運んで、三人で寄り添って寝て……それだけで充分だった。
でも――世界は思ってたより残酷だった。
目の前でケイルとリルが偉そうな貴族に殺された。理由なんてない。あいつらは自分たち以外なんてどうでもいいんだ。
気づいた時には、そいつの顔を地面に叩きつけてて……雪も、手も、全部が血でぐちゃぐちゃだった。
レイラの涙が、ぽたり、と俺の手の甲に落ちた。
その瞬間、胸の奥で何かがきしむ音がした。
崩れそうな声で俺の名前を呼んで、震える指で必死に俺を支えようとしてる。
どうしてそんなところが、あいつらと重なるんだ。
雪の中で震えてた妹。
泣くまいとして、何度も唇を噛んでた弟。
「大丈夫だよ」って、強がってたあいつらの顔。
レイラが泣くたびに、その全部が頭の中で重なって、心臓がひどく痛んだ。
俺は、ゆっくりレイラの頬を指で拭った。
「……なんでお前まで、そんな顔するんだよ」
思ってない言葉が、勝手に喉からこぼれる。
言いながら気づく。
俺はきっと、レイラに昔の自分たちを見てる。
貴族に踏みにじられながら、それでも必死に生きようとしてた。
レイラが弱さを見せた瞬間、守らなきゃって、思ったんだ。
お前はただの“買い主”なのに。
なのに――心が勝手に寄っていく。
「……レイラ」
名前を呼ぶと、レイラは涙のにじむ目で俺を見た。
その瞳が……あまりにも脆くて、優しかった。
◆
クロードの言葉が途切れた瞬間、路地裏の空気が急に重くなる。
彼の話は、あまりにも残酷で、理不尽で……
立場も、生き方もまるで違うのに。でも、壊される音だけは知っている。
何も言えないまま、目の前で潰れていく感覚。その無力さは、きっとクロードも、私も同じだ。
「……ひとりで、全部抱えてきたのね」
声が震える。
我慢しても、涙が頬を伝う。
「私……わかるの。大事なものが壊れるときのどうしようもなさ、少しだけだけど……」
クロードが驚いたように目を見開いた。
怒りでも嘲りでもない、ただ戸惑うようなまなざし。
「レイラ……」
しゃがれた声が私の名を呼ぶ。
あぁ、やっぱり。
この人は怖くなんかない。
誰よりも傷ついて、誰よりも優しい。
私は泣きながら、小さく微笑んだ。
「あなたと私……少し似てるのかもしれないわね」
「あぁ、そうだな」
クロードのまぶたが、ゆっくりと閉じていく。
「クロード……ダメ……っ!」
私は震える両手で、彼の腹から溢れる血を必死に押さえた。じわりと指の隙間を濡らす生温い感触が、恐怖をさらに煽る。
その時だった。
「……何を騒いでる?」
背後から、低く荒っぽい声がした。振り返ると、肩幅の広い、いかつい男が立っていた。
鋭い目つきにビクリと身がすくむ。
「た、助けてください……!」
それでも私は地面に頭を下げ、縋るように声を絞り出した。
男は一瞬こちらを睨むように見たが、次の瞬間、ため息をついた。
「……わかった。貸せ」
そう言うと、男はクロードの体を軽々と担ぎ上げた。
「ついて来い。ここに置いときゃ死ぬ」
私は慌てて立ち上がり、その背中を追いかけた。
◆
男の家に着くと、乱雑だが生活感のある部屋に通され、男は手際よく布を裂き、鍋で湯を沸かし、クロードの傷に布を押し当てた。
「血が出すぎてるが、死にはしねぇよ」
その言葉を聞いた瞬間、体から力が抜け、私は床にへたり込んだ。
「よかった……本当に……ありがとうございます」
男は包帯を巻きながら、じっとクロードの顔を見た。
「……こいつ、罪人か?」
私は言葉に詰まった。
「……彼は……罪人です。でも……とても優しい人なんです」
そう言うと、男はふっと笑った。
「そうか」
そして首元を指でなぞりながら、ぽつりと続けた。
「俺も昔は罪人だった」
男の首には、古い痕のような傷が見えた。
それを見た瞬間、息が止まった。
この世界で“罪人”という言葉が、どれほど深い意味を持つのか。
クロードも、この人も、その重さを知って生きてきたのだと痛感した。
絶対に……この人を失いたくない。
