失くした恋のつづき

「……ちは」
 囁くような声音。
 それに応えるよう、千春は目を伏せて惠護の袖をきゅっと摘んだ。
 心臓の音が高鳴る。
 惠護に聞こえてしまいそうで、余計に意識して忙しなく脈打つ。
 惠護に手を取られると、そのままベッドまで歩いて抱き締められた。
 さっきよりも強く、熱っぽい抱擁。

 言葉を交わさないまま、ベッドに腰掛ける。その間も千春の頭の中は真っ白で、されるがままシーツに背中をつけていた。
 口づけが降ってくると、シャツの隙間に指先が滑り込できて、背中がぴくりと跳ねる。
 ただ肌に触れられただけなのに、体の奥まで熱が走った。

「ちは、こっち、見て……」
 静かな声に導かれて目を開けると、惠護の目に強い光が宿っていた。
 いつもの優しさの奥に、今は隠しきれない欲がある。
 でも怖くなかった。
 再び唇が重なったのは、自然のことだった。
 柔らかく触れ合い、ゆっくりと深くなっていく。
 唇が離れても、その間に生まれた熱は消えない。

「これからも俺だけを見ててほしい。……ちはを、俺だけのものにしたい……」

 掠れた音で言われた言葉に、千春は小さくうなずいて答えた。
 胸の奥が痺れる。惠護の言葉が、触れ方が、千春のすべてを支配してくる。
 指が首筋をなぞり、胸元に惠護の指先が触れる。そうされるたびに、小さな息遣いが千春の口からこぼれた。
 惠護の指が、唇が、舌が忙しなく動き、千春の中の熱がゆっくり溶かされていく。
 言葉にされなくても、快楽の奥にある、惠護の『欲しい』という気持ちが伝わってくる。

 同じだと伝えたくて、千春は惠護の首に腕を回した。
 もっと触れてほしい。もっと自分を欲しがってほしい。
 想いが拙い動きを通じて、互いの体と心を溶かしていく。
 二つの息が浅く繰り返され、汗ばんだ肌と肌が触れ合うたびに、熱がどんどん高まる。
 密着した体温が上昇すると、もう、言葉は必要なかった。

 惠護の指で髪をすかれるごとに、肌の上をその指が滑るたびに、どれだけ逢いたかったか、どれだけこの瞬間を願っていたかを惠護に刻んでいく。

「……ちは。ずっと、触れたかった」
 千春の胸元に顔を埋めるようにして、惠護がそう呟く。
 答える代わりに、千春は回した腕に力を込めて背中を抱きしめた。
 重なった体は驚くほど温かく、汗ばむ肌の感触も、性急に刻むメトロノームのような鼓動も、何もかもが愛おしかった。

 静かに重なる唇、繋がれた指先──それだけで満たされていく。
 急がなくていい。求めすぎなくていい。
 今はただ、二人の距離を確かめるように、優しく、深く、結ばれていたい。
 心と心が重なった場所に、初めて触れられる感覚。
 互いの脆さを知っているからこそ、慎重で、丁寧で、時折震えるような一瞬がいくつも訪れ、肌の下までそれら全てが浸透してくる。

「……大丈夫?」と惠護が心配してくれる。
 千春は小さく笑って「大丈夫です」と答えた。

 惠護がゆっくりと、千春の体を開いていく。
 知らなかった甘さも、痛みも、教えてくれるのは目の前にいる人がいい。
 何があっても、この人になら、全部預けられる──そう思えた。

 微かな痛みを伴い、惠護が千春の中へと入ってくる。
 苦痛に歪んだ顔を心配して、離れようとするからその手を止めた。
 惠護から与えてもらうものは、何でも受け入れたい。
 痛みが薄れると、はしたない声が勝手に口から溢れてしまう。
 恥ずかしくて口を手で押さえたら、その手を惠護に取り除かれた。

 ──声を聞かせて……。

 耳元で囁かれた言葉に返事ができない。
 自分が自分でなくなりそうで、声を出すことが無理だった。
 ねだられるよう、見下ろされる瞳を見れなくて顔を向けた。それをキスで止められる。
 幼かったころには知らなかった、絡みつくような口づけ。
 唇からもれる声や水音が恥ずかしい。
 その間も、惠護はどんどん先へと進めようとする。忙しなく動く惠護を受け入れるよう、千春は必死でしがみついた。

