失くした恋のつづき

 葵留からの一方的な約束に警戒していたのは最初だけで、いつの間にか千春は昼休みが待ち遠しくなっていた。
 一人の時間を楽しむために通っていた旧校舎は、いつしか葵留への朗読会の場となり、今日も千春は二段飛ばしで階段を駆け上がっていた。
 お気に入りの本を手に、教室で待つ笑顔を思い描きながら、扉を勢いよく開けた。
 タバコの香りがふわっと鼻腔を掠める。

「ちは、おっはよ。なあ、昨日の本、めっちゃ面白かった。あれ、続きないの?」
 葵留が吸いかけのタバコを携帯灰皿に押し込みながら、屈託のない笑顔を向けてくれる。
 会って早々、他に言うことはないのかと、言いたくなったけど、タバコを消したからヨシとする。
 千春が言い続けたからか、禁煙を心がけてくれるようになったけど、まだ褒められるに値しない。
 それよりも千春が気になっているのは、葵留の傷痕だ。

 ──よかった、痕が薄くなってる。新しい傷もないな。

 ジッと葵留を観察していると、ちはってば、と催促された。
「お、おはよって、今、昼休みですよ。それに先輩、また昼飯がパン一個だけですか?」
 机の上にコンビニの袋を見つけると、かじりかけの焼きそばパンが半分顔をのぞかせていた。
「俺、パン好きなんだ。……なあ、それより本の続き! ないの? ちは」
 パンが好きだと言うわりに、完食しているのを見たことがない。ちゃんと食事を取っているのか、それも気掛かりの一つだった。
 自分より年上なのに駄々をこねるから、続編は来年です、と子どもをなだめるように言ってやった。

「えー、マジ? 俺、来年まで待てないよ。それに学校、卒業しちゃうしさ」
 葵留の言葉にドキッとした。

 ──そうだった。来年の春にはもう、ここに来ても、先輩はいない……。

 本を持つ手に自然と力が入り、気づけば唇を噛んでいた。
「ちーは。どうした? あ、腹減ってるのか? 食べかけだけど焼きそばパン食べる?」
 ふいに顔を覗き込まれた。
 ハーフアップにまとめきれなかった髪が、はらりとこぼれ落ちる。
 せっかくきれいな髪なのに、机の埃が付いてしまう。
 千春はそっと指先でその髪をすくい、耳にかけてやった。

「腹は減ってません。それよりも、その変なあだ名なんとかなりませんか」
 葵留の髪から手を離すと、千春はページを開いて視線をそこへ落とした。
 胸の中に生まれた寂しさを悟られたくなくて、つい、愛想のない口調になってしまう。

「えー、『ちは』ってだめ? 可愛いし、絶対ほかのやつとかぶんないっしょ」
 確かにかぶらない。けど、なぜ他のみんなと一緒じゃ嫌なのか。
「あ、けどさ。千春って『千』に『春』で〝ちはる〟だろ? それって、何度でも春を迎えらえるようにって意味だよな。やっぱ、ちはるって呼ぶか。いい名前だもんな……。いや、でも、ちはの方が可愛いな。うん、俺はやっぱ『ちは』にしよ」
 自分で自分に問いかけて、納得している。
 呼び方なんてどうでもいいのに、と思いながらも、喜んでいる自分がいる。

「そ、それより今日こそ、遅刻せずに登校したんですよねっ」
 嬉しいくせに、素直になれなくて、また偉そうな言い方になってしまった。
 自覚はある。あるけど、どうしても反感を買うような言い方になってしまう。

 これじゃ、いつか葵留に嫌われ──
 え、あれ? もしかして俺って、嫌われたくないって思ってる……? 
 いやいや、違う違う。先輩がだらしないから、放っておけないだけだ。

 自問自答している間に、気づけば葵留が目の前まで来ていた。
 ぱちりと目が合い、無邪気な笑顔を向けられた瞬間、千春は慌てて顔を逸らしてしまった。
「なあ、なあ、ちは。今日の本はミステリー? ファンタジー? それともBとLのいちゃいちゃストーリー?」
「び、BとLって、ボーイズラブのこと? そんなのは読みません。俺の管轄外です」
「管轄外って、ちははやっぱりいいな。けどキュンキュンしそうじゃない? ちはと一緒にこうやっていると、俺も本の主人公になった気分だ」

「キュンキュンって……。先輩、言い方が古い。もう昼休みの時間なくなっちゃうから読みますよ」
 本当はちょっと興味があったジャンルです、何てことは口が裂けても言えない。
 もしそんなこと言ったら最後、ここで朗読させられるに決まってる。
 〝お前が好きだ〟とか〝愛している〟とか、そんなセリフが出てきたら、恥ずかしすぎて声に出せるわけがない。
 さっさっと読んで、専門外の話は忘れてもらおう。

 気を取り直して腰を下ろすと、葵留も、いつものように椅子の背もたれを抱きかかえるようにして座る。
 前後に並ぶこのスタイルも、もうすっかり定番になっていた。
 予鈴が鳴るまでの、ほんの短い時間が、いつもあっという間に過ぎていく。

 あらすじだけじゃ伝え足りない──
 本当は丸一冊、読んでほしい。それでも、「ちはの声で読んでほしい」なんて言われたら、もう、自分で読め、なんて言えなくなった。
 一人で食べていた弁当も、葵留と一緒だと、今まで以上に美味しく感じる。

