「うわー……ハマ先、またやってるよ」
「やべ、今日オレ下に変なTシャツ着てきちゃった。隠さねーと」
昇降口の前で二年の学年主任の浜内、通称ハマ先が、登校してきた男子生徒の一人の前に立ち塞がって何やらくどくどと説教している。その様子を見て、それまでおれの横で喋っていた川島と吉野はこそこそと声を潜めた。
まだ校門を通過したばかりのここからではハマ先が何を言っているのかは聞き取れないけど、捕まっている男子が着ているセーターを見るに、どうやら学校指定のものを着用していないことについて指導されているようだ。
「ついてねえなあ、あいつ。教室着いてから着れば何も言われないのに、よりによって外でハマ先に見つかるとは」
「一年なんじゃないの? まだそのへんのこと分かってないんだろ」
登校してきた他の生徒たちはハマ先とその男子を見ないようにして、そしらぬ顔で通り過ぎていく。下手に目を合わせてハマ先の指導の矛先が自分に向けられてはたまったものではない、説教を受けている哀れな男子は言うなれば他の奴らの生贄である。
おれ達もできるだけ目立たないようすごすごとハマ先の横を通り過ぎ、どうにか何事もなくその場をやり過ごすことに成功すると、ほっと安堵のため息をついてしまう。昇降口の下足箱の前で上履きに履き替えながら、学ランの下に着ている変なキャラクターTシャツを隠すため前部分をぴっちりと締めていた川島は、やれやれと言いながら襟を解放した。
「あそこまでやるかね、普通。この学校って変なとこでうるさいよなあ」
そう言うと、吉野はおれの顔に視線を留めた。いや、顔ではなく頭をまじまじと見ている。
「鈴原は大丈夫なの? その髪色。よくハマ先がスルーしたな」
「ああ、うん。入学する前に小さい頃の写真提出して、染めてませんって証明させられたから」
「ええ……本当にあるんだ、そういうの」
川島と吉野は乾いた笑いを浮かべつつも若干引いている。つられておれも同じように引きつった笑顔をしてしまった。
おれは生まれつき髪の色素が人より薄い。これは遺伝によるものなのだが、誰からの遺伝なのかは十七年生きた今もまだはっきりしていない。母ちゃんの爺ちゃん、つまりおれのひい爺ちゃんにあたる人が北欧かどこかの出身だったらしいけど、おれが生まれる前に亡くなっているし写真も残っていないから確かめる術はない。
これが綺麗な金髪とかだったら自慢のひとつにもできただろうが、おれの髪は鉄が錆びたような汚い赤茶色でお世辞にも綺麗とは言い難い色をしている。しかも中途半端な癖まであり細くて傷みやすく、自慢どころか特大のコンプレックスでしかない。
しかし、周りと違っているのは地毛の色だけで目の色や顔立ちは悲しいくらい一般的な日本人のそれだから、ぱっと見ただけでは髪を染めているように見える。この高校に入学した際、必要な諸々の書類と一緒に子供の頃の顔写真の提出を求められるまでは、まさかこの学校がこんなに生徒の身だしなみにうるさいとは思っていなかった。入った後で失敗したな、と思ったのはきっとおれだけではないはずだ。
「そういや、今週じゃね? 頭髪検査」
教室へと向かう廊下を歩いている間、吉野がふと思い出したようにぼやいた。
「うげ~、この間やったばっかじゃん……」
「うちの学校に頭髪検査があるって母ちゃんに言ったらさあ、今時そんな学校まだあるのかってビックリしてたよ。母ちゃんが高校生だった時もそんなのなかったって」
「ブラック校則ってやつ? やっぱ異常だよな、この学校」
隣で川島が肩をすくめて言った。
「令和の時代に服装指導だの頭髪検査だのやってんの、うちの学校くらいだよな。平成どころか昭和かよって」
「やることが時代錯誤なんだよなあ。軍隊でも育てる気かね」
喋りながら教室の後方のドアをガラリと開けた瞬間、ちょうど廊下へ出ようとそこに立っていた奴と危うくぶつかりそうになった。咄嗟にその場で足を止めても、そいつは微動だにせずそこに立ちはだかっている。
「あ……お、はよ」
