失くした恋のつづき

 夏休みは千春にとって、たっぷり読書に浸れる貴重な時間だった。
 それが今年は違っていた。
 葵留に会えない。
 たったそれだけのことが、千春にとってはこの上なく長く、世界の時間が止まってしまったように感じられた。

 恋しい葵留の顔を思い出しては、栞を挟んでページを閉じ、部屋の窓からどこまでも広がる真っ青な空を眺めた。
 流れる雲を見ていると、窓辺で風に吹かれている葵留が思い浮かぶ。

「俺のバカ……どうして連絡先を聞いておかなかったんだ」

 毎日、旧校舎で逢っていたから連絡する必要がなく、すっかり忘れていた。
 電車通学なのか、バスなのか、それとも徒歩で通える場所に住んでいるのか。
 進路のこともそうだ。
 大学へ行くと勝手に思っていたけど、もしかしたら別の道を考えているのかもしれない。
 葵留のことを何も知らない。
 父親から暴力を受けていること以外は……。

 苦手なはずのタバコの匂いさえ恋しく思い、オンラインショップでピンクの箱を見つけたときには、衝動的にクリックしてしまいそうになった。
 未成年であることなど、その瞬間は頭からすっかり抜け落ちていた。
 それほど、葵留が不足していた。でも、会いたい理由はそれだけではない。
 長い夏休みは学校という避難場所がない。
 もし、葵留が毎日、父親に殴られていたら──想像するだけで、千春の胸は締め付けられた。

 葵留との連絡手段がないままカレンダーを睨み続け、待ちに待った二学期が始まった。
 千春は昼休みになった途端、新刊を手に旧校舎へと向かった。
 二段飛ばしで階段を駆け上がり、教室に飛び込む。──けれど、窓際に葵留の姿はない。
 そういえば、階段の途中でいつも感じる、タバコの匂いもしなかった。
「今日は俺の方が早かったのかな」
 そう思って、席に座って弁当を広げた。

 葵留の気配を気にしながら食べた弁当は味気なく、千春の気持ちは一気に下がった。

「……せっかく、夏休みに料理の練習したのに」

 成果を披露しようと、唐揚げが詰まったタッパを見つめる。
 意気込んでいた気持ちは、ぽきん、と折れてしまった。
 持ってきた本を手持ち無沙汰に読み始めたけど、気もそぞろで内容が入ってこない。
 教室のドアを見てはため息を吐き、物音がしては階段まで見に行った。

「先輩、早く来てよ……」

 ようやく一緒に過ごせると思っていた、その気持ちが声となってこぼれた。
 予鈴がなっても葵留は姿を現さず、千春は本を手に、肩を落として教室へ戻った。

 翌日も葵留と会えず、次の日も、その次の日も葵留は旧校舎に姿を見せなかった。
 最後に会ったのは夏休み前だから、もう二ヶ月近く葵留の顔を見ていないことになる。

 もしかして、酷い怪我をしてるんじゃ……。

 一旦、そんなことを考えてしまうと、居ても立ってもいられなくなった。
 連絡先を知らないどころか、クラスさえ聞いていなかったことに、今さら気付く。
 千春は勇気を振り絞って、三年生の教室を片っ端から覗いてまわった。

 大好きな背中を見つけたのは三つ目の教室で、嬉しさと安堵で大きく息を吐いた。
 廊下から教室を見つめていた視線に気付いたのか、葵留が振り返った。
 目が合う……。
「せんぱい──」と、思わず手を振りかけたその手は、空中で止まった。

 固まった表情で葵留を見つめていると、ゆっくりと千春の方へ近づいてくる。
 けれどその顔は、別人のように曇っていた。
 いつものように、優しく笑ってくれると思っていたその期待は、葵留の唇からこぼれた言葉であっけなく砕け散った。
 その理由は、よそ行きの声で、「千春君」と、呼ばれたからだった。

「『(くん)』って……どういうこと? 先輩、何があったの……?」
「……別に。何も……ないよ」

 言葉を詰まらせながらも、葵留は答えてくれる。
 その間にも、千春の視線は彼の体を探っていた。また怪我をしていないか──。
 薄っすらと古傷の痕はあるものの、生々しい傷口は見当たらない。
 それだけでも、少しホッとする。

