文化祭当日。
テーマは “Dreams Start Here”――「私の夢を形にする日」だった。
そのスローガンに沿って、生徒ひとりひとりが、自分の夢や思いを何らかの形で発表することになっている。
教室の廊下には手作りのポスターや装飾が並び、非日常のちょっと浮足立った空気が漂っていた。
けれど、その明るい雰囲気とは裏腹に、胸の奥のざわつきは一週間ずっと消えていなかった。
あの電話のあと――俺と先輩は、完全に連絡を絶ったわけじゃなかった。
むしろ先輩は、前より少なくなったとはいえ、いつもの話題を装った短いメッセージを送ってきてくれる。
“來那がスカート洗濯拒否してる”
“茜がまた変なもん作ってる”
そんな、いかにも“普通”を保とうとするような内容ばかり。それに俺も短い言葉で返す。
でも、どちらも肝心なところには踏み込まないままだった。
伝えたい言葉は山ほどあるのに、どれも喉の奥で固まって出てこない。
学校の中庭ですれ違っても、俺は真っ先に目をそらした。
先輩の横顔を盗み見るようにして、一瞬だけ視線が合うと、あっちも困ったように目線を外す。
その様子を、茜先輩がやたら鋭い目つきで見ていて、
「え、喧嘩? ねぇ喧嘩?」
と無神経に騒ぎ、康先輩が「言うな馬鹿」と頭を小突いて止める――そんな場面も何度かあった。
笑って流したふりをしても、胸の奥の重たさは誤魔化せなかった。
そして、今日。
家庭科室の奥、被服準備室。
いつもは裁縫部の備品が雑然と置かれているだけの狭い部屋が、今日は妙に静かで広く感じる。
俺はそっと鏡を取り出し、机の上に立てた。
誰にも見せたことのない“普段じゃない自分”を、ここで最終確認するために。
切りそろえられた前髪の下に、いつもより少し太めにアイライナーを引く。
瞳の輪郭を強調するように、慎重に。
ロングタイプのマスカラをまつ毛の根元から丁寧に塗り、まつ毛一本一本に奥行きを持たせる。
コーラルピンクのチークをブラシでぽんぽんと頬にのせると、自然な血色が加わった。
最後にピンクベージュのグロスを軽く重ね、光を反射させるように仕上げた。
鏡越しに自分の姿を見つめる。
今まで学校で過ごしてきた自分とは、まるで別人だ。
胸の奥がざわざわと落ち着かない。
心臓の鼓動が早くなりすぎて、まるで鼓膜に直接響いてるみたいに感じる。
正直、今すぐ逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
この日のために選んだのは、自分で心を込めて作った花柄のスカート。
小さなラベンダーやピンク、ブルーの花模様が、春の庭を思わせるように優しく散らされている。
足元は白いソックスとこげ茶のストラップシューズ。
どの角度から見ても、全体のバランスが崩れないように気を配った。
ダークブラウンのウィッグを整え、白いレースのヘッドドレスをそっと置く。
深呼吸を一つすると、肩の力が少し抜けた。
やるならとことん、最初の時点で全力を出してしまおう――そう自分に言い聞かせた。
「……出来た」
鏡の向こうの自分をじっと見つめる。
スカートの裾をそっと指先で整えながら、胸の奥がきゅっと縮まった。
怖い。正直に言えば、まだ足は震えてる。
この姿で廊下を歩けば、驚かれるかもしれない。
笑われるかもしれない。
でも――それでも。
ここまで積み重ねてきた時間を、嘘にしたくなかった。
針を落とすたびに願ってきた「いつか」を、今日だけは逃したくなかった。
この姿は、“なりたい自分”に、やっと針を通せた証だ。
小さく息を吸って、胸の奥の揺れを静かに縫い留めるように呟く。
――自分の夢を、ちゃんと見せるんだ。
深呼吸をもう一度。
震える手で、それでもしっかりと扉のノブを握った。
