「川島ー、早く行こ」
帰りのホームルームが終わって川島の席へ行くと、川島はいきなり目の前で両手をぱんと合わせながら頭を下げた。
「悪い、オレ今日これから補習だったのすっかり忘れてた! たこ焼きはまた今度な」
「え、ええっ? そんな……」
「ほんっとーにごめん! オレも死ぬほど行きたくないんだけど、この補習出ないとマジで数学の単位ヤバいんだよ」
茫然と立ち尽くすおれの前で、川島はカバンに荷物を詰め込むと慌ただしく席を立った。
「また今度、吉野も誘って行こうよ。ほんっとごめん、じゃあなっ!」
「あ……うん」
一人とぼとぼと学校を出て、駅までの道のりを歩く。今日は川島と駅前のショッピングモール内にあるフードコートへたこ焼きを食べに行く約束をしていたのだが、まさかこんな形で中止になってしまうとは思ってなかった。もう今日は朝からずっとたこ焼きの口になっていたというのに。
(どうしようかな……クーポンの期限、今日までなのに)
後日にリスケするのは別にいいんだけど、せっかく今日のためにとっておいたたこ焼き店のクーポンが無駄になってしまうのはもったいない。割引額は微々たるものかもしれないけど、小遣いが少ない上にバイトもしていないおれにとってクーポンは貴重な金券も同然なのだ。
「う~ん……」
考えながら歩いているうちにショッピングモールの前まで来てしまった。
仕方ない。川島と一緒に行けないのは残念だけど、今日はおれ一人で行くか。
*
このショッピングモールは駅から少し歩いたところにあり、この時間帯になると寄り道しているうちの学校の生徒も結構多い。放課後、部活動や塾などの用事がない奴らにとっては格好の暇潰しスポットである。
そう言えば黒田も塾に行ってるって、この間言ってたっけ。
混雑したフードコートから離れ、通路脇のベンチに座ってたこ焼きを頬張りながら道行く人をぼんやりと眺める。うちの学校の制服を着た男子が三人、楽しそうに喋りながら歩いていく。
「……」
やっぱり、今日じゃなくてもよかったかな。川島の補習がない日に吉野も誘って、三人で来ればよかった。あんなに楽しみにしてたたこ焼きなのに、一人で食べるとこんな味気なく感じるものなのか。いや、美味いことは美味いけど。
(……帰ろ)
ゴミを片付けると、おれは早々にその場を離れた。
しかしせっかく来たんだし、帰る前に少し本屋でも見て行こうかな。何故だかこのまま真っ直ぐ帰る気にもなれなくて、上りのエスカレーターに乗ってしばし黙考する。モール内の中心部は吹き抜けになっていて、ここから上層階の様子もよく見通せる。
最上階の三階はフロアの大部分がシネマコンプレックスになっている。ロビーの前には上映中の映画のポスターが並んで掲示されていて、それらを眺めている人たちの中に一人、見覚えのある後ろ姿を見つけてふと足が止まった。
(……黒田?)
見間違いかと思い、目を凝らしてじっと見つめる。うちの学校の制服を着ているし、それにあんな綺麗な黒髪の男はそうそう見つけられるものじゃない。間違いない、黒田だ。
正直言ってすごく意外だった。あのクソ真面目な学級委員長もこんなところで寄り道とかするんだ。しかも映画館って、見たい映画でもあるのかな。
さっきまで黒田の横で映画のポスターを眺めていた人たちは目当ての作品が既に決まっているのか、ロビーの奥にあるチケット売り場の方へ行ってしまった。その場に一人になっても黒田は動かない。さっきからずっと同じポスターの前に突っ立ったまま、それに釘付けになっている。
そんなに熱心に、何を見てるんだろう。
なるべく足音を立てないように気配を消してそろそろと近づいていく。背後に立っても黒田は全くおれに気付く様子を見せない。さすがに隣に立てば気が付くだろうか、そう思って黒田の横に立ってみたけど、やっぱり無反応。放心したようにぼうっとポスターを見ている。
「なに見てんの?」
「うわっ!」
普通の声量で声をかけただけなのに、黒田は大げさに跳び上がって驚いた。
「……っ、鈴原? なんでここに」
「黒田こそ、何やってんの」
「べ、別に……」
珍しく黒田は見て分かるほど動揺している。取り繕うように眼鏡のブリッジを指で押し上げながら、わざとらしい咳払いなんかしてるし。
