映画を観に行くと約束した日が来るまで、おれはできるだけ学校で黒田と接触しないよう注意しながら過ごしていた。そんなことをしなくてもおれと黒田にはもともとクラスが同じという接点しかないのだから、いつも通りにしていればいいのだと頭では分かっているけど、黒田の姿を見つけるとどうにもそわそわするというか、映画のことを話したくてたまらなくなってくる。
一応、二人で映画を観に行くことは誰にも秘密でってことになってるから、おれの方から黒田に話しかけるなんてことは絶対できない。そんなことしたら川島と吉野だけじゃなくクラス全員から怪しまれる。バレるわけにはいかないのだ、そしらぬ顔でやり過ごさないと。でも、こんなに楽しみで待ち遠しく思う気持ちを自分だけで抱え持っていると落ち着かなくてうずうずしてくる。誰かとジョゼットの話をしたくてたまらない。
なんかおれ、浮かれてんな。
黒田はいつ見ても相変わらずしらっとした態度で本読んでるし、おれみたいにそわそわしてる様子なんて微塵も感じられない。もしかしてこんなに楽しみにしてるの、おれだけなのかな。
ジョゼットを映画館のスクリーンで観られる機会なんてもう二度とないかもしれないのに、黒田はわくわくしないんだろうか。ジョゼットのこと好きで好きで仕方ないくせに、どうしてそんなに落ち着いていられるんだろう。
そしてとうとう約束の日が来た。ほんの二日間、黒田に話しかけるのを堪えるだけのことがこんなにキツいとは思っていなかった。でももう、あと三時間足らずでそれも終わりだ。
そうだ、午後の授業が終わったらすぐ出発できるように今から荷物をまとめておこうかな。
そんなことを考えながらトイレを出て廊下をぷらぷらと歩き、教室へ戻る途中にある階段の前に差し掛かったところで、いきなり横から腕をぐいっと掴んで引っ張られた。
「え、わ……っ」
休憩時間で騒がしい廊下と違い、階段の周囲には誰もいない。人の気配のない階段脇の壁の前まで引っ張り込まれて、おれはようやくそいつの顔を見た。黒田だった。
「な、なに」
「今日の約束、忘れてないよな」
目が合うや否や、黒田は少し早口でそう言った。眼鏡の奥からおれを見下ろす目は、どこか落ち着きなく周囲を警戒しているように見える。
「え……あ、うん」
約束って、映画のことで合ってるよな? 忘れるわけないだろ。それどころかおれはこの二日間、今日が来るのをずっと待ち遠しく思っていたというのに。
さっきから黒田は階段や廊下の向こうをちらちらと気にしている。そんなことを聞くだけでそこまで警戒しなくてもいいのに、そう思っていたら、急に黒田はおれの耳に顔を寄せてきた。
「っ、くろ……」
「あの映画館のロビーに入って、右奥にあるソファのところで待ってるから」
小声でそう耳打ちすると、黒田はすぐにおれから顔を離した。わざわざこんなところで待ち伏せしてまで言いたかったことが、それかよ。変に動揺した自分が恥ずかしくなってきて、まだおれの腕を掴んだままの黒田の手を少し強引に振り解いた。
「でもさ、映画館の前で待ち合わせの方が分かりやすいんじゃないの?」
「ロビー前で待ってると誰か知ってる奴に見つかるかもしれない。念のためだ」
「慎重だな。別に悪いことするわけじゃないのに、そんなコソコソしなくても」
「俺は良くても、鈴原は嫌だろ。俺なんかと一緒にいるところを見られたら」
「別に、そんなことないけど……」
嫌ではないが、それをはっきりと否定するのも何か変な気がする。どう答えたらいいのか分からなくて黒田から目を逸らすと、黒田は小さくため息をついた。
「とにかく、俺は先に行って待ってるからな。さっさと来いよ」
「わーかってるよ」
その時、階段の上から数人の生徒がこっちへ下りてきて、黒田は何事もなかったようにおれから離れて去って行った。
*
もし映画館へ行こうとしているところで誰かに声をかけられたら、と心配してたけど、どうやらそれは杞憂だったようだ。吉野は部活、川島は今日も補習で、帰りのホームルームが終わると早々に教室を出て行った。
