銀色の街のジョゼット

 エンドロールが終わり、場内の照明が戻る。まだジョゼットたちのいた世界の余韻に浸ったまま、おれと黒田は他の観客たちに続いてシアターを出た。

 もう外はとっぷりと暗くなっている。こんな遅い時間まで制服を着たまま外にいるのは初めてだから、見慣れているはずのショッピングモールの景色も何だか知らない場所みたいだ。
「でもさあ、ラストでマリーがぽっと出のケヴィンとくっついてさっさと結婚してたのはどうかと思うんだよな。そこはジョゼットの永遠のライバルとして、ずっとトップスター目指して生きてくとこだろって」
「ジョゼットの生き方との差別化を図ったつもりだろう。原作にはないエピソードだけど、マリーならそっちを選ぶだろうなと納得できる」
「ええ〜? あれは正直、なくても良かったと思うけどな。同じこと思った奴、結構いるんじゃないの。黒田だってそう思うだろ?」
「俺はジョゼット以外はどうなろうが興味ない」
「あっそ……」
 シアターを出た時からずっと映画について語り合ってるけど、おれと黒田の解釈はなかなか一致することがない。黒田の関心がジョゼットにしか向いてないから、ほとんどおれが一方的に感想を喋ってるだけみたいになってるんだけど。

 駅へ向かう途中には学校の近くを流れる川から分かれた細い支流があり、そこには短い橋が架けられている。ジョゼットが欄干に上って歌っていた橋みたいに洒落た街灯はないし、下を流れる川の水も濁って汚いけど、夜の暗さの中では周りの余計なものがはっきり見えなくなって昼間とは違った雰囲気を漂わせている。
 ここに街灯が立っていたら、ちょっとは映画の中のあのシーンに近づけるんだけどな。
「鈴原」
「ん?」
 川の向こうの景色を映画の中の街並みに重ねてぼんやり見ながら歩いていると、不意に後ろから黒田に呼び止められた。足を止めて振り向くと、黒田は橋のたもとに立ち止まってこっちを真っ直ぐに見ている。
「今日は、ありがとう。一緒に来てくれて」
 妙に改まった口調でそう言われて、返答に詰まる。黒田の口からありがとうなんて殊勝な言葉が出てきたことにも驚いたけど、それ以上に眼鏡の奥の目が夜の暗さの中でも分かるほど真剣だったから、どう返したらいいのかすぐには思いつかなかった。
「本当のことを言うと、ずっと迷ってたんだ。ジョゼットを映画館で観られる滅多にないチャンスなのに、リバイバル上映は平日しかやってない。学校帰りに一人で寄り道するのもな……って、半分諦めてたんだけど」
 黒田はふと目元を緩めて笑った。
「あの時、鈴原が誘ってくれて良かったと思ってる。今日はジョゼットをスクリーンで見られて、本当に良かった。今日見たものはきっと死ぬまで忘れないと思う」
「そんな、大げさだって」
「大げさじゃない。だから、ありがとう」

 なんだよ。そうやって笑えるんじゃねえか。
 いつもムスッとしてて嫌味ったらしい言い方しかできないくせに、ジョゼットのことになるとそんな素直にありがとうなんて言えるんだな。
 そうだ。こいつ、さっきジョゼットを夢中で見てた自分の顔をおれに見られていたことも知らないんだよな。自分がジョゼットを見ている時、あんなうっとりした顔になってることにも気付いてないんだ。もしかしたら、自分がジョゼットに恋をしてることにさえも気付いてないのかもしれない。

 黒田は今、ちゃんとおれのこと見えてるのかな。
 目はおれを見てるように見えるけど、きっと今こいつの心にはジョゼットしか見えていないんだろう。見れば分かる、そういう顔してるから。
 ジョゼットが橋の欄干の上で歌うシーンを見ていた時の黒田は、完全に心を奪われてるって感じだった。
 すぐ横にある錆びた橋の欄干にちらと目を向ける。もしおれがジョゼットと同じことをしたら、黒田はあの時と同じ顔でおれを見るのかな。

 橋の欄干に両手を置いた。鉄製の簡素な欄干で錆も目立つけど、幅は結構あるから上に乗っても大丈夫そうだ。
「よっ、と」
「おい、鈴原? 何を……」
「ジョゼットの真似だよ」
 カバンをその場に置くと、軽く勢いをつけて欄干の上に足を乗せる。
 うわ、上で立つと結構高いな。街灯みたいに掴まるものが何もないから、ここでジョゼットと同じように踊るのはさすがに無理そうだ。平均台の上を歩くように両手を横に広げてバランスを取り、一歩、また一歩とゆっくり足を前に踏み出す。
「バカ、何やってんだ! 危ないから降りろ!」
 黒田はこっちに駆け寄ってきて、切羽詰まった声を上げた。おれを見上げる目は怖いほど真剣で、ちゃんとおれを見ている。ジョゼットじゃない、おれを見てる。
 身体の奥底で何かがざわっと揺らいだ。
 川の水面を渡る夜風が髪を撫でて、橋の向こうへと去っていく。今ならおれの汚い赤茶色のくせ毛も、ジョゼットみたいに綺麗な金髪とまではいかなくてもそれに近い色に見えてたりするかも。暗いからよく見えないだろうし。
「だーいじょうぶだって。アーイム、シンギン、インザ……」
 ジョゼットの真似をして歌い出した途端、それまで怒ったようにおれを睨みつけていた黒田の目がふと大きく見開かれた。何かにひどく驚いたように、放心したみたいにぼうっとおれを見上げている。
「……」

