銀色の街のジョゼット

 現実は映画みたいに上手くいかないもんだな、と思う。

「おい川島、そのふざけたTシャツはなんだ。もう次はないと言ったはずだろ」
「げっ、委員長……あ~いや、これは、その、また寝坊して着替える時に間違えちゃって」
「そんなふざけたTシャツと制服を二度も間違える奴があるか。初犯なら見逃すが川島は常習だからな、今回は浜内に報告しておくぞ」
「ちょっ、それだけは勘弁してよ! オレもう反省文なんか書きたくない!」
「知らん知らん」

 教室の前で川島が黒田に縋りついているのを見て、隣を歩く吉野がはあとため息をついた。
「まーたやってるよ。懲りないなあ、あいつ」
「こんな朝っぱらから……」
 適当にそう返しながら笑ってみせつつも、内心ではそれどころではなかった。こんなふうに他の奴らが周りにいるところで黒田と鉢合わせしてしまうのはどうも慣れない。教室なら前もって心の準備ができるけど、こうやって予期せぬ場所で黒田の姿を見つけると変に動揺して自分でも分かるほど挙動不審になってしまうのだ。
 落ち着け、落ち着け。いつも通り、普通に。
 いつも心の中でそう繰り返してみるけど、そんな自己暗示が効いたためしは今まで一度もない。
「あっ、鈴原ー! 吉野も! お願い助けて!」
 おれと吉野に気が付いた川島は、無駄にでかい声で助けを求めながらこっちに駆け寄ってきた。当然、黒田もこっちを向く。
「あ……」
 目が合った途端、黒田は少し驚いたような顔で固まってしまった。その場で立ち止まるわけにもいかず、おれは吉野の後に少し遅れてついていく。そんなおれの態度に気が付いているのかいないのか、吉野は教室の前まで来ると黒田に向かってにこやかに挨拶した。
「おはよー、委員長」
「おはよう……」
 吉野に挨拶を返しながらも、黒田の目は落ち着かない様子でこっちを見ている。その視線に堪えかねておれは下を向いた。
「お、おはよ」
「……おう」
 そっけない返事だけ残して、黒田は足早におれの横を通り過ぎて廊下の向こうへ行ってしまった。その後ろ姿を見送りながら、川島はぽかんとしている。
「あ、あれ? もしかして見逃してくれるってこと?」
「ハマ先のとこ行ったんでないの。反省文くらいで済むといいけどな、頑張れよ」
「そんな……! 待って、委員長ー! オレ本当に反省してっからー!」
 黒田を追いかけてどたどたと走り去って行く川島を見て、吉野は肩をすくめた。
「今度は補習じゃなくて、反省文で居残りかあ。可哀想に」
「……だな」

 期末テストが終わると、季節はもう秋から冬へと移り変わっていた。
 おれ達の学校生活は相変わらず忙しなく、その割には特にこれと言った変化もなく、目に見えて何かが変わったということもない。

 それからのおれと黒田は、まあ……よく言えば平穏な、はっきり言うと以前とほとんど変わり映えのない日々を過ごしている。
 相変わらずおれ達は同じ教室にいながら言葉を交わすどころか目を合わせることもほとんどなく、必要最低限の接触しかしない。以前と変わった点と言ったら、メッセのIDを交換してたまに他愛のないやりとりをするようになったことと、お互い予定のない日の放課後はこっそり二人で下校するようになったこと、そのくらいだ。
 おれは正直言って、拍子抜けしている。黒田から気持ちを打ち明けられて、おれもそれに応えて、あの瞬間に世界は一変したと思っていた。きっとこれから先の未来は、今までのおれが全く知らない世界に変わってしまうのだろうと、そう思っていた。そのくらい、あれはおれにとって大きな出来事だったのだ。
 でも実際はおれ達の毎日に劇的な変化みたいなものは何もなくて、あんな大事件が起こった後でも日々はただ平穏に過ぎていく。おれと黒田の間に起きた確かな変化は誰にも気付かれることなく、世界は今日もいつも通りに回っている。もしかしたら、この世界にはこんなふうに誰にも気付かれないままひっそりと息づいている関係が無数に溢れているのかもしれない。
 そこには映画みたいにドラマチックな展開はひとつもないかもしれない。誰にも気付かれることはないかもしれないけど、映画みたいに二人しか知らない何気ないワンシーンをいくつも重ねて、きっとそうやって全ての恋は育まれていくんだと思う。
 黒田しか知らないおれにはよく分からないけど、人と人が付き合うって、映画やドラマの中みたいに毎日が華やかでキラキラしたものではなくて、実際はこんなふうにささやかで地味なもので、そんな日々を穏やかに過ごしていくことこそが付き合ってるってことなんじゃないかな。

 付き合ってる、なんて言葉でおれと黒田の関係を言い表していいのかも、実はまだよく分からない。付き合うとか恋人同士とか彼氏とか、世の中では普通に使われている単語におれ達の今の関係を当てはめようとしてもどうにもしっくりこなくて、途端に陳腐で変に浮ついた言葉のように感じてしまうのだ。
 だけど、そんなふうに思っているのはおれだけなのかもしれない。黒田はこの関係が『付き合ってる』と呼べるものだと既に認識しているかもしれない。もしそうだとしたら、おれも早くその感覚に慣れないといけない、と思ってる。
 友達と恋人の違い。友達同士ではやらないけど、恋人同士はやること。付き合ってる二人だけがすること。
 それくらい、おれだって知ってるから。