 初めて知る痛みもくすぐったさも、やがて静かな満足感に変わっていく。
 求め合うだけじゃない。
 お互いを包み込むような触れ合いに、これまでの寂しさが満たされていった。
 
「ちは……大好きだ」

 世界中で『ちは』と呼んでくれる人は惠護だけ。 
 好きだと言われて、身体中が喜ぶのは惠護だけ。
 泣きそうだった。
 泣きたくなるほど、嬉しくて、幸せだと思った。

「俺も、先輩が好き。大好き……」

 言ってすぐ、恥ずかしくて惠護の胸に顔をくっつけた。
 抱き締める腕が優しくて、強くて。
 自分という存在ごと、受け止めてもらえているのがわかる。

 長い長い時間を超えて、ようやくここにたどり着いた。
 だからこそ、この先、どんなことが訪れても、巡り合わせてくれた奇跡が二人の絆になる。
 今夜のぬくもりが、二人を永遠に繋ぎ止めてくれると信じられた。


****

 温かな腕の中で、どれくらい眠っていたのか、千春はふと目を覚ました。
 窓の隙間から差し込む柔らかな朝の光が、カーテン越しに部屋を淡く照らしている。
 隣では、惠護がまだ静かに眠っていた。
 寝息は穏やかで、胸がゆっくりと上下しているのを見ていると、それだけで安心する。

 千春はそっと身じろいで、恋人の顔を覗き込んだ。
 長い睫毛の影、無防備に脱力した表情。
 こんな風に、近くで見つめられる日が来るなんて思ってもいなかった。

 ふと、瞼の傷にそっと触れてみる。

 この瞳が無事でよかった……。
 本当に、生きてくれていて、よかった。

「……夢みたいだ」
 誰にも聞こえない声で、ぽつりと呟く。
 記憶の中にしかいなかった人。
 手を伸ばしても、触れられなかった人。
 だけど今、こうして隣にいる。
 すぐそばにいてくれる。
 呼吸の音も、肌のぬくもりも、全部が『今』を教えてくれていた。

 千春は、そっと手を伸ばして惠護の髪を撫でた。
 指先に触れる感触がくすぐったくて、愛しさが胸いっぱいに広がっていく。

 傷ついて、遠回りをしたけれど、また大好きな人と巡り合えた。
 それだけで、過去がすべて意味のあるものに思える。

「まも──けいご、さん……」

 大好きな人の名前を呼ぶと、眠っている彼の眉がわずかに動いた。
 でもまだ、起きる気配はない。
 千春は小さく笑って、愛しい人の額にそっとキスを落とした。

 声に出さずに、「好きだよ」と唇だけで形にして、惠護の胸に寄り添って目を閉じた。

 隣に惠護がいる。
 それだけで、どんな朝よりも、優しくて眩しかった。

 惠護として再び心を結ぶことができた。 
 名前が違っても、目や髪型が違っても、そばにいるのは大好きで、大切な人。
 再び出会えたこの奇跡を大切にしたい。
 小さなかけらのような出会いに感謝を忘れず、惠護の隣で一緒に未来を歩きたい。

 愛しさを超えて、悲しみを捨てて、新しい二人になれるように……。

 惠護に寄り添っていた千春の体は、いつの間にか温かな腕に包まれていた。
 惠護の唇がかすかに動き、耳元で囁かれた、『ちは』という、特別な響き。
 その言葉で、千春の頬を涙が伝う。

 愛おしいという気持ちと安らぎ、大切にしたいという思いを、胸いっぱいに満たしてくれる人は惠護だけ。
 あのころと同じ香り、同じ腕の強さ、同じ鼓動がすぐそばで息づいている。

 戸惑いも笑顔も一つ一つ重ねて二人で過ごせば、もう他には何もいらない。
 二人でいれば、悲しむことなんて二度とない。

 好きの気持ちは、この先、幾重にも重なって続いていくのだから。