銀色の街のジョゼット

 ベッドで仰向けになって、スマホの画面をぼんやりと見つめる。そこには数え切れないほど繰り返し見た、橋の欄干の上で踊りながら歌うジョゼットがいた。
 軽やかな足取りでステップを踏む度に、金色の巻き毛が揺れる。街灯の明かりを受けて光るそれは、今から五十年以上前に撮られたものとは思えないほど鮮やかな輝きを放っていた。
 こんなに綺麗な子が、本当にいたんだ。今はもうこの世にいないけど、確かに生きていたんだ。
 シーンが切り替わり、ふと画面が暗くなる。そこに映っているのは、汚い赤茶色のくせ毛のおれ。
「……」
 おれもジョゼットみたいに綺麗な金色の髪だったら、今とは違う人生だったかもしれない。少なくともこんな卑屈な性格にはならなかっただろうし、こんなに惨めな思いをすることもなかっただろう。
 もっと素直で真っ直ぐな性格でいられたら、きっと黒田だっておれを見ていたはずだ。ジョゼットを見つめている時と同じ目で、瞬きもしないで、夢中になっておれだけを見ていたはずなのに。
「……きも」
 スマホを枕の横にぽんと伏せると、腕で両目を覆う。視界が真っ暗になって何も見えなくなって、少しだけほっとした。

 周りの注目をいたずらに集める自分の髪が、子供の頃から嫌いだった。おれが人と違っているのは髪の色だけで、それ以外は本当に何の変哲もない、どこにでもいる普通の子供なのに、周りの奴らはおれをそんなふうには扱ってくれない。おれが本当はどんな人間なのかなんて誰も見ようとしない。
 誰にも受け入れてもらえない自分が惨めで無様で、それはいつからか形を変えておれの中に根を張っていたのかもしれない。
 おれの見た目は人目を集める。おれは人と違う。おれは周りの奴らとは違う。
 注目を浴びるのが嫌だと思ってるくせに、おれは誰よりも自意識過剰だ。何もしなくても目立つのだから、周りからの妬みを買ってしまうのは仕方のないことだって、そう思い込むことで惨めな自分を慰めていただけだ。

『きれいだな、と思って』

 そんなわけあるか。本当の自分が誰より醜くて汚いって、自分がいちばんよく知ってる。子供の頃に周りの奴らからも散々そう言われた、汚い髪だって。
 黒田の目には、おれの髪はどう見えているんだろう。どんなところを綺麗だと言ってくれたんだろう。
 ……ああ、おれは本当に自意識過剰だ。
 黒田が見てるのはおれでもジョゼットでもなくて、自分とは違う明るい色をした髪だけだって分かってるのに、さっきから自分がどう見られているのかばっかり考えてる。

 もしおれがジョゼットみたいに綺麗な金色の髪になったとしても、他にもっと明るい髪色の人が現れたらきっと黒田はそっちを向いてしまうのだろう。じゃあ、どうしたら黒田はおれだけを見てくれるのかな。
 あの時、橋の欄干の上でジョゼットの真似をして歌うおれを見ていた黒田の目が、今も頭から離れない。もう一度あの目で見つめられて、あの不思議な高揚感をまた感じたい。
 おれだけを夢中になって見てほしい。黒田に見られたくてたまらない。

 *

 いつも朝は家の最寄り駅始発の電車に乗っているのに、今日は珍しく遅延していて始発には乗れなかった。ようやく到着した電車に乗り込もうとして、車内の混雑ぶりに思わず足が怯んでしまう。
 電車の到着がかなり遅れていたせいで駅から乗車する人数もいつもの倍以上に増えている。人の濁流に押されるようにして何とか反対側のドア横のスペースに留まることができたが、全方向から圧迫されてまともに身動きがとれない。
 動き出した電車内に運転士のアナウンスが流れ、数十分前に起きた信号機トラブルの影響で大幅なダイヤ乱れが発生していることを初めて知った。確かにいつもより駅が混んでるな、とは思っていたけど、この路線がここまで混雑するのは珍しい。
 失敗したな。駅が混んでることに気が付いた時点で運行情報をチェックしておけばよかった。
 しかしもう乗ってしまったし、こんな身動きとれない状況じゃ途中下車も無理だろう。このまま学校の最寄り駅までじっと耐えなくてはならないのかと考えただけでげんなりしてしまう。