黒田の前にあるポスターを見て、あ、と声を上げてしまった。そこにあるのは、おれもよく知っている映画のワンシーンだったからだ。
体育の授業で倒れた日の前夜、おれは寝る前に眺めていた動画配信サイトでたまたま流れてきた古い映画のダイジェストに惹きつけられて、そのまま本編を一気に観てしまった。今目の前にあるのは、紛れもなくその映画のポスターだ。
70年代のフランスを舞台に、映画女優になることを夢みて田舎町からパリの劇場街へ単身やって来た世間知らずで夢見がちな少女ジョゼットが、多くの苦難や挫折を乗り越えやがて世界のスターへと成長していく……という結構ベタなストーリーだけど、古典というものはいつの時代でも変わらずに人の心を打つものだ。
この映画の原作は児童文学で、今から五十年ほど前に公開された当時は全くの無名だった新人作家の作品が原作というのも話題になったらしい。ストーリーの大筋は原作そのままに、ミュージカル要素を取り入れて脚色した映画が大ヒットし、それ以降も映画史に残る名作として世界中で広く知られている。
映画を一度も観たことがなくても、タイトルと主人公のジョゼット役を演じる女優の顔だけは知っている、という人は少なくないと思う。特にストーリー中盤で、初めて映画の主役を射止めたジョゼットが嬉しさのあまり橋の欄干の上で歌いながらステップを踏むシーンは有名だ。何の映画かは知らないけどそのシーンだけは見たことがある、そういう人も多いんじゃないかな。
「銀色の街のジョゼットだ。おれ、この前これシネフリで観たよ」
すると黒田はおれの方を向いて少し怒ったようにぴしゃりと言い放った。
「邦題で呼ぶな。『Singin' in the Light』が正しいタイトルだ」
「なんだよ、黒田ってこの映画好きなんだ?」
「べ……別に、好きってほどでは」
途端に目を逸らして何かもごもご言ってるけど、どう見たって好きってバレバレだし。別に隠すようなことでもないのに、そんなに知られたくないもんなのかな。
もう一度ポスターに目を向ける。さっきは気付かなかったけど、ポスターの上部には『不朽の名作を劇場で! 期間限定リバイバル上映中』と記されていた。
「えっ、うそ。今ここで上映してるんだ? 結構昔の映画なのに」
「時々やるんだよ。古い映画を短期間だけ日替わりで上映するんだ」
「ふーん……」
知らなかった。よく見るとポスターの横にはリバイバル上映のスケジュール表が貼られている。どうやらこの作品だけではなく、他にもいくつか古いクラシック映画を上映しているらしい。
「ジョゼットだけこんなでかでかとポスター貼り出してアピールするなんて、なんか他の映画と扱いがえらく違うな」
思ったことをそのまま口にすると、隣で黒田がふんと鼻を鳴らした。
「少し前に、若い動画配信者がこの映画を紹介したせいでバズってるんだ。今までこれを観たことのない若い世代からも注目を浴びてる、それに乗っかろうって魂胆だろう」
「詳しいな。黒田って実はかなり映画好きだったりする?」
「だから好きってわけじゃなくて、たまたまSNSで目についただけだ」
頑なに映画好きであることを認めようとしない。たまたま目についたとか言ってるけど、絶対SNSで情報収集してるんだろ。そんなに好きなものがあるなんて、もっと堂々と誇っていいと思うんだけど。
おれはまたポスターに視線を戻した。
そこでは主人公のジョゼットが、舞台の上でライトを浴びながら恍惚とした表情で歌っている。この映画の邦題にある『銀色の街』というワードは、おそらく映画のスクリーンを指す銀幕を意味しているのではと考えられているらしいが、本当の意味は不明のようだ。きっとそういうあやふやなところも黒田が邦題を嫌がる理由なんだろう。おれは邦題も結構いいんじゃないかと思うけど。
ジョゼット役を演じた女優は当時、おれ達と同年代くらいだったように見える。ポスターでは映画の中のワンシーンを切り取った画像に多少の加工が施されて全体的に粗いざらつきのある仕上がりになっているけど、それでも分かるくらい艶のある滑らかで綺麗な金色の髪。緩い巻き毛にライトが反射して無数の光を放ち、それはまるで陽光を受けて揺れる水面みたいに今にもゆらゆらと動き出しそうだ。
