後夜祭が始まる、三時少し前。
校舎は、早くもざわめきに包まれていた。生徒たちは浮き足立ち、クラスのグループや友達同士で笑いながら、そろそろと体育館へ移動していく。
そのざわめきの中、校舎に流れていた流行のBGMが、突如ブツッと途切れた。
皆が一斉にスピーカーを見つめる。するとゴソゴソという音がして――聞き覚えのある声が校舎中に響いた。
「みなさんこんにちはー!文化祭、たのしんでるぅ~?」
茜先輩の声だ。
その声に、教室でも廊下でも、隣のクラスからでも「うぇーい!」と明るい声が返る。
スピーカー越しに聞こえてくる声は、生のライブの前触れのようで、胸の奥がじんわりと高鳴る。
「今日だけ限定復活、軽音楽部の“BLACK SURGE”です。ステージ一回限り、二曲のみの披露でーす!全員イケメンの奇跡のバンドを見逃すなぁー!」
その後ろで、加藤先生の声が割り込む。
「おいコラ、ちょっと奉仕活動したからって調子に乗るなよ! いますぐ消せ!」
突っ込みに、生徒全員が爆笑の渦。笑いの余韻が冷めやらぬまま、クラスの男子たちも「上野、一緒に行こうぜー!」と声を掛けてくれた。
体育館のカーテンはすべて閉め切られていた。
外の光が、ひらりと揺れる布の隙間からわずかに入り込み、薄暗い室内にそっと風を送り込んでいる。
先生たちは体育館の後方に、生徒はステージ近くの前方に集まっていた。
歓声やざわめきが渦を巻く中、「九藤先輩!」「仁先輩ー!」と、遠くから黄色い悲鳴がわき上がる。
先輩たちの登場を、誰もが今か今かと待っているのが伝わってきた。
「ぶっちゃけさ、怖いけど、九藤先輩たちってカッコイイよね」
「分かる。なんか危ないのに惹きつけられるって感じ」
「学校でバンド演奏するの、一年ぶりらしいよ。何やるんだろ?」
左右から飛んでくるそんな会話が耳に届くと同時に、すっとステージの幕が上がった。
中央に立つのは九藤先輩。
マイクにそっと手を添え、客席を静かに見渡す。
学校で見せる普段の表情とはまるで違った。鋭くて、それなのにどこか落ち着いていて――その立ち姿だけで、体育館の空気が一瞬で引き締まる。
「それでは聞いてください――“BABY BABY”」
低く、でも確かな力を秘めた声。
そのひと言をきっかけに、ざわついていた体育館が一瞬にして静まり返る。
まるで空気が音を吸い込んだみたいに。
そして、演奏が始まった。
九藤先輩がマイクへと向かう。
歌声は強くて、なのにどこか繊細で――体育館の隅々まで染み渡っていく。
俺は、会場の一番後ろ。中央あたりに立ったまま、ただ先輩を見つめていた。
ギターを弾く指先。
肩でわずかに揺れるストラップ。
リズムに合わせて身体が軽く揺れる動き。
そのすべてから目を離せなくて。
呼吸を置き忘れたみたいに、ただ見入っていた。
目の前の先輩が、全力で音楽と向き合い、輝いている。その瞬間、心の底から震えるような感覚が湧き上がる。
演奏が盛り上がるごとに、体育館の空気も熱を帯び、生徒たちの歓声も高まる。だけど、俺には、周りの声よりも先輩の歌声が鮮明に届く。
それはまるで、世界の中心に先輩がいて、俺の心だけに直接歌いかけてくれるかのようだった。
二曲目のラストコードが余韻を引きずりながら空気に溶けていく。その一瞬だけ、体育館は奇跡みたいに静かだった。けれど次の瞬間、一気に興奮が爆発した。
「うおおおおお!!」
「最高ーー!!!」
耳を刺すほどの、全校生徒の歓声と拍手。
床が震える。胸も震える。先輩たちは、嵐の真ん中に立たされたみたいに汗だくで息を弾ませていた。
ステージの照明に照らされた九藤先輩の肌は、汗が光っていて、髪は首筋に張りついているのに、もう、信じられないくらいカッコいい。
仁先輩はアンプの前でギターを抱え、肩で息をしながらも余裕の笑みを浮かべ、茜先輩は顔を紅潮させて満面の笑み。康先輩はドラムスティックをくるりと回しながら、「やっべぇ……楽しかった……」とぼそっと呟く声が、マイクを通して聞こえてきた。
観客席の最前列では、女子たちが口元を押さえながらジャンプし、男子たちも肩を組んで叫んでいた。体育館の空気が、熱で揺らぐように見える。
