銀色の街のジョゼット

 たった一駅の間の距離が、恐ろしいほど長く感じた。始発に乗れば大抵は学校の最寄り駅まで座れるから、いつもは座席でうとうとしているうちに着いている。今までのおれにとってはそのくらい短い、あっという間の時間だったはずなのに。
 全方位から人に圧迫されてぴくりとも動けない状況の中、おれはただ息を殺して黒田にしがみついていた。黒田に頭を抱え込まれ、黒田の肩に顔を押しつけているから、黒田がどんな顔をしているのかは見えないし、黒田にもおれの顔は見えていない。
 顔を見られてなくてよかった。もし今の顔を黒田にほんの少しでも見られていたら、もうおれは二度と黒田と顔を合わせられないだろう。

 とく、とく、と微かに聞こえてくる、黒田の鼓動。隙間なく密着した黒田の胸の奥からそれは伝わってくる。おれの鼓動と重なって、離れて、また重なる。
 おれがこんなにドキドキしてるのに、そのおれの心臓の音と重なるってことは、黒田もおれと同じくらいドキドキしてるんだろうか。
 駅に着くのを待つ間ずっと、おれはそんなことを考えていた。

 *

 ようやく学校の最寄り駅で降りると、おれ達の他にもうちの学校の制服を着ている奴らが何人かぱらぱらと降りてきた。いつもの時間から大幅に遅延しているから、今から走って学校に向かっても間に合わないだろう。みんなもう最初から諦めているのか、ぐったりした様子でのろのろと改札へ続く階段を下りていく。

 誰もいなくなったホームの端にあるベンチによろよろと歩み寄り、そっと腰を下ろす。黒田はおれの前に立ったまま座ろうとしない。
「大丈夫か」
「うん……」
 どうやらこいつは、電車の中にいた時からずっとおれの体調が悪いと思い込んでいるようだ。それならそれでいい、さっきのおれの挙動不審な態度を具合が悪いことによるものだと思われているのならかえって好都合だ。
 それに、体調が悪いってのもあながち嘘というわけじゃない。脚の震えはだいぶ収まったけど歩こうとするとまだ足元がふらつくし、脈拍も速いままだし、体中が不自然に火照って熱い。こんな状態じゃ学校なんて行けない。
「無理はするな。学校には俺が連絡しておくから、ここで少し休んだ方がいい」
「……ありがと」
 おれはてっきり、黒田はおれを置いて先に学校へ向かうという意味でそう言ったのかと思ったけど、黒田はおれの隣のベンチに腰掛けてスマホを取り出した。校則では遅刻や欠席をする場合の連絡は保護者が電話かメールで、という決まりにはなっているけど、実情は親を通さず自ら連絡する奴が圧倒的に多い。黒田は慣れた様子で遅刻する旨を伝えるメールを打ち込んでいる。
「いいよ、黒田は先に行っても」
「もう学校にメール送った」
 スマホをカバンの外ポケットにしまいながらあっさりと答える黒田は、いつもの見慣れた黒田だった。さっきまでずっと異常なほど近い距離でおれの髪を撫でていた黒田は本当にこいつだったのか、そもそもあれは実際にあったことなのかも疑わしく思えてくるほど、黒田の横顔は無表情だ。
 また、おれの自意識過剰なんだろうか。おれだけが大げさに捉えているだけで、黒田にとっては大したことじゃなかったのかな。

「……悪かったな、さっきは」

 ドクン、と心臓がひときわ大きく脈打つ。下を向いたまま、顔を上げることができない。
「電車の遅延で北潮見の駅がひどく混んでいて、いつも使ってる乗降口まで進めなかったんだ。仕方なく階段近くの乗降口に並んだら、まさか鈴原と同じ車両に乗るなんて思ってなくて……」
「別に……どこの車両に乗ろうが自由だろ。なんで謝んの」
「謝ってるのはそのことじゃない。鈴原に嫌な思いをさせたことだ」
「……」
 カバンの上で両手をぎゅっと握りしめて、おれはただ自分の足元を見つめていた。