おれはスマホの小さな画面でこの映画を観たけど、それでもジョゼットが豊かな金色の髪を揺らしながら歌うシーンでは一秒も目が離せないほど惹きつけられたのを今もよく覚えてる。
「黒田、こういう子が好きなんだ」
「ばっ……! い、いい加減にしろ、俺は別に」
「隠すことないだろ。おれも分かるよ、綺麗だもんな」
しばらく黒田は何か言いたそうにおれを睨んでいたけど、そのうち諦めたのかため息をついてポスターの方を見た。
なんか、またひとつ黒田の意外な一面を知ってしまったかもしれない。女子に興味なんかこれっぽっちもありませんよって顔してるくせに、こういう子がタイプだったとは。しかしジョゼットが相手じゃ、うちのクラスの女子では太刀打ちできないだろう。
黒田って無愛想で無神経だけど背は高いし見てくれは悪くないから、学校内の女子たちから密かに人気があるのをおれは知っている。しかし当の黒田は半世紀以上前の時代に世界中を魅了していたジョゼットに夢中なのだから、周りにいる女子なんて全く眼中にないんだろうな。はなから相手にされていないのかと思うと、黒田に好意を寄せている女子たちが少し気の毒だった。
「ジョゼット役をやった女優って、今は何やってんのかな? 生きてたら今はおばあちゃんだよな」
「知らないのか? この映画が公開された二年後に死んでる」
「えっ……そうなの?」
驚いて思わず素っ頓狂な声が出てしまう。それでも黒田はこっちを見ようとせず、ポスターの中で歌うジョゼットを見上げたまま続けた。
「まだ十代半ばでジョゼット役に抜擢されて、このルックスと並外れた歌唱力で世界中から注目を浴びて持て囃されていたが、世間知らずだったせいで周りからの悪意に利用された末に精神を病んで、次第に薬物を使った遊びに耽るようになり成人する前に薬物中毒で死亡したんだ」
すげー詳しいじゃん、そんなふうに茶化す気は起きなかった。ジョゼットを見上げる黒田の横顔がひどく悲痛だったからだ。
本当に好きなんだな、この子のこと。
もうこの世にいない誰かのことを、そんなに夢中で好きになれるものなんだろうか。もし今も生きていたとしても、もうおばあちゃんになってるのに。現実では会うことも話すこともできない人だって分かってるのに、こんな顔するほど好きでいられるって、すごいことなんじゃないのか。
だって黒田は、この子の外見しか知らないのに。本当はどんな人なのか知らないのに、見た目だけで誰かをそんなに好きになれることってあるのか?
おれにはよく分からない。もしかして黒田が特別なわけじゃなくて、世の中の人はみんなそういうものなんだろうか。
その時、上映スケジュールを見てふと気が付いた。銀色の街のジョゼットが上映されるのは二日後だ。その日以降は日替わりで他の作品を上映するらしく、おそらくこの機会を逃したら次はもうないだろう。
「そうだ。黒田、明後日これ一緒に観に行かない?」
「え……」
おれの唐突な提案に、黒田は困惑した表情を浮かべている。
「だってさ、考えてもみろよ。この映画ってこれからも動画配信サイトでなら何回でも観られるかもしれないけど、映画館のでかいスクリーンで観られるチャンスはこれを逃したらもう死ぬまで来ないかもしれないんだぞ」
「死ぬまで……ってことはないだろ、いくら何でも」
「分かんないぞ? これがバズって注目されてるのは今だけなんだから、このブームが終わったらもう二度と日の目を見なくなるかもしれないし。映画館だって採算取れない作品のリバイバル上映なんてそう何度もやらないだろ」
「そ、それは……まあ、そうかもしれない、けど」
眉間に皺を寄せて、おれの目にも分かるほど黒田は葛藤している。思ったとおり、黒田も映画館のスクリーンでジョゼットを観たくてたまらないのだろう。こんなチャンスはそうそうあるものではないということも分かってるはずだ、なにしろSNSでこんな古い映画の情報を追いかけるほどジョゼットに入れ込んでるのだから。
改めて上映スケジュールを確認すると、銀色の街のジョゼットが上映されるのはちょうど今と同じくらいの時間帯のようだ。
「四時半か……微妙な時間だな。学校終わってから走ってくればギリ間に合うかな?」
「おい、まさか学校の帰りに行く気か?」