とりあえず挨拶したのに、全くの無反応。眼鏡の奥でおれをじっと見下ろしている眼はどこまでも暗い。
(うわ~……こいつ苦手なんだよな)
学級委員長の黒田だ。テストの順位はいつも学年三位以内に入っていて、品行方正で隙がなく、いつも一人で本を読んでいるか勉強していて近寄りがたいことこの上ない。
そしてこの、真っ黒で全く癖のないサラサラの直毛。おれと同じ人間であることが疑わしいほど目を惹きつけるその髪質に、おれは密かに嫉妬と羨望を抱いていた。しかもおれより少しだけ背高いし。ほんのわずかな身長差ではあるけど、おれが見上げないと目が合わないってのが正直言ってめちゃくちゃ癪に障る。
「……」
黒田はふいとおれから目を逸らすと、無言でおれの横をすり抜けて教室を出て行った。完全に無視かよ、感じ悪い。
「委員長って、朝は機嫌悪いよなあ」
遠ざかっていく黒田の姿が階段を下りて見えなくなったのを確認してから、背後の川島が笑いながら小声で言った。
「そうか? 黒田っていっつもあんな感じだろ」
朝だろうが昼だろうが、あいつは常に仏頂面でムスッとしている。何がそんなに気に入らないのか知らないけど、クラスメイトに挨拶されたら返事くらいしろっての。
その時、朝のホームルーム開始が近いことを告げる予鈴が鳴り響き、おれ達はあわてて各自の席に着いた。
*
さっき吉野が言っていたとおり、頭髪検査は明日行われるらしい。ホームルームでそのことを担任が告げた途端、教室のあちこちから不満の声が上がった。
「はいはい、静かに。きちんとしてればすぐ終わるんだから、文句言わない」
不満を漏らす奴らを担任がなだめているのを聞き流して、おれはちらと窓側の斜め前の席に目を向けた。そこに座っている黒田は相変わらず我関せずとばかりにしらっとした態度で教科書を読んでいる。こいつには頭髪検査で引っ掛かるような要素なんてひとつもないから、もはやどうでもいいのだろう。
かく言うおれも、頭髪検査で何らかの指摘を受けたことは今まで一度もない。おれの地毛の色については既に証明写真を提出してあるし、髪の長さはハマ先に目をつけられない程度に調整してある。
(……アホくさ)
改めて考えると実に滑稽だ。文句言われるのが面倒だから、できるだけ目立たないように、そんなことばかりを気にして三年間も過ごしていたら、人の顔色ばかり窺うような大人になってしまうんじゃないだろうか。もっと伸び伸びと適当にやらせておいてもいい気がするんだけど。
黒田もきっと同じなんじゃないかな。アホくせーって、バカバカしいと思ってるんじゃないか。あいつって他人に興味ありませんよって顔しておいて、頭ん中じゃ自分以外全員バカだと思ってそうだし。
いやいや、いくら何でもおれはそこまで性格終わってない。その点においては、黒田よりもおれの方が人として上なんだろう。人間、勉強だけできればいいってもんじゃないしな、うん。
そんな空しいことを考えていたら、いつの間にかホームルームは終わっていたようだ。一時間目の授業の準備をしようとカバンに手を伸ばした時、おれの席のすぐ横で誰かが立ち止まった。顔を上げて、小さく息を呑む。黒田だ。
「……なに?」
黒田はさっきと全く同じ暗い眼で、じっとおれを見下ろしている。
「前髪、今日帰ったら切った方がいい。少し目にかかってる」
「は?」
「頭髪検査が明日あるってさっき先生が言ってただろ。聞いてなかったのか」
「いや、聞いてたけど」
何なんだ、一体。
もしかしておれ、黒田に前髪の長さを注意されてんのか? そんなこと、ハマ先や担任にだって指摘されたことないのに。
確かに、最後に髪を切ってからは少し間が空いている。時々前髪が目にかかることもあるけど、今のところそこまで邪魔だと感じていないからわざわざ前髪だけ整えるまでもないかと思っていたのに、黒田が指摘するほど伸びているんだろうか。いや、仮にそうだとしても。
「なんで黒田がわざわざそんなこと言ってくんの?」