この様子なら何も現地集合でなくても良かったのかもしれない、他の生徒たちに紛れておれと黒田が連れ立って学校を出ても特に目立つことはなさそうだし。
でも、黒田は嫌がってるみたいだしな。さっきは『俺なんかと一緒にいるところを見られたら』とか言ってたけど、本当は二人一緒にいるところを見られたくないのは黒田の方なのだろう。
(……いや、いいけどさ。別に)
おれは純粋にジョゼットをスクリーンで観ることを楽しみにしているのであって、黒田と映画を観に行くこと自体はどうでもいい。っていうか、相手は黒田でなくてもいいし、おれ一人でもいいし。たまたま同じ映画を好きだと知ったから、一緒に行く理由なんて本当にそれだけだ。
ショッピングモールに到着し、エスカレーターで最上階のシネマコンプレックスに向かう。吹き抜けを見上げて映画館の様子を確認しようとしたけど、ここからじゃロビーの奥までは見えそうにない。エスカレーターの速度がいつもよりひどく遅く感じる。
黒田、本当にもう来てんのかな。
おれが教室を出た時にはもうあいつの姿はなかったけど、もしかしたら途中で先生に捕まって何か面倒事を頼まれたりしてるかもしれない。それにあいつ塾に通ってるって言ってたけど、今日は行かなくて大丈夫なのかな。
こういう時、連絡先を知っていればそんなことくらいすぐに確認できるのに。ここに来る約束をした時にメッセのIDくらい交換しておけば良かった。
いや、でもあいつ、聞いても教えてくれないかもな。おれと黒田は友達でも何でもない、ただのクラスメイトなのだから。
ようやく映画館の前にたどり着き、ロビーに入ってきょろきょろとあたりの様子を窺う。平日の夕方なのに思っていたより人が多い、いつもこんなもんなのかな。
(……あ)
ロビーの奥に並んでいるソファの端で、座らずに壁に寄りかかって立っている男がいた。腕組みをして、時折前を通り過ぎる人たちをちらちらと見ている。おれを探してるのかもしれない。
足早に黒田のところへ駆け寄ると、その途中で向こうもおれに気が付いたようだ。目が合った途端、壁から背中を離してこっちへ近づいてくる。ようやく目の前まで来ると、黒田はほっとしたように目を細めた。
「やっと来たか」
「悪い、どのくらい待ってた?」
「さあ……」
てっきり遅いとか言って怒られるかと思ったのに、意外にも黒田は言葉を濁しておれから視線を逸らしてしまった。おれはホームルームが終わってから急いで準備して教室を出たけど、その時には既にもう黒田はいなかった。急がないと上映時間に間に合わないとは言え、おれだってここまで結構な早足で来たのにおれより先に着いて待ってるって、一体どのくらいの速度で来たんだろう。
もしかして黒田って、おれ以上に今日の映画を楽しみにしてたのかも。
「……? 何がおかしい」
怪訝な顔でそう聞かれて、自分の口元が緩んでいることに気付く。
「あ、いや。こんなに早く着いてるなんて、よっぽど楽しみにしてたんだなって」
「な……っ、馬鹿言うな! 俺はただ、浜内に見つからないようにさっさと出てきただけで」
「あーはいはい、分かってるって。それじゃさっさとチケット買おうよ、時間ないんだしさ」
「……ああ」
まだ何か言いたそうにしてる黒田に構わず、おれはチケット売り場へ向かった。
どうやら人が多いのはロビーだけだったらしく、銀色の街のジョゼットが上映されるシアターはそれほど混雑していない。運良く中央からやや後ろの席を確保できたおれ達は、並んでシートに腰を下ろした。
「なんか、意外だな」
「なにが?」
上映が始まるのを待っている間、不意に黒田がぼそっと呟いた。
「何か食べるものは買わなくてよかったのかって。鈴原は絶対ポップコーンとか買うタイプだと思ってたから」
何となくバカにされてるような気がしないでもなかったけど、これからジョゼットをスクリーンで観られるという時につまらないことで言い争いなんかしたくない。おれは咳払いをひとつして、努めて冷静に返した。