「だってこれ平日しかやってないんだもん、学校帰りに行くしかないじゃん」
「だめだ、そんなの。学校の帰りに映画なんて、誰かに見つかって浜内に知られたりしたら面倒だろ」
どうやら黒田が躊躇している理由はそこにあるようだ。超がつくほどのクソ真面目な学級委員長にとっては重要な懸念事項だろうけど、要はそこさえクリアすればこいつは首を縦に振るはずだ。おれはできるだけ軽い口調で、そんな不安に思うことではないということを強調するように説得を試みた。
「だーいじょうぶだって、ものは考えようだよ。同じ寄り道でも場所がカラオケとかゲーセンだったら言い逃れしにくいかもしれないけど、映画だとなんか高尚な感じがするだろ? しかも観てたのが古い作品なら『上映された当時の文化や芸術を学ぶために観に行きました』とか言っときゃそれっぽく聞こえるよ。それならハマ先も見逃してくれるって」
「……お前、そういう悪知恵だけはよく働くのな」
「考え方が柔軟なんだよ、黒田と違って」
まだ何か言い返してくるかと思ったのに、黒田は黙っている。何か言いたそうにおれを睨んではいるけど、その目つきを見ればもう陥落寸前なのは手に取るように分かった。もうあとひと押しでいけるな、これは。
「で、どうすんだよ? 行くのか、行かないのか?」
妙な沈黙の後、黒田は何か諦めたようにまつ毛を伏せて深いため息をついた。
「俺が行かなくても、鈴原は一人で行く気なんだろ」
「当たり前じゃん、おれ絶対スクリーンで観たいもん! ジョゼットの歌だって映画館の音響で聴けるんだぞ、こんなチャンス逃したら一生後悔するって」
そう言った途端、黒田の肩がぴくりと小さく揺れて固まったのをおれは見逃さなかった。自分の言葉が誰かの心を動かした瞬間の確かな手応え、これは勝負あったな。
黒田は腕組みをして、少し怒ったような目でおれを真っ直ぐに見た。
「……分かった。そんなに言うなら、俺も行く」
やった、成功だ。でもおれはここであえて引いてみる、黒田の意思の最終確認をするためだ。
「無理しなくてもいいけど。ハマ先に見つかるの怖いんだろ?」
「馬鹿言うな。鈴原が一人で行って学校の関係者に見つからないよう、俺が近くで見張っててやるだけだ」
「素直に自分も映画観に行きたいって言えばいいのに」
「うるさい。あくまで俺はお前の保護者代理として同行するんだから、勘違いするな」
「なにが保護者だよ……ま、いいや。それじゃ明後日、学校終わったらここで集合な」
「え? なんで」
「なんでって、何が」
「学校から一緒に行けばいいだろ。なんでわざわざ別行動する必要があるんだ」
そう聞いてきた黒田があまりにも不思議そうな顔をしているから、おれは自分がおかしなことを言ったのかと思って返答に詰まってしまった。
いや、黒田の疑問はもっともだけど、おれと黒田が放課後に連れ立ってどこかに行くのはおかしいだろ。おれ達は特に仲が良いわけでもない、それどころかほんの数日前まではろくに会話もしたことなかったのに。そんな奴らが急に二人で帰ったりしたら、絶対に周りから変な目で見られる。そこからハマ先に寄り道したことがバレてしまう危険性だってあるのだ、危ない橋は渡らないに越したことはない。
しかしそれを黒田に説明して、果たして理解してもらえるだろうか。もしかしておれの気にし過ぎなだけかもしれないし。
「だっておれら別に仲が良いわけでもないのに、二人で帰ってたらおかしいだろ」
「それは、まあ……そうだけど」
黒田はどうも釈然としていない様子だ。
「黒田が一緒に行きたいってんなら、おれは別にどっちでもいいけど」
「べ、別に、そんなこと言ってない」
「はいはい、じゃあ現地集合で決まりな。別行動の方がハマ先に見つかる確率も下がるだろ?」
「……分かった」
渋々って感じではあったけど、ようやく黒田は納得したみたいだ。
なんか勢いだけで決まっちゃったけど、まさか黒田と映画を観に行くことになるとは。事実は小説より奇なり、とはよく言ったものだ。
だけど、あのジョゼットの歌う姿を映画館の大きなスクリーンで観られるなんて、こんな機会はもうこの先に巡ってこないかもしれない。そう思うと今からわくわくしている自分がいる、悔しいけどそれは認めざるを得ない。