妥当な指摘であったとしても、こいつに注意されたって事実自体が気に入らない。教師でもないくせに、なんでただのクラスメイトにそんなことを注意されなきゃいけないのか。
あまりにも不快感を露骨に出し過ぎたせいか、黒田は珍しく少しむっとしたように唇を尖らせた。どうやらおれの反抗的な態度が気に障ったらしい。
「鈴原の髪はただでさえ目立つから、何か言われる前にどうにかしろと忠告しただけだ」
「あーはいはい、残念でした。おれの頭は地毛だから、ちゃんと学校に証明写真も提出してますー」
「そんなことくらい知ってる。だからこそ、前髪が少し伸びてるなんてくだらない理由で目をつけられたりしたら損だろうと言ってるんだ」
おれの言うことにも顔色ひとつ変えず、黒田は淡々と言い放った。思いっきり嫌味っぽく言ってやったのに全く効いていないらしい。
「ま、まあ……そうだけど」
想定していなかった黒田の無反応っぷりにたじろいでしまう。
はあ、と小さくため息をつくと、黒田はあきれたように眼鏡の奥でまつ毛を伏せた。
「自分が人より目立っているのを少しは自覚しろ。危なっかしくて見てられない」
「はあ? 別におれ、黒田に心配してもらわなくても平気だし」
「そうか、それは悪かったな。今言ったことは忘れてくれ」
言いたいことだけ言い捨てると、黒田はいきなりおれに背を向けてすたすたと教室から出て行った。
その場に一人取り残されて、おれはただぽかんとしていた。
結局あいつ、何が言いたかったんだよ。おれの前髪が長いから切れって、それだけか?
いや、違う。危なっかしいって、確かにそう言ってた。おれが人より目立ってるからって。
「おい~鈴原、何やってんだよ。委員長にケンカ吹っかけんのやめろって」
おそらくずっとおれと黒田のやりとりを見ていたのだろう、背後から川島と吉野が近づいてくる。でもおれには、二人に落ち着いて受け答えできるほどの余裕など残っていなかった。
「なっ……んだよ、あいつ! くっそ嫌味ったらしい!」
握りしめた拳をどん、と力任せに机に叩きつける。周りにいた他のクラスメイト数人がびっくりしたようにこっちを向いたけど、それどころではない。
「落ち着けって。委員長はただ、前髪切った方がいいよって言いたかっただけだよ」
「だって今の聞いてただろ? めっちゃ感じ悪いの! ちょっと前髪伸びてたくらいであそこまで言うか? 普通に注意して終わればおれだって素直に聞いてたのに、わざと嫌味ったらしい言い方しやがって」
ギリギリと奥歯を食いしばって、必死に怒りを抑えつける。さっきの黒田のすかした顔が脳裏に甦ってきて余計にイライラしてきた。
「しょうがねーじゃん。委員長って、ああやって生徒の身だしなみにイチャモンつけんのが仕事なんだから」
「あいつが勝手にやってるだけだろ、他のクラスの委員長はそんなことやってないのに」
「超がつく真面目なんだよ、うちのクラスの委員長サマは」
「そうそう。下手に楯突くと先生に目ぇつけられんのは鈴原の方なんだから、大人しく聞いとけって」
川島と吉野の言っていることは分かる。だけど、さっきの黒田のあの言い方はいかがなものか。わざとおれの癪に障るような嫌味ったらしい言い方しやがって、もっと普通に言えないのかあいつは。
「まあ、でもさ。前髪は切っといた方がいいんでないの。ハマ先にうるさく言われんの嫌だろ」
「……分かってるよ」
結局は黒田の言ったとおりにしないといけないのかと思うとめちゃくちゃ不本意だけど、だからと言って下手に反抗したところでハマ先に目をつけられて損をするのはおれだ。
ああくそ、イライラする。さっさと綺麗さっぱり忘れたいのに、さっき黒田の言った嫌味が頭にこびりついて消えそうにない。
『そんなことくらい知ってる。だからこそ、前髪が少し伸びてるなんてくだらない理由で目をつけられたりしたら損だろうと言ってるんだ』
あれ、ちょっと待て。
なんであいつ、おれの髪が地毛だって知ってたんだろう? そんなこと黒田に話したことはないし、それどころかおれはあいつとまともに会話したことすらないのに。
(……ま、いっか)
