失くした恋のつづき

 旧校舎で迎えたクリスマスは、千春にとって、生涯忘れられない一日となった。
 特別な場所で葵留と再会した出来事を、千春は夕食の支度をしながら静かに思い返していた。

 もう二度と会えないと思っていた人が、実はずっとそばにいて、自分を見守ってくれていた──。
 それが、どれほど嬉しかったか。
 一生会えないと思っていた人と、実はずっと一緒にいたなんて。

 惠護先輩が、葵留先輩だった……。
 こんな奇跡のようなことが、自分に起こるなんて。
「まだ、夢見てるみたいだ」

 旧校舎で全てを知らされたとき、千春は、まるで長い夢でも見ているような気がしていた。
 信じられなくて、惠護にむちゃくちゃなことを言ってしまった気がする。
 けれど、本当は信じたかった。
 嬉しすぎて、でも、それ以上に怖かった。
 最後に放った千春の言葉は、大好きな人を苦しめる結果を生んでしまったからだ。

 なのに、惠護先輩は俺を責めないで、「自分が悪い」と笑ってくれた。

 葵留が事故に遭って助かったあの日から、奇跡はすでに始まっていたのかもしれない。
 大切な人の喜ぶ顔が見たいと願う──そんな優しさと想いやりに満ちた特別な日だからこそ、あのとき、小さな奇跡が千春のもとに訪れたのかもしれない。

 唐揚げを揚げる手を止め、千春はベランダへ目を向けた。
 ガラス越しに見える冬の景色には、ぽつぽつと温かな明かりが灯りはじめていた。
 ふと、小さな自分が読んだ絵本の表紙が浮かんだ。そこには、「クリスマスは不思議なことが起きる日」「愛する人と心が通じ合う日」──そんなふうに描かれていた。

 サンタクロースから届く贈り物を信じて疑わなかった、あのころ。
 子どもだった千春にとって、一年に一度のこの日はまさに〝奇跡〟そのものだった。
 実際には両親や大人たちの優しい嘘だったけれど、嬉しく感じた記憶は今も鮮やかに残っている。

 唐揚げを皿に盛り付けながら、千春はあの日の〝奇跡〟を思い返した。
 クリスマスの日に降った雨で、解体工事の着工は延期になった。
 雨の中に佇んでいたときは、それが幸せの始まりになるとは思いもしなかった。
 テーブルを拭こうと布巾を手にしたとき、置きっぱなしの本が目に入った。

「もう、またこんなところに置いたままで……」

 文句をこぼしながら本を手に取ると、ページに挟まれた栞が目に留まる。
 挟まれたページをめくった瞬間、自然と表情が緩んでしまった。

 これ、ずっと使ってくれてたんだ……。

 高校生のころ、千春が初めて葵留に贈った手作りの栞。
 青い色紙に、夜空を模して星を描き、そっと添えた一言。

 ──ずっと一緒にいられますように──

 以前、食堂で惠護がカバンから落とした青い紙を見たとき、どこか心に引っかかるものがあったのに、どうしても思い出せなかった。

 あれ、この栞だったんだな……。

 ずっと使ってくれていた惠護を想像すると、胸の奥が甘酸っぱく疼く。
 不器用な字で綴られた一言が、あの日の純粋な想いをそのまま映し出している。
 こんな照れくさい言葉を、本当に心から願っていたんだと、幼かった自分を微笑ましく思ってしまう。
 その『願い』が、今、こうして繋がり、惠護のそばにずっとあったことが愛おしい。
 あのときの祈りが、ちゃんと届いていたから。それが、本当に嬉しかった。

 栞をそっと読みかけのページに戻し、本ごと胸に抱きしめると、丁寧に本棚へと戻した。
 テーブルに料理をすべて並べ終えると、千春はベランダに出て、夕暮れに染まる空を見上げた。
 オレンジから青へと移ろうグラデーションの空。
 アパートの前を流れる川には、風に揺れる桜の枝葉が映っていた。
 来年の春、並木道を歩きながら、満開の桜を大好きな人と一緒に見られる。
 そう思うだけで、涙が溢れそうなほど嬉しかった。