帰りのホームルームが終わって川島の席へ行くと、川島はいきなり目の前で両手をぱんと合わせながら頭を下げた。
「悪い、オレ今日これから補習だったのすっかり忘れてた! たこ焼きはまた今度な」
「え、ええっ? そんな……」
「ほんっとーにごめん! オレも死ぬほど行きたくないんだけど、この補習出ないとマジで数学の単位ヤバいんだよ」
茫然と立ち尽くすおれの前で、川島はカバンに荷物を詰め込むと慌ただしく席を立った。
「また今度、吉野も誘って行こうよ。ほんっとごめん、じゃあなっ!」
「あ……うん」
一人とぼとぼと学校を出て、駅までの道のりを歩く。今日は川島と駅前のショッピングモール内にあるフードコートへたこ焼きを食べに行く約束をしていたのだが、まさかこんな形で中止になってしまうとは思ってなかった。もう今日は朝からずっとたこ焼きの口になっていたというのに。
(どうしようかな……クーポンの期限、今日までなのに)
後日にリスケするのは別にいいんだけど、せっかく今日のためにとっておいたたこ焼き店のクーポンが無駄になってしまうのはもったいない。割引額は微々たるものかもしれないけど、小遣いが少ない上にバイトもしていないおれにとってクーポンは貴重な金券も同然なのだ。
「う~ん……」
考えながら歩いているうちにショッピングモールの前まで来てしまった。
仕方ない。川島と一緒に行けないのは残念だけど、今日はおれ一人で行くか。
*
このショッピングモールは駅から少し歩いたところにあり、この時間帯になると寄り道しているうちの学校の生徒も結構多い。放課後、部活動や塾などの用事がない奴らにとっては格好の暇潰しスポットである。
そう言えば黒田も塾に行ってるって、この間言ってたっけ。
混雑したフードコートから離れ、通路脇のベンチに座ってたこ焼きを頬張りながら道行く人をぼんやりと眺める。うちの学校の制服を着た男子が三人、楽しそうに喋りながら歩いていく。
「……」
やっぱり、今日じゃなくてもよかったかな。川島の補習がない日に吉野も誘って、三人で来ればよかった。あんなに楽しみにしてたたこ焼きなのに、一人で食べるとこんな味気なく感じるものなのか。いや、美味いことは美味いけど。
(……帰ろ)
ゴミを片付けると、おれは早々にその場を離れた。
しかしせっかく来たんだし、帰る前に少し本屋でも見て行こうかな。何故だかこのまま真っ直ぐ帰る気にもなれなくて、上りのエスカレーターに乗ってしばし黙考する。モール内の中心部は吹き抜けになっていて、ここから上層階の様子もよく見通せる。
最上階の三階はフロアの大部分がシネマコンプレックスになっている。ロビーの前には上映中の映画のポスターが並んで掲示されていて、それらを眺めている人たちの中に一人、見覚えのある後ろ姿を見つけてふと足が止まった。
(……黒田?)
見間違いかと思い、目を凝らしてじっと見つめる。うちの学校の制服を着ているし、それにあんな綺麗な黒髪の男はそうそう見つけられるものじゃない。間違いない、黒田だ。
正直言ってすごく意外だった。あのクソ真面目な学級委員長もこんなところで寄り道とかするんだ。しかも映画館って、見たい映画でもあるのかな。
さっきまで黒田の横で映画のポスターを眺めていた人たちは目当ての作品が既に決まっているのか、ロビーの奥にあるチケット売り場の方へ行ってしまった。その場に一人になっても黒田は動かない。さっきからずっと同じポスターの前に突っ立ったまま、それに釘付けになっている。
そんなに熱心に、何を見てるんだろう。
なるべく足音を立てないように気配を消してそろそろと近づいていく。背後に立っても黒田は全くおれに気付く様子を見せない。さすがに隣に立てば気が付くだろうか、そう思って黒田の横に立ってみたけど、やっぱり無反応。放心したようにぼうっとポスターを見ている。
「なに見てんの?」
「うわっ!」
普通の声量で声をかけただけなのに、黒田は大げさに跳び上がって驚いた。
「……っ、鈴原? なんでここに」
「黒田こそ、何やってんの」
「べ、別に……」
珍しく黒田は見て分かるほど動揺している。取り繕うように眼鏡のブリッジを指で押し上げながら、わざとらしい咳払いなんかしてるし。