アンコールの声はすぐに波になり、あっという間に体育館全体を飲み込む。
「アンコール!アンコール!」
先生たちでさえ苦笑しながら手を叩いている。
そんな熱狂の中、康先輩がマイクに身を寄せて、肩で息をしながら言った。
「すんません、一日しか奉仕活動してないんで。これ以上やったらガチで先生にキレられます」
再び爆笑。ブーイング。歓声。その騒ぎの中で――ふっと空気が変わった。
九藤先輩が、汗のついた前髪をかき上げながら、静かにマイクへ歩いていったのだ。
さっきまでの笑顔とは違う。呼吸を整えて、覚悟を決めるようにまぶたを伏せ、そして顔を上げる。
体育館のざわめきが、波が引くようにすっと静まる。
「あれ……?」
「何するの?」
前列の女子がそっと手を胸に当てる。
「すいません。あと少しだけ、この場を借りて伝えたいことがあります」
その声音がやけに澄んでいて、体育館の壁まで震わせるようだった。
茜先輩は一瞬目を丸くしたが、すぐに何かを悟ったようにギターを受け取って先輩の背中を押す。
九藤先輩はゆっくりとマイクをスタンドから外し、深く息を吸う。客席の熱気ごと吸い込んでしまうみたいに。それから、まっすぐ前を見据えた。
「告白したい人がいます」
九藤先輩と、目が合う。
次の瞬間、悲鳴、歓声、怒号、笑い声。体育館が、文字通り揺れた。
「きゃああああああああ!!!」
「ウソでしょ!?」
九藤先輩は、そんな嵐の中心で、汗に濡れた呼吸のまま、まっすぐ前だけを見ていた。
「上野瑚珀」
沸き立った体育館は、まるで台風の目を見つけたように、ざわざわと興奮しつつも一周して――俺の名前を先輩が読んだ途端に、静まった。
息を呑む音さえ聞こえそうなほどの静寂。
その中で、ステージから降りてくる九藤先輩の足音だけが響く。
生徒たちが左右に避け、通路が自然と開いた。
そして先輩は、俺の目の前に立ち――
そっと膝をついた。
「瑚珀」
「せ、先輩……」
歓声も息も止まる。体育館の空気が、甘い緊張で満たされていく。
「……瑚珀の、自分の好きなものに囲まれてる時の笑顔が好き。
まっすぐで、一生懸命で、たまに頑固なところも、すげぇ好き。
四六時中、お前のこと考えてるくらい、夢中になってる」
汗で濡れた額も、激しく動いた胸の上下も、そのまま。
それでも瞳だけは、静かでまっすぐで、俺だけを射抜いていた。
「俺を、瑚珀の彼氏にして?」
世界の輪郭がふっとぼけて、音が遠のく。
先輩の言葉だけが、胸の一番奥にそっと落ちていく。
返事をしなければいけないとわかっているのに、目頭も、喉も、胸の奥も、締め付けられて。熱すぎて言葉が出ない。
「……は、はい……」
ようやく絞り出した声は震えていた。
でも――その途端、体育館は爆発した。
「きゃああああああ!!!」
「やばっ!青春すぎん!?」
「動画撮れた!後で送る!!」
拍手と叫びと笑い声が渦になって押し寄せ、スマホを掲げる生徒たちの光が瞬く。
けれど、その真ん中で、俺と先輩だけは別の時間を生きているようだった。
九藤先輩は立ち上がると、迷うことなく俺の腰に手を回し――
「っえ、ちょっ……!?」
「ちゃんと掴まっとけよ。家庭科室までダッシュするから」
横抱きに持ち上げられた。体育館が一斉に沸く。
「ぎゃああああ!!」
「九藤先輩かっけぇぇ!!!」
笑い声と悲鳴のシャワーの中、九藤先輩は余裕の笑みを浮かべ、ひょいと俺を抱えたまま走り出す。
廊下へ出た瞬間、ひんやりした空気が体を撫でた。
体育館の熱気から急に抜け出したせいで、肌に触れる風が涼しい。
ドンッ、ドンッと響く床の音。
それに合わせて、俺の心臓も跳ねる。
先輩の腕はしっかりしていて、揺れるたびに抱きかかえられている実感が全身に広がる。
その横顔は、体育館での熱がまだ冷めていなくて、赤くて、汗が光っていて。
さっきまでステージで叫ぶように歌っていた先輩のあつい体温が、そのまま俺を包んでいた。
逃げるように駆けるのに、怖くない。
その世界は甘くて、熱くて、首筋に回した腕すら、くすぐったいほど幸せだった。