「家で映画観る時は食べるけど、外では何も食べないよ。それにほら、今日は制服だから汚すと後で面倒だし」
「ああ、確かにな」
本当はただ単に金がないから何も買えなかっただけだということは伏せておこう。
でもたとえ小遣いに余裕があったとしても今日は何も飲み食いせず、ジョゼットを見ることだけに集中したい。それは嘘偽りないおれの本心だった。
その時、場内の照明がゆっくりと暗くなり始めて、おれと黒田は黙ってスクリーンの方を向いた。
正直言うと、映画にそれほど興味はなかった。動画配信サイトでたまに最新映画の予告なんかが流れてきても、よほど話題になっている作品でもない限り見ようとすらしなかった。
だけどあの日、偶然タイムラインに流れてきた楽しそうに歌うジョゼットのサムネイルを見た瞬間、何故か目が離せなくなってしまったのだ。ひと目惚れなんておれは信じていないけど、あの時の衝撃は今まで感じたことのないものだった。
スマホの小さな画面の中で金色の髪を揺らしながら歌うジョゼットは、表情や動きのひとつひとつ全てがどこでどう切り取っても綺麗で完璧で、伸びやかで透き通った歌声は聴いていると勝手に気分が高揚してくる。ジョゼットの歌はいくら聴いても全然飽きなくて、それどころかもっと聴きたくてたまらなくて、映画を全て観終わった後でもジョゼットが歌うシーンだけ何度も繰り返し再生して、その歌声を聴きながらぼうっと画面を眺めていた。
真っ暗なシアターの中、大きなスクリーンに映し出されたジョゼットの髪が揺れている。あんなに何度も聴いたジョゼットの歌声が、映画館の音響設備を通して鼓膜へダイレクトに響いてくる。
一度観たからストーリーの展開は既に分かってるのに、それでもおれはスクリーンから目が離せなかった。離れなかった。
生まれ育った田舎町を出て都会にやって来た時の高揚感、夢と自分の才能との間で揺れる葛藤、初めて経験する大きな挫折、努力の末に大きな役を射止めた喜び。ジョゼットが様々な経験を通して感じる気持ちの全てが、まるで自分に起こっていることみたいにリアルに伝わってくる。
「……っ」
あの有名な橋の欄干の上で歌うシーンに差し掛かった時、隣で小さく息を呑むような音が聞こえた気がした。それまで完全に映画の世界に入り込んでいたおれはそこではっとして、隣に座っている黒田の息遣いを意識した。
黒田は今、どんな顔でジョゼットを見ているんだろう。
急にそんなことが気になって仕方なくなってきて、そろそろと隣に顔を向けた。
橋の欄干の間には等間隔に街灯が立っていて、その明かりが夜の川面に映って揺れている。ジョゼットは欄干の上で歌いながら、街灯に片手で掴まってくるくると踊るように軽やかなステップを踏んでいる。
その姿を見ている黒田の横顔は、スクリーンの発する光に照らされて淡い銀色にぼんやりと光って見えた。
「……」
黒田はジョゼットに夢中で、おれに見られていることなど全く気付く様子もない。ジョゼットの一挙手一投足を全て目に焼き付けようとしているかのように、瞬きもしないでじっとスクリーンを見つめている。
恋をしている人って、きっとこういう目で好きな人を見るんだろうな。
そんなふうに思うと、何だか今の黒田の横顔が見てはいけないもののように思えてきて、おれは咄嗟に顔をスクリーンの方に戻した。
……そっか。黒田はジョゼットに、恋をしているのか。
ただ好きなだけじゃなくて、こんなに夢中で見つめるほど憧れてるんだ。
現実では会うことも話すこともできない人なのに、ただ見た目が好みってだけでそこまで夢中になれるものだろうか。実際は性格がめちゃくちゃ悪いかもしれないし、言葉遣いが汚いかもしれないし、陰で人をバカにしたり、気の弱い奴をいじめたりしてるかもしれないのに、黒田はそれでも好きでいられるのかな。
やっぱりおれにはよく分からない。見た目だけで誰かを好きになるなんて、それって本当にその人を好きって言えるのか?
