物心ついた頃から、可愛いものを見ると胸の奥がぽっと灯るように温かくなった。
男の子向けのおもちゃ売り場よりも、キラキラしたヘアピンや小さなドレスが並ぶ隣の売り場へ、吸い寄せられるみたいに歩いていってしまう――そんな子どもだった。
ドレッサーの椅子に座り、お人形の髪をそっと整える。布団代わりに花柄のハンカチをかけてあげて、プラスチックなのに宝石みたいに光るメイクセットの色を眺めながら、どれが一番綺麗かを考える。
外で誰かがサッカーボールを蹴る音が聞こえても、俺はその世界に夢中で、気づけば日が傾くまで、可愛いもので心を満たしていた。
――幼い頃からずっと、俺は“かわいい”に恋をしていたのだ。
母は裁縫が得意で、俺がお人形を溺愛していると知ると、まるで当たり前みたいに服を作ってくれた。
「瑚珀、お人形さんにどんなお洋服を着せたい?」
そう聞かれるたび、心臓が跳ねるほど嬉しかった。好きな布を選ばせてくれて、「このレースつけたい」「もっとキラキラがいい」と言えば、どんなワガママも魔法みたいに叶えてくれる。
母の手元で、生地がドレスに変わっていくあの瞬間――あれが、俺の原点だった気がする。
母も父も、俺の遊びを一度も否定しなかった。むしろ父は、ある日の仕事帰り、小さな紙袋をそっと差し出してきた。
「これ、瑚珀が好きそうだなって思ってさ」
中に入っていたのは、淡いピンク色のリボンがついた小さなヘアブラシ。お人形の髪を梳かすのにちょうどいいサイズで、持ち手には細かな花模様が彫られていた。
俺が“かわいい”を見るときの目を、ちゃんと見てくれていたんだと思う。嬉しくて宝物みたいに大事にして、壊れてしまうまで使った。そのときの温度は、今でも胸の奥に残っている。
けれど、小学校に上がると、状況は一変した。
「おまえ、なんでそんな色の服着てんの?」
「女みたい」
「変なの」
投げつけられる言葉は、どれも細く尖っていて、針みたいだった。一刺し一刺しは小さくても、確実に心に穴をあける。いつか慣れると信じて、気づかないふりをしていた。
でも、それはただ、針を受け止め続けていただけだった。溜まりきったある日、少し触れただけで深く刺さる。
言葉は、慣れるものじゃなかった。積み重なるほど、ちゃんと、痛くなるものだった。
そのうち俺は、自分から好きなものを隠すようになっていった。
“可愛い”と言われたい気持ちと、“男がそういう格好するのは変だ”と言われる怖さ。その両方を抱えたまま、全部を封じ込めた。
そして――高校一年生になった今、俺は完全に“隠す方の人格”で日々を過ごしている。
「上野、おはよ」
「お、おはよう……」
私服オーケーの高校に入ったのに、俺の服装は量販店で買った地味で無難なものばかり。スマホカバーも、ペンケースも、かばんも。目立たないためだけに選んだ「保護色」だ。
引っ込み思案で、目立つのが苦手な性格もあって、クラスでは完全に地味ポジに落ち着いている。明るいクラスメイトたちを横目に、俺は廊下の壁に溶け込むみたいに歩いていた。
――まさか俺が、ロリィタの服が好きで、スカートが好きで、可愛いものに目がないなんて。きっと誰も想像しない。
でも、時々思う。本当の俺は、どこにいるんだろうって。
「明日、クラスでボーリング行くけど、上野も来る?」
昼休み。机の横に立ったのは、クラスの一軍グループにいる陽キャ男子だった。俺は箸を止めて顔を上げる。
「あ……明日は用事があって」
声が少し揺れた。嘘じゃない。でも、本当のことは言えなかった。
「だよな。上野がボーリングするイメージ、あんまないし。じゃ、欠席にしとくわ」
少し納得したような顔で、自分の席に戻っていく。その背中を見ながら、「来なくていいよな?」と言われた気がして、勝手に胸が痛んだ。