きっと誰かに聞いたんだろう。
「やべ、今日オレ下に変なTシャツ着てきちゃった。隠さねーと」
昇降口の前で二年の学年主任の浜内、通称ハマ先が、登校してきた男子生徒の一人の前に立ち塞がって何やらくどくどと説教している。その様子を見て、それまでおれの横で喋っていた川島と吉野はこそこそと声を潜めた。
まだ校門を通過したばかりのここからではハマ先が何を言っているのかは聞き取れないけど、捕まっている男子が着ているセーターを見るに、どうやら学校指定のものを着用していないことについて指導されているようだ。
「ついてねえなあ、あいつ。教室着いてから着れば何も言われないのに、よりによって外でハマ先に見つかるとは」
「一年なんじゃないの? まだそのへんのこと分かってないんだろ」
登校してきた他の生徒たちはハマ先とその男子を見ないようにして、そしらぬ顔で通り過ぎていく。下手に目を合わせてハマ先の指導の矛先が自分に向けられてはたまったものではない、説教を受けている哀れな男子は言うなれば他の奴らの生贄である。
おれ達もできるだけ目立たないようすごすごとハマ先の横を通り過ぎ、どうにか何事もなくその場をやり過ごすことに成功すると、ほっと安堵のため息をついてしまう。昇降口の下足箱の前で上履きに履き替えながら、学ランの下に着ている変なキャラクターTシャツを隠すため前部分をぴっちりと締めていた川島は、やれやれと言いながら襟を解放した。
「あそこまでやるかね、普通。この学校って変なとこでうるさいよなあ」
そう言うと、吉野はおれの顔に視線を留めた。いや、顔ではなく頭をまじまじと見ている。
「鈴原は大丈夫なの? その髪色。よくハマ先がスルーしたな」
「ああ、うん。入学する前に小さい頃の写真提出して、染めてませんって証明させられたから」
「ええ……本当にあるんだ、そういうの」
川島と吉野は乾いた笑いを浮かべつつも若干引いている。つられておれも同じように引きつった笑顔をしてしまった。
おれは生まれつき髪の色素が人より薄い。これは遺伝によるものなのだが、誰からの遺伝なのかは十七年生きた今もまだはっきりしていない。母ちゃんの爺ちゃん、つまりおれのひい爺ちゃんにあたる人が北欧かどこかの出身だったらしいけど、おれが生まれる前に亡くなっているし写真も残っていないから確かめる術はない。
これが綺麗な金髪とかだったら自慢のひとつにもできただろうが、おれの髪は鉄が錆びたような汚い赤茶色でお世辞にも綺麗とは言い難い色をしている。しかも中途半端な癖まであり細くて傷みやすく、自慢どころか特大のコンプレックスでしかない。
しかし、周りと違っているのは地毛の色だけで目の色や顔立ちは悲しいくらい一般的な日本人のそれだから、ぱっと見ただけでは髪を染めているように見える。この高校に入学した際、必要な諸々の書類と一緒に子供の頃の顔写真の提出を求められるまでは、まさかこの学校がこんなに生徒の身だしなみにうるさいとは思っていなかった。入った後で失敗したな、と思ったのはきっとおれだけではないはずだ。
「そういや、今週じゃね? 頭髪検査」
教室へと向かう廊下を歩いている間、吉野がふと思い出したようにぼやいた。
「うげ~、この間やったばっかじゃん……」
「うちの学校に頭髪検査があるって母ちゃんに言ったらさあ、今時そんな学校まだあるのかってビックリしてたよ。母ちゃんが高校生だった時もそんなのなかったって」
「ブラック校則ってやつ? やっぱ異常だよな、この学校」
隣で川島が肩をすくめて言った。
「令和の時代に服装指導だの頭髪検査だのやってんの、うちの学校くらいだよな。平成どころか昭和かよって」
「やることが時代錯誤なんだよなあ。軍隊でも育てる気かね」
喋りながら教室の後方のドアをガラリと開けた瞬間、ちょうど廊下へ出ようとそこに立っていた奴と危うくぶつかりそうになった。咄嗟にその場で足を止めても、そいつは微動だにせずそこに立ちはだかっている。
「あ……お、はよ」