私は一晩中、彼の手を握っていた。
夜が明けても、クロードは目を覚まさなかった。
規則正しい呼吸だけが、彼が生きている証のように部屋に満ちていた。
私はそっと手をほどき、隣の部屋の扉を叩いて紙と、一本のペンを借りた。
クロードへ
あなたを残して出ていくことを、どうか許してください。最後の私の旅は、あなたのおかげで楽しいものでした。
机の上にお金を置いていきます。
辛い思いをしてきたあなたには少しでも幸せになってもらいたい。
きっとあなたは自分が思ってるよりも優しい人よ。
私はあなたの言葉に救われたもの。
――もっとあなたと。
そう書き出したところで、息が詰まり、私は首を振った。
その一文は、丁寧に消した。
手紙を折り、机の上に置く。
最後に、眠ったままの彼のその手を握った。
「さよなら、クロード」
静かに扉を閉めて、私は出て行った。
◆
馬車に乗っていると、おじさんが口を開く。
「お嬢さん、ここから先は雪がひどくて進めねぇよ」
「ありがとうございます。ここで降ります」
そう言って、私は身軽に馬車を降りた。
「こんなところ、何もないぞ」
少し心配そうな声が背中に向けられる。
私は振り返り、笑顔を作った。
「はい。だから来たんです」
おじさんは不思議そうな顔をしたまま、やがて馬車を引き返していった。
その音が遠ざかると、辺りには雪の静けさだけが残った。
私は雪山を見つめる。遠くまで白一色で、何ひとつ穢れていない。
その上に、新しく降る雪が、音もなく積もっていく。
私はその雪を踏みしめ、歩き出した。
振り返ると、そこには私の足跡だけが、真っ直ぐに伸びていた。
――クロードの生まれた国も、こんな景色だったのかしら。
そう思いながら、ひたすらに歩く。
不思議なほど、足取りは軽かった。
雪は静かに降り続け、吐く息は白く空に溶けて、辺りを見渡しても、もう何も見えない。
私はその中に、仰向けに倒れ込んだ。ぼふっと、身体が柔らかく沈む。
雪山を選んだのに、大した理由はなかった。
ここなら、静かに、優しく、雪に包まれて、きれいに消えられる気がしただけだ。
少し時間が経つと、ひどく眠たくなってきた。
身体の上に雪が積もり、痛かったはずの感覚が、少しずつ遠のいていく。
このまま、眠ってしまおう。そう思った、ときだった。
「こんなところで何やってんだ」
声がした。
私はゆっくりと目を開く。
足元に、クロードが立っていた。
――ああ。
最後の走馬灯が、彼だなんて。
「少し……眠ろうと思って」
かすれた声でそう呟くと、彼は眉をひそめた。
「お前、言ったよな。死んでいいはずの人なんて、いないって」
吐き捨てるように言って、続ける。
「それなのに、自分は違うのかよ」
私どうしてこんな幻覚を見ているのだろう。
「俺は罪人だしさ」
クロードは、雪を踏みしめながら一歩近づいた。
「この先、幸せになんかなれないと思う。それでも……お前といた時間は、少し楽しかった。おまえもそうなんだろ」
胸の奥が、きしんだ。
「それじゃ、ダメなのかよ」
――これは幻覚だ。
そう思おうとしたのに。
「お前が生きる理由が、一緒にいて楽しかったってことじゃ、足りねぇのか」
その言葉が、雪よりも冷たくなっていた身体の奥に、深く沈んでいった。
クロードが、私の手を握った。
その瞬間、指先から失われていたはずの温度が、はっきりと戻ってくる。
「……どうして」
思わず声がこぼれる。
私は大きく目を見開き、彼を見つめた。
――幻覚じゃない。
このぬくもりは、本物だ。
「お前が俺を買ったんだろ」
クロードはそう言って、少しだけ困ったように眉を寄せる。
「勝手にいなくなるなよ」
次の瞬間、私は強く抱きしめられていた。胸に押し付けられた身体は、驚くほど暖かい。
ああ、生きている。
そう思った途端、目元から熱いものが溢れ出した。
「……私、まだ生きてていいかな」
震える声でそう言うと、耳元で、ふっと笑う気配がした。
「俺が生きてんだ」
低く、迷いのない声。