そして、ゆっくりと――
ありのままの自分で、初めて世界に踏み出した。
*
渡り廊下を歩いて、自分のクラスへ向かう間、それほど視線は気にならなかった。
普段から人目に晒されることには慣れているし、今日の格好も「文化祭の衣装なのかな?」といった程度に受け取られているようだったから。
それでも、教室のドアに手を掛ける瞬間になると、緊張が一気に頂点に達した。
胃がぎゅっと締めつけられるように痛む。
ここで逃げたら、せっかくのチャンスを自分から放棄することになる。
深く息を吸い、吐き、もう一度吸ってから、俺はようやく指先をドアノブへ添えた。
逃げるなら今しかない――そんな弱気な声が耳の奥のどこかでしつこく囁き続けていたけれど、それを振り払うようにノブを回すと、ゆっくりと教室の扉が開いた。
途端、それまで作業の声や笑い声で満たされていた空間が、一拍置いてすうっと静まり返った。
「……え?」
「なになに、どーいうこと?」
「上野くん……だよね?」
教室の中央にいた女の子が、驚きで口元を押さえながら俺の名前を呼ぶ。
いつもは明るい声で笑う子なのに、その目は慎重に俺の全身を確かめるように揺れていた。
胸の奥がきゅうっと縮む。
けれど逃げたくないという意地が、かろうじて首を縦に動かした。
ざわ……と、教室全体に細やかなざわめきが広がる。
誰かが落としたペンが床を転がる音、椅子の足がごく僅かに軋む音――全部がやけに鮮明だった。
机の上には、男女逆転喫茶のために割り当てられたメイド服が畳んで置かれている。
「あれっ、上野の衣装って……メイド服だったよな?
俺、間違えて配った?」
学級委員長が慌てて表を見返し、何度も瞬きをして俺と衣装を交互に見比べていた。
その焦りが、刃のようにじんと刺さる。
それでも、俺は自分の席の前に立ち、口を開くことにした。
「あの……少しだけ、聞いてほしいことがあります」
言葉が運ばれた瞬間、空気が張り詰める。
さっきまで動いていた手元の作業がすべて止まり、視線が、いや、気配そのものが一斉にこちらへ向かった。
指を絡ませている手の甲が白くなるまで力が入る。
「……俺、ずっと怖くて、誰にも言えなかったんですけど」
声は震え、喉の内側が細くひび割れるような感覚がした。
それでも、逃さずに言葉を押し出す。
「昔から、自分でこういう服を作るのが好きで……
休みの日はメイクしたり、自分で作った服を着て、出かけたりしてて……
でも、俺は男だからって今までずっと、それを隠してました」
男子も女子も、思いのほか真剣な表情で聞いてくれていて、その沈黙が返ってくるたび、胸の奥がひやりとするのに、同時に少しだけ救われてもいた。
「将来は、デザイナーになりたいんです。
それが……俺の夢で。
……だから、今日からは隠さず、堂々と、この姿で学校に来たいと思っています」
最後の一文を言いきった途端、瞳の奥に溜まっていた涙が一気に溢れ出る感覚と、全身を走る冷たい震えが同時に訪れた。
頬に涙が静かに零れ落ちて、怖くてたまらず視線を床へ落とす。
きっと、変なやつだと思われたに違いない。
気味悪がられても仕方ない、と覚悟を決めかけたその時。
右奥の女子のグループから、鼻をすする小さな音が聞こえてきた。
恐る恐る顔を上げると、彼女たちは目元を赤くしながらこちらを見つめていた。
「……ごめん、なんか……すごく、胸にきちゃって……」
「ウチも……瑚珀くんにつられて泣きそう……」
恥ずかしそうに涙を拭う彼女たちの姿を見て、周りの空気が柔らかく波打つ。
胸の奥に溜まり続けていた硬い塊が、じわじわ溶け出していく。
「上野くん、言うの勇気いったよね?
……話してくれて、ほんとにありがとう」
「てか、この服ほんとに自分で作ったの?