黒田の前にあるポスターを見て、あ、と声を上げてしまった。そこにあるのは、おれもよく知っている映画のワンシーンだったからだ。
体育の授業で倒れた日の前夜、おれは寝る前に眺めていた動画配信サイトでたまたま流れてきた古い映画のダイジェストに惹きつけられて、そのまま本編を一気に観てしまった。今目の前にあるのは、紛れもなくその映画のポスターだ。
70年代のフランスを舞台に、映画女優になることを夢みて田舎町からパリの劇場街へ単身やって来た世間知らずで夢見がちな少女ジョゼットが、多くの苦難や挫折を乗り越えやがて世界のスターへと成長していく……という結構ベタなストーリーだけど、古典というものはいつの時代でも変わらずに人の心を打つものだ。
この映画の原作は児童文学で、今から五十年ほど前に公開された当時は全くの無名だった新人作家の作品が原作というのも話題になったらしい。ストーリーの大筋は原作そのままに、ミュージカル要素を取り入れて脚色した映画が大ヒットし、それ以降も映画史に残る名作として世界中で広く知られている。
映画を一度も観たことがなくても、タイトルと主人公のジョゼット役を演じる女優の顔だけは知っている、という人は少なくないと思う。特にストーリー中盤で、初めて映画の主役を射止めたジョゼットが嬉しさのあまり橋の欄干の上で歌いながらステップを踏むシーンは有名だ。何の映画かは知らないけどそのシーンだけは見たことがある、そういう人も多いんじゃないかな。
「銀色の街のジョゼットだ。おれ、この前これシネフリで観たよ」
すると黒田はおれの方を向いて少し怒ったようにぴしゃりと言い放った。
「邦題で呼ぶな。『Singin' in the Light』が正しいタイトルだ」
「なんだよ、黒田ってこの映画好きなんだ?」
「べ……別に、好きってほどでは」
途端に目を逸らして何かもごもご言ってるけど、どう見たって好きってバレバレだし。別に隠すようなことでもないのに、そんなに知られたくないもんなのかな。
もう一度ポスターに目を向ける。さっきは気付かなかったけど、ポスターの上部には『不朽の名作を劇場で! 期間限定リバイバル上映中』と記されていた。
「えっ、うそ。今ここで上映してるんだ? 結構昔の映画なのに」
「時々やるんだよ。古い映画を短期間だけ日替わりで上映するんだ」
「ふーん……」
知らなかった。よく見るとポスターの横にはリバイバル上映のスケジュール表が貼られている。どうやらこの作品だけではなく、他にもいくつか古いクラシック映画を上映しているらしい。
「ジョゼットだけこんなでかでかとポスター貼り出してアピールするなんて、なんか他の映画と扱いがえらく違うな」
思ったことをそのまま口にすると、隣で黒田がふんと鼻を鳴らした。
「少し前に、若い動画配信者がこの映画を紹介したせいでバズってるんだ。今までこれを観たことのない若い世代からも注目を浴びてる、それに乗っかろうって魂胆だろう」
「詳しいな。黒田って実はかなり映画好きだったりする?」
「だから好きってわけじゃなくて、たまたまSNSで目についただけだ」
頑なに映画好きであることを認めようとしない。たまたま目についたとか言ってるけど、絶対SNSで情報収集してるんだろ。そんなに好きなものがあるなんて、もっと堂々と誇っていいと思うんだけど。
おれはまたポスターに視線を戻した。
そこでは主人公のジョゼットが、舞台の上でライトを浴びながら恍惚とした表情で歌っている。この映画の邦題にある『銀色の街』というワードは、おそらく映画のスクリーンを指す銀幕を意味しているのではと考えられているらしいが、本当の意味は不明のようだ。きっとそういうあやふやなところも黒田が邦題を嫌がる理由なんだろう。おれは邦題も結構いいんじゃないかと思うけど。
ジョゼット役を演じた女優は当時、おれ達と同年代くらいだったように見える。ポスターでは映画の中のワンシーンを切り取った画像に多少の加工が施されて全体的に粗いざらつきのある仕上がりになっているけど、それでも分かるくらい艶のある滑らかで綺麗な金色の髪。緩い巻き毛にライトが反射して無数の光を放ち、それはまるで陽光を受けて揺れる水面みたいに今にもゆらゆらと動き出しそうだ。