「先輩、俺……ずっと旧校舎で待ってたんだよ」
 ウザくて重いセリフかもしれない。それでも言わずにはいられなかった。

 葵留の返事を待つ間、千春はまるで死刑宣告を待つ気分で、でも、目を背けることなく、まっすぐ彼を見ていた。
「……もう、旧校舎(あそこ)には行かないことに、したんだ……」
「どうしてっ!」
 思わず大きな声が出た。教室にいた三年生たちの視線が集まる。
 それでも、かまわなかった。

「……ごめん。また時間を作って話す──」
「今! 今、聞きたい。来てっ」
 葵留の態度に違和感を感じた千春は、理由を知りたくて旧校舎へと強引に連れ出した。
 旧校舎に来ない──。
 それはもう、自分とは会いたくないと同義語に聞こえる。
 会えなかった間に、自分のことを嫌いになったならそう言って欲しい。

 その理由が俺が男で、先輩も男って、理由なら、諦めるしかない……。

 頭の中で浮かんでは消える言葉が、どれも中途半端に途切れてしまう。
 それを、実際に葵留から言われるのが、怖かった。それでも、曖昧なままでいる方が耐えられない。

 自分より背の高い葵留の手首を握り、裏庭を突っ切って旧校舎にたどり着く。
 ふたりの秘密の場所。
 いつもの教室へ入り、真っ直ぐ葵留を見上げた。
「先輩……。もう、俺のこと、嫌いになったの? 男だからって……そう思い直し──」
「違うっ! ちは──千春君のことは……」

 また、〝千春君〟なんて、他人行儀に呼んでくる。

「先輩、俺、本当のこと言われても平気だよ。隠されたり、嘘つかれる方が嫌だっ。だから本当のことを言って。俺を避けてるでしょ、なんで?」
 いつもたおやかに微笑む葵留の顔が、苦痛に歪んでいる。
 父親に殴られた話しをするときでさえ見せなかった、痛みを堪えた表情だ。
 今、何かを言おうとするその顔は、目を背けたくなるほど苦しげにも見えた。

「……俺さ、学校を辞めるんだ。東京を離れる。担任には夏休みに相談してたんだ、辞めるか転校するか──」
「やめるって、転校って……先輩、学校からいなくなるの……」
 千春の問いに、葵留は無言で小さくうなずいた。
 その瞬間、思考がすべて止まった。

 ──いなくなる。大好きな人が、もう自分のそばにいない。

「やだ……先輩、行かないで。好きなら、そばにいてよ──」
 少し詰まった声で、千春は言葉を探した。
「俺、もっと頑張るから。料理だって、読書だって……先輩のために何でもする。だから……行かないで」
 泣きそうな気持ちを奮い立たせ、葵留を繋ぎ止める言葉を必死で考えた。
 もう、自分で何を言っているかもわからない。頭の中がぐちゃぐちゃだ。

「先輩、何とか言ってよ。学校、やめるから俺を避けてたの? よそよそしい態度になったのは何でなんだよ。東京を離れるって、どこに行くんだよっ」
 矢継ぎ早に言葉をぶつけた。
 葵留に会えない現実が受け入れられなくて、涙がどんどん溢れてくる。

「……引っ越し先は言えないんだ。学校も、今月で、来ない……」
 千春の涙から逃げるよう、葵留が放った言葉はあまりにも残酷だった。
「何で行き先も教えてくれないんだよっ。俺のことが好きなら教えてくれてもいいだろ。俺と距離を置くのって何で? 俺、離れても大丈夫だから。離れてもずっと先輩のこと好きだし、お金を貯めて会いに行く。だからどこへ──」

 腕を掴み、懇願するように言葉を重ねる。
 離れても気持ちは消えないと、何度でも伝えたかった。
 けれど、葵留の表情はますます苦しげになっていく。
 まるで何かに耐えているようで──。
 そんな顔を見てしまうと、続きの言葉を飲み込むことしか出来ない。