『次はー北潮見、北潮見です。ドア付近のお客様は、一旦ホームに降りて……』
 電車は何度か徐行と時間調整の停止を繰り返しながらのろのろと走行し、やっと中間地点くらいまで進んだ。この駅は複数の路線が乗り入れているから、毎朝乗り込んでくる客も降りていく客もかなり多い。開くのは反対側のドアだし、人が降りて一時的に車内が空いた隙に体勢を整えなくては。そう思って、それまでずっとドアの方を向いていた身体を方向転換させて車内に向ける。
 ちょうど降車する客がみんな降りて、駅のホームから乗車する客が乗り込んでくるところだった。後ろからどかどかと押し流されてくる乗客の先頭にいた男を見て、おれは大きく目を見開いた。

「黒田?」
「え……鈴原? なんで」
「わ、ちょ……っ!」

 黒田は一瞬そこで立ち止まったけど、すぐに後ろから押されておれの前へと流されてくる。もうとっくに定員を遥かにオーバーしている車両内へ、途切れることなく大勢の乗客が押し込まれるように乗り込んでくる。
 身体の向きを反対側へ変える猶予も与えられないまま、おれはドアの前に押しつけられてしまった。顔のすぐ横に黒田の手がバンと叩きつけられ、びっくりしてすぐ目の前の黒田の顔を見上げる。乗客たちの体積がおれを圧迫して圧し潰さないよう、黒田がドアに両腕をついておれを守ってくれているのが分かった。
「わ、悪い」
 もうほんの少し身じろぎしただけでも触れてしまいそうなほど近い距離で、黒田が小声で囁く。黒田の吐息がおれの唇を撫でた瞬間、身体の奥がかあっと熱くなるのを感じて脚がふらついてしまった。
「……ん」
 大丈夫、と言ったつもりだったのに、出てきたのは変に上擦った言葉にならない声だけだった。眼鏡の奥の黒田の目は、何かに驚いたようにじっとおれを見ている。

 ……どうしよう。
 黒田が、見てる。こんな触れそうなほど近い距離で、おれのこと見てる。

 ゆっくりと動き出した電車が揺れる度、脚がふらついて落ち着かない。自分の膝が小刻みに震えていることにその時初めて気が付いた。必死に踏ん張ってどうにか震えを抑え込もうとしてもちっとも収まってくれない。
 ガタンと車両全体が大きく揺れて、黒田の膝がおれの腿の内側に当たった。
「あっ……」
 咄嗟に後ろへ脚を引こうとしたけど、ドアに押しつけられて動けない。黒田も動けないのかおれの両腿の間に膝を押し入れたままの状態で、おれ達は微動だにせずじっとしていた。
「……」

 静まれ、静まれ、心臓。
 早く落ち着いてくれないと、こんなに近くじゃ黒田にも聞こえちゃうのに。
 異常な速さで強く速く脈打つ心臓は今にも胸を突き破って飛び出しそうだ。黒田の膝が触れている腿が熱くて、膝の震えもさっきから全然収まらない。腰の奥に熱が溜まっていくのが分かる。

 その時、電車が急ブレーキをかけて車両内の乗客たちが大きく体勢を崩した。ドミノ倒しのように大きな雪崩が黒田に圧し掛かり、ついに黒田の両腕だけでは耐え切れなくなったのか黒田は更におれとの距離を詰めてきた。
 ドアに背中を押しつけられて逃げ場のないおれに、黒田の身体がぎゅっと密着してくる。ドアについた黒田の両腕はひと目で分かるほどありったけの力を込めて、他の乗客たちから必死でおれを守ってくれている。目の前の黒田の顔が苦痛に歪んでいるのを見て、おれはあわてて黒田の腕に触れた。
「く、黒田。おれ平気だから、無理しないで……」
「いいから、動くな」
 すぐ耳元で聞こえた黒田の小さな声は、微かに震えている。声だけじゃない、一緒に漏れておれの耳に触れた吐息も、何かを必死に堪えてるみたいに小さく震えてるのが伝わってくる。
「……」

 熱い。
 腰の奥に溜まった熱の塊が、さっきからずっと痛いほど疼いている。
 電車が揺れる度に黒田の膝がおれの腿の内側を擦る。脚を閉じたくても、黒田の脚がそれを遮っている。膝の震えが脚全体に広がっていく。
 どうしよう。こんなに震えてるのが黒田にバレたら、絶対キモいって思われる。黒田に嫌な思いさせる。
 だけどもう自分の意思ではどうにもできなくて、おれはただ黒田に気付かれませんようにと祈ることしかできなかった。この脚の震えと異常な速さの動悸と、そして身体の奥の熱い疼きに、黒田が気付きませんようにと。

 電車がカーブを曲がり、車両内にまた大きな雪崩が起きる。横に傾いた黒田の肩に顔を押しつけられ、視界が暗くなった。
 黒田はもう何も言ってこなかったけど、すぐ横に立っている乗客の大きなリュックサックからおれを庇うようにおれの頭を腕で抱え込んだ。