「いいに決まってんだろ」
クロードはそう言って、私の肩に上着を掛けてくれる。包み込まれるような温もりに、息が詰まりそうになった。
「帰ろうぜ」
どこへ帰るのかなんて、わからない。
私たちには、戻る場所なんてなかった。
それでも、隣を歩いてくれる人がいるなら。
もう一度、この雪を歩ける気がした。
今朝まで公爵家の令嬢だった私が、いまは旅装に身を包み、ひとり雪の山脈へ向かっていた。
――すべては、あの日。
私がついだ紅茶を口にした婚約者の愛人が、床に崩れ落ちた。誰かが叫び侍従が駆け込んでくる。その混乱の中ひとりの侍女が呟いた。
「この紅茶……」
たったそれだけで、全員の視線が私に刺さった。否定する隙も与えられず、彼は剣を抜き、私へと突きつけた。
彼の顔は怒りではなく、どこか“安堵したように”見えた。
――やっと捨てる理由ができた、とでも言いたげに。
私は命乞いのために、地面に額を押しつける。その背後で、愛人が微かに笑った気配がした。
……あの顔だけは、今でも忘れない。
地位は奪われ、家族には“疫病神”と罵られ、屋敷を追い出された。
屋敷を追い出される瞬間、母が言った。
「あんたさえ、生まれてこなければ」
――あぁ、そんなにも要らない存在だったのか。
馬車を降りた街は、明るく、人々の声と灯りが溢れている。
私の胸の内に広がる冷たい静けさとは、まるで別世界のようだった。
宿を探そうと歩き出したとき、喧噪に混じって、耳を突き刺すような声が響いた。
「この役立たずが!」
通りの中心、人だかりの向こうで罪人が雪と泥の上を引きずられていた。
ムチが振り下ろされるたび、雪が赤く散った。
罪人は抵抗もせず、ただ鎖に引かれるまま膝をついている。
――どうしてだろう。
胸の奥に、あの日と同じ痛みが広がる。
「ちっ……本当に使えねぇ奴だな!」
鞭を振るっていた男が舌打ちし、再び鞭を振り上げる。
気づけば、私は人だかりを押し分けて前に出ていた。
「危ないですよ、こいつは――」
「その人、私に買わせてくれない?」
男がぽかんと口を開け、周囲がざわめく。
「……は?」
「あなたが扱いきれないのなら、私が引き取るわ。値段は言い値でいい」
街の喧噪が遠のいて、私と罪人だけが切り離されたようだった。
「冗談じゃねぇ……こいつは処刑が決まってるんだ。買うなんて――」
言いかけたその瞬間、札束を男めがけて勢いよいよくまきちらした。
最後の財産はもう、この先使う予定はない。
札は風に乗って舞い上がり、雪の上にひらりと降り積もる。
「……これで足りないなら、まだあるわ」
男の動きが止まった。
「……あんた、正気か? どこのお嬢様か知らねぇが、こんな男に大金払うなんて」
私は散らばる札を踏み越え、鎖につながれた男の前へ進む。
「あなた名前は?」
男は答えない。ただ、ゆっくりと顔を上げ、こちらを見た。
諦めと怒りとも違う。もう何も期待していない人間の、真っ白な瞳。
「なんの真似だ、クソ女」
「ただ名前を聞いただけよ?」
「……答える義理なんて、ねぇだろ」
「ええ。だから聞いただけよ」
言い返せないのか、わずかに舌打ちをし、視線を逸らした。
「……クロード」
彼は吐き捨てるように小さく答えた。
「そう、クロード。私はレイラよ」
男は鼻で笑いながら、クロードの首につながる鎖を私の手に差し出す。
「絶対、鍵は取られねぇようにしとけよ」
男の掌が開き、小さな鍵が私の手のひらに落ちた。
「……ありがとう」
残されたのは、鎖の先に立つ無表情なクロードと、私だけだった。
「まずは傷の手当ね。それからお腹も空いたでしょうし」
そう声をかけた瞬間、クロードの手が私の手首を掴んだ。
強引に路地へと引きずり込まれる。
「ちょ――」
背中が荒い壁に押しつけられた。
「……何が目的だ」
「私はただ、目的地までついてきて欲しいの」
「なんだよそれ。他にあるんだろ? 金か、暇つぶしか……」
クロードが口角を歪める。
「あー、それとも抱いてほしいとかか?」