みんなが楽しそうに予定を話す声が、遠くで響く。その輪に俺が入れる未来は、想像すらできなかった。
*
週末。俺には、その日にしかできない大事な予定がある。
大きめのトートバッグに、洋服一式とウィッグ、パニエを詰め込む。両親は理解してくれているけれど、玄関を出る瞬間はいつも緊張する。
それでも電車に乗ってしまえば、日常の俺は少しずつ遠ざかっていった。
《次は旭ヶ丘、旭ヶ丘です》
二つ隣の駅で降り、改札脇の新しい男子トイレへ向かう。休日の朝は人が少ない。誰もいないのを確認して、個室に入った。
スカートに脚を通す。自分で縫った、くすみピンクに白レースを重ねた一着。パニエを仕込むと、スカートはふんわりと膨らむ。
襟元に小さなリボンのついた白いブラウス。お気に入りのフリル。厚底のストラップヒールを留める。
鏡を立て、コスメで肌を整える。中学生の頃から、こっそり練習してきた手順だ。
アイシャドウをぼかし、ウィッグを被って梳かすと、鏡の中の俺は、学校の誰も知らない顔になる。
最後に、淡いピンクのラメ入りリップを唇に滑らせる。
一度、二度。色が少しずつ「俺」を塗り替えていく。指先でトントンと押さえて完成。それは、小さい頃、母に教わったやり方だった。
外の気配を探る。音はない。
――今だ。
ドアを開け、洗面台の前を駆け抜け、外へ出る。ざわめきと一緒に、新しい空気が肺に流れ込む。コインロッカーにバッグを預け、鍵をしまった瞬間、身体がふっと軽くなった。
街に出る。人の波の中に、ロリィタの俺が紛れ込む。スカートの裾が揺れるたび、心臓が高鳴る。
でもこの街には、俺を知っている人なんて誰もいない。
ここでは、俺は“俺のまま”でいられる。
自分の手で縫ったスカートをはいて、誰も知らない街を歩くこと。
それは俺にとって、何より大切で、誰にも奪われたくない、たったひとつの自由だった。
男の子向けのおもちゃ売り場よりも、キラキラしたヘアピンや小さなドレスが並ぶ隣の売り場へ、吸い寄せられるみたいに歩いていってしまう――そんな子どもだった。
ドレッサーの椅子に座り、お人形の髪をそっと整える。布団代わりに花柄のハンカチをかけてあげて、プラスチックなのに宝石みたいに光るメイクセットの色を眺めながら、どれが一番綺麗かを考える。
外で誰かがサッカーボールを蹴る音が聞こえても、俺はその世界に夢中で、気づけば日が傾くまで、可愛いもので心を満たしていた。
――幼い頃からずっと、俺は“かわいい”に恋をしていたのだ。
母は裁縫が得意で、俺がお人形を溺愛していると知ると、まるで当たり前みたいに服を作ってくれた。
「瑚珀、お人形さんにどんなお洋服を着せたい?」
そう聞かれるたび、心臓が跳ねるほど嬉しかった。好きな布を選ばせてくれて、「このレースつけたい」「もっとキラキラがいい」と言えば、どんなワガママも魔法みたいに叶えてくれる。
母の手元で、生地がドレスに変わっていくあの瞬間――あれが、俺の原点だった気がする。
母も父も、俺の遊びを一度も否定しなかった。むしろ父は、ある日の仕事帰り、小さな紙袋をそっと差し出してきた。
「これ、瑚珀が好きそうだなって思ってさ」
中に入っていたのは、淡いピンク色のリボンがついた小さなヘアブラシ。お人形の髪を梳かすのにちょうどいいサイズで、持ち手には細かな花模様が彫られていた。
俺が“かわいい”を見るときの目を、ちゃんと見てくれていたんだと思う。嬉しくて宝物みたいに大事にして、壊れてしまうまで使った。そのときの温度は、今でも胸の奥に残っている。
けれど、小学校に上がると、状況は一変した。
「おまえ、なんでそんな色の服着てんの?」
「女みたい」
「変なの」
