文化祭も終わり、学校の空気にもどこか静けさが戻ってきた十月の終わり。
肌に触れる風がひんやりして、吐く息が少しだけ白く見える朝だった。
「絆先輩っ」
「……おはよ、瑚珀」
名前を呼ぶ声だけで心が温かくなる。
相変わらず、先輩は毎朝、俺の家まで迎えに来てくれる。
先輩の家から学校までのルートのほうが絶対に早いのに、わざわざ時間を削って、眠い目をこすりながら、俺の家まで寄ってくれる。
「朝、寒くなったな……ほら、手」
差し出された先輩の手は、指先が少し冷たいのに、掌は安心するみたいに温かい。
繋いだだけで、笑みがこぼれた。
最初は気を遣って断ろうと思ってた。でも、一分でも一秒でも長く先輩と一緒にいられるなら……そんな誘惑に、俺はあっという間に負けた。
いつか来る別れ――先輩の卒業の日を思うほど、今を大事にしたくなる。
「なぁ、今日の弁当なに?」
「当ててみて下さい」
「肉がいいなー」
「ほぼ週五で肉じゃないですか?」
俺は先輩に迎えに来てもらうお礼として、お弁当を作っている。
もちろん本音は、お礼だけじゃなくて、先輩に自分の“好き”を味わってほしいからなんだけど。
校門の少し手前で、聞き慣れた声が飛んでくる。
「あ、キズと姫じゃん。おはよー」
茜先輩がギターケースを背負って、いつもの軽い笑顔で手を振ってきた。
仁先輩が伸びをしながらあくびをし、その後ろで康先輩がやけに長いパンを咥えたままついてくる。
「おはようございます」
最近“姫”は、ほぼ俺の正式名称みたいになってきていて、しかも“キズと姫”でひとまとめにされるのが当たり前になってきた。
不思議と嫌じゃないし、むしろ自然に受け入れている自分がいる。
「姫、これ見て。この前の文化祭のショート動画、まだバズってんの」
茜先輩がスマホを差し出す。画面の再生数の動きがえげつない。
「えっ、本当ですか? ……うわ、もう万バズじゃないですか……!」
信じられない数字に、喉がひゅっとなる。
嬉しいはずなのに、どこか胸の奥がそわそわして落ち着かない。
あんな華やかなステージに立った人たちが、もしかしたらますます遠くに行ってしまうんじゃないか――そんな気持ちが一瞬よぎる。
でも、横で九藤先輩が俺をチラッと見て、「まあ俺らは変わんねーけどな」と、何気ない声で言う。それだけで、不安がするりと薄れていくのを感じた。
あれから先輩たちは、「だりぃ」「腰いてぇ」「なんで俺らが花壇の土いじってんだよ」なんて文句を言い散らしながらも、ちゃんと花壇の土をほぐして肥料を混ぜたり、雑巾で廊下を端から端まで磨いたり、先生たちに「お、今日は真面目だな」と驚かれるレベルで、奉仕活動に取り組んでいた。
文化祭での大復活に味をしめたのか、それとも“あと五回で部活再開”という目標に本気になってきたのか、彼らなりのモチベーションに火がついているのが見えて、なんだかんだで微笑ましい。
……はず、だったけれど。
「あ、やっべぇ。今日、小テスト?」
「マジ? 俺なんもやってねーんだけど」
「バカ、死ねやまじで。あと五回なのに」
「部活再開する頃には、俺ら卒業してるかもな」
騒ぎながら階段を上がっていく四人の背中は、今日も今日とて問題児そのものだった。
……この人たち、本当に復活する気あるのかな。
でもなぜだかそのやりとりが可笑しくて、つい笑ってしまった。
せっかく奉仕活動でポイント稼いでるのに、そのぶんくだらないトラブルや遅刻で帳消しにしていくから、“あと五回”が永遠に遠い。
「でもさ、姫のSNSもフォロワー数、えぐいことになってるじゃん」
茜先輩がスマホをスッと差し出してくる。
画面のフォロワー欄が、数字のカウンターみたいにガンガン増えている。