「そんなつもりはないわ」
私は真正面から彼を見返した。
「一人旅は寂しいから。あなたを買ったのは、それだけよ」
「……ほんと、頭のおかしいやつだな」
「そうね。自分でもそう思う」
私はポケットに忍ばせた鍵を取り出し、彼の掌へそっと乗せた。
「これはあなたに返すわ」
鎖の金具が、かすかに揺れる。
「……いいのかよ」
信じられないように彼は鍵を見つめる。
「今にも俺は、お前を殺すかもしれないんだぜ」
その声に、私は一瞬も動じず目をそらさなかった。
「構わないわ」
言葉の端に微かに笑みを含ませると、クロードの瞳が僅かに揺れた。沈黙のあと、彼は小さく肩をすくめる。
「……お前みたいなやつは嫌いじゃねぇよ」
それからクロードには新しい服を買い、食事を済ませたあと、私たちは宿で眠ることにした。
暖炉の火が微かに揺れる部屋は静かで、雪の音だけが遠くで響いていた。
だが、深夜――ゴソゴソとした物音で目を覚ます。
目をうっすら開けると、そこにクロードが立っていた。
壁時計を見ると、深夜2時だった。
「こんな時間に何をしているの?」
問いかけると、彼はままならない足取りで部屋に入ると、そのまま地面に倒れ込んだ。
「……!」
慌てて駆け寄ると、彼は眠っていた。顔は汗で濡れ、酒と香水の匂いが混じっていた。
「行くな――」
うなされる声が漏れる。
「え?」
「リル、ケイル……」
クロードは名前を呼びながら身を震わせている。何かに追われる夢を見ているのだろうか。
私はそっと彼の手を取り、掌に体温を伝える。
「大丈夫よ」
私の声に肩の力が抜け、わずかに呼吸が整うのを感じた。
雪の夜は静かで、二人だけの呼吸と微かな暖かさだけが部屋に残った。
◆
「……あんなに酔うまで飲むなんてやめた方がいいわ」
「そうしねぇと眠れねぇんだよ」
「それって、うなされていたのと関係あるの? 誰かを呼んでいたみたいだったけど」
クロードの眉がぴくりと動く。
「たしか、リルとケイルって――」
そう言った瞬間にクロードは机を叩きつけて勢いよく立ち上がった。
「お前には関係ねぇだろ」
少しの沈黙。
「そうね、ごめんなさい」
そのまま私たちは宿を出て電車に乗り込んだ。ふたりで向き合って座り、窓を見つめる。
「雪って綺麗だと思わない?」
「……雪は嫌いだ」
クロードそう一言だけ答えた。
「あれ、ヴァレンシュ家の娘じゃねぇか」
「本物かよ……家ごと腐ってるって噂の!」
周りの乗客が次々とヒソヒソとささやき始める。
「ヴァレンシュ様が、こんな電車なんか使ってんじゃねぇよ!」
そう言って、手に持っていたコーヒーを勢いよく私にかけてきた。
熱い液体が服を濡らし、周りがざわめく。
クロードは面白そうに口角を上げた。
「なんだ、有名人なのか」
私は笑って座り直す。
「コーヒーをかけられたのは初めてよ」
私がそう言うと愉快そうだった顔が少し歪んだ。
「その顔、気にくわねぇ」
それでも笑う私に、彼はさらに眉をひそめた。
夜になると、再びクロードが出ていこうとするのを私は引き止める。
「どこへ行くつもり?」
クロードが低い声で呟きながら、一歩ずつこちらへ近づいてくる。
「行くなって言ってんのか?」
布団が軋む音とともに、私はベッドに押し倒された。
「お前が――代わりに相手してくれんのかよ」
吐き捨てるような声音なのに、その奥に縋りつくような温度がある。
私は息をのみながらも、目をそらさなかった。
「……あなたが求めているものは、私にはあげられないの」
その瞬間、クロードの表情がわずかに歪んだ。
「……ふざけんなよ」
低く噛みしめるような声。
次の瞬間、クロードの拳が私の横で布団をぐしゃりと掴んだ。
「自分は……平気なフリしやがって」
胸の奥をえぐるような声音だった。
「傷ついてるくせに、なに笑って誤魔化してんだよ……!」
「……じゃあ、どうしろって言うの?」
押し倒された体勢のまま、静かに続ける。
「いちいち真に受けていたら、キリがないのよ。今までだって、ずっと……」