校舎は、早くもざわめきに包まれていた。生徒たちは浮き足立ち、クラスのグループや友達同士で笑いながら、そろそろと体育館へ移動していく。
そのざわめきの中、校舎に流れていた流行のBGMが、突如ブツッと途切れた。
皆が一斉にスピーカーを見つめる。するとゴソゴソという音がして――聞き覚えのある声が校舎中に響いた。
「みなさんこんにちはー!文化祭、たのしんでるぅ~?」
茜先輩の声だ。
その声に、教室でも廊下でも、隣のクラスからでも「うぇーい!」と明るい声が返る。
スピーカー越しに聞こえてくる声は、生のライブの前触れのようで、胸の奥がじんわりと高鳴る。
「今日だけ限定復活、軽音楽部の“BLACK SURGE”です。ステージ一回限り、二曲のみの披露でーす!全員イケメンの奇跡のバンドを見逃すなぁー!」
その後ろで、加藤先生の声が割り込む。
「おいコラ、ちょっと奉仕活動したからって調子に乗るなよ! いますぐ消せ!」
突っ込みに、生徒全員が爆笑の渦。笑いの余韻が冷めやらぬまま、クラスの男子たちも「上野、一緒に行こうぜー!」と声を掛けてくれた。
体育館のカーテンはすべて閉め切られていた。
外の光が、ひらりと揺れる布の隙間からわずかに入り込み、薄暗い室内にそっと風を送り込んでいる。
先生たちは体育館の後方に、生徒はステージ近くの前方に集まっていた。
歓声やざわめきが渦を巻く中、「九藤先輩!」「仁先輩ー!」と、遠くから黄色い悲鳴がわき上がる。
先輩たちの登場を、誰もが今か今かと待っているのが伝わってきた。
「ぶっちゃけさ、怖いけど、九藤先輩たちってカッコイイよね」
「分かる。なんか危ないのに惹きつけられるって感じ」
「学校でバンド演奏するの、一年ぶりらしいよ。何やるんだろ?」
左右から飛んでくるそんな会話が耳に届くと同時に、すっとステージの幕が上がった。
中央に立つのは九藤先輩。
マイクにそっと手を添え、客席を静かに見渡す。
学校で見せる普段の表情とはまるで違った。鋭くて、それなのにどこか落ち着いていて――その立ち姿だけで、体育館の空気が一瞬で引き締まる。
「それでは聞いてください――“BABY BABY”」
低く、でも確かな力を秘めた声。
そのひと言をきっかけに、ざわついていた体育館が一瞬にして静まり返る。
まるで空気が音を吸い込んだみたいに。
そして、演奏が始まった。
九藤先輩がマイクへと向かう。
歌声は強くて、なのにどこか繊細で――体育館の隅々まで染み渡っていく。
俺は、会場の一番後ろ。中央あたりに立ったまま、ただ先輩を見つめていた。
ギターを弾く指先。
肩でわずかに揺れるストラップ。
リズムに合わせて身体が軽く揺れる動き。
そのすべてから目を離せなくて。
呼吸を置き忘れたみたいに、ただ見入っていた。
目の前の先輩が、全力で音楽と向き合い、輝いている。その瞬間、心の底から震えるような感覚が湧き上がる。
演奏が盛り上がるごとに、体育館の空気も熱を帯び、生徒たちの歓声も高まる。だけど、俺には、周りの声よりも先輩の歌声が鮮明に届く。
それはまるで、世界の中心に先輩がいて、俺の心だけに直接歌いかけてくれるかのようだった。
二曲目のラストコードが余韻を引きずりながら空気に溶けていく。その一瞬だけ、体育館は奇跡みたいに静かだった。けれど次の瞬間、一気に興奮が爆発した。
「うおおおおお!!」
「最高ーー!!!」
耳を刺すほどの、全校生徒の歓声と拍手。
床が震える。胸も震える。先輩たちは、嵐の真ん中に立たされたみたいに汗だくで息を弾ませていた。
ステージの照明に照らされた九藤先輩の肌は、汗が光っていて、髪は首筋に張りついているのに、もう、信じられないくらいカッコいい。
仁先輩はアンプの前でギターを抱え、肩で息をしながらも余裕の笑みを浮かべ、茜先輩は顔を紅潮させて満面の笑み。康先輩はドラムスティックをくるりと回しながら、「やっべぇ……楽しかった……」とぼそっと呟く声が、マイクを通して聞こえてきた。
観客席の最前列では、女子たちが口元を押さえながらジャンプし、男子たちも肩を組んで叫んでいた。体育館の空気が、熱で揺らぐように見える。