 黒田が、おれを見てる。
 それをはっきりと意識した時、身体の奥でまた何かが揺らぐのを感じた。
 熱いような、でも冷たいような、苦しいような、でも心地良いような、それは今まで感じたことのない感覚だった。ジョゼットの歌を初めて聴いた時に感じたものと少しだけ似ているかもしれない。勝手に気分が高揚していく、抑えられない不思議な昂り。

 その時、左脚のバランスが乱れて身体がぐらりと大きく傾いた。
「え、うわっ……」
「鈴原!」
 ヤバい、落ちる。また頭打ったら、絶対黒田に怒られる。

「……?」
 強い衝撃を覚悟してぎゅっと目を瞑ったのに、それはいつまで経ってもやって来ない。
 もしかして、頭を強打して痛みを感じる間もなく即死したのだろうか。恐る恐る瞼を上げると、何故かそこには黒田の顔があった。
「何やってんだ、バカ」
 眼鏡の奥の瞳には、ぽかんとして黒田を見上げているおれがいた。それ以外には何も映っていない。
「あ……」
「どこもぶつけてないか? 痛いところは?」
 今の状況が何ひとつ掴めていないまま、おれはただふるふると頭を横に振った。自分が今どうなっているのかは全く分からないけど、身体に痛いところはない。それだけは分かる。
 黒田はまつ毛を伏せて、深く長くため息をついた。その吐息が唇に触れて、自分と黒田の距離がどういうわけかめちゃくちゃ近いということにようやく気付く。
「本っ当にお前は、危なっかしくて見てられない」
 同じことをつい最近言われたばかりのような気がしたけど、それがいつのことだったかなんて思い出せるほどの余裕は残っていなかった。自分の両腕がしっかりと黒田の首にしがみついて、制服の後ろ襟をぎゅっと握りしめていることに気が付いたからだ。おそらく欄干から滑り落ちそうになった時、咄嗟に掴まるものを求めてすぐ下にいた黒田に抱きついてしまったらしい。黒田の両腕はおれの身体を横抱きにしてしっかりと抱えている。
「……ご、ごめん」
 どうにか絞り出した自分の声は掠れていた。かあっと頬が熱くなるのが分かる。背中と肩、腿と膝の裏に回された黒田の腕の感触は、見た目よりもずっと大きくて力強い。こんなに細い身体のどこからこんな力が出せるんだろう。
「立てるか」
「あ……う、うん」
 黒田はそっと腕を傾けて、おれの両足を地面に立たせてくれた。そろそろと自分の脚で立っても、何故か黒田の腕はおれから離れようとしない。
「あの、黒田。もう離して……」
「鈴原が俺に抱きついてるから離れられないんだ」
「わっ、そ、そうだ! ごめん!」
 あわてて黒田の首から両腕を解くと、それまで黒田に預けていた体重が後ろに移動して足元がふらつく。背後の欄干に手をつくより先に、おれはまた黒田に抱きすくめられていた。
「バカ、ちゃんと立てって。何度転んだら気が済むんだ」
「ごめん。なんか……脚が」
 言いかけて、やめる。さっきから膝が小さく震えて真っ直ぐ立っていられないんだけど、そんなこと言ったら絶対黒田は心配すると思うから。
 どうしてこんなに震えてるんだろう、さっき滑り落ちそうになったのがよっぽど怖かったんだろうか。おれってそんなにチキンだったかな……自分でもよく分からないんだけど。

 その時、橋の向こうからリードに繋いだ犬を連れた女の人が二人、並んでこっちに向かって歩いてくるのを見つけた。咄嗟に黒田の胸元をぎゅっと押して離れようとしたけど、黒田の腕はおれを抱きしめたまま離そうとしない。
「く、黒田……もう」
 犬の散歩をしている二人はそれまで楽しそうに喋りながら歩いていたけど、おれと黒田の横を通り過ぎる時だけ示し合わせたように黙り込んでしまった。やがて橋の反対側へ去っていくとまた雑談を再開したのか話し声が微かに聞こえてきて、それは遠ざかって曲がり角の向こうへ消えていった。
 まずい。さっきの二人、絶対おれ達に気を遣ってた。知らない人だったから良かったけど、このあたりはうちの学校の生徒や先生たちも頻繁に通る場所だから、誰か知ってる奴に見つかる前に早く離れないと。
「……もういいよ、黒田。一人で、立てる」
 もう一度、黒田の胸元を押してみる。黒田はすぐには離れようとしなかったけど、そのうち両腕をゆっくり解いてくれた。
「もう転ぶなよ」
「うん、ごめん」
「ったく、本当によく転ぶ奴だな」
 大きな手のひらがおれの髪をくしゃりと撫でた。
 視線を上に向けると、黒田は今まで見たことのないような優しい目をしている。絶対怒ってると思ってたからどんな顔したらいいのか分からなくて、おれは咄嗟に下を向いてしまった。

 何だろ、これ。
 心臓が持久走の後みたいにバクバクしてて苦しい。転ばなかったしケガもしなかったのに、そんなに怖かったのかな。それに、それだけじゃなくて。
(……熱い)
 黒田の腕が触っていたところだけが、いつまで経っても熱を持っている。力強い腕で抱きしめられた感触も全然消えそうにない、まるで今もまだ抱きしめられてるみたいだ。
「早く帰ろう。そろそろ電車が混んでくる時間だ」
「う、うん」
 夜風が頬に冷たい。さっき橋の欄干の上で感じた風はこんなに冷たくなかったと思うんだけど、急に冷えてきたんだろうか。少し先を歩く黒田に気付かれないように、自分の頬にそっと手を当ててみる。不自然に火照った頬のあまりの熱さに自分で驚いて、ぱっと手を離した。
 どうしよう。今のおれ、絶対真っ赤な顔してる。
 いつからこうだったんだろう? 黒田にはバレてないよな、暗くて顔色なんかよく見えないだろうし。
 夜で、よかった。心の底からそう思った。