 嫌な思いってなんだよ。嫌な思いをしたのは黒田の方だろ。
 あんな激混みの電車の中でおれを庇うために乗客からぎゅうぎゅう押されまくって、おれに抱きつかれたまま身動きとれない状態で耐えて、気持ち悪いどころの話ではない。相当不快な思いをさせたはずだ。黒田を意識し過ぎて挙動不審になってるおれを黒田は何度も気遣ってくれたのに、おれはろくに返事もしなかった。
 あの時おれは、自分の奥底にあるものの正体をはっきりと認識した。
 黒田に触られたところだけがいつまでもずっと熱いのも、黒田がすぐ近くにいると動悸が収まらないのも、脚の震えも、熱の疼きも、その理由が全部分かってしまったのだ。
 おれだけを夢中になって見てほしい。黒田に見られたくてたまらない。黒田に嫌われたくない。
 今になって思えば、そんなことを考えていた時点で気付かない方がどうかしているのだろう。だけどもう、おれは気付いてしまった。気付かなかったことにして目を逸らし続けることは、もうできない。

 こんな形で知りたくなかった。絶対、黒田はおれを気持ち悪いって思ってるのに。
「嫌な思いしたのは、黒田の方じゃん」
 電車の中と違って駅のホームの空気はひんやりと冷たい。外に出たらこの身体の熱も少しは落ち着くかと思っていたのに、さっきから一向に熱は収まる気配を見せない。
「なに言ってるんだ、俺は嫌な思いなんか」
「黒田」
 おれが言葉を途中で遮ると、黒田はすぐに黙り込んだ。
「普通はさ、男同士であんなにベタベタ触らないんだよ。さっきみたいに」
 できるだけ、軽い感じで。重たくならないように。自分ではそのつもりで喋ってるけど、黒田にそう見せられているかは全く自信がない。せめて顔だけでも笑っていようと思って無理やり口の端を上げてみても、顔の筋肉が引きつって上手く笑えていないのが鏡を見なくても分かる。
 今のおれ、黒田にはどう見えてるのかな。あんなに黒田に見られたくてたまらなかったのに、今は黒田に見られることが何より怖い。
「黒田って友達いないみたいだから分かんないかもしれないけど、あんなふうに男にくっつかれたら普通はキモいって思うんだよ」
「さっきのは……電車が混んでたから、仕方ないだろう」
「じゃあ、黒田がずっとおれの髪触ってたのは? あれは何だったの?」
「……それは」
 黒田は珍しく言葉に詰まっている。
「なんか黒田、変だよ。あんなふうに触られると、おれ……」
 その時、黒田は急に身体ごとこっちを向いた。
「ごめん。勝手に触ったのは、本当に悪かったと思ってる。嫌だったよな」
「……」
「言い訳するつもりはないけど、すぐ目の前で鈴原の綺麗な髪見てたら……なんて言うのか、抑えがきかなくて」

 黒田の言葉に嘘がないことは分かってる。こいつはバカ正直で、上手に嘘がつけるほど器用じゃないってこともよく知ってる。
 だからおれは、腹が立った。
 黒田にそんなつもりはなかったとしても、そんなのが髪に触る理由になるとでも思ってんのか。おれがそれで納得するような子供だとでも思ってんのか。

「髪しか見てないのかよ、お前は」
「え……」
 顔を上げて黒田の方を向いた。眼鏡の奥の瞳は戸惑ったように揺れている。
「お前って結局そうなんだな。珍しい色した髪なら誰だっていいんだろ、別におれじゃなくても」
 黒田は何か言いたそうに口を小さく開けていたけど、おれはそれより先に畳みかけた。
「前髪伸びてるだの制服ちゃんと着ろだの、見た目ばっか気にしてんなとかおれらには偉そうに注意するくせに、いちばん人を見た目で判断してんのはお前じゃねえかよ」
「……」
「どうせお前は、おれのことなんて珍しい毛色の猫とか犬みたいなものだと思ってんだろ。そうやって興味本位で近寄られんのが大っ嫌いなんだよ、おれは」