すっごい可愛い!」
まっすぐな声が、胸の奥の硬いところにそっと触れる。
その瞬間、教室の光がほんの少しだけ柔らかくなった気がした。
みんな最初は距離をとって見ていたのに、いつの間にか気づけば少しずつ集まってきていて、スカートのひらみのラインや縫い目の細かさに目を凝らしていた。
「うわ……マジでお人形みたい。やべぇ……」
「普通に応援するけどな、俺。
こんなん出来るのヤバすぎ。
デザイナー、絶対なれるよ上野!」
場の空気がふっと明るむ。
どこか照れたような笑い声が自然と混じりはじめて、クラス全体の温度がゆっくり上がっていく。
冗談に逃げる軽さじゃなくて、ちゃんと“本気”で向き合ってくれていると分かる言葉ばかりだった。
誰も、俺を笑っていない。
その当たり前が、こんなにも胸を熱くさせるなんて。
胸の奥の深いところがじわっとあたたかくなって、視界の端がにじむ。
涙が落ちないよう、瞬きをひとつ、またひとつ。
その時、心の奥底で、先輩の声がふっと浮かぶ。
――先輩の、言うとおりだった。
自分を知られるのは怖い。
でも、知ってもらった先にある世界は、こんなにも優しかった。
「ねぇ、上野くんのロリィタ、男女逆転喫茶の衣装に賛成の人ー!」
ぱっと上がった声に導かれるように、教室のあちこちから手があがる。
近くにいた子だけじゃない。
普段は控えめで、教室の隅で静かに話しているようなグループまで、そろそろ……と目を合わせてから、そっと手を上げてくれた。
その光景に胸の奥がまたふわっと膨らむ。
色のなかった世界に、ひとりずつが小さな灯りをともしてくれるみたいで、気づけば教室全体が少し温かい色で満ちていた。
「上野ー、写真ストーリーズに載せてもいい?
一緒に撮って宣伝しよーぜ」
「模擬店の優勝クラス、焼き肉食べ放題の景品あるから!
マジでお願い、上野のパワーが必要だわ!」
笑いながら腕を引っ張ってくれる子もいれば、カメラを構えてポーズを要求してくる子もいる。
気づけば俺は、セーラー服やナース服、執事服のクラスメイトたちに囲まれて、あちこちから声をかけられていた。
カメラのシャッターが切られるたび、心のどこかにあった陰った部分が少しずつ晴れていく。
生まれてはじめて「自分を出していいんだ」と、恐れじゃなく胸を張って言える気がした。
気づいた時には、頬がほのかに熱かった。
でも、それを隠す必要はもうないと思えた。
*
午前中の喫茶での仕事は、思った以上に忙しかったけれど、胸のどこかに小さな灯がともり続けていた。
“ちゃんとみんなに受け入れられている”という温度。
そのぬくもりが、歩くたび、スカートの裾を揺らすたびに広がっていくような気がした。
そんな穏やかなリズムが、突然破られた。
「――瑚珀!」
教室のドアが叩きつけられるように開いて、視線が一斉にそちらへ向かう。
そこに立っていたのは、息を切らせた九藤先輩だった。
後ろには、仲良しの先輩組がずらりと連れ立ち、どこかドラマのワンシーンみたいに立ち並んでいた。
「……く、九藤先輩」
名前を呼ぶだけで、胸の奥がぎゅっと強く縮む。
声が少し上ずってしまうほど、驚きと緊張が一気に押し寄せてきた。
「お前は……あーもう!
これ見て俺めっちゃ焦ったんだからな!」
半ば怒鳴るような言葉なのに、どこか必死で。
先輩はスマホを突き出してきた。
画面にはストーリーズの通知。
そこにあったのは――俺のロリィタ姿と、満面の笑みのクラスメイトたち。
“1-A、男女逆転喫茶!