とりあえず挨拶したのに、全くの無反応。眼鏡の奥でおれをじっと見下ろしている眼はどこまでも暗い。
(うわ~……こいつ苦手なんだよな)
学級委員長の黒田だ。テストの順位はいつも学年三位以内に入っていて、品行方正で隙がなく、いつも一人で本を読んでいるか勉強していて近寄りがたいことこの上ない。
そしてこの、真っ黒で全く癖のないサラサラの直毛。おれと同じ人間であることが疑わしいほど目を惹きつけるその髪質に、おれは密かに嫉妬と羨望を抱いていた。しかもおれより少しだけ背高いし。ほんのわずかな身長差ではあるけど、おれが見上げないと目が合わないってのが正直言ってめちゃくちゃ癪に障る。
「……」
黒田はふいとおれから目を逸らすと、無言でおれの横をすり抜けて教室を出て行った。完全に無視かよ、感じ悪い。
「委員長って、朝は機嫌悪いよなあ」
遠ざかっていく黒田の姿が階段を下りて見えなくなったのを確認してから、背後の川島が笑いながら小声で言った。
「そうか? 黒田っていっつもあんな感じだろ」
朝だろうが昼だろうが、あいつは常に仏頂面でムスッとしている。何がそんなに気に入らないのか知らないけど、クラスメイトに挨拶されたら返事くらいしろっての。
その時、朝のホームルーム開始が近いことを告げる予鈴が鳴り響き、おれ達はあわてて各自の席に着いた。
*
さっき吉野が言っていたとおり、頭髪検査は明日行われるらしい。ホームルームでそのことを担任が告げた途端、教室のあちこちから不満の声が上がった。
「はいはい、静かに。きちんとしてればすぐ終わるんだから、文句言わない」
不満を漏らす奴らを担任がなだめているのを聞き流して、おれはちらと窓側の斜め前の席に目を向けた。そこに座っている黒田は相変わらず我関せずとばかりにしらっとした態度で教科書を読んでいる。こいつには頭髪検査で引っ掛かるような要素なんてひとつもないから、もはやどうでもいいのだろう。
かく言うおれも、頭髪検査で何らかの指摘を受けたことは今まで一度もない。おれの地毛の色については既に証明写真を提出してあるし、髪の長さはハマ先に目をつけられない程度に調整してある。
(……アホくさ)
改めて考えると実に滑稽だ。文句言われるのが面倒だから、できるだけ目立たないように、そんなことばかりを気にして三年間も過ごしていたら、人の顔色ばかり窺うような大人になってしまうんじゃないだろうか。もっと伸び伸びと適当にやらせておいてもいい気がするんだけど。
黒田もきっと同じなんじゃないかな。アホくせーって、バカバカしいと思ってるんじゃないか。あいつって他人に興味ありませんよって顔しておいて、頭ん中じゃ自分以外全員バカだと思ってそうだし。
いやいや、いくら何でもおれはそこまで性格終わってない。その点においては、黒田よりもおれの方が人として上なんだろう。人間、勉強だけできればいいってもんじゃないしな、うん。
そんな空しいことを考えていたら、いつの間にかホームルームは終わっていたようだ。一時間目の授業の準備をしようとカバンに手を伸ばした時、おれの席のすぐ横で誰かが立ち止まった。顔を上げて、小さく息を呑む。黒田だ。
「……なに?」
黒田はさっきと全く同じ暗い眼で、じっとおれを見下ろしている。
「前髪、今日帰ったら切った方がいい。少し目にかかってる」
「は?」
「頭髪検査が明日あるってさっき先生が言ってただろ。聞いてなかったのか」
「いや、聞いてたけど」
何なんだ、一体。
もしかしておれ、黒田に前髪の長さを注意されてんのか? そんなこと、ハマ先や担任にだって指摘されたことないのに。
確かに、最後に髪を切ってからは少し間が空いている。時々前髪が目にかかることもあるけど、今のところそこまで邪魔だと感じていないからわざわざ前髪だけ整えるまでもないかと思っていたのに、黒田が指摘するほど伸びているんだろうか。いや、仮にそうだとしても。
「なんで黒田がわざわざそんなこと言ってくんの?」
妥当な指摘であったとしても、こいつに注意されたって事実自体が気に入らない。教師でもないくせに、なんでただのクラスメイトにそんなことを注意されなきゃいけないのか。