 ……黒田の匂いがする。
 こんな近くでもほんの少ししか分からないほど微かな洗剤の香りと、黒田の汗の匂い。
 外は寒いのに電車の中は暖房が効いて暑いくらいで、よく見ると黒田の襟から覗く首筋にはうっすらと汗が滲んでいた。
 黒田の匂いなんて今まで一度も嗅いだことなかったのに、何故かこれは黒田の匂いだってちゃんと分かる。もしかして黒田も今、おれの匂いに気付いてるのかもしれない。
「……」
 ど、どうしよう。おれ今、汗臭くないかな? 昨夜ちゃんと風呂入ったし着てるものも洗濯してあるし、臭う要素はないと思うけど……実際に臭くなくても、自分が臭いかもって気にすれば気にするほど体臭が強くなるって、いつか母ちゃんが見てるテレビの健康番組で言ってたような。
 ああもう、今はそんなこと考えてる場合じゃないのに。

(……あ)
 後頭部をそっと撫でられる感覚に、肩がピクンと小さく跳ねる。
 ヤバい、今の黒田に気付かれたかな。
 黒田の腕と肩に抱え込まれて何も見えないけど、誰かがおれの頭をゆっくりと撫でているのは分かる。誰かっていうか、今のこの状況だと黒田しかいないんだけど。
 黒田の指が髪の隙間を潜るように下りてきて、髪の根元近くをくすぐるようにそっと撫でた。
「っ、ん……っ」
 勝手に喉の奥から声が漏れて、咄嗟に黒田の肩へぎゅっと顔を押しつけた。
 な、なんだ。なんだよ、今の。
 ちょっと頭撫でられただけなのに。いつも行ってる美容室で髪を洗ってもらう時だって、このくらいまで誰かの指が触ることなんて普通にあるのに。
 なんで黒田に触られると、こんなに変な感じになるんだよ。

 黒田はおれの髪を撫でるのをやめようとしない。おれの頭を抱え込んだまま、指の腹で何度も優しく髪を撫でている。
「……っ、ん……」
 その感覚に意識を集中させていると、どうしても勝手に声が漏れ出てしまう。周りの人たちに聞こえないよう、声を押し殺すのに必死だった。
 まるで髪の毛一本一本に感覚があるみたいだ。おれの髪が、身体中が、黒田を感じ取ろうとしてるみたいだ。
「……」
 おれから漏れ出る声にならない声に、黒田は気付いているんだろうか。分からないけど、おれが声を漏らす度に黒田はおれの耳元で小さく息を呑んでいるような気がする。それはおれの気のせいだったのかもしれないけど、おれは確かに黒田が何かを堪えるように呼吸を抑え込んでいるのを感じていた。
 どうしよう。腰の奥が熱い。絶対、黒田は気が付いてる。
 気持ち悪いと思われるって分かってても、もうこれ以上は黒田の指が触れる感触に堪えられない。もっと触られたら、もっと変な声が出そうで怖い。黒田に嫌われたくないのに。

「……具合、悪いのか」
 不意に耳元で囁かれた声に、ビクッと脚が震えてわずかにふらついた。すぐに黒田は膝でおれを支えてくれたけど、そのせいで黒田の膝がおれの両腿の間に更に深く入ってきてしまう。もう自分で脚を閉じることはできなかった。
「んん……」
 黒田の肩に顔を押しつけたまま、頭を小さく横に振る。黒田の顔が見られない。今のおれの顔を見たら、きっと黒田は気持ち悪いと思うはずだ。自分だってキモいって思うのに、こんな顔黒田に見られたくない。
「あと二駅で着くから、もう少しの辛抱だ」
 そう黒田が言い終えたタイミングで、次の駅に到着したことを告げるアナウンスが車内に流れた。ほっとして気が緩んだせいか、真っ直ぐ立てない脚がよろめいて黒田に体重を預けてしまう。それでも黒田はおれの身体をしっかりと受け止めてくれた。
「つらかったら、俺に寄りかかっていい」
「……ごめん」
 自分の掠れた声が何だか恥ずかしくて、黒田の腕の中で顔を下に向けた。
 反対側のドアが開き、降りる乗客が動き出すのに合わせて人の濁流が大きく流れ出す。その波の動きに揉まれて黒田が流されそうになったから、おれは咄嗟に両腕を黒田の腰に回してぎゅっとしがみついた。
「……っ」
 一ミリの隙間もないほど黒田と密着する。その時おれは、黒田が小さく息を呑む音を確かに聞いていた。