美少年・美少女たくさんいます♡来てね♡”
その文字を見た瞬間、頬が熱くなる。
先輩の眉が寄り、喉がひくりと上下した。
「マジでさぁ、ロリィタ着てくんなら、俺に先に言うだろ普通!」
「……ご、ごめんなさい。
あとで先輩のクラスに行って、びっくりさせようと思ってて……」
しどろもどろに言い訳する俺を、先輩はじっと見た。
その視線は怒っているようで、でも奥に微かににじむ動揺と戸惑いを隠せていなかった。
そして、ゆっくりと片手を髪にやり、前髪をかき上げる。
スーツのボタンを二つ外した首元から、白い喉が覗いて、その色気に呼吸が止まる。
……先輩、こんなに格好良かったっけ。
見慣れているはずの顔なのに、照明の影やスーツの線が違うだけで、輪郭が別人みたいに鋭く見えて、胸の奥がずきりと熱を帯びた。
喉の奥がくすぐったくなるような、息が浅くなるような――不意打ちだった。
その後ろの先輩たちも、全員揃ってホスト風のスーツ姿。
教室の空気が一瞬で“非日常”に染まって、女子たちが小さな声で「ヤバい」「死ぬ」と悲鳴を上げる。
「キズナねぇ、瑚珀くんが誰かにとられるーとか、ナンパされたらーとかギャーギャー騒いでたよ!」
「騒いでねぇし!」
ぎくりと目を見開く俺を横目に、九藤先輩は耳の先まで赤くなっていた。
その照れ隠しみたいに頭をかきながら、でも歩幅をゆっくりと小さくしながら近づいてくる。
距離が縮むにつれ、胸の前でぎゅっと手を握りしめてしまった。
先輩の香水の匂いがふわりと届いた瞬間、心臓が跳ねる。
――め、めちゃくちゃ格好いいんですけど……。
前の喧嘩の余韻が、顔を合わせた瞬間に少しずつほどけていく感覚があった。
そして、九藤先輩の視線がゆっくりと俺を上から下までたどる。
レース、リボン、ウエストの切り替え、いつもよりくるんと巻いたウィッグの毛先。
そのすべてに目を奪われたみたいに、息を呑んで固まっていた。
恥ずかしさで胸がじんじんと熱くなる。
「……やっぱお前は、その格好の時が一番幸せそうだな」
そのたった一言で、胸いっぱいにあたたかい色が広がる。
涙が出そうで、でも嬉しくて、笑いそうになってしまう。
「あ、あの、先輩……この前電話で言ったこと……」
「もういいって。その話はあとで二人きりの時でいいから」
先輩と電話した日から抱えていた靄が、少しずつ晴れていく。
元の距離に戻っていくようで、でも前より少しだけ近い気もして――
文化祭の喧騒が遠のくほど、ふわりと心が色づいていった。
「それより、後夜祭の時、体育館に来てくんない?」
「どうしてですか?」
「来れば分かるから」
先輩の言葉には、自然な軽さとでも確かな温かみがあって、俺の胸がきゅんとする。
言われた瞬間、心臓の奥が少し跳ね、無意識に背筋を正した。
「わ、分かりました……!」
大きめの声で返事をすると、先輩は軽く手を振り、そのまま嵐のように慌てて去って行った。
テーマは “Dreams Start Here”――「私の夢を形にする日」だった。
そのスローガンに沿って、生徒ひとりひとりが、自分の夢や思いを何らかの形で発表することになっている。
教室の廊下には手作りのポスターや装飾が並び、非日常のちょっと浮足立った空気が漂っていた。
けれど、その明るい雰囲気とは裏腹に、胸の奥のざわつきは一週間ずっと消えていなかった。
あの電話のあと――俺と先輩は、完全に連絡を絶ったわけじゃなかった。
むしろ先輩は、前より少なくなったとはいえ、いつもの話題を装った短いメッセージを送ってきてくれる。
“來那がスカート洗濯拒否してる”
“茜がまた変なもん作ってる”
そんな、いかにも“普通”を保とうとするような内容ばかり。それに俺も短い言葉で返す。
でも、どちらも肝心なところには踏み込まないままだった。
伝えたい言葉は山ほどあるのに、どれも喉の奥で固まって出てこない。
学校の中庭ですれ違っても、俺は真っ先に目をそらした。
先輩の横顔を盗み見るようにして、一瞬だけ視線が合うと、あっちも困ったように目線を外す。
その様子を、茜先輩がやたら鋭い目つきで見ていて、
「え、喧嘩? ねぇ喧嘩?」
