失くした恋のつづき

一度口にした言葉をなかったことにできるなら、違う未来があったかもしれない。
 千春の胸にはまだ、あのときの後悔が住み続けている。
 その後悔と一緒に、自分だけが時を刻んでいることも……。

 心と連動する欲望をぶつけたのは紛れもなく自分で、傷付けたのも自分だ。
 大好きな人を失ってから、毎日、毎日同じことを考えて、いまだに自分を許せずにいる。
 葵留の人生に、刃物のような栞を挟んでしまった事実は一生、消えないから。

 大学生になった今でも、鮮明に覚えている。
 あだ名で呼んでくれる声や笑顔。そして、タバコの匂いまでも……。

 ベンチの背もたれに体を預けると、千春はそっと瞳を閉じた。
 キャンパスの喧騒のなかで、未だ消えない罪に胸が締めつけられる。
 言葉の意味も考えず、感情のまま相手にぶつけると、それは意思を持った獣のように相手を襲ってしまった。
 それなのに自分だけがのうのうと生きている。
 葵留を失ってから、同じことを何度も何度も考えては、悔やんでいた。

 ゆっくり瞼を開けると、見上げた空に浮かぶのは、二人で過ごした懐かしい場所。
 埃まみれの古い教室。
 古びたカーテン。
 窓際に佇んでタバコを吸う横顔。
 父親から暴力を受けても、いつだって笑顔で怒った顔など見たことがない。
 千春への態度もそうだった。
 与えられた眼差しや優しさを疑う要素など、どこにもなかった。
 今になってそれを、まざまざと思い知らされる。

 後悔しても、葵留先輩には二度と逢えないのに……。

 煙草の残り香だけを記憶に植え付けたまま、遠くへ逝ってしまった。
 高一の夏に戻ってやり直したいと願っても、奇跡でも起きない限りそれは叶わない。
 もしもの願いが叶う世界は、本の中だけにしか存在しないのだ。

 もう一度、千春は目を閉じた。
 風が枝を揺らして葉ずれが耳に降り注ぐ。その音でさえも愛しい声に聞こえた。

 重症だな……。
 あれから何年も経ってるのに。

 忘れたくない場所が壊されると知って、母校に足を運んだことは、癒えていない傷を抉ることだとわかっていた。
 わかっていても、見ておきたいと思った。
 その結果、アパートの部屋に帰ったあとの自分は散々だった。

 何も食べる気も起きず、布団に潜りこんで泣き続けた。
 朝起きたときは目が腫れ過ぎて、氷で目を冷やすのに半日、使ってしまった。
 一生に一人と思える相手と出逢えて幸せだったと、何度も自分に言い聞かせたけど、犯した罪は消えない。

 苦しい恋を失くした季節と同じ、今日の空は鈍色だ。今にも雫が舞い落ちてきそうに重い。
 千春は読みかけのページに、視線と一緒にため息を落とした。
 そのタイミングで名前を呼ばれて顔を上げると、荒げた息を吐きながら駆けてくる親友の姿が見えた。

「仙太郎、間に合ったんだ」
「ああ、ギリセーフ。ったく、あの先生厳しすぎるわ」
 高校のときから変わらない、ツンツンに尖らせたソフトモヒカンの崩れを気にしながら、豊浦仙太郎(とようらせんたろう)が苛立ちを込めて隣に腰を下ろしてきた。

「ページ数は足りてたのに、まさかの文字数不足だったとはなー」
 暦の上では秋でも、日差しはまだ夏の余韻が残っている。
 千春は額に汗を浮かべる仙太郎を不憫に思い、下敷きで風を起こしてやった。

「でも八尋(やひろ)先生は怒らないだろ? いつも涼しい顔で、淡々と語るって感じだし」 
「そう。淡々と、ニコリともせず、無精髭を撫でながら、最後のページが二行しか書いてないって言われたんだぜ。でも一枚は一枚だろ? これって揚げ足取りだと思わん?」