私がそう言ったあと、部屋の空気が静かに沈んだ。
「……だから笑ってりゃいいってか?」
低い声。怒りはまだある。けれど、その奥に別の色が滲んでいた。
私は答えられなかった。
クロードが、さらに顔を近づけた。逃げ場のない距離で、まっすぐ私を見下ろす。
「そんなの……強さじゃねぇよ。ただ壊れる寸前だろ」
その言葉に、胸の奥で何かがほどける音がした。
「……違うわ」
言った瞬間、声が震えた。
「私はむしろ清々してるの……」
必死に笑おうとした。けれど唇はうまく動かず、視界がじわりと揺れた。
クロードの目がわずかに見開かれる。
「なに泣いてんだよ」
意地悪な言い方なのに、その声はひどく優しかった。
頬を伝う感触で、初めて自分が泣いていることに気づいた。
止めようとしても、涙は勝手に溢れてくる。
「……あなたのせいよ」
クロードは、何も言わなかった。
「ずっと平気なフリしてたの」
震えた声が、静かな部屋に落ちていく。
私は俯いたまま、拳をきゅっと握りしめた。
「泣いたら、何かが壊れてしまう気がして……」
今まで押し込めていたものが、ゆっくりと浮かび上がってくる。
視界が滲んで、クロードの表情がよく見えない。
「……バカか、お前は」
次の瞬間、クロードは雑な仕草で私の手首を掴み、ぐいっと引き寄せた。
拒む間もなく、胸元に押し込まれるように抱き寄せられる。
「泣きてぇなら、泣けよ」
耳元で落とされた声は、ひどく不器用で、優しかった。
クロードは、私を見下ろしたまま動かなかった。
「ごめんなさい……こんな見苦しい顔、見せて」
するとクロードは、ふっと短く笑った。
「……泣いてる方が、断然いいわ」
胸の奥に、何かが落ちた音がした。
「え……?」
クロードは視線をそらし、舌打ちするみたいに小さく息を吐いた。
「平気なフリして笑ってる顔より……よっぽど……マシだ」
「……クロード」
呼びかけると、彼は一瞬だけ私を見て――
その瞳の奥に、かすかな優しさが揺れた。
「……私、もっとあなたのこと知りたいの」
涙を拭ったあとの声は、自分でも驚くほど静かだった。
クロードは、一瞬だけ眉をひそめたが――
次の瞬間、ため息をつくようにして、私の隣へ寝転がった。
「面白い話なんてねぇからな」
ベッドが沈んで、肩と肩が触れそうな距離。
クロードは天井を見つめたまま、ぽつり、ぽつりと言葉を落としていった。
「俺は北の国の生まれだ。あそこは雪が毎日のように降る」
低くて少し掠れた声が、静かに部屋を満たす。
「両親は……俺が生まれてすぐ死んだ」
あくまで淡々と話すその横顔に、胸が締めつけられた。
クロードは三人兄弟の長男。下には8歳の妹と7歳の弟。クロードは貧乏だけど幸せだったと笑う。
そこまで言って、クロードは口をつぐんだ。
本当は聞きたかった。
どうして今、彼がひとりなのか。
どうして罪人なんて呼ばれているのか。
けれど――聞けなかった。
彼の痛みを無理やり押し隠したようなその声を、これ以上傷つけたくなかった。
「……レイラ?」
名を呼ばれて、返事をしようとしたのに。
クロードの温度が近くて、私はそのまま、眠ってしまった。
◆
窓の外を流れていく雪景色を眺めながら、胸の奥がくすぐったい。
昨日のことを思い出すとなんだか、そわそわして仕方がなかった。けど、隣に座るクロードは、特に何も気にしていない様子で外を眺めていた。
……ちょっとだけ、拍子抜けする。
「ねぇ、クロード」
「なんだよ」
いつも通りの不機嫌そうな声。
それが妙に安心するから不思議だった。
「私のことは、レイラって呼んで欲しいの」
「……今更なんだよ」
「だって、あなたいつもお前かお嬢様って呼ぶから」
「別に間違ってねぇだろ」
ふんとそっぽを向くクロード。
しかし、少ししてから口を開いた。
「気が向いたらな」
ぶっきらぼうなのに、どこか柔らかかった。それだけで胸の奥がまた少しくすぐったくなる。
電車を降りると、雪解けの匂いが混じる風が頬をなでた。