と無神経に騒ぎ、康先輩が「言うな馬鹿」と頭を小突いて止める――そんな場面も何度かあった。
笑って流したふりをしても、胸の奥の重たさは誤魔化せなかった。
そして、今日。
家庭科室の奥、被服準備室。
いつもは裁縫部の備品が雑然と置かれているだけの狭い部屋が、今日は妙に静かで広く感じる。
俺はそっと鏡を取り出し、机の上に立てた。
誰にも見せたことのない“普段じゃない自分”を、ここで最終確認するために。
切りそろえられた前髪の下に、いつもより少し太めにアイライナーを引く。
瞳の輪郭を強調するように、慎重に。
ロングタイプのマスカラをまつ毛の根元から丁寧に塗り、まつ毛一本一本に奥行きを持たせる。
コーラルピンクのチークをブラシでぽんぽんと頬にのせると、自然な血色が加わった。
最後にピンクベージュのグロスを軽く重ね、光を反射させるように仕上げた。
鏡越しに自分の姿を見つめる。
今まで学校で過ごしてきた自分とは、まるで別人だ。
胸の奥がざわざわと落ち着かない。
心臓の鼓動が早くなりすぎて、まるで鼓膜に直接響いてるみたいに感じる。
正直、今すぐ逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
この日のために選んだのは、自分で心を込めて作った花柄のスカート。
小さなラベンダーやピンク、ブルーの花模様が、春の庭を思わせるように優しく散らされている。
足元は白いソックスとこげ茶のストラップシューズ。
どの角度から見ても、全体のバランスが崩れないように気を配った。
ダークブラウンのウィッグを整え、白いレースのヘッドドレスをそっと置く。
深呼吸を一つすると、肩の力が少し抜けた。
やるならとことん、最初の時点で全力を出してしまおう――そう自分に言い聞かせた。
「……出来た」
鏡の向こうの自分をじっと見つめる。
スカートの裾をそっと指先で整えながら、胸の奥がきゅっと縮まった。
怖い。正直に言えば、まだ足は震えてる。
この姿で廊下を歩けば、驚かれるかもしれない。
笑われるかもしれない。
でも――それでも。
ここまで積み重ねてきた時間を、嘘にしたくなかった。
針を落とすたびに願ってきた「いつか」を、今日だけは逃したくなかった。
この姿は、“なりたい自分”に、やっと針を通せた証だ。
小さく息を吸って、胸の奥の揺れを静かに縫い留めるように呟く。
――自分の夢を、ちゃんと見せるんだ。
深呼吸をもう一度。
震える手で、それでもしっかりと扉のノブを握った。
そして、ゆっくりと――
ありのままの自分で、初めて世界に踏み出した。
*
渡り廊下を歩いて、自分のクラスへ向かう間、それほど視線は気にならなかった。
普段から人目に晒されることには慣れているし、今日の格好も「文化祭の衣装なのかな?」といった程度に受け取られているようだったから。
それでも、教室のドアに手を掛ける瞬間になると、緊張が一気に頂点に達した。
胃がぎゅっと締めつけられるように痛む。
ここで逃げたら、せっかくのチャンスを自分から放棄することになる。
深く息を吸い、吐き、もう一度吸ってから、俺はようやく指先をドアノブへ添えた。
逃げるなら今しかない――そんな弱気な声が耳の奥のどこかでしつこく囁き続けていたけれど、それを振り払うようにノブを回すと、ゆっくりと教室の扉が開いた。
途端、それまで作業の声や笑い声で満たされていた空間が、一拍置いてすうっと静まり返った。
「……え?」
「なになに、どーいうこと?」
「上野くん……だよね?」
教室の中央にいた女の子が、驚きで口元を押さえながら俺の名前を呼ぶ。
いつもは明るい声で笑う子なのに、その目は慎重に俺の全身を確かめるように揺れていた。
胸の奥がきゅうっと縮む。
けれど逃げたくないという意地が、かろうじて首を縦に動かした。
ざわ……と、教室全体に細やかなざわめきが広がる。
誰かが落としたペンが床を転がる音、椅子の足がごく僅かに軋む音――全部がやけに鮮明だった。
机の上には、男女逆転喫茶のために割り当てられたメイド服が畳んで置かれている。
「あれっ、上野の衣装って……メイド服だったよな?