 八の字の垂れ目を上げて怒っては見せているけど、本気でイラついているわけではない。
 優しい性格で頼れる親友は、千春の自慢だった。
 気配りに長けていて、特にお年寄りにはそのセンサーが鋭く働く。
 心許ない人を見ると、手を引いて電車やバスに乗ったりするのは日常茶飯事だった。

 そんな仙太郎に、千春は何度も救われていた。
 本当に、何度も……。
 彼がいなかったら千春は高校を留年──いや、もしかしたら中退していたかもしれない。

 初めて好きになった人を突然失った。
 その原因は自分だと責めて、自暴自棄になった千春を励まし続けてくれたのが仙太郎だった。
 同性を好きになったと知っても親友のままで、それがどれだけ嬉しくて救われたか……。

「でも、あの無精髭オヤジと違って、心理科学科の六人部(むとべ)先生は紳士でカッコいいよな」
「無精髭オヤジって。うん、まあ六人部先生と八尋先生はタイプ違うしな」
「あのやる気のなさで准教授だもんな。しかも六人部先生と並んで次期教授候補? らしいしな」

「へえ、そうなんだ。でも両先生とも教授とかには興味がなさそう。六人部先生なんて、ご自身の勉強に熱心だしさ」
「人権やジェンダー法、労働法とかだっけ? DVや性暴力とか、なんちゃらハラスメントとかの被害者のための支援策とかだろ? そんな知識が必要なんて、嘆かわしい世の中だよな。ま、俺は何かあったら千春に聞けばいいけどさ」

「俺もまだ全然理解できないけどね、けど、弱くて無抵抗な人に暴力を振るうなんてあっちゃだめなんだ。俺は、そんな人を一人でもなくしたい」

 葵留先輩のような人を作っちゃいけない。
 俺みたいな人間が今さらこんなことを勉強しても、何の罪滅ぼしにもならないけど……。

 傷だらけの顔を思い出していると、仙太郎に肘で突かれた。
「ほら、噂をすれば六人部っちだ。もうすぐ四十だっけ? 独身であの若々しさに綺麗な顔がくっついてりゃ女子も騒ぐよな。あ、千春。先生が手を振ってるぞ」

 仙太郎が顎で示した先をたどると、女生徒に囲まれながら六人部が千春に笑顔を向けていた。
 清潔な黒髪にアップバングと、三揃いのベスト姿が凛々しく、周りで吹く風からは高貴な香りが漂ってる気さえする。

「カッコいいよな、先生。あんなお兄さんがいたら自慢だよな」
「兄? 彼氏じゃなくて?」
 ペットボトルのラベルを、ペリペリと剥がす仙太郎がニヤついて言う。
「彼氏——は当分いらないな。今は勉強とバイトに専念したい。てか、俺ってやっぱゲイなのかな……」

「俺に聞くなよ。でもさ、お前がゲイかどうかなんて、正直どっちでもいい。今は、そんなの関係ない時代だろ? ただな——千春は優しいし、顔も可愛いし。その気がある奴が放っておくわけないって話。……つまり、心配してるってことだ」
 仙太郎が勢いよく立ち上がると、「俺は彼女が欲しいーっ!」と秋空に向かって雄叫びを上げた。

「心配してくれてさんきゅ。また好きになれる人ができたら、真っ先に仙太郎に話すよ」
「おう。そうしてくれ」
 ラジオ体操のような格好で腰に手を当て、上半身を後ろに逸らしながら、ニッと笑っている。
 オラついた見た目なのに、どこか趣のある雰囲気が沈んでいた気持ちをすっと引き上げてくれた。

「仙太郎も彼女ができたら教えてくれよ」
「いやだって言っても、言ってやる」
「えー、じゃ断ろっかな」
 茶化すように言うと、仙太郎に額を突かれた。
 お返しにツンツンヘアを乱してやろうと手を伸ばしたけど、俊敏な動きでかわされてしまう。

「俺のトレードマークをいじるんじゃない」なんて、言いながらスマホの液晶を使って髪型を整えている。真剣な眼差しが面白くて、後ろから覗き込んでやった。
 仙太郎が振り返ると、お互いの顔の近さに思わず吹き出した。

 千春がこんな風に笑えるようになったのも、親友のおかげだった。