もう、明日には目的地に着きそうだ。
そう思うと胸が少しざわついた。元々そういう約束だったのに。
いざ近づいてくると、喉の奥に小さな棘が刺さったみたいに痛む。
「ねぇ、クロード――」
その時だった。
すれ違いざま、男が強く肩をぶつけてきた。
「っ……!」
クロードがよろめく。
次の瞬間、男の手には――私のバッグ。
「あっ、私の鞄!」
反射的に追いかけようと足を踏み出したその瞬間に鈍い音がして、横から何かが倒れる気配がした。
「……え?」
振り返ると、雪の道に倒れ込んだクロードがいた。
「クロード――!」
逃げていく男の姿が視界の端で小さくなる。
駆け寄った私の手のひらに、生ぬるい感触が広がる
「え……血?」
その一言を口にした瞬間、ようやく理解が追いついた。
さっき私のカバンを奪って逃げた男――あいつがクロードを刺したのだ。
「どうしよう……誰か、誰か助けてください!」
叫んでも、通りの人々は冷たい視線を投げかけるだけで足を止めない。
むしろ避けるように私たちの横を通り過ぎていく。
私はすれ違おうとした男の腕を掴んだ。
「すみません! 近くに病院は――!」
男は鬱陶そうに眉をひそめ、ちらりと倒れかけのクロードに目を向けた。
「首のその痕……こいつ罪人だろ? そんな奴、誰も相手にしねぇよ」
「そんな……刺されてるんですよ!」
「他を当たれって言ってんだよ!」
振り払われ、私はよろめいた。
どうして、誰も助けてくれないの――
「悪い、お前の鞄……取られちまった……」
クロードが血の気の失せた顔で、私を気遣うように笑う。
「鞄なんて……どうでもいいの!」
「……手、かしてくれ」
弱々しい声。私は震える手を差し出す。
クロードはその手を掴み、よろめきながら立ち上がると引きずるようにして路地裏へと歩く。
細い通りの奥に入ったところで、彼の体が限界を迎えたように崩れ落ちる。
「……クロード!」
私は駆け寄り、倒れ込んだ彼の体を支えた。
腕の中で、クロードの重さがずしりと伝わる。
「……ここなら……少しは……目立たねぇ……」
「クロード。しっかりして……!」
路地裏の薄暗がりに、私の声だけが虚しく響いた。
私の手は震えていた。自分の動きで彼が痛むかもしれないと思うと怖かったけど、それでも何かしないと、とにかく必死だった。
「まともに死ねるなんて……思ってなかったよ。俺みたいなのは、死んじまった方がいいんだ」
クロードの声は、かすれていて、震えていて、諦めと自嘲で染まっていた。
「死んでいいはずの人なんて、いないわ」
私のせいだ――そんな考えが頭の中でぐるぐると渦を巻く。
私をどこかのご令嬢”だと思い込んだ男が、金目的で荷物を持ってクロードを狙ったんだ。
もし私と一緒になければ、クロードは刺されなかった。
涙が、堰を切ったようにあふれた。
「おい……泣くなよ。こんなんで死なねぇって」
「だって……あなたが……」
言葉が途切れ、涙がぼろぼろと落ちる。
そんな私を見つめながら、クロードが浅く息を吸った。
「……レイラ。俺の話……聞いてくれるか?」
レイラ――。
初めて、名前を呼ばれた。
その音が、胸の奥で小さく震える。
「……ええ。聞かして」
クロードは目を伏せ、血で濡れた指先を握りしめた。
「俺さ……」
◆
あぁ、そうだ。
思い出したくもねぇのに……血の匂いとともに、あの日の景色が勝手に蘇ってくる。
ずっと北の端の、小さな家だった。
ボロい屋根から雪が落ちるたび、妹のリルが笑って、弟のケイルは「また穴あいた!」って文句言って。
貧乏でも、あったけぇ場所だった。
俺は二人のために働いて、飯を運んで、三人で寄り添って寝て……それだけで充分だった。
でも――世界は思ってたより残酷だった。
目の前でケイルとリルが偉そうな貴族に殺された。理由なんてない。あいつらは自分たち以外なんてどうでもいいんだ。
気づいた時には、そいつの顔を地面に叩きつけてて……雪も、手も、全部が血でぐちゃぐちゃだった。