俺、間違えて配った?」
学級委員長が慌てて表を見返し、何度も瞬きをして俺と衣装を交互に見比べていた。
その焦りが、刃のようにじんと刺さる。
それでも、俺は自分の席の前に立ち、口を開くことにした。
「あの……少しだけ、聞いてほしいことがあります」
言葉が運ばれた瞬間、空気が張り詰める。
さっきまで動いていた手元の作業がすべて止まり、視線が、いや、気配そのものが一斉にこちらへ向かった。
指を絡ませている手の甲が白くなるまで力が入る。
「……俺、ずっと怖くて、誰にも言えなかったんですけど」
声は震え、喉の内側が細くひび割れるような感覚がした。
それでも、逃さずに言葉を押し出す。
「昔から、自分でこういう服を作るのが好きで……
休みの日はメイクしたり、自分で作った服を着て、出かけたりしてて……
でも、俺は男だからって今までずっと、それを隠してました」
男子も女子も、思いのほか真剣な表情で聞いてくれていて、その沈黙が返ってくるたび、胸の奥がひやりとするのに、同時に少しだけ救われてもいた。
「将来は、デザイナーになりたいんです。
それが……俺の夢で。
……だから、今日からは隠さず、堂々と、この姿で学校に来たいと思っています」
最後の一文を言いきった途端、瞳の奥に溜まっていた涙が一気に溢れ出る感覚と、全身を走る冷たい震えが同時に訪れた。
頬に涙が静かに零れ落ちて、怖くてたまらず視線を床へ落とす。
きっと、変なやつだと思われたに違いない。
気味悪がられても仕方ない、と覚悟を決めかけたその時。
右奥の女子のグループから、鼻をすする小さな音が聞こえてきた。
恐る恐る顔を上げると、彼女たちは目元を赤くしながらこちらを見つめていた。
「……ごめん、なんか……すごく、胸にきちゃって……」
「ウチも……瑚珀くんにつられて泣きそう……」
恥ずかしそうに涙を拭う彼女たちの姿を見て、周りの空気が柔らかく波打つ。
胸の奥に溜まり続けていた硬い塊が、じわじわ溶け出していく。
「上野くん、言うの勇気いったよね?
……話してくれて、ほんとにありがとう」
「てか、この服ほんとに自分で作ったの?
すっごい可愛い!」
まっすぐな声が、胸の奥の硬いところにそっと触れる。
その瞬間、教室の光がほんの少しだけ柔らかくなった気がした。
みんな最初は距離をとって見ていたのに、いつの間にか気づけば少しずつ集まってきていて、スカートのひらみのラインや縫い目の細かさに目を凝らしていた。
「うわ……マジでお人形みたい。やべぇ……」
「普通に応援するけどな、俺。
こんなん出来るのヤバすぎ。
デザイナー、絶対なれるよ上野!」
場の空気がふっと明るむ。
どこか照れたような笑い声が自然と混じりはじめて、クラス全体の温度がゆっくり上がっていく。
冗談に逃げる軽さじゃなくて、ちゃんと“本気”で向き合ってくれていると分かる言葉ばかりだった。
誰も、俺を笑っていない。
その当たり前が、こんなにも胸を熱くさせるなんて。
胸の奥の深いところがじわっとあたたかくなって、視界の端がにじむ。
涙が落ちないよう、瞬きをひとつ、またひとつ。
その時、心の奥底で、先輩の声がふっと浮かぶ。
――先輩の、言うとおりだった。
自分を知られるのは怖い。
でも、知ってもらった先にある世界は、こんなにも優しかった。
「ねぇ、上野くんのロリィタ、男女逆転喫茶の衣装に賛成の人ー!」
ぱっと上がった声に導かれるように、教室のあちこちから手があがる。
近くにいた子だけじゃない。
普段は控えめで、教室の隅で静かに話しているようなグループまで、そろそろ……と目を合わせてから、そっと手を上げてくれた。
その光景に胸の奥がまたふわっと膨らむ。
色のなかった世界に、ひとりずつが小さな灯りをともしてくれるみたいで、気づけば教室全体が少し温かい色で満ちていた。
「上野ー、写真ストーリーズに載せてもいい?
一緒に撮って宣伝しよーぜ」
「模擬店の優勝クラス、焼き肉食べ放題の景品あるから!
マジでお願い、上野のパワーが必要だわ!」
笑いながら腕を引っ張ってくれる子もいれば、カメラを構えてポーズを要求してくる子もいる。
気づけば俺は、セーラー服やナース服、執事服のクラスメイトたちに囲まれて、あちこちから声をかけられていた。
カメラのシャッターが切られるたび、心のどこかにあった陰った部分が少しずつ晴れていく。
生まれてはじめて「自分を出していいんだ」と、恐れじゃなく胸を張って言える気がした。
気づいた時には、頬がほのかに熱かった。
でも、それを隠す必要はもうないと思えた。
*
午前中の喫茶での仕事は、思った以上に忙しかったけれど、胸のどこかに小さな灯がともり続けていた。
“ちゃんとみんなに受け入れられている”という温度。
そのぬくもりが、歩くたび、スカートの裾を揺らすたびに広がっていくような気がした。
そんな穏やかなリズムが、突然破られた。
「――瑚珀!」
教室のドアが叩きつけられるように開いて、視線が一斉にそちらへ向かう。
そこに立っていたのは、息を切らせた九藤先輩だった。
後ろには、仲良しの先輩組がずらりと連れ立ち、どこかドラマのワンシーンみたいに立ち並んでいた。
「……く、九藤先輩」
名前を呼ぶだけで、胸の奥がぎゅっと強く縮む。
声が少し上ずってしまうほど、驚きと緊張が一気に押し寄せてきた。
「お前は……あーもう!
