銀色の街のジョゼット

 おれと黒田が話している間に、まだ教室に残っていた奴らはみんな帰ってしまったようだ。晩秋は日が落ちるのが早く、窓の向こうで傾き始めた日の光が誰もいなくなった教室の中を淡い橙色に染めている。
 まずい、黒田と二人っきりなんて一分も間が持たない。いや、その前におれのメンタルが限界を迎えるだろう。さっさと日誌を書かなくては。
 自分の席に着いてカバンからペンケースを引っ張り出していると、その間に黒田はこっちに歩いてきて、さも当然と言わんばかりにおれの前の席の椅子を引くとそこにすとんと腰掛けた。しかもわざわざおれの方に椅子の向きを変えてだ。
 なんで黒田に真正面から監視されてる状態で日誌を書かなきゃならないんだ、どんな罰ゲームだよ。
「あのさ……黒田は帰っていいよ。これ日直の仕事なんだから」
「二人でやった方が早く終わる。こんなもの、時間をかけてやるようなことじゃない」
 それは確かにそうだけど、お前が手伝う理由はないだろ。学級委員長だからって欠席した日直の代理までやっていたら身体がいくつあっても足りない、黒田にだっていろいろ用事とか予定があるだろうに。
「黒田って、暇なの?」
 つい思ったことをそのまま口に出してしまい、言った後でしまったと思った。しかし時すでに遅し、黒田は明らかに気分を害したらしく眉間に皺を寄せて眼鏡の奥からおれをじろりと睨みつけた。
「馬鹿言うな。これから塾があるのに」
「えっ、塾行ってんだ? あーもう、だからいいって言ってんだろ。先に帰れよ」
「いいからさっさと書け。鈴原だって早く帰りたいんだろ」
 黒田は頑なに帰ろうとしない。これ以上早く帰れと言ってもきっとこいつは聞き入れないのだろう、だったら黒田の言うとおり二人でさっさと日誌を書き終える方が遥かに建設的だ。こいつに手伝ってもらうってのが甚だ不本意ではあるけど仕方ない。

 学級日誌に書くことは主にその日の授業内容で、後は連絡事項と日直からのコメントくらいだ。授業内容は事細かに書く必要はないが、あまりにも適当に書いて提出すると翌日にもう一度日直をやらされるのでその匙加減が難しい。
 とりあえず今日やった教科については時間割のとおりに書いていけば問題ないはずだから、おれは何も考えずに黒板の横に掲示してある時間割を日誌に書き写していった。
「そこ、違う。二時間目が日本史で、三時間目が数Ⅱだ」
「え? でも時間割ではこうなってるけど」
「今日は浜内の出張でそこだけ変更になっただろ。覚えてないのか?」
「……全然」
 黒田は深く長くため息をつくと、机に頬杖をついた。心底あきれているようだ。
「まさか授業中、ずっと寝てたんじゃないだろうな」
「いや、起きてたよ。……多分」
「多分って何だ、多分って」

 寝てなんかいない、今日はちゃんと起きてた。ただ、授業の内容はほぼ全て聞き流していただけだ。
 そう言ったらきっと黒田は『どうしてちゃんと聞かないんだ』とかうるさく言ってくるだろうけど、その理由だけは言えない。今日の午前中、おれはずっと黒田の背中をぼーっと見ていたからだ。
 おれに病院へ行けと言っておきながら、あれっきり話しかけてもこない黒田にイラついてたから……なんて、そんな恥ずかしいことバカ正直に言えるか。

「やっぱりまだ、頭が痛いんじゃないのか」
 ぎくりとして、シャーペンを持つ手が固まってしまう。別に後ろめたいようなことは何もないのだが、あの時の保健室であったことに繋がる話題にはできれば触れたくない。下手に口を滑らせて、本当は黒田がおれをおぶって保健室まで運んでくれたことを知ってるのがバレてしまっては厄介だ。
 どこか訝しげにおれを見ている黒田の目から逃げるみたいに、視線を下に向けた。
「い、痛くないって。もう何ともないから」
「結構派手に倒れてたから、絶対に頭打ってると思ったんだけどな」
「んなこと言ったって、頭には傷ひとつなかったし……」

 その時、不意に黒田の手が伸びてきた。
 長い指がすぐ目の前でおれの前髪をすくい上げて、その下に隠れていた額を露わにする。黒田の指先が髪の生え際あたりをそっと撫でて、その感覚に思わず目をぎゅっと瞑ってしまった。

「なっ……なに?」
 咄嗟に絞り出した自分の声は情けないほど上擦っている。黒田はおれの目をじっと見つめたまま、逸らそうとしない。
「確かに、外傷はないみたいだな」
「……」
 おれの髪を指ですくい上げたまま、黒田は微動だにしない。窓から差す夕日が黒田の眼鏡のレンズに反射して淡い山吹色に光っている。
 今までずっと真っ黒だと思っていた黒田の眼の虹彩は、夕日を受けて深いこげ茶色に透き通って見えた。