投げつけられる言葉は、どれも細く尖っていて、針みたいだった。一刺し一刺しは小さくても、確実に心に穴をあける。いつか慣れると信じて、気づかないふりをしていた。
でも、それはただ、針を受け止め続けていただけだった。溜まりきったある日、少し触れただけで深く刺さる。
言葉は、慣れるものじゃなかった。積み重なるほど、ちゃんと、痛くなるものだった。
そのうち俺は、自分から好きなものを隠すようになっていった。
“可愛い”と言われたい気持ちと、“男がそういう格好するのは変だ”と言われる怖さ。その両方を抱えたまま、全部を封じ込めた。
そして――高校一年生になった今、俺は完全に“隠す方の人格”で日々を過ごしている。
「上野、おはよ」
「お、おはよう……」
私服オーケーの高校に入ったのに、俺の服装は量販店で買った地味で無難なものばかり。スマホカバーも、ペンケースも、かばんも。目立たないためだけに選んだ「保護色」だ。
引っ込み思案で、目立つのが苦手な性格もあって、クラスでは完全に地味ポジに落ち着いている。明るいクラスメイトたちを横目に、俺は廊下の壁に溶け込むみたいに歩いていた。
――まさか俺が、ロリィタの服が好きで、スカートが好きで、可愛いものに目がないなんて。きっと誰も想像しない。
でも、時々思う。本当の俺は、どこにいるんだろうって。
「明日、クラスでボーリング行くけど、上野も来る?」
昼休み。机の横に立ったのは、クラスの一軍グループにいる陽キャ男子だった。俺は箸を止めて顔を上げる。
「あ……明日は用事があって」
声が少し揺れた。嘘じゃない。でも、本当のことは言えなかった。
「だよな。上野がボーリングするイメージ、あんまないし。じゃ、欠席にしとくわ」
少し納得したような顔で、自分の席に戻っていく。その背中を見ながら、「来なくていいよな?」と言われた気がして、勝手に胸が痛んだ。
みんなが楽しそうに予定を話す声が、遠くで響く。その輪に俺が入れる未来は、想像すらできなかった。
*
週末。俺には、その日にしかできない大事な予定がある。
大きめのトートバッグに、洋服一式とウィッグ、パニエを詰め込む。両親は理解してくれているけれど、玄関を出る瞬間はいつも緊張する。
それでも電車に乗ってしまえば、日常の俺は少しずつ遠ざかっていった。
《次は旭ヶ丘、旭ヶ丘です》
二つ隣の駅で降り、改札脇の新しい男子トイレへ向かう。休日の朝は人が少ない。誰もいないのを確認して、個室に入った。
スカートに脚を通す。自分で縫った、くすみピンクに白レースを重ねた一着。パニエを仕込むと、スカートはふんわりと膨らむ。
襟元に小さなリボンのついた白いブラウス。お気に入りのフリル。厚底のストラップヒールを留める。
鏡を立て、コスメで肌を整える。中学生の頃から、こっそり練習してきた手順だ。
アイシャドウをぼかし、ウィッグを被って梳かすと、鏡の中の俺は、学校の誰も知らない顔になる。
最後に、淡いピンクのラメ入りリップを唇に滑らせる。
一度、二度。色が少しずつ「俺」を塗り替えていく。指先でトントンと押さえて完成。それは、小さい頃、母に教わったやり方だった。
外の気配を探る。音はない。
――今だ。
ドアを開け、洗面台の前を駆け抜け、外へ出る。ざわめきと一緒に、新しい空気が肺に流れ込む。コインロッカーにバッグを預け、鍵をしまった瞬間、身体がふっと軽くなった。
街に出る。人の波の中に、ロリィタの俺が紛れ込む。スカートの裾が揺れるたび、心臓が高鳴る。
でもこの街には、俺を知っている人なんて誰もいない。
ここでは、俺は“俺のまま”でいられる。
自分の手で縫ったスカートをはいて、誰も知らない街を歩くこと。
それは俺にとって、何より大切で、誰にも奪われたくない、たったひとつの自由だった。