これ見て俺めっちゃ焦ったんだからな!」
半ば怒鳴るような言葉なのに、どこか必死で。
先輩はスマホを突き出してきた。
画面にはストーリーズの通知。
そこにあったのは――俺のロリィタ姿と、満面の笑みのクラスメイトたち。
“1-A、男女逆転喫茶!
美少年・美少女たくさんいます♡来てね♡”
その文字を見た瞬間、頬が熱くなる。
先輩の眉が寄り、喉がひくりと上下した。
「マジでさぁ、ロリィタ着てくんなら、俺に先に言うだろ普通!」
「……ご、ごめんなさい。
あとで先輩のクラスに行って、びっくりさせようと思ってて……」
しどろもどろに言い訳する俺を、先輩はじっと見た。
その視線は怒っているようで、でも奥に微かににじむ動揺と戸惑いを隠せていなかった。
そして、ゆっくりと片手を髪にやり、前髪をかき上げる。
スーツのボタンを二つ外した首元から、白い喉が覗いて、その色気に呼吸が止まる。
……先輩、こんなに格好良かったっけ。
見慣れているはずの顔なのに、照明の影やスーツの線が違うだけで、輪郭が別人みたいに鋭く見えて、胸の奥がずきりと熱を帯びた。
喉の奥がくすぐったくなるような、息が浅くなるような――不意打ちだった。
その後ろの先輩たちも、全員揃ってホスト風のスーツ姿。
教室の空気が一瞬で“非日常”に染まって、女子たちが小さな声で「ヤバい」「死ぬ」と悲鳴を上げる。
「キズナねぇ、瑚珀くんが誰かにとられるーとか、ナンパされたらーとかギャーギャー騒いでたよ!」
「騒いでねぇし!」
ぎくりと目を見開く俺を横目に、九藤先輩は耳の先まで赤くなっていた。
その照れ隠しみたいに頭をかきながら、でも歩幅をゆっくりと小さくしながら近づいてくる。
距離が縮むにつれ、胸の前でぎゅっと手を握りしめてしまった。
先輩の香水の匂いがふわりと届いた瞬間、心臓が跳ねる。
――め、めちゃくちゃ格好いいんですけど……。
前の喧嘩の余韻が、顔を合わせた瞬間に少しずつほどけていく感覚があった。
そして、九藤先輩の視線がゆっくりと俺を上から下までたどる。
レース、リボン、ウエストの切り替え、いつもよりくるんと巻いたウィッグの毛先。
そのすべてに目を奪われたみたいに、息を呑んで固まっていた。
恥ずかしさで胸がじんじんと熱くなる。
「……やっぱお前は、その格好の時が一番幸せそうだな」
そのたった一言で、胸いっぱいにあたたかい色が広がる。
涙が出そうで、でも嬉しくて、笑いそうになってしまう。
「あ、あの、先輩……この前電話で言ったこと……」
「もういいって。その話はあとで二人きりの時でいいから」
先輩と電話した日から抱えていた靄が、少しずつ晴れていく。
元の距離に戻っていくようで、でも前より少しだけ近い気もして――
文化祭の喧騒が遠のくほど、ふわりと心が色づいていった。
「それより、後夜祭の時、体育館に来てくんない?」
「どうしてですか?」
「来れば分かるから」
先輩の言葉には、自然な軽さとでも確かな温かみがあって、俺の胸がきゅんとする。
言われた瞬間、心臓の奥が少し跳ね、無意識に背筋を正した。
「わ、分かりました……!」
大きめの声で返事をすると、先輩は軽く手を振り、そのまま嵐のように慌てて去って行った。