橋の欄干の上で踊るジョゼットの動きに合わせて、金色の巻き毛が揺れている。街灯の光に照らされた髪は、暗い夜の街中でも眩しいほどに輝いていた。
一応、二人で映画を観に行くことは誰にも秘密でってことになってるから、おれの方から黒田に話しかけるなんてことは絶対できない。そんなことしたら川島と吉野だけじゃなくクラス全員から怪しまれる。バレるわけにはいかないのだ、そしらぬ顔でやり過ごさないと。でも、こんなに楽しみで待ち遠しく思う気持ちを自分だけで抱え持っていると落ち着かなくてうずうずしてくる。誰かとジョゼットの話をしたくてたまらない。
なんかおれ、浮かれてんな。
黒田はいつ見ても相変わらずしらっとした態度で本読んでるし、おれみたいにそわそわしてる様子なんて微塵も感じられない。もしかしてこんなに楽しみにしてるの、おれだけなのかな。
ジョゼットを映画館のスクリーンで観られる機会なんてもう二度とないかもしれないのに、黒田はわくわくしないんだろうか。ジョゼットのこと好きで好きで仕方ないくせに、どうしてそんなに落ち着いていられるんだろう。
そしてとうとう約束の日が来た。ほんの二日間、黒田に話しかけるのを堪えるだけのことがこんなにキツいとは思っていなかった。でももう、あと三時間足らずでそれも終わりだ。
そうだ、午後の授業が終わったらすぐ出発できるように今から荷物をまとめておこうかな。
そんなことを考えながらトイレを出て廊下をぷらぷらと歩き、教室へ戻る途中にある階段の前に差し掛かったところで、いきなり横から腕をぐいっと掴んで引っ張られた。
「え、わ……っ」
休憩時間で騒がしい廊下と違い、階段の周囲には誰もいない。人の気配のない階段脇の壁の前まで引っ張り込まれて、おれはようやくそいつの顔を見た。黒田だった。
「な、なに」
「今日の約束、忘れてないよな」
目が合うや否や、黒田は少し早口でそう言った。眼鏡の奥からおれを見下ろす目は、どこか落ち着きなく周囲を警戒しているように見える。
「え……あ、うん」
約束って、映画のことで合ってるよな? 忘れるわけないだろ。それどころかおれはこの二日間、今日が来るのをずっと待ち遠しく思っていたというのに。
さっきから黒田は階段や廊下の向こうをちらちらと気にしている。そんなことを聞くだけでそこまで警戒しなくてもいいのに、そう思っていたら、急に黒田はおれの耳に顔を寄せてきた。
「っ、くろ……」
「あの映画館のロビーに入って、右奥にあるソファのところで待ってるから」
小声でそう耳打ちすると、黒田はすぐにおれから顔を離した。わざわざこんなところで待ち伏せしてまで言いたかったことが、それかよ。変に動揺した自分が恥ずかしくなってきて、まだおれの腕を掴んだままの黒田の手を少し強引に振り解いた。
「でもさ、映画館の前で待ち合わせの方が分かりやすいんじゃないの?」
「ロビー前で待ってると誰か知ってる奴に見つかるかもしれない。念のためだ」
「慎重だな。別に悪いことするわけじゃないのに、そんなコソコソしなくても」
「俺は良くても、鈴原は嫌だろ。俺なんかと一緒にいるところを見られたら」
「別に、そんなことないけど……」
嫌ではないが、それをはっきりと否定するのも何か変な気がする。どう答えたらいいのか分からなくて黒田から目を逸らすと、黒田は小さくため息をついた。
「とにかく、俺は先に行って待ってるからな。さっさと来いよ」
「わーかってるよ」
その時、階段の上から数人の生徒がこっちへ下りてきて、黒田は何事もなかったようにおれから離れて去って行った。
*
もし映画館へ行こうとしているところで誰かに声をかけられたら、と心配してたけど、どうやらそれは杞憂だったようだ。吉野は部活、川島は今日も補習で、帰りのホームルームが終わると早々に教室を出て行った。
この様子なら何も現地集合でなくても良かったのかもしれない、他の生徒たちに紛れておれと黒田が連れ立って学校を出ても特に目立つことはなさそうだし。