 *

 十二月も半ばになると日没が早く、学校からの帰りにちょっと寄り道しただけでも駅に着く頃にはあたりはすっかり暗くなっている。期末テストが終わっていくらか気持ちに余裕ができたせいだろうか、この時間帯になると駅前やショッピングモール付近の景色が最近やけにキラキラしていることに気が付いた。
「もうすぐクリスマスって感じだなー」
「なに言ってるんだ、結構前からこうだったろ。気付いてなかったのか?」
「だってテスト期間中は暗くなるまで遊んだりとかしなかったし……」
 言葉と一緒に吐き出した息が薄く靄のように立ち昇り、冷えた空気の中へ溶けていく。ぐるぐる巻きにしたマフラーに口元を埋めるように縮こまりながらちらと隣を見上げると、黒田の襟元に何も巻かれていないことに気付いた。学校指定のコートを着ているし制服の学ランには詰襟があるから首が丸出しにはなっていないけど、寒くないのかな。
「黒田、マフラーとか持ってないの? 寒いだろ」
「持ってるけど、学校に行く時は滅多に使わないな。電車が暑いから汗をかくのが嫌なんだ」
「ふーん……」
 不意に、あの満員電車で黒田と密着した時のことが脳裏に甦ってくる。そう言えばあの時の黒田も、首筋に少し汗かいてた。
「……」
 なんでそんなことを急に思い出すかな。いや、そもそもひと月以上前のことをこんな鮮明に覚えてるおれが変なんだろうか。
「鈴原はマフラー巻いてるのに寒そうだな。顔が赤くなってる」
「はっ、え? そ、そうかな」
「着いたら何か温かいものでも飲むか」
「……うん」
 よかった、鈍感な奴で。
 気付かれないよう小さくため息をついた時、カバンを持っていない方の手の指が、すぐ横の黒田の手の甲に微かに触れてしまった。それは一瞬のことで、次の瞬間にはもうおれと黒田の手は離れていた。黒田は特に何の反応もせず、平然とした様子で前を見て歩いている。

 今月に入ってすぐ期末テストがあったから、こうやって黒田と二人で一緒に帰るのは久しぶりだ。黒田は週に何日か塾があるし、おれは川島と吉野の三人で勉強することがあったりで、なかなかタイミングが合わず二人で帰るチャンスがほとんどなかった。しかも学校帰りに黒田とショッピングモールへ寄り道するのは、映画を観に行った時以来だったりする。つまり、おれと黒田が付き合い始めてからはこれが初めてということになる。
 付き合い始めて、なんて言い方も何だかこそばゆくて今でもまだ変な感じなんだけど、事実であることに変わりはない。だからこそ、それはここ最近のおれの悩みでもあった。

『構わない。俺は人に見られて困るようなことなんて何もしていない』

 初めて手を繋いだあの夜以来、黒田はおれと手を繋ごうとしない。今日みたいに二人で一緒に帰る時、周りに誰もいなくなってもおれの手に触ろうともしてこない。
 あの時はあんなに堂々と手を握ってたのに、やっぱり黒田って人前でベタベタされるの本当は嫌なのかな。あの時はただ気持ちが盛り上がってただけっていうか、雰囲気に流されて手を繋いでくれただけだったのかもしれない。そう思うと、おれの方から手を繋ぐなんてとてもできなかった。
 おれの嫌がることはしたくないって黒田は言ってくれたけど、それはおれだって同じだ。黒田の嫌がることは絶対したくないし、そのためなら多少の我慢はできる。でも、手を繋ぐってそんなにハードルの高い行為だろうか。街中で見かけるカップル達は普通に手を繋いでるけど、あれって実は人前で堂々とやることではないのかな。おれは黒田としか付き合ったことがないから、世の中の普通が分からない。
 それともおれの感覚の方が普通で、変わっているのは黒田の方なのだろうか。こいつのクソ真面目っぷりが筋金入りなのはおれもよく知ってるし、世間の普通からずれているのは黒田の方ではないかと考えた方がいろいろと合点がいく。
 五十年以上前に公開されたような古い映画に夢中になっている時点で何となく察してはいたけど、黒田って同年代の奴らと比べるとかなり保守的、とでも言えばいいのか……ありていに言えば、すごく古風な感覚を持っていると思う。たまに二人で帰る時、おれはもっと黒田と一緒にいたいのに『遅くなるとご両親が心配する』とか言ってさっさと帰されるし、夜にメッセしてる時だって、おれは黒田がどんなことを思ってるのかもっと教えてほしいのに、黒田の返信は何だかいつもそっけない。
 そんな黒田に不満があるというわけではない。そういう真面目なところも黒田の良いところだと思う。
 でも、付き合い始めてひと月近くも経とうとしてるのに手も繋がないって、いくら何でも奥手が過ぎるんじゃないか?