あまりにも不快感を露骨に出し過ぎたせいか、黒田は珍しく少しむっとしたように唇を尖らせた。どうやらおれの反抗的な態度が気に障ったらしい。
「鈴原の髪はただでさえ目立つから、何か言われる前にどうにかしろと忠告しただけだ」
「あーはいはい、残念でした。おれの頭は地毛だから、ちゃんと学校に証明写真も提出してますー」
「そんなことくらい知ってる。だからこそ、前髪が少し伸びてるなんてくだらない理由で目をつけられたりしたら損だろうと言ってるんだ」
おれの言うことにも顔色ひとつ変えず、黒田は淡々と言い放った。思いっきり嫌味っぽく言ってやったのに全く効いていないらしい。
「ま、まあ……そうだけど」
想定していなかった黒田の無反応っぷりにたじろいでしまう。
はあ、と小さくため息をつくと、黒田はあきれたように眼鏡の奥でまつ毛を伏せた。
「自分が人より目立っているのを少しは自覚しろ。危なっかしくて見てられない」
「はあ? 別におれ、黒田に心配してもらわなくても平気だし」
「そうか、それは悪かったな。今言ったことは忘れてくれ」
言いたいことだけ言い捨てると、黒田はいきなりおれに背を向けてすたすたと教室から出て行った。
その場に一人取り残されて、おれはただぽかんとしていた。
結局あいつ、何が言いたかったんだよ。おれの前髪が長いから切れって、それだけか?
いや、違う。危なっかしいって、確かにそう言ってた。おれが人より目立ってるからって。
「おい~鈴原、何やってんだよ。委員長にケンカ吹っかけんのやめろって」
おそらくずっとおれと黒田のやりとりを見ていたのだろう、背後から川島と吉野が近づいてくる。でもおれには、二人に落ち着いて受け答えできるほどの余裕など残っていなかった。
「なっ……んだよ、あいつ! くっそ嫌味ったらしい!」
握りしめた拳をどん、と力任せに机に叩きつける。周りにいた他のクラスメイト数人がびっくりしたようにこっちを向いたけど、それどころではない。
「落ち着けって。委員長はただ、前髪切った方がいいよって言いたかっただけだよ」
「だって今の聞いてただろ? めっちゃ感じ悪いの! ちょっと前髪伸びてたくらいであそこまで言うか? 普通に注意して終わればおれだって素直に聞いてたのに、わざと嫌味ったらしい言い方しやがって」
ギリギリと奥歯を食いしばって、必死に怒りを抑えつける。さっきの黒田のすかした顔が脳裏に甦ってきて余計にイライラしてきた。
「しょうがねーじゃん。委員長って、ああやって生徒の身だしなみにイチャモンつけんのが仕事なんだから」
「あいつが勝手にやってるだけだろ、他のクラスの委員長はそんなことやってないのに」
「超がつく真面目なんだよ、うちのクラスの委員長サマは」
「そうそう。下手に楯突くと先生に目ぇつけられんのは鈴原の方なんだから、大人しく聞いとけって」
川島と吉野の言っていることは分かる。だけど、さっきの黒田のあの言い方はいかがなものか。わざとおれの癪に障るような嫌味ったらしい言い方しやがって、もっと普通に言えないのかあいつは。
「まあ、でもさ。前髪は切っといた方がいいんでないの。ハマ先にうるさく言われんの嫌だろ」
「……分かってるよ」
結局は黒田の言ったとおりにしないといけないのかと思うとめちゃくちゃ不本意だけど、だからと言って下手に反抗したところでハマ先に目をつけられて損をするのはおれだ。
ああくそ、イライラする。さっさと綺麗さっぱり忘れたいのに、さっき黒田の言った嫌味が頭にこびりついて消えそうにない。
『そんなことくらい知ってる。だからこそ、前髪が少し伸びてるなんてくだらない理由で目をつけられたりしたら損だろうと言ってるんだ』
あれ、ちょっと待て。
なんであいつ、おれの髪が地毛だって知ってたんだろう? そんなこと黒田に話したことはないし、それどころかおれはあいつとまともに会話したことすらないのに。
(……ま、いっか)
きっと誰かに聞いたんだろう。