 一体どのくらいの間そうしていただろうか、ようやく黒田はおれの前髪から指を離した。そのまま手を下ろすのかと思ったら、今度は髪をそっと撫でられる感触に思わず息を呑んでしまう。
 触れているのかいないのか分からないほど優しい手つきでおれの髪を撫でている黒田の目はどこか虚ろで、放心したようにおれの髪をぼんやりと見ている。心ここにあらず、そんな表情だ。
「……なんだよ」
 どう反応していいのか分からず、かと言って黙っているのも変な気がしてそう呟くと、黒田はふと目を細めて微笑んだ。
「きれいだな、と思って」
 こいつが笑った顔を見るのはこれが初めてだった。
 こいつ、笑えるのか。いつも仏頂面で不機嫌そうな顔してるのに。
「か……勝手に触んな」
「悪い」
 今度こそ黒田はおれの髪から手を離した。ただ、だいぶ名残惜しそうではあったけど。

 きれい? きれいって、何が。おれの髪のことを言ってるのか?
 こんな汚い赤茶の鉄錆みたいな色、どんなに好意的に見ようとしたって『きれい』だなんて感想は出てこないだろう、普通。黒田みたいに艶があって真っ直ぐな髪質だったらまだ少しはマシだったかもしれないけど、おれの髪は変にうねって傷みやすく艶もない。ちゃんと毎日洗ってるのに、この汚い色とくせ毛のせいで清潔感というものが皆無なのだ。
 だからおれは、黒田の言葉にひどく困惑していた。『きれい』だなんて、おれにとってはこの世で最も縁のない言葉なのに。

「それ、本当に地毛なのか」
 黒田はまた机に頬杖をついて、おれの頭をしげしげと眺めている。さっきの笑った顔はどこへやら、もういつもの無愛想な表情に戻っている。
「そーだよ。こんなウネウネした変なパーマ、どこの誰が好き好んでやるんだっての」
 答えながらだんだん自分の声が刺々しくなっていく。そりゃあ、黒田にとってみればおれの髪なんて不自然極まりないものなんだろう。どうせこいつは、自分の髪に清潔感がないなんて理由で悩んだことは今まで一度もないんだ。雨の日はいつも湿気で頭が爆発することも、初対面の人から物珍しそうに髪をじろじろ見られることも、そんな気苦労とは無縁で生きていけるのならそれに越したことはない。無意味な苦労なんてしなくて済む人生の方が絶対いいに決まってる。
「鈴原のくせ毛は自然だから、その色とよく馴染んでて似合ってると思うけど」
「気ぃ遣わなくていいよ。おれ、小学校の時この頭のせいでいじめられてたから、見た目が汚いってのはちゃんと分かってるし」
「え……」
 黒田があまりにも思ったとおりの反応をするから、おれは内心気分が良かった。ざまあみろ。

 同情してほしいわけではないし、惨めで可哀想な自分に浸っているわけでもない。自分たちとは違う毛色をした個体が群れの中にいたら追い出そうとするのは、動物として当たり前の生存本能だろう。当時のまだ小さな子供だったおれにとっては毎日が地獄だったけど、今となってはあれは起きてしまった事実のひとつでしかなく、自分の行動次第でどうにかできるようなものでもなかったのだから、おれがいつまでも思い悩んでいるのは何か違うと思えるようにまでなった。
 それでも心まで完全に割り切れるほどおれは大人ではなかったから、高校はできるだけ地元から離れた学校を選んだ。さすがに高校生にもなれば髪の色なんかで迫害を受けるようなことはないだろう。そう思っていざ入学したのが頭髪検査などという時代錯誤なことをやっている学校だったのは誤算だったけど、地元の小学校で好奇の視線に晒されておどおどしながら生きていた頃と比べたら今の学校生活は実に平和だ。
 そんな当たり前の平穏な生活をやっと手にできたのだから、そこにわざわざ波風を立てるような真似はしない。だからおれは今まで、自分が過去にどんな目に遭っていたのかなんて誰にも話したことはなかった。話す必要がないからだ。

 校庭の方からサッカー部員たちの掛け声が微かに聞こえてくる。おれは黙って日誌の空欄を埋める作業に戻った。今の黒田がどんな顔をしてるかなんて、見なくても分かってる。
「……」
 何やってんだか。やっぱり言わなきゃよかったかな。
 別に隠すようなことではないけど、わざわざ自分から話すような話でもないのはおれだって分かってる。おれがどんなに平然とした態度で話したって、聞かされた方は気を遣うに決まってるってことも。
 もう過去のことだから、とか、もう気にしてないよ、なんて口で言うのは簡単だけど、心からそう思えるようになる日はきっと一生来ないとおれは知っている。そんな昏い気持ちを胸に抱えているなんて、誰にも知ってほしくない。だから今まで誰にも言ったことはなかったのに。