「せ、先輩がタグ付したら、なんか更にガンッて増えました……」
そう、文化祭のあと。
俺は勇気を出して、自分の“好き”をちゃんと表に出そうって決めて、
スカート作りの動画や、ロリィタメイクの過程を少しずつ投稿し始めた。
最初はぜんぜん反応なんてなくて、“やっぱり見られるの怖いな……”って何度も投稿を消そうとして、そのたびに九藤先輩が「そのまんまでいいじゃん」と背中を押してくれた。
気づけばコメント欄に、
“僕も可愛いものが好きです”
“勇気が出ました。メイク参考にさせてください”
そんな言葉が届くようになって。誰かの背中を押せる存在になれるなんて、ほんの少し前の俺には想像もできなかった。
しかも、両親に相談して開設した小さなwebショップから、俺の作ったスカートを買ってくれる人まで現れて。
デザイナーになりたいという夢が、やっと現実の形を持ち始めていた。
「瑚珀、またあとでな」
階段の途中で、九藤先輩が軽く手をあげる。
その声だけで、少しだけ朝が明るくなる。
「はいっ」
二階へ向かう先輩の背中と、三階へ向かう俺の足音が、階段の踊り場で一瞬重なって、すぐにまた別々の方向へ広がっていった。
でも、不思議と寂しくなかった。次に会う約束が、ちゃんと心に灯っていたから。
*
「こはくーん、おはよ!」
「こっち来て〜! 今日もかわゆ♡ めっちゃ盛れてるじゃん!」
「この前のライブ動画もう十回見た!
今度さぁ、一緒に“可愛くてごめん♪”のショート動画撮ろうよ!」
教室のドアをくぐった瞬間、ぱあっと空気が明るくなる。
最初はロリィタなんて浮くと思ってたのに、今は誰ひとり驚かない。寧ろ、今日はどんなコーデでくるのか楽しみにしてくれてる。
年配の先生でさえ「お、今日も可愛いな上野」と慣れきってるから、本当に人間ってすごい。
「ねぇねぇ瑚珀、見て。昨日買ったリップなんだけど似合う?」
「可愛い〜! その色、ブルベ寄りだから……バッチリ合ってる!」
「え、すご! 何それ~プロじゃん!」
「じゃあさ、このチークどう? 私が使うとなんか似合わなくて……」
「イエベなら、こういうオレンジ系の方が似合うかなぁ……」
気づけば、女子たちが自然に円になって、俺の周りに集まって、ポーチを開けてワイワイ盛り上がってる。
こんなの、昔の俺からしたら絶対ありえなかった光景だ。
コスメの話なんてしたら引かれると思って、誰にも言えなかったのに。
「おっす上野、今度デートだから、香水選ぶの手伝ってくんね?」
男子まで混じってきて、ファッションの相談をしてくる。
“姫、今日のコーデそれか! いいじゃん!”とハイタッチしてくる奴もいる。
女子も男子も、もう関係ない。
布目みたいにキッチリ分かれてたはずの境界線は、いつの間にかほどけて消えて、気づけばみんなが同じテーブルに布を広げるみたいに、好きなものを真ん中に置いて語り合っていた。
こんな日常が来るなんて、あの頃は思いもしなかった。
“お前が好きなもの、もっと堂々と人に見せた方が良い”
あの言葉は、胸の奥で長い間しわくちゃになって眠っていた布を、そっと広げてくれた。
心の奥に閉じ込めていた色たちは、もう隠れるのをやめて、今はちゃんと外の光を受けてきらめいている。ミシンの針が軽やかに走るみたいに、俺の毎日も動き出した。
笑い声が渦を巻く教室の真ん中で、気づけば俺も自然に笑っていた。
意識しなくても、もう息苦しくない。
肩に入ってた余計な力も抜けて、今日もちゃんと、自分のすきな服を着て、生きられている。
そんな、あたたかくてちょっと胸がくすぐったい朝だった。
*
「うわ、よっしゃー!特大ハンバーグじゃん」
「あはは!絆先輩、子どもみたい。……そんなに喜んでくれるとは思いませんでした」