 ただの八つ当たりだ、こんなの。
 黒田が何を綺麗だと思うのかは黒田の自由で、誰を好きになるのかも黒田の自由だ。おれがそれを変えることなんてできない、そんなこと分かってる。
 だけど、じゃあ、おれの気持ちはどうなるんだよ?
 倒れた時はおんぶして保健室まで運んでくれて、綺麗な髪だって褒められて、一緒に映画観に行って、橋から転び落ちそうになったところを助けられて、その程度のことで浮かれて勘違いしてたおれが悪いってことかよ。もしかしておれだけが特別なのかもって、ほんのちょっとでも期待したおれがバカだったってことかよ。
 黒田は最初からジョゼットしか見えていない。この世にいない、映画の中の架空の存在でしかないのに、髪が綺麗だからってただそれだけの理由で夢中になって、ジョゼットばっかり目で追いかけてるくせに、なんでおれに『きれい』だなんて言ったんだよ。あれって結局、おれはジョゼットの代わりって意味かよ。
 何とも思ってないなら、優しくするなよ。おれのこと見るなよ。おれに触るなよ。
 あんな目で見つめられて、勘違いするなって方が無理があるだろ。

 黒田は黙っていた。黙ったまま、じっとおれを見てる。
 こいつは無神経で超がつくほどの鈍感だから、どうせおれが何に対して怒ってるのかなんて全く分かっていないんだろう。
 分かってたまるか。おれにないものを全部持ってる黒田に、おれが今までどれだけ惨めな思いをしてきたかなんて、世界がひっくり返ったって理解できるはずがないんだ。
 こんなに見られたいと思っている相手が、自分を見ていない。それどころか現実に存在すらしていない誰かのことばかり目で追っている。こんなに惨めな思いをしたことは、今までなかった。
「……綺麗な髪の子が気になるのは、分かるけどさ。だからって自分と同じ男の髪に触ろうとは思わないだろ。普通」
 ゆっくりとベンチから立ち上がった。もう膝の震えはだいぶ収まっている。
「……」
「黒田、おかしいよ」
 まだ何も言わない黒田の方を見ないようにして、おれはベンチの前から歩き出した。

「――普通って何だよ!」

 突然、背後から大声で怒鳴る声が響いてきた。おれ達の周りには誰もいなかったけど、反対側のホームには電車を待つ人が何人かいて、その人たちは一斉にこっちを向いた。
 一瞬、おれの幻聴かと思った。黒田がこんなふうに怒りを露わにして怒鳴る声を、おれは今まで一度も聞いたことがなかったから。
 反対側のホームにいる人たちは、何事かとこっちの様子をちらちらと窺っている。おれの聞き間違いじゃない、今のは紛れもなく黒田の声だ。
 足を止めて振り向くと、黒田はベンチから立っておれの方を真っ直ぐに見ている。怖いほど真剣な目で。
「綺麗なものを見たら触りたいって思うのが普通だろ! 何がおかしいんだ!?」
「くろ……」
「好きな奴のことをきれいだって思うのも、触りたいって思うのも、普通じゃないって言うのかよ!」

 ――え。
 黒田、今なんて。

 両手の拳をぎゅっと握りしめて、黒田はおれを見ている。
「俺は……」
 自分でもよく分からないけど、おれは急に怖くなった。黒田の口からその先の言葉を聞くのが怖くてたまらなくて、咄嗟にくるりと階段の方を向いてそこから駆け出す。足はもはや自分の意思では動いていない。とにかく一刻も早く、黒田から逃げないと。
 階段を駆け下りて改札口を抜けたところで足を止め、恐る恐る後ろを振り返る。黒田がおれを追いかけてくる様子はない。すぐそばにあった大きな柱の陰で隠れるように立ち止まり、ゆっくりと息を吐き出す。自分の呼吸が震えていることにその時初めて気が付いた。

 何だか、頭の中がぐちゃぐちゃだ。
 さっき自分が何を言ったのか、黒田に何を言われたのか、何が起こったのか、ちゃんと思い出そうとしてもよく思い出せない。本当にあったことなのか、全部おれの妄想だったんじゃないのか。
「……」
 指も、膝も、脚も、呼吸も、さっきからずっと震えてる。熱い。黒田に見つめられるといつもこうだ。
 こんな自分を黒田に見られるのが怖い。いつもと違うおれを、黒田に知られたくないのに。

 次に黒田と会う時、どんな顔していればいいんだろう。
 いつも通り、普通に。いつも通りって何だ。普通って何だよ。
 もう何も分からない。どうしたらいいのか分からない。