泥とフリル 〜学校一の不良の先輩が恋したのは、ロリィタ姿の俺でした〜

 家庭科室の扉が閉まった瞬間、静寂がふわりと落ちてきた。
 廊下まで響いていた歓声の余韻がようやく薄れ、代わりに、ふたりの息遣いだけが部屋に満ちる。

 九藤先輩は俺をそっと床に降ろすと、荒い呼吸のまま肩を上下させて笑った。
 汗で少し湿った額に散った髪、その下で綺麗に形の整った瞳が、俺だけを映している。
 先輩はふと俺の胸元に視線を落とし、曲がってしまったエプロンドレスのリボンに気づいた。

「……あ、皺ついた。悪い、走ったから……」

 大きな手が、ほんのり震えながら俺の胸を撫でるように整えてくる。
 布越しなのに、触れられた場所から甘いしびれがふわりと広がって、息が止まりそうだった。

「間に合ってよかった。
 文化祭、終わる前に……瑚珀の作品、一緒に観たかったから」

 その声は、さっき体育館で歌っていた人とは思えないほど静かで、やさしくて、まっすぐだ。

 時計を見ると、針は四時に近い。
 もう、文化祭は残り三十分しかないのに――
 この部屋の空気だけは、時間を忘れたみたいに甘かった。

 先輩はピンドレスの前で足を止め、俺が書いた制作コメントを一行一行たどる。
 長いまつ毛が影を落とし、真剣に読んでいる横顔が信じられないほど綺麗で、胸の奥がきゅっと縮んだ。

「……九藤先輩」

 名前を呼んだ瞬間、自分でも驚くくらい、もう限界だった。

 どうしようもない気持ちが堰を切ったみたいに溢れて――
 俺は、気づいたら後ろから先輩の腰にギュッと抱きついていた。

 シャツ越しに触れる先輩の体温が、熱い。
 抱え込んだ腕の中で、呼吸の動きさえ感じられる。
 その全部が、愛しくて、愛しくて仕方なかった。

「九藤先輩が、何回も背中を押してくれたおかげで言えました」

 言葉がふるえる。
 額を先輩の背中にそっと押し当てると、胸がぎゅうっと痛いほど満たされる。

「多分、先輩に出会わずに居たらきっと……高校も、これから先も、自分の好きなものを隠して、生きてたんじゃないかって思います」

 だからこそ、俺の人生を変えてくれた九藤先輩が好きだ。
 たまらなく、どうしようもなく、大好きだ。
 その想いが、胸の奥で溶けて、全身を温める。

「……マジで、お前頑固だもんな。
 可愛いもの好きなくせに、そういう所は男らしいっつーか」

 先輩はゆっくりと振り返り、俺の手を外させることなく、そのままぎゅっと抱きしめ返してくれた。

 大きな腕に包まれ、俺の体がすっぽり収まる。
 先輩の鼓動が胸板越しに伝わってきて、俺の鼓動と重なるように跳ねる。

「そういうところも含めて、好きになってんだけどさ」

 そして先輩は、少し屈んで――
 肩口に、そっと顔を寄せた。

 頬が触れそうで触れない、甘く焦れる距離。
 息がかかるたび、全身が熱を帯びていく。

「俺、もう自分を隠したりしないです。今日から、ちゃんと胸を張って――“自分のすきなじぶん”で、学校に来ます」

 自分の声なのに、少し震えていた。
 でも、その震えすら嘘じゃなくて、ちゃんと本気だと思えた。

 九藤先輩は、そんな俺をまるごと受け止めるみたいに、「最高じゃん」と笑った。

 その一言だけで、心の奥がじゅわっとあったかくなる。
 それから、そっと俺の頭に手が触れた。優しい指先で髪を撫でるように、ゆっくり、ゆっくり。

「これから一緒に居る時、隠し事はもうナシだかんな。
 ……嫌なことも、悲しいことも、俺は瑚珀と一緒に向き合いたいって思ってるから。
 でもそんな気持ちになる暇ないくらい、今は……瑚珀のこと、幸せにしたいって思ってる」

 不意打ちみたいにまっすぐで、どこにも逃げ場のない言葉。
 胸の奥が一気に熱くなって、頬がみるみる赤くなるのが自分でもわかる。
 体のどこもかしこも、触れてるところ全部が、先輩の言葉でぽうっと灯るみたいだった。

「九藤先輩……」

 名前を呼んだ瞬間、胸の奥にある“したいこと”が、自然に形になった。
 そっと――ほんとにそっと、先輩に顔を近づけた。

 でも、ほんの数センチのところで止まる。
 身長差が、意地悪なくらい憎らしい。

 届かない。

 そのことに気づいた途端、顔がまた熱くなって、恥ずかしくて視線を落としそうになった。
 けれど先輩はふっと笑うと、俺を再び抱き上げ、調理実習台の端に俺を座らせた。
 先輩も屈んで、視線を合わせる高さにしてくれる。

「……瑚珀」

 名前を呼ばれるだけで、背中がびくっと震える。
 次の瞬間、大きな手が俺の顎に触れた。

 指先は熱くて、優しくて、逃げようと思えば逃げられるくらいの力なのに――
 逃げるなんて、思いもしなかった。

 そのまま上を向かされて、瞼が自然に落ちた。

 心臓がどくん、と跳ねる。
 呼吸の仕方を忘れたみたいに、胸の奥がぎゅっと痛いほど甘くなる。

 そして――

 先輩の唇が、そっと触れた。

 軽く、短くて、それなのに世界が一瞬でほどけてしまいそうなほど甘くて。
 触れた場所から、じわじわと優しい熱が広がる。

 初めてのキスは、
 本当に、ほんとうに
 ――宝物みたいに、キラキラしていて、甘かった。