校内の喧騒が嘘のように消えた家庭科室。机の上には二つのお弁当、窓から差し込む陽が、室内を温かく染めている。椅子に座ったままの俺たちは、まるで世界から切り離されたみたいに、静かで、柔らかい時間の中にいた。
先輩は普段、お迎えやアルバイトで忙しい。こうして二人きりになれるのは昼休みの短い時間だけだから、俺はつい甘えてしまう。少しでも一緒に居られる瞬間を、全身で味わいたくなる。
「……瑚珀は? 食べねーの?」
「食べるより、こうしてたいです」
そう言うと、俺はそっと先輩に抱きつく。肩に額を寄せ、左腕に顔を埋める。先輩の体温、心臓の鼓動、柔らかい呼吸の振動が伝わってくる。
“好き”や“愛してる”という言葉だけじゃ足りない。言葉の外にある、温度や匂い、体の感覚までも全部、伝わればいいのに――そんなことを思いながら、じっとその温かさに浸る。
「週末デートだろ。飯は食わないとだめだ。体調崩されたら困るし」
先輩は笑いながらも、真剣に俺の体調を気にかける。優しいだけじゃない、俺をちゃんと支え、夢中に溺れるだけで終わらせない強さがある。その言葉に促されて、しぶしぶ少しだけ先輩から体を離すけれど、距離は数センチも変わらない。
お互いの呼吸や心拍がまだ近くで交差していて、離れたくない気持ちは、たぶん先輩にも伝わっている。視線が交わり、微笑みが返ってくる。
「先輩、あーんして」
俺がフォークで小さく切った唐揚げを差し出す。自然な笑顔で受け取ると、先輩の目がほんの少し潤んだように光って、俺を見る。胸が高鳴って、言葉にならない感情があふれそうになる。
「……うん、美味い」
「いつもと同じ味で作ってますよ」
「瑚珀の顔見ながら、食べるから美味いの」
先輩の言葉に、思わず頬が熱くなる。恥ずかしさと嬉しさが混ざって、笑いながらも自然と体が先輩に寄っていく。
食べ終わる頃には、先輩の手がさりげなく俺の手に触れていて、そのまま軽く握られる。互いの体温を感じながら、言葉にせずともわかる「一緒にいるだけでいい」という気持ち。
目が合うだけで、互いの気持ちがそっと交わる。こんな何気ない日常の一瞬が、二人の思い出として、いつまでも心に残るのだと実感する。
窓の外から差し込む柔らかな光が、優しく包み込む。温かく、甘く、そして少し切ない、かけがえのない午後のひとときだった。
肌に触れる風がひんやりして、吐く息が少しだけ白く見える朝だった。
「絆先輩っ」
「……おはよ、瑚珀」
名前を呼ぶ声だけで心が温かくなる。
相変わらず、先輩は毎朝、俺の家まで迎えに来てくれる。
先輩の家から学校までのルートのほうが絶対に早いのに、わざわざ時間を削って、眠い目をこすりながら、俺の家まで寄ってくれる。
「朝、寒くなったな……ほら、手」
差し出された先輩の手は、指先が少し冷たいのに、掌は安心するみたいに温かい。
繋いだだけで、笑みがこぼれた。
最初は気を遣って断ろうと思ってた。でも、一分でも一秒でも長く先輩と一緒にいられるなら……そんな誘惑に、俺はあっという間に負けた。
いつか来る別れ――先輩の卒業の日を思うほど、今を大事にしたくなる。
「なぁ、今日の弁当なに?」
「当ててみて下さい」
「肉がいいなー」
「ほぼ週五で肉じゃないですか?」
俺は先輩に迎えに来てもらうお礼として、お弁当を作っている。
もちろん本音は、お礼だけじゃなくて、先輩に自分の“好き”を味わってほしいからなんだけど。
校門の少し手前で、聞き慣れた声が飛んでくる。
「あ、キズと姫じゃん。おはよー」
茜先輩がギターケースを背負って、いつもの軽い笑顔で手を振ってきた。
仁先輩が伸びをしながらあくびをし、その後ろで康先輩がやけに長いパンを咥えたままついてくる。