おれはスマホの小さな画面でこの映画を観たけど、それでもジョゼットが豊かな金色の髪を揺らしながら歌うシーンでは一秒も目が離せないほど惹きつけられたのを今もよく覚えてる。
「黒田、こういう子が好きなんだ」
「ばっ……! い、いい加減にしろ、俺は別に」
「隠すことないだろ。おれも分かるよ、綺麗だもんな」
しばらく黒田は何か言いたそうにおれを睨んでいたけど、そのうち諦めたのかため息をついてポスターの方を見た。
なんか、またひとつ黒田の意外な一面を知ってしまったかもしれない。女子に興味なんかこれっぽっちもありませんよって顔してるくせに、こういう子がタイプだったとは。しかしジョゼットが相手じゃ、うちのクラスの女子では太刀打ちできないだろう。
黒田って無愛想で無神経だけど背は高いし見てくれは悪くないから、学校内の女子たちから密かに人気があるのをおれは知っている。しかし当の黒田は半世紀以上前の時代に世界中を魅了していたジョゼットに夢中なのだから、周りにいる女子なんて全く眼中にないんだろうな。はなから相手にされていないのかと思うと、黒田に好意を寄せている女子たちが少し気の毒だった。
「ジョゼット役をやった女優って、今は何やってんのかな? 生きてたら今はおばあちゃんだよな」
「知らないのか? この映画が公開された二年後に死んでる」
「えっ……そうなの?」
驚いて思わず素っ頓狂な声が出てしまう。それでも黒田はこっちを見ようとせず、ポスターの中で歌うジョゼットを見上げたまま続けた。
「まだ十代半ばでジョゼット役に抜擢されて、このルックスと並外れた歌唱力で世界中から注目を浴びて持て囃されていたが、世間知らずだったせいで周りからの悪意に利用された末に精神を病んで、次第に薬物を使った遊びに耽るようになり成人する前に薬物中毒で死亡したんだ」
すげー詳しいじゃん、そんなふうに茶化す気は起きなかった。ジョゼットを見上げる黒田の横顔がひどく悲痛だったからだ。
本当に好きなんだな、この子のこと。
もうこの世にいない誰かのことを、そんなに夢中で好きになれるものなんだろうか。もし今も生きていたとしても、もうおばあちゃんになってるのに。現実では会うことも話すこともできない人だって分かってるのに、こんな顔するほど好きでいられるって、すごいことなんじゃないのか。
だって黒田は、この子の外見しか知らないのに。本当はどんな人なのか知らないのに、見た目だけで誰かをそんなに好きになれることってあるのか?
おれにはよく分からない。もしかして黒田が特別なわけじゃなくて、世の中の人はみんなそういうものなんだろうか。
その時、上映スケジュールを見てふと気が付いた。銀色の街のジョゼットが上映されるのは二日後だ。その日以降は日替わりで他の作品を上映するらしく、おそらくこの機会を逃したら次はもうないだろう。
「そうだ。黒田、明後日これ一緒に観に行かない?」
「え……」
おれの唐突な提案に、黒田は困惑した表情を浮かべている。
「だってさ、考えてもみろよ。この映画ってこれからも動画配信サイトでなら何回でも観られるかもしれないけど、映画館のでかいスクリーンで観られるチャンスはこれを逃したらもう死ぬまで来ないかもしれないんだぞ」
「死ぬまで……ってことはないだろ、いくら何でも」
「分かんないぞ? これがバズって注目されてるのは今だけなんだから、このブームが終わったらもう二度と日の目を見なくなるかもしれないし。映画館だって採算取れない作品のリバイバル上映なんてそう何度もやらないだろ」
「そ、それは……まあ、そうかもしれない、けど」
眉間に皺を寄せて、おれの目にも分かるほど黒田は葛藤している。思ったとおり、黒田も映画館のスクリーンでジョゼットを観たくてたまらないのだろう。こんなチャンスはそうそうあるものではないということも分かってるはずだ、なにしろSNSでこんな古い映画の情報を追いかけるほどジョゼットに入れ込んでるのだから。
改めて上映スケジュールを確認すると、銀色の街のジョゼットが上映されるのはちょうど今と同じくらいの時間帯のようだ。
「四時半か……微妙な時間だな。学校終わってから走ってくればギリ間に合うかな?」
「おい、まさか学校の帰りに行く気か?」