レイラの涙が、ぽたり、と俺の手の甲に落ちた。
その瞬間、胸の奥で何かがきしむ音がした。
崩れそうな声で俺の名前を呼んで、震える指で必死に俺を支えようとしてる。
どうしてそんなところが、あいつらと重なるんだ。
雪の中で震えてた妹。
泣くまいとして、何度も唇を噛んでた弟。
「大丈夫だよ」って、強がってたあいつらの顔。
レイラが泣くたびに、その全部が頭の中で重なって、心臓がひどく痛んだ。
俺は、ゆっくりレイラの頬を指で拭った。
「……なんでお前まで、そんな顔するんだよ」
思ってない言葉が、勝手に喉からこぼれる。
言いながら気づく。
俺はきっと、レイラに昔の自分たちを見てる。
貴族に踏みにじられながら、それでも必死に生きようとしてた。
レイラが弱さを見せた瞬間、守らなきゃって、思ったんだ。
お前はただの“買い主”なのに。
なのに――心が勝手に寄っていく。
「……レイラ」
名前を呼ぶと、レイラは涙のにじむ目で俺を見た。
その瞳が……あまりにも脆くて、優しかった。
◆
クロードの言葉が途切れた瞬間、路地裏の空気が急に重くなる。
彼の話は、あまりにも残酷で、理不尽で……
立場も、生き方もまるで違うのに。でも、壊される音だけは知っている。
何も言えないまま、目の前で潰れていく感覚。その無力さは、きっとクロードも、私も同じだ。
「……ひとりで、全部抱えてきたのね」
声が震える。
我慢しても、涙が頬を伝う。
「私……わかるの。大事なものが壊れるときのどうしようもなさ、少しだけだけど……」
クロードが驚いたように目を見開いた。
怒りでも嘲りでもない、ただ戸惑うようなまなざし。
「レイラ……」
しゃがれた声が私の名を呼ぶ。
あぁ、やっぱり。
この人は怖くなんかない。
誰よりも傷ついて、誰よりも優しい。
私は泣きながら、小さく微笑んだ。
「あなたと私……少し似てるのかもしれないわね」
「あぁ、そうだな」
クロードのまぶたが、ゆっくりと閉じていく。
「クロード……ダメ……っ!」
私は震える両手で、彼の腹から溢れる血を必死に押さえた。じわりと指の隙間を濡らす生温い感触が、恐怖をさらに煽る。
その時だった。
「……何を騒いでる?」
背後から、低く荒っぽい声がした。振り返ると、肩幅の広い、いかつい男が立っていた。
鋭い目つきにビクリと身がすくむ。
「た、助けてください……!」
それでも私は地面に頭を下げ、縋るように声を絞り出した。
男は一瞬こちらを睨むように見たが、次の瞬間、ため息をついた。
「……わかった。貸せ」
そう言うと、男はクロードの体を軽々と担ぎ上げた。
「ついて来い。ここに置いときゃ死ぬ」
私は慌てて立ち上がり、その背中を追いかけた。
◆
男の家に着くと、乱雑だが生活感のある部屋に通され、男は手際よく布を裂き、鍋で湯を沸かし、クロードの傷に布を押し当てた。
「血が出すぎてるが、死にはしねぇよ」
その言葉を聞いた瞬間、体から力が抜け、私は床にへたり込んだ。
「よかった……本当に……ありがとうございます」
男は包帯を巻きながら、じっとクロードの顔を見た。
「……こいつ、罪人か?」
私は言葉に詰まった。
「……彼は……罪人です。でも……とても優しい人なんです」
そう言うと、男はふっと笑った。
「そうか」
そして首元を指でなぞりながら、ぽつりと続けた。
「俺も昔は罪人だった」
男の首には、古い痕のような傷が見えた。
それを見た瞬間、息が止まった。
この世界で“罪人”という言葉が、どれほど深い意味を持つのか。
クロードも、この人も、その重さを知って生きてきたのだと痛感した。
絶対に……この人を失いたくない。
私は一晩中、彼の手を握っていた。
夜が明けても、クロードは目を覚まさなかった。
規則正しい呼吸だけが、彼が生きている証のように部屋に満ちていた。
私はそっと手をほどき、隣の部屋の扉を叩いて紙と、一本のペンを借りた。
クロードへ
あなたを残して出ていくことを、どうか許してください。最後の私の旅は、あなたのおかげで楽しいものでした。