 寒さも忘れて景色を眺めていたら、下から「風邪ひくぞ」と声が飛んできた。
「先輩っ。お疲れさま」
 川沿いを歩いてこちらに向かってくる惠護に手を振ると、「ただいま」と返ってきた。

 ──心臓が跳ねる。
 普通の挨拶でも、惠護から聞くと特別な言葉だ。
 愛しい姿に見惚れていると、千春はハッとして部屋に戻った。
 惠護の足なら、二階なんてあっという間に着いてしまう。
 急いで窓を閉めると、胸を高鳴らせながら玄関へと向かった。
 惠護専用のスリッパを下駄箱から出すと、タグがついたままだったのに気づく。

「うわ、まだ切ってなかった……」

 慌てて部屋に戻ると、ハサミを手に玄関へ戻ったところでインターホンが鳴った。

 ほんと、足が長すぎるんだよ──。

 心の中で文句を言いながら、千春はドアを開けた。
「ちは、ただいま──って、同棲してるみたいだな。けど、ハサミ持ったままで迎えられるとは思わなかった」
「お、お帰りなさい。す、すみません、先輩。俺、タグを切るの忘れてて。ちょっと、待ってくだ──うわっ」
 タグに刃を入れようとした瞬間、惠護に抱き締められていた。

「俺用の、買ってくれてたんだ。嬉しいな。ありがと、ちは」
 耳元に届いた声がじんわりと心に染み込んでいく。
 甘く、優しく、胸の奥がくすぐったくなるような声音が、耳の奥で広がった。

「せ、先輩……ハサミ持ってるんですから、危ないですよ。離れてくださいってば」
「やだよ。頑張ってカテキョしてきた俺を、ちょっとくらい甘やかしてくれてもいいじゃん?」
 大学で話すときとは違う、どこか幼さを残した甘い声。
 その響きに、高校生だったころの葵留が重なった。
 ねだられると、なんでもしてあげたくなってしまう、あのころの『葵留』の音。

 ……でも、今は違う。

 高校のときとは僅かに違う、ほんの少しハスキーで鼻にかかった惠護の声。
 昔と変わったところもあるけれど、優しさだけは何ひとつ変わっていなかった。

 心を鬼にして、惠護の腕を突っぱねると、彼は少しだけ寂しげに眉尻を下げている。
 昔なら、ハサミなんて放り出してでも慰めていた。けれど今は、もう、そうしなくても大丈夫。
 千春自身も、あのころのように心配ばかりしなくていいのだ。

 千春はタグを切って、「はい、どうぞ」とスリッパを彼の胸に押しつけた。
「冷たいな、ちは」
 口ではそう言いながらも、惠護の顔は満面の笑みだ。
 その笑顔の中に、小さくエクボが浮かんでいた。あのころとまったく同じ場所に。

 旧校舎で再会したとき、千春は一つだけ気になったことを口にしていた。
 惠護が『葵留』だとわかったあと、「先輩のエクボ、どこいったんですか?」と。
 返ってきた答えに、お腹が捩れるほど笑ってしまった。
 今、思い出しても腹筋が痛い。
 まさか、毎日コンシーラーで隠していたなんて。
 大きな声で笑うことを我慢していたなんて。
 そんな影の努力を、誰が想像できただろうか。

 ──けど、それだけ俺を大切にしてくれてたんだ。『葵留』と一緒に……。

 鏡の前でエクボを隠す姿を想像していると、惠護がスリッパを履いて「似合う?」と、笑いかけてくる。片方だけのエクボは、もう丸見えだ。
「あーはいはい。似合ってます。ほら、早く手を洗って、うがいしてください。唐揚げ、もう出来てますから」
「はい、はーい」

 コートを脱ぎながら背中で返事をする背中を見つめていると、クルッと惠護が振り返る。
 肩越しに見せた顔は、くっきりとした二重に、大人びた表情。
 けれどその奥には、あのころ、本を読んでと、甘えてきた『葵留』が、ちゃんと息づいていた。