アンコールの声はすぐに波になり、あっという間に体育館全体を飲み込む。
「アンコール!アンコール!」
先生たちでさえ苦笑しながら手を叩いている。
そんな熱狂の中、康先輩がマイクに身を寄せて、肩で息をしながら言った。
「すんません、一日しか奉仕活動してないんで。これ以上やったらガチで先生にキレられます」
再び爆笑。ブーイング。歓声。その騒ぎの中で――ふっと空気が変わった。
九藤先輩が、汗のついた前髪をかき上げながら、静かにマイクへ歩いていったのだ。
さっきまでの笑顔とは違う。呼吸を整えて、覚悟を決めるようにまぶたを伏せ、そして顔を上げる。
体育館のざわめきが、波が引くようにすっと静まる。
「あれ……?」
「何するの?」
前列の女子がそっと手を胸に当てる。
「すいません。あと少しだけ、この場を借りて伝えたいことがあります」
その声音がやけに澄んでいて、体育館の壁まで震わせるようだった。
茜先輩は一瞬目を丸くしたが、すぐに何かを悟ったようにギターを受け取って先輩の背中を押す。
九藤先輩はゆっくりとマイクをスタンドから外し、深く息を吸う。客席の熱気ごと吸い込んでしまうみたいに。それから、まっすぐ前を見据えた。
「告白したい人がいます」
九藤先輩と、目が合う。
次の瞬間、悲鳴、歓声、怒号、笑い声。体育館が、文字通り揺れた。
「きゃああああああああ!!!」
「ウソでしょ!?」
九藤先輩は、そんな嵐の中心で、汗に濡れた呼吸のまま、まっすぐ前だけを見ていた。
「上野瑚珀」
沸き立った体育館は、まるで台風の目を見つけたように、ざわざわと興奮しつつも一周して――俺の名前を先輩が読んだ途端に、静まった。
息を呑む音さえ聞こえそうなほどの静寂。
その中で、ステージから降りてくる九藤先輩の足音だけが響く。
生徒たちが左右に避け、通路が自然と開いた。
そして先輩は、俺の目の前に立ち――
そっと膝をついた。
「瑚珀」
「せ、先輩……」
歓声も息も止まる。体育館の空気が、甘い緊張で満たされていく。
「……瑚珀の、自分の好きなものに囲まれてる時の笑顔が好き。
まっすぐで、一生懸命で、たまに頑固なところも、すげぇ好き。
四六時中、お前のこと考えてるくらい、夢中になってる」
汗で濡れた額も、激しく動いた胸の上下も、そのまま。
それでも瞳だけは、静かでまっすぐで、俺だけを射抜いていた。
「俺を、瑚珀の彼氏にして?」
世界の輪郭がふっとぼけて、音が遠のく。
先輩の言葉だけが、胸の一番奥にそっと落ちていく。
返事をしなければいけないとわかっているのに、目頭も、喉も、胸の奥も、締め付けられて。熱すぎて言葉が出ない。
「……は、はい……」
ようやく絞り出した声は震えていた。
でも――その途端、体育館は爆発した。
「きゃああああああ!!!」
「やばっ!青春すぎん!?」
「動画撮れた!後で送る!!」
拍手と叫びと笑い声が渦になって押し寄せ、スマホを掲げる生徒たちの光が瞬く。
けれど、その真ん中で、俺と先輩だけは別の時間を生きているようだった。
九藤先輩は立ち上がると、迷うことなく俺の腰に手を回し――
「っえ、ちょっ……!?」
「ちゃんと掴まっとけよ。家庭科室までダッシュするから」
横抱きに持ち上げられた。体育館が一斉に沸く。
「ぎゃああああ!!」
「九藤先輩かっけぇぇ!!!」
笑い声と悲鳴のシャワーの中、九藤先輩は余裕の笑みを浮かべ、ひょいと俺を抱えたまま走り出す。
廊下へ出た瞬間、ひんやりした空気が体を撫でた。
体育館の熱気から急に抜け出したせいで、肌に触れる風が涼しい。
ドンッ、ドンッと響く床の音。
それに合わせて、俺の心臓も跳ねる。
先輩の腕はしっかりしていて、揺れるたびに抱きかかえられている実感が全身に広がる。
その横顔は、体育館での熱がまだ冷めていなくて、赤くて、汗が光っていて。
さっきまでステージで叫ぶように歌っていた先輩のあつい体温が、そのまま俺を包んでいた。
逃げるように駆けるのに、怖くない。
その世界は甘くて、熱くて、首筋に回した腕すら、くすぐったいほど幸せだった。