でも、黒田は嫌がってるみたいだしな。さっきは『俺なんかと一緒にいるところを見られたら』とか言ってたけど、本当は二人一緒にいるところを見られたくないのは黒田の方なのだろう。
(……いや、いいけどさ。別に)
おれは純粋にジョゼットをスクリーンで観ることを楽しみにしているのであって、黒田と映画を観に行くこと自体はどうでもいい。っていうか、相手は黒田でなくてもいいし、おれ一人でもいいし。たまたま同じ映画を好きだと知ったから、一緒に行く理由なんて本当にそれだけだ。
ショッピングモールに到着し、エスカレーターで最上階のシネマコンプレックスに向かう。吹き抜けを見上げて映画館の様子を確認しようとしたけど、ここからじゃロビーの奥までは見えそうにない。エスカレーターの速度がいつもよりひどく遅く感じる。
黒田、本当にもう来てんのかな。
おれが教室を出た時にはもうあいつの姿はなかったけど、もしかしたら途中で先生に捕まって何か面倒事を頼まれたりしてるかもしれない。それにあいつ塾に通ってるって言ってたけど、今日は行かなくて大丈夫なのかな。
こういう時、連絡先を知っていればそんなことくらいすぐに確認できるのに。ここに来る約束をした時にメッセのIDくらい交換しておけば良かった。
いや、でもあいつ、聞いても教えてくれないかもな。おれと黒田は友達でも何でもない、ただのクラスメイトなのだから。
ようやく映画館の前にたどり着き、ロビーに入ってきょろきょろとあたりの様子を窺う。平日の夕方なのに思っていたより人が多い、いつもこんなもんなのかな。
(……あ)
ロビーの奥に並んでいるソファの端で、座らずに壁に寄りかかって立っている男がいた。腕組みをして、時折前を通り過ぎる人たちをちらちらと見ている。おれを探してるのかもしれない。
足早に黒田のところへ駆け寄ると、その途中で向こうもおれに気が付いたようだ。目が合った途端、壁から背中を離してこっちへ近づいてくる。ようやく目の前まで来ると、黒田はほっとしたように目を細めた。
「やっと来たか」
「悪い、どのくらい待ってた?」
「さあ……」
てっきり遅いとか言って怒られるかと思ったのに、意外にも黒田は言葉を濁しておれから視線を逸らしてしまった。おれはホームルームが終わってから急いで準備して教室を出たけど、その時には既にもう黒田はいなかった。急がないと上映時間に間に合わないとは言え、おれだってここまで結構な早足で来たのにおれより先に着いて待ってるって、一体どのくらいの速度で来たんだろう。
もしかして黒田って、おれ以上に今日の映画を楽しみにしてたのかも。
「……? 何がおかしい」
怪訝な顔でそう聞かれて、自分の口元が緩んでいることに気付く。
「あ、いや。こんなに早く着いてるなんて、よっぽど楽しみにしてたんだなって」
「な……っ、馬鹿言うな! 俺はただ、浜内に見つからないようにさっさと出てきただけで」
「あーはいはい、分かってるって。それじゃさっさとチケット買おうよ、時間ないんだしさ」
「……ああ」
まだ何か言いたそうにしてる黒田に構わず、おれはチケット売り場へ向かった。
どうやら人が多いのはロビーだけだったらしく、銀色の街のジョゼットが上映されるシアターはそれほど混雑していない。運良く中央からやや後ろの席を確保できたおれ達は、並んでシートに腰を下ろした。
「なんか、意外だな」
「なにが?」
上映が始まるのを待っている間、不意に黒田がぼそっと呟いた。
「何か食べるものは買わなくてよかったのかって。鈴原は絶対ポップコーンとか買うタイプだと思ってたから」
何となくバカにされてるような気がしないでもなかったけど、これからジョゼットをスクリーンで観られるという時につまらないことで言い争いなんかしたくない。おれは咳払いをひとつして、努めて冷静に返した。
「家で映画観る時は食べるけど、外では何も食べないよ。それにほら、今日は制服だから汚すと後で面倒だし」
「ああ、確かにな」