机の上にお金を置いていきます。
辛い思いをしてきたあなたには少しでも幸せになってもらいたい。
きっとあなたは自分が思ってるよりも優しい人よ。
私はあなたの言葉に救われたもの。
――もっとあなたと。
そう書き出したところで、息が詰まり、私は首を振った。
その一文は、丁寧に消した。
手紙を折り、机の上に置く。
最後に、眠ったままの彼のその手を握った。
「さよなら、クロード」
静かに扉を閉めて、私は出て行った。
◆
馬車に乗っていると、おじさんが口を開く。
「お嬢さん、ここから先は雪がひどくて進めねぇよ」
「ありがとうございます。ここで降ります」
そう言って、私は身軽に馬車を降りた。
「こんなところ、何もないぞ」
少し心配そうな声が背中に向けられる。
私は振り返り、笑顔を作った。
「はい。だから来たんです」
おじさんは不思議そうな顔をしたまま、やがて馬車を引き返していった。
その音が遠ざかると、辺りには雪の静けさだけが残った。
私は雪山を見つめる。遠くまで白一色で、何ひとつ穢れていない。
その上に、新しく降る雪が、音もなく積もっていく。
私はその雪を踏みしめ、歩き出した。
振り返ると、そこには私の足跡だけが、真っ直ぐに伸びていた。
――クロードの生まれた国も、こんな景色だったのかしら。
そう思いながら、ひたすらに歩く。
不思議なほど、足取りは軽かった。
雪は静かに降り続け、吐く息は白く空に溶けて、辺りを見渡しても、もう何も見えない。
私はその中に、仰向けに倒れ込んだ。ぼふっと、身体が柔らかく沈む。
雪山を選んだのに、大した理由はなかった。
ここなら、静かに、優しく、雪に包まれて、きれいに消えられる気がしただけだ。
少し時間が経つと、ひどく眠たくなってきた。
身体の上に雪が積もり、痛かったはずの感覚が、少しずつ遠のいていく。
このまま、眠ってしまおう。そう思った、ときだった。
「こんなところで何やってんだ」
声がした。
私はゆっくりと目を開く。
足元に、クロードが立っていた。
――ああ。
最後の走馬灯が、彼だなんて。
「少し……眠ろうと思って」
かすれた声でそう呟くと、彼は眉をひそめた。
「お前、言ったよな。死んでいいはずの人なんて、いないって」
吐き捨てるように言って、続ける。
「それなのに、自分は違うのかよ」
私どうしてこんな幻覚を見ているのだろう。
「俺は罪人だしさ」
クロードは、雪を踏みしめながら一歩近づいた。
「この先、幸せになんかなれないと思う。それでも……お前といた時間は、少し楽しかった。おまえもそうなんだろ」
胸の奥が、きしんだ。
「それじゃ、ダメなのかよ」
――これは幻覚だ。
そう思おうとしたのに。
「お前が生きる理由が、一緒にいて楽しかったってことじゃ、足りねぇのか」
その言葉が、雪よりも冷たくなっていた身体の奥に、深く沈んでいった。
クロードが、私の手を握った。
その瞬間、指先から失われていたはずの温度が、はっきりと戻ってくる。
「……どうして」
思わず声がこぼれる。
私は大きく目を見開き、彼を見つめた。
――幻覚じゃない。
このぬくもりは、本物だ。
「お前が俺を買ったんだろ」
クロードはそう言って、少しだけ困ったように眉を寄せる。
「勝手にいなくなるなよ」
次の瞬間、私は強く抱きしめられていた。胸に押し付けられた身体は、驚くほど暖かい。
ああ、生きている。
そう思った途端、目元から熱いものが溢れ出した。
「……私、まだ生きてていいかな」
震える声でそう言うと、耳元で、ふっと笑う気配がした。
「俺が生きてんだ」
低く、迷いのない声。
「いいに決まってんだろ」
クロードはそう言って、私の肩に上着を掛けてくれる。包み込まれるような温もりに、息が詰まりそうになった。
「帰ろうぜ」
どこへ帰るのかなんて、わからない。
私たちには、戻る場所なんてなかった。
それでも、隣を歩いてくれる人がいるなら。
もう一度、この雪を歩ける気がした。