「おはようございます」
最近“姫”は、ほぼ俺の正式名称みたいになってきていて、しかも“キズと姫”でひとまとめにされるのが当たり前になってきた。
不思議と嫌じゃないし、むしろ自然に受け入れている自分がいる。
「姫、これ見て。この前の文化祭のショート動画、まだバズってんの」
茜先輩がスマホを差し出す。画面の再生数の動きがえげつない。
「えっ、本当ですか? ……うわ、もう万バズじゃないですか……!」
信じられない数字に、喉がひゅっとなる。
嬉しいはずなのに、どこか胸の奥がそわそわして落ち着かない。
あんな華やかなステージに立った人たちが、もしかしたらますます遠くに行ってしまうんじゃないか――そんな気持ちが一瞬よぎる。
でも、横で九藤先輩が俺をチラッと見て、「まあ俺らは変わんねーけどな」と、何気ない声で言う。それだけで、不安がするりと薄れていくのを感じた。
あれから先輩たちは、「だりぃ」「腰いてぇ」「なんで俺らが花壇の土いじってんだよ」なんて文句を言い散らしながらも、ちゃんと花壇の土をほぐして肥料を混ぜたり、雑巾で廊下を端から端まで磨いたり、先生たちに「お、今日は真面目だな」と驚かれるレベルで、奉仕活動に取り組んでいた。
文化祭での大復活に味をしめたのか、それとも“あと五回で部活再開”という目標に本気になってきたのか、彼らなりのモチベーションに火がついているのが見えて、なんだかんだで微笑ましい。
……はず、だったけれど。
「あ、やっべぇ。今日、小テスト?」
「マジ? 俺なんもやってねーんだけど」
「バカ、死ねやまじで。あと五回なのに」
「部活再開する頃には、俺ら卒業してるかもな」
騒ぎながら階段を上がっていく四人の背中は、今日も今日とて問題児そのものだった。
……この人たち、本当に復活する気あるのかな。
でもなぜだかそのやりとりが可笑しくて、つい笑ってしまった。
せっかく奉仕活動でポイント稼いでるのに、そのぶんくだらないトラブルや遅刻で帳消しにしていくから、“あと五回”が永遠に遠い。
「でもさ、姫のSNSもフォロワー数、えぐいことになってるじゃん」
茜先輩がスマホをスッと差し出してくる。
画面のフォロワー欄が、数字のカウンターみたいにガンガン増えている。
「せ、先輩がタグ付したら、なんか更にガンッて増えました……」
そう、文化祭のあと。
俺は勇気を出して、自分の“好き”をちゃんと表に出そうって決めて、
スカート作りの動画や、ロリィタメイクの過程を少しずつ投稿し始めた。
最初はぜんぜん反応なんてなくて、“やっぱり見られるの怖いな……”って何度も投稿を消そうとして、そのたびに九藤先輩が「そのまんまでいいじゃん」と背中を押してくれた。
気づけばコメント欄に、
“僕も可愛いものが好きです”
“勇気が出ました。メイク参考にさせてください”
そんな言葉が届くようになって。誰かの背中を押せる存在になれるなんて、ほんの少し前の俺には想像もできなかった。
しかも、両親に相談して開設した小さなwebショップから、俺の作ったスカートを買ってくれる人まで現れて。
デザイナーになりたいという夢が、やっと現実の形を持ち始めていた。
「瑚珀、またあとでな」
階段の途中で、九藤先輩が軽く手をあげる。
その声だけで、少しだけ朝が明るくなる。
「はいっ」
二階へ向かう先輩の背中と、三階へ向かう俺の足音が、階段の踊り場で一瞬重なって、すぐにまた別々の方向へ広がっていった。
でも、不思議と寂しくなかった。次に会う約束が、ちゃんと心に灯っていたから。
*
「こはくーん、おはよ!」
「こっち来て〜! 今日もかわゆ♡ めっちゃ盛れてるじゃん!」
「この前のライブ動画もう十回見た!