本当はただ単に金がないから何も買えなかっただけだということは伏せておこう。
でもたとえ小遣いに余裕があったとしても今日は何も飲み食いせず、ジョゼットを見ることだけに集中したい。それは嘘偽りないおれの本心だった。
その時、場内の照明がゆっくりと暗くなり始めて、おれと黒田は黙ってスクリーンの方を向いた。
正直言うと、映画にそれほど興味はなかった。動画配信サイトでたまに最新映画の予告なんかが流れてきても、よほど話題になっている作品でもない限り見ようとすらしなかった。
だけどあの日、偶然タイムラインに流れてきた楽しそうに歌うジョゼットのサムネイルを見た瞬間、何故か目が離せなくなってしまったのだ。ひと目惚れなんておれは信じていないけど、あの時の衝撃は今まで感じたことのないものだった。
スマホの小さな画面の中で金色の髪を揺らしながら歌うジョゼットは、表情や動きのひとつひとつ全てがどこでどう切り取っても綺麗で完璧で、伸びやかで透き通った歌声は聴いていると勝手に気分が高揚してくる。ジョゼットの歌はいくら聴いても全然飽きなくて、それどころかもっと聴きたくてたまらなくて、映画を全て観終わった後でもジョゼットが歌うシーンだけ何度も繰り返し再生して、その歌声を聴きながらぼうっと画面を眺めていた。
真っ暗なシアターの中、大きなスクリーンに映し出されたジョゼットの髪が揺れている。あんなに何度も聴いたジョゼットの歌声が、映画館の音響設備を通して鼓膜へダイレクトに響いてくる。
一度観たからストーリーの展開は既に分かってるのに、それでもおれはスクリーンから目が離せなかった。離れなかった。
生まれ育った田舎町を出て都会にやって来た時の高揚感、夢と自分の才能との間で揺れる葛藤、初めて経験する大きな挫折、努力の末に大きな役を射止めた喜び。ジョゼットが様々な経験を通して感じる気持ちの全てが、まるで自分に起こっていることみたいにリアルに伝わってくる。
「……っ」
あの有名な橋の欄干の上で歌うシーンに差し掛かった時、隣で小さく息を呑むような音が聞こえた気がした。それまで完全に映画の世界に入り込んでいたおれはそこではっとして、隣に座っている黒田の息遣いを意識した。
黒田は今、どんな顔でジョゼットを見ているんだろう。
急にそんなことが気になって仕方なくなってきて、そろそろと隣に顔を向けた。
橋の欄干の間には等間隔に街灯が立っていて、その明かりが夜の川面に映って揺れている。ジョゼットは欄干の上で歌いながら、街灯に片手で掴まってくるくると踊るように軽やかなステップを踏んでいる。
その姿を見ている黒田の横顔は、スクリーンの発する光に照らされて淡い銀色にぼんやりと光って見えた。
「……」
黒田はジョゼットに夢中で、おれに見られていることなど全く気付く様子もない。ジョゼットの一挙手一投足を全て目に焼き付けようとしているかのように、瞬きもしないでじっとスクリーンを見つめている。
恋をしている人って、きっとこういう目で好きな人を見るんだろうな。
そんなふうに思うと、何だか今の黒田の横顔が見てはいけないもののように思えてきて、おれは咄嗟に顔をスクリーンの方に戻した。
……そっか。黒田はジョゼットに、恋をしているのか。
ただ好きなだけじゃなくて、こんなに夢中で見つめるほど憧れてるんだ。
現実では会うことも話すこともできない人なのに、ただ見た目が好みってだけでそこまで夢中になれるものだろうか。実際は性格がめちゃくちゃ悪いかもしれないし、言葉遣いが汚いかもしれないし、陰で人をバカにしたり、気の弱い奴をいじめたりしてるかもしれないのに、黒田はそれでも好きでいられるのかな。
やっぱりおれにはよく分からない。見た目だけで誰かを好きになるなんて、それって本当にその人を好きって言えるのか?
橋の欄干の上で踊るジョゼットの動きに合わせて、金色の巻き毛が揺れている。街灯の光に照らされた髪は、暗い夜の街中でも眩しいほどに輝いていた。