「たくさん作ったから、思う存分食べてください」
 千春の言葉にかぶせるように、「任せろ!」と、百点満点の笑顔と声をくれる。
 そのまま惠護は洗面所へとスキップして行った。
 手を洗う音を聞きながら、千春は『葵留』の姿と惠護を重ねた。

 どうして惠護が、葵留だとわからなかったのか……。

 全てを知った今だからか、惠護の中には葵留の面影が滲み出ているのがわかる。
 茶髪の長い髪をいつもハーフアップにして、ミステリアスな一重瞼は落ち着いた雰囲気だった。
 けれど、父親に殴られた痕が刻まれていた表情は、ひどく健気に見えた。

 事故で怪我をした目元はくっきり二重になり、その瞳は柔らかな印象に変わった。
 人の印象の中心になる瞳は、たったそれだけのことでも別の人間を作り上げてしまった。

 けれど、ちゃんと見れば、葵留だと気付いたかもしれない。
 見た目が違っても、あの瞳にだけは、葵留が残っていたのに。
 箸を並べながら、ふとした瞬間に〝似てる〟と感じては、〝気のせいだ〟と否定してきたことを思い出していた。
 惠護が『葵留』だと疑ったことは一度もなかった。
 あのとき──『ちは』と呼ばれるまでは。

 今思えば、惠護がちはと、呼んだときは感情が昂っている瞬間だった。
 まさか、そんなはずがない。
 そう思いながらも、あの声には、あの名前には、抗いようのない確信があった。……そう思う反面、奇跡を期待する自分を抑えるのに必死だった。

「ちは、手洗いうがい完了し──うわぁ、マジでうまそうっ」
 テーブルにずらりと並べたのは、唐揚げを筆頭に、惠護の好物ばかりだった。
「すぐごはんよそいますから、座って待ってて下さい」
「唐揚げにクリームシチュー、それと、肉じゃが。全部、俺の好物ばっかじゃん」
 カーペットの上に座ったものの、惠護が身を乗り出して子どものようにはしゃいでいる。

「今日はクリスマスの代わりだから。けど、シチューのジャガイモはやめました。肉じゃがとかぶるんで。代わりにカリフラワー入れたけど、嫌いじゃなかったですか?」
 既に手を合わせて合掌のスタイルをする惠護が、「俺、好き嫌いないからさ」と、最高の笑顔を見せてくれた。
 朝から頑張って用意した甲斐あったなと、こっそり安堵していたら、いただきますの声が聞こえて惠護はもう唐揚げを頬張っている。


****

「……俺さ。大学でちはを初めて見たとき、本当に心臓が止まりそうだった。まさか、同じ大学になるなんて夢にも思ってなかったからさ」
 食後のお茶を飲んでいると、唐突に言われた。
 惠護が口にしたことは、千春も同じだった。
 二度と会うことなどできないと思っていた人に、こうしてまた巡り会えた。
 こんな再会は、奇跡としか言いようがない。

「言ってなかったけどさ、俺とちはって合コンで初めて会っただろ? ……実は、ちはがその飲み会に来るって聞いて、俺、絶対行こうって決めたんだ」
 お茶を注ぎながら、惠護がしれっと言う。

「え! う、うそ」

 その場に立ち上がるほどこっちは驚いているのに、満腹になったのか、惠護は両足を投げ出し、手を床について上体をそらす無防備な格好をしている。
 そして照れくさそうに、でもどこか嬉しそうな顔で千春を見てきた。

「ちはのこと、大学で見かけてから毎日必死で探してたんだ。そしたら、豊浦と一緒にいるとこを見かけたんだ。あいつと学部が同じだったから、いつかちはと接点できるかなって企んでた。誘われた飲み会にも、全部顔出したんだ。もしかしたら、ちはも来るかもって期待してさ。ダチからは〝飲み会男〟ってあだ名つけられたけどな」

 惠護の告白が胸に染み入る。
 自分のことを探してくれていたなんて、泣きそうだ。
「そ、そう言えば、お友達に呼ばれてましたね。飲み会男なんて言われてたから、よっぽどお酒好きなのかなって思ってました」