泥とフリル 〜学校一の不良の先輩が恋したのは、ロリィタ姿の俺でした〜

 その日の夜。
 勉強机に向かっていた俺のスマホが、ぽこん、と軽い音を鳴らした。

 タップすると、動画が添付されていた。
 笑顔の來那ちゃんが、襖の前で立っている。途端に、楽しげな笑い音声が部屋に広がった。
 俺が作ったミントグリーンのスカートを履いて來那ちゃんが飛び跳ねるたび、生地が軽く舞って、そのたびに表情がぱぁっと明るくなる。

 ああ、頑張ってよかった……と、ゆっくり息が抜けていく。
 自分の作ったものが、ただ“似合う”とか“かわいい”ってだけじゃなくて、誰かの一日をこんなに明るくするなんて。そんな実感が、じわじわと胸に染み込んでくる。

 返信を打とうとしていたら、スマホが突然震えた。
 通知を見ると、九藤先輩からの着信。

「はい、上野です」

 自分でも少し声が上ずったのが分かった。
 けれど、返ってきた声は予想の斜め上をいった。

「うえのって、だれー?」

「……え?」

 思わず固まる。
 次の瞬間、これは來那ちゃんの声だと気づいて、体が一気に熱くなった。

「あ、えっと……瑚珀だよ」

 そう答えると、スマホ越しに鈴が転がるみたいな笑い声が響いた。
 けれど緊張しているのか、照れているのか、來那ちゃんはなかなか言葉にならず、笑っては黙り、笑っては黙り。

 すると、奥のほうから「おい、お前貸せー」と小さく先輩の声がして、ガサガサと受話器が動く。

「瑚珀、マジで凄すぎて全員で感動してた。
 來那も、発表会だけじゃなくて毎日履くって言ってるし」

 その声は、いつもの落ち着いた低さで、けれど少しだけ誇らしげで。
 後ろでは兄弟たちの笑い声や、食器の触れ合う生活音が賑やかに響いていたけれど、次の瞬間、ガチャッと玄関ドアの音がして、その喧騒がふっと遠ざかる。

 たぶん、外に出てくれたんだ。わざわざ俺と話すためだけに。
 それに気づいた瞬間、心の真ん中がくすぐったくて、少しだけ苦しくなる。

「あんなに喜んでもらえるとは、思いませんでした。……嬉しい」

 本音だった。
 もともと作るのは好きだけど、こうして“届いた”と分かると、胸の中心がぐらっと揺れる。
 暖かくて、誇らしくて、怖いくらい嬉しくて。
 まるで未来のどこかが、すこしだけ光を灯したみたいだった。

 しばらく沈黙があったあと、先輩は落ち着いた声で、けれどいつになく真剣な響きで言った。

「……マジで勿体ねぇよ、瑚珀。
 お前が好きなもの、もっと堂々と人に見せた方が良い。
 こんなに才能だってあんのに」

 その言葉は、以前うちに泊まった夜にも聞いた言葉と同じで。
 まるであの時の続きみたいに、また俺の弱点をまっすぐ突いてきた。

 何も言えずにいると、先輩はさらに踏み込んできた。

「自分のやりたいこと、隠すな。
 お前はさ、周りがどう言うかって怯えてるけど……
 その“怖い言葉”ってさ、ほんとは瑚珀自身が、自分に向かって言ってるんじゃねぇの?
 お前を一番批判してんのは、瑚珀自身にしか見えない」

 一瞬、頭が真っ白になった。

 “女装”
 “気持ち悪い”
 “変だよね”

 脳内で誰かが囁く声が、ざあっと一気に押し寄せてくる。
 教室で、廊下で、知らない誰かが笑っている光景が、勝手に浮かんでしまう。

 なのに――それが全部、自分自身の声だと気づいてしまった瞬間、胸の奥の“弱い部分”を、はっきり指で押されたみたいに痛くて、苦しくなった。

 指先が冷えていく。
 スマホを持つ手が震え、視界が滲む。
 気づけば、ぽた、と涙が頬を滑り落ちていた。

「せ、先輩だって……」

 声が震える。
 感情のふたが壊れたみたいに、言葉が溢れ出る。

「音楽の才能が、あるじゃないですか……!
 ダサいとか、カッコ悪いとか、プライドなんか捨てて……
 ちゃんと先生に謝って、奉仕活動して……
 軽音楽部として、ステージに立ったらいいじゃないですか!」

 自分で言いながら分かってる。
 これは反論じゃなくて、八つ当たりだ。
 心を守るために必死で壁を作って、そこに言葉を投げつけてるだけだって。

「先輩は俺にばっかり『勇気出せ』とか、『ありのまま』とか言うけど……
 先輩だって、人のこと言えないじゃないですか!」

 言い終えたあと、耳が熱くなって、心臓が嫌な音を立てて跳ねているのが分かった。
 沈黙が電話越しに落ちてきて、その沈黙が、何より苦しい。

 だけど先輩は反論しない。
 怒ってもない。
 咎めもしない。

 まるで、俺が言葉を絞り切るまで待っているような静けさで。
 その優しさが、逆にこわくて。
 あと一言でも何か言ったら、関係が壊れてしまう気がして。

 逃げるように電話を切った。

 暗くなった画面に、自分の泣き顔がぼんやり映る。
 胸の奥がじくじく痛む。
 さっきの言葉が、頭の中でぐるぐる回り続けている。

 “お前を一番批判してんのは、お前自身にしか見えない”

 否定しようとするほど、心のどこかが「違わない」と囁く。
 怖い。
 けれど、その怖さの奥に、ほんの少しだけ、何かが疼く。

 ――変わりたい。
 いや、違う。ほんとはずっと、変わりたかった。

 胸の奥で、細い糸がふっと引かれるような感覚がした。
 ずっと緩ませたままにしていた心の縫い目が、先輩の言葉で“返し縫い”みたいにぎゅっと留められてしまったみたいだ。

 ロリィタの服を着て、胸を張って学校へ行きたい。
 自分が「可愛い」と思った布を、自分の身体にまっすぐ縫い合わせたい。
 自分という存在を、丁寧に、ほどけないように形づくるためにも。

 ずっと恐くて、仮縫いのまま止めていた“本当の自分”へのライン。
 そこに針を落とす勇気がなかった。
 布を切り抜くたびに、胸の奥で「変だよ」「無理だ」「そんなの、おかしい」とささやく声がして、その声が自分自身の手を止めていた。

 だけど――。

 先輩の言葉は、胸のいちばん痛い場所に深く刺さって、まだ抜けないままだけれど、刺さったからこそ、気づいてしまった。
 この痛みは、誰かに傷つけられた痛みじゃない。
 “縫い始める前の、生地を切るときの恐さ”に似ている。

 切り抜いた瞬間、もう戻れない。
 でも、切らなければ何も作れない。

 そんな当たり前のことを、ようやく心が理解し始めた気がした。

 ――この先の自分がどう動くか。
 その選択肢が、針山みたいに静かに、でも確かに、目の前に並んでいる。

 どの針を手に取るかは、俺次第だった。