「知ってるか? 赤い髪は、全世界の人口で一〜二パーセントしかいないらしい」
 日誌の時間割を半分埋めたところで、黒田は唐突にそう言った。
「……へえ。だから何」
 おれは顔を上げずに、ペンを走らせながら適当に答えた。
「すごく希少な色だってことだよ」
「どんなに珍しくたって、それが当人にとって良いか悪いかってのとは全く別の問題だろ。こんな汚い赤茶色の頭になりたいと思うか?」
「汚い? なに言ってるんだ、こんな綺麗なのに」
 思わず鼻で笑ってしまった。気を遣ってるつもりか、それで。
「おれは黒田みたいな真っ黒でサラサラの直毛に生まれたかったよ。それならいじめられることもなかっただろうからな」
 黒田が何か言い返してくる前に、おれは日誌から顔を上げた。シャーペンのクリップを爪でぱちんと弾くと、黒田と目が合う。珍しく少し戸惑ったような顔をしていた。
「お前は恵まれてるんだよ。だからおれの髪が綺麗だなんて、そんな無神経なことが言えるんだ」
「無神経って……俺は、そんなつもりじゃ」
「そんなつもりじゃなかったら何言ってもいいのか。悪気がなければ人を傷つけても許されんのか」
「……」

 こんな汚い赤茶色の髪じゃなかったら、おれはあんな惨めな思いをしなくて済んだのに。
 生まれつき綺麗な黒髪のこいつには絶対に分かるわけないんだ。自分にないものを全部持ってる奴を羨ましいと思うことがどんなに惨めで、卑屈な感情なのか。分かってたまるか。
 見た目でしか人を判断できない奴に何を言われたって、どんな言葉もおれにとっては何の意味もない。汚いも綺麗もないのだ。

 ふと、黒田はわずかにまつ毛を伏せた。
「鈴原に嫌な思いをさせたのなら、それは謝る。ごめん」
 まるで悪いと思っていないのが手に取るように分かったけど、おれは何も言わなかった。おれが何に対して気分を害しているのか、どうせこいつには分からないだろう。
「だけど、鈴原の髪を綺麗だと思ってるのは本当のことだから、それについては謝らない」
「は?」
 何言ってんだ、こいつ。開いた口が塞がらないとはこのことだ。
 多分その時のおれは完全にあきれ果てた顔をしていただろうけど、黒田は至って真剣な表情をしている。とても冗談を言っているようには見えなかった。
「俺が何を綺麗だと思うのかは俺の自由だ。それは誰に何と言われようと、変えることはできない」

 まあ、それはそうだろう。おれのことをどう思うかは黒田の自由だ、それは認める。
 でもそんなこと、わざわざおれに言ってどうすんだよ。それでおれが喜ぶとでも思ってんのか。
 いや、違うか。こいつが誰かを喜ばせるために言葉を選ぶなんて、そんなこと地球がひっくり返ったってありはしないのだ。黒田って頭はいいけど無神経だし。
 じゃあこいつはお世辞を言ってるわけじゃなくて、本当にそう思ってるのか。おれの髪が綺麗だって。

 そう考えると、何だか急に黒田の視線を受け止めることが堪えがたくなってくる。そもそも綺麗なんて面と向かって言われたのは初めてだから、どんな顔してその言葉を受け止めたらいいのかもよく分からない。
 こいつ、恥ずかしくないのかな。自分が恥ずかしいことを言ってるって自覚がないんだろうか。
「……お前って、ほんっと頑固なのな」
 堪え切れなくて黒田から目を逸らした。
「普通のことだろ。綺麗だと思うものに綺麗だって言って何が悪いんだ?」
「あーもう、分かったよ。好きにすればいいじゃん、アホくさ」
「アホとは何だ」
「ほ、ほら。日誌書けたから、さっさと職員室持ってくぞ」
「ああ、そうか」
 おれ達は席を立って教室を出た。

 結局のところ、人は人を見た目でしか判断できない。そしてそれは、おれも同じだったのだろう。
 いつも機嫌悪そうにムスッとしてて、仏頂面で無愛想で、他人に興味なさそうな顔して、自分以外全員バカだと思ってそう。
 それは黒田の外側だけを見ておれが勝手に想像していた、ただおれにそう見えるというだけの、おれの中で作り上げられた架空の黒田でしかなかったみたいだ。
(……なんか、意外かも)
 廊下の窓から差す橙色の夕日が、少し前を歩く黒田の綺麗な黒い髪を淡く照らしている。それがあまりに眩しくて、おれは目を細めた。