「食べる?」と唐揚げを差し出したときに見た、あの嬉しそうな顔──

 その一瞬で、料理に興味が湧いた。
 今度は自分で作ってみよう。そう思わせてくれたのは、葵留のこの笑顔だった。

「そういえば、ちはって誕生日はいつ? 朗読のお礼も兼ねて何か買ってやるよ」
 ある昼休み、葵留から唐突に聞かれた。
 誕生日祝いなんて、中二のときに母が小説を買ってくれたのが最後だ。
 翌年になると「受験生だもんね」とケーキだけで済まされ、進学すると、今度は「もう高校生だもんね」と言われた。
 千春の誕生祝いはあっけなく終焉(しゅうえん)を迎えたのだ。

 背中がむずがゆくなるような感覚に、千春は思わず「……先輩はいつ?」と、質問に質問で返していた。
「俺? 俺は、七月七日。来月の七夕さまの日だよ」
 覚えやすいっしょ、と笑う声がやけに軽い。
 けれど、頬に新しくできた傷が目に入って、喉が急に重くなる。

 一度、救急箱を持ってきたことがある。
 けれど、素人の手当じゃ、消毒して絆創膏を貼るくらいが関の山だった。
 刻まれた傷痕は痛々しくて、見ているだけで胸が痛くなり、癒してあげられない自分がもどかしい。

「じゃ、先輩の方が先ですね。俺、四月なんで」
 心配ばかりしていたら、きっと彼はもうここには来ない気がする。だから、あえて見ないふりをした。
 たわいもない話で、自分の歯がゆさを隠すように……。

「えー、四月? 終わったばっかじゃん。俺、ちはに贈りたいものあったのに、来年まで我慢──あ、そっか、クリスマスでもいっか。いや、それより、半分のなんちゃらって祝う日があったよな」
〝半分の何ちゃら〟って、真ん中バースデーのことを言っているのだろうか。
 もしそうなら、六月だな、と千春は心の中で思った。
 目の前では葵留が腕を組み、やけに真剣な顔をして悩んでいる。その様子に、ふっと笑みが漏れた。

「なに、なに、ちは。何で笑ってるんだ。あー、さてはまた俺を馬鹿にしてるんだろ」
「ちが──」
 言い終わるより早く、「こいつぅ」と声を上げながら、葵留が両頬を指で摘んできた。
「いひゃいれす、へんはいぃ……」
 千春がモゴモゴ言っていると、今度はそっと、摘まれた部分を指先で撫でられる。
 くすぐったくて、でも、それ以上にやさしくて。
 まるで「痛くない?」と確かめるように、労わる手つきだった。

「ちはは可愛いなぁ。それに、いっつもいい匂いがする」
 葵留が触れてくる部分が熱い。
 そこから徐々に全身へと熱が通電し、表面を覆う肌を突き抜けて赤く染まってくる気がした。
「い、いい匂いって、お、俺、香水、とか持ってない、よ」
 正面から見つめられているだけで、頭が真っ白になる。
 うまく言葉がつながらず、息まで不規則になってしまった。
「何だろね、体臭? かな。きっと遺伝子レベルでちはに惹かれてるんだ」
「え……」

 今、先輩は何て言った? 
 ヒカレテルって、どういう意味の──

「ちはが好きだよ」

 不意打ちだった……。

 まるで本の一節のようにきれいな言葉なのに、今は物語じゃない──これは、現実だ。

「ずっと俺のそばにいてよ、ちは」
 心臓がどくんと跳ねた。
 とどめのようなその言葉に、どう返せばいいのかわからず、ただ、口をポカンと開けたまま、声を失っていた。
 その唇の動きを見守るように、葵留は陽だまりみたいに柔らかく笑って、千春の髪を撫でてくれた。

「せ……んぱい、も俺も、男、ですよ?」
 確かめるように呟いた常識は、葵留の微笑みと告白で、木っ端微塵になってしまった。
 僅かに残っていた理性も一蹴され、抗うことができない心は、もう喜んでいる。

「うん、男でも女でもどっちでも一緒だよ。『ちは』だから好きなんだ」
 葵留からの言葉を聞いた途端、自分も同じだと、伝えたようとした。けど、臆病な唇は震えて閉じてしまった。

 言葉が出てこない。
 胸の奥がぎゅうっと締めつけられて、苦しい。でも、嬉しい。
 そう思った瞬間、葵留の顔が至近距離まできていた。
 瞬きもせず、一重瞼の瞳を見つめていると、千春の唇に葵留の唇が重なった。
 何が起こったのかすぐには理解できず、茫然としていると、片エクボをの微笑みで髪を撫でてくれる。

「好きだよ、ちは」

 言葉と一緒に千春の体は、抱き締められていた。
 葵留の鼓動が鼓膜に注がれる中、許容範囲を超える出来事に戸惑ってしまう。

 キス……した。おれ、先輩……と。

 心臓が破裂しそうなとほど、脈打っている。
 全身が熱くて溶けそうだ。

 気づけば、いつも葵留のペースに巻き込まれていた。
 いつだって笑顔で、まっすぐで、人懐っこくて。
 優しい声も、触れ方も、いつの間にか全部に惹かれていた。
 旧校舎で葵留と過ごすことが楽しみで、休日がつまらなく感じるようになっていた。
 その意味が、目の前の人を好きだということが、優しく触れるだけの口づけで、今ようやく千春は知った。