 このまま離れたら、もう一生、会えない気がする。
 なぜか、そう確信してしまった。

「……ごめん。言えないんだ」
 決定的な一言だった。
 もう、自分は、必要ない──。そう突きつけられたようで、心が深く沈んでいく。
 それでも、どこかでまだ期待している。
『ちはが好きだよ』と、その一言がもらえたら、まだ葵留を想い続けることが許される。
 けれど葵留はずっと目を伏せたままで、何も言ってはくれなかった。

「どうしても、教えてくれないんだ……」
 掴んでいた腕から、千春の手が滑り落ちる。そのまま、だらりと力なく下がった。
 俯いて、必死で考える。
 学校を辞める理由。
 行き先を教えてくれない意味。
〝ちは〟ではなく、〝千春君〟と呼ばれることの意味。
 埃の積もった教室の床に、涙がぽたりと落ちる。
 千春が生み出したその雫が、淡い水玉模様を作っていた。

「ちは……る君、あのな──」 
「千春って呼ぶなっ! もう……聞きたくない!」

 特別を感じる『ちは』という響きに、胸が温かくなった日々。
 それをたった一言で否定されたような気がして、涙が止まらなかった。
 好きだと言ったのは嘘だった? 
 父親からの鬱憤を晴らすため? それとも退屈凌ぎにからかっていたのか。
 男だから……初めから本気じゃなかったのか。
 その証拠に、東京を離れる理由の欠片も……話してはくれない。

 『ちは』と呼ばれるたびに嬉しくて、自分の名前が生まれて初めて愛しいと思えた。
 なのに簡単に呼び方を変えられるほど……葵留にとっては特別でも何でもなかったのだ。
 再び葵留の手が触れようと差し出されたけれど、千春は一歩二歩と後退りして離れた。
 葵留の顔が涙で滲んで見えない。
 どんな表情をしているか確かめるのが怖くて、涙を拭うことができなかった。

「聞いてくれ、ちは──」
「俺のことなんて……どうでもいいんだっ。先輩なんて……先輩なんて、どこにでも行けばいいっ!」

 怒りに任せて酷い言葉を叩きつけた。
 言った瞬間、古い教室に罵倒が響き、ぶつけた言葉が大好きだった笑顔を歪めてしまった。
 あふれ出す涙で頬が濡れても、それを拭う余裕なんてない。
 大好きな人の泣きそうな顔も、滲んで見える。
 秋風ではためくカーテンが悲しげに微笑んだ顔を隠した隙に、教室を飛び出そうと踵を返した。

 扉に手をかけたと同時に、「あの本っ」と、葵留の声が千春の背中を引き留めた。
「あの本……面白かったよ。スプレーも、それと、栞も、ありがとう。一生、大切にするから」
 かけられた言葉が廊下に出しかけた足を止めた。
 その声に、言葉に、振り返って葵留の顔を見たいと思った。

 酷いことを言ったと謝らなければ。
 本を読んでくれてありがとう、と言いたい。
 頭の中でそう思っていても、ちっぽけな意地がそれを邪魔してくる。
 振り返ることを選ばず、千春は暴力のような言葉を残したまま、旧校舎を飛び出した。
 背中に『ちは』と呼ぶ声が聞こえた気がする。
 でもその声は、願望が作った幻聴かもしれない。そう思うと、また涙が流れた。

 夏の名残りで、精力の満ち溢れた雑草をかき分けながら走った。
 闇雲に走りながら、初めて葵留と出会った日のことや、本を読んだこと。タバコの匂い、告白してくれたことや、初めての口づけを身体中に溢れさせていた。

 ネクタイは緩ませているし、制服はいつもシワだらけでだらしない。
 見兼ねてヨレたシャツの背中を手のひらで整えてあげると、肩越しに笑って、優しいなぁと言ってくれた。
 傷の絶えない体が心配で、何も出来なかった非力な自分でも葵留はいつも優しかった。
 それでも恋をしていたのは自分だけだったのかと、どん底まで落ち込んでしまう。

 教室に戻った千春は、「頭痛がする」と言って早退した。
 廊下で仙太郎が心配そうに声をかけてくれたけど、まともに顔を見られなかった。
 きっと、仮病だってバレてたと思う。
 本当の理由を隠して、演技で自分を守った。
 そんな自分が本気で嫌になった。
 そのあと、千春は二日間学校を休んだ。
 涙を我慢して何事もない顔で過ごす自信がなかったからだ。