今度さぁ、一緒に“可愛くてごめん♪”のショート動画撮ろうよ!」
教室のドアをくぐった瞬間、ぱあっと空気が明るくなる。
最初はロリィタなんて浮くと思ってたのに、今は誰ひとり驚かない。寧ろ、今日はどんなコーデでくるのか楽しみにしてくれてる。
年配の先生でさえ「お、今日も可愛いな上野」と慣れきってるから、本当に人間ってすごい。
「ねぇねぇ瑚珀、見て。昨日買ったリップなんだけど似合う?」
「可愛い〜! その色、ブルベ寄りだから……バッチリ合ってる!」
「え、すご! 何それ~プロじゃん!」
「じゃあさ、このチークどう? 私が使うとなんか似合わなくて……」
「イエベなら、こういうオレンジ系の方が似合うかなぁ……」
気づけば、女子たちが自然に円になって、俺の周りに集まって、ポーチを開けてワイワイ盛り上がってる。
こんなの、昔の俺からしたら絶対ありえなかった光景だ。
コスメの話なんてしたら引かれると思って、誰にも言えなかったのに。
「おっす上野、今度デートだから、香水選ぶの手伝ってくんね?」
男子まで混じってきて、ファッションの相談をしてくる。
“姫、今日のコーデそれか! いいじゃん!”とハイタッチしてくる奴もいる。
女子も男子も、もう関係ない。
布目みたいにキッチリ分かれてたはずの境界線は、いつの間にかほどけて消えて、気づけばみんなが同じテーブルに布を広げるみたいに、好きなものを真ん中に置いて語り合っていた。
こんな日常が来るなんて、あの頃は思いもしなかった。
“お前が好きなもの、もっと堂々と人に見せた方が良い”
あの言葉は、胸の奥で長い間しわくちゃになって眠っていた布を、そっと広げてくれた。
心の奥に閉じ込めていた色たちは、もう隠れるのをやめて、今はちゃんと外の光を受けてきらめいている。ミシンの針が軽やかに走るみたいに、俺の毎日も動き出した。
笑い声が渦を巻く教室の真ん中で、気づけば俺も自然に笑っていた。
意識しなくても、もう息苦しくない。
肩に入ってた余計な力も抜けて、今日もちゃんと、自分のすきな服を着て、生きられている。
そんな、あたたかくてちょっと胸がくすぐったい朝だった。
*
「うわ、よっしゃー!特大ハンバーグじゃん」
「あはは!絆先輩、子どもみたい。……そんなに喜んでくれるとは思いませんでした」
校内の喧騒が嘘のように消えた家庭科室。机の上には二つのお弁当、窓から差し込む陽が、室内を温かく染めている。椅子に座ったままの俺たちは、まるで世界から切り離されたみたいに、静かで、柔らかい時間の中にいた。
先輩は普段、お迎えやアルバイトで忙しい。こうして二人きりになれるのは昼休みの短い時間だけだから、俺はつい甘えてしまう。少しでも一緒に居られる瞬間を、全身で味わいたくなる。
「……瑚珀は? 食べねーの?」
「食べるより、こうしてたいです」
そう言うと、俺はそっと先輩に抱きつく。肩に額を寄せ、左腕に顔を埋める。先輩の体温、心臓の鼓動、柔らかい呼吸の振動が伝わってくる。
“好き”や“愛してる”という言葉だけじゃ足りない。言葉の外にある、温度や匂い、体の感覚までも全部、伝わればいいのに――そんなことを思いながら、じっとその温かさに浸る。
「週末デートだろ。飯は食わないとだめだ。体調崩されたら困るし」
先輩は笑いながらも、真剣に俺の体調を気にかける。優しいだけじゃない、俺をちゃんと支え、夢中に溺れるだけで終わらせない強さがある。その言葉に促されて、しぶしぶ少しだけ先輩から体を離すけれど、距離は数センチも変わらない。
お互いの呼吸や心拍がまだ近くで交差していて、離れたくない気持ちは、たぶん先輩にも伝わっている。視線が交わり、微笑みが返ってくる。
「先輩、あーんして」
俺がフォークで小さく切った唐揚げを差し出す。自然な笑顔で受け取ると、先輩の目がほんの少し潤んだように光って、俺を見る。胸が高鳴って、言葉にならない感情があふれそうになる。
「……うん、美味い」
「いつもと同じ味で作ってますよ」
「瑚珀の顔見ながら、食べるから美味いの」
先輩の言葉に、思わず頬が熱くなる。恥ずかしさと嬉しさが混ざって、笑いながらも自然と体が先輩に寄っていく。
食べ終わる頃には、先輩の手がさりげなく俺の手に触れていて、そのまま軽く握られる。互いの体温を感じながら、言葉にせずともわかる「一緒にいるだけでいい」という気持ち。
目が合うだけで、互いの気持ちがそっと交わる。こんな何気ない日常の一瞬が、二人の思い出として、いつまでも心に残るのだと実感する。
窓の外から差し込む柔らかな光が、優しく包み込む。温かく、甘く、そして少し切ない、かけがえのない午後のひとときだった。