「だってこれ平日しかやってないんだもん、学校帰りに行くしかないじゃん」
「だめだ、そんなの。学校の帰りに映画なんて、誰かに見つかって浜内に知られたりしたら面倒だろ」
どうやら黒田が躊躇している理由はそこにあるようだ。超がつくほどのクソ真面目な学級委員長にとっては重要な懸念事項だろうけど、要はそこさえクリアすればこいつは首を縦に振るはずだ。おれはできるだけ軽い口調で、そんな不安に思うことではないということを強調するように説得を試みた。
「だーいじょうぶだって、ものは考えようだよ。同じ寄り道でも場所がカラオケとかゲーセンだったら言い逃れしにくいかもしれないけど、映画だとなんか高尚な感じがするだろ? しかも観てたのが古い作品なら『上映された当時の文化や芸術を学ぶために観に行きました』とか言っときゃそれっぽく聞こえるよ。それならハマ先も見逃してくれるって」
「……お前、そういう悪知恵だけはよく働くのな」
「考え方が柔軟なんだよ、黒田と違って」
まだ何か言い返してくるかと思ったのに、黒田は黙っている。何か言いたそうにおれを睨んではいるけど、その目つきを見ればもう陥落寸前なのは手に取るように分かった。もうあとひと押しでいけるな、これは。
「で、どうすんだよ? 行くのか、行かないのか?」
妙な沈黙の後、黒田は何か諦めたようにまつ毛を伏せて深いため息をついた。
「俺が行かなくても、鈴原は一人で行く気なんだろ」
「当たり前じゃん、おれ絶対スクリーンで観たいもん! ジョゼットの歌だって映画館の音響で聴けるんだぞ、こんなチャンス逃したら一生後悔するって」
そう言った途端、黒田の肩がぴくりと小さく揺れて固まったのをおれは見逃さなかった。自分の言葉が誰かの心を動かした瞬間の確かな手応え、これは勝負あったな。
黒田は腕組みをして、少し怒ったような目でおれを真っ直ぐに見た。
「……分かった。そんなに言うなら、俺も行く」
やった、成功だ。でもおれはここであえて引いてみる、黒田の意思の最終確認をするためだ。
「無理しなくてもいいけど。ハマ先に見つかるの怖いんだろ?」
「馬鹿言うな。鈴原が一人で行って学校の関係者に見つからないよう、俺が近くで見張っててやるだけだ」
「素直に自分も映画観に行きたいって言えばいいのに」
「うるさい。あくまで俺はお前の保護者代理として同行するんだから、勘違いするな」
「なにが保護者だよ……ま、いいや。それじゃ明後日、学校終わったらここで集合な」
「え? なんで」
「なんでって、何が」
「学校から一緒に行けばいいだろ。なんでわざわざ別行動する必要があるんだ」
そう聞いてきた黒田があまりにも不思議そうな顔をしているから、おれは自分がおかしなことを言ったのかと思って返答に詰まってしまった。
いや、黒田の疑問はもっともだけど、おれと黒田が放課後に連れ立ってどこかに行くのはおかしいだろ。おれ達は特に仲が良いわけでもない、それどころかほんの数日前まではろくに会話もしたことなかったのに。そんな奴らが急に二人で帰ったりしたら、絶対に周りから変な目で見られる。そこからハマ先に寄り道したことがバレてしまう危険性だってあるのだ、危ない橋は渡らないに越したことはない。
しかしそれを黒田に説明して、果たして理解してもらえるだろうか。もしかしておれの気にし過ぎなだけかもしれないし。
「だっておれら別に仲が良いわけでもないのに、二人で帰ってたらおかしいだろ」
「それは、まあ……そうだけど」
黒田はどうも釈然としていない様子だ。
「黒田が一緒に行きたいってんなら、おれは別にどっちでもいいけど」
「べ、別に、そんなこと言ってない」
「はいはい、じゃあ現地集合で決まりな。別行動の方がハマ先に見つかる確率も下がるだろ?」
「……分かった」
渋々って感じではあったけど、ようやく黒田は納得したみたいだ。
なんか勢いだけで決まっちゃったけど、まさか黒田と映画を観に行くことになるとは。事実は小説より奇なり、とはよく言ったものだ。
だけど、あのジョゼットの歌う姿を映画館の大きなスクリーンで観られるなんて、こんな機会はもうこの先に巡ってこないかもしれない。そう思うと今からわくわくしている自分がいる、悔しいけどそれは認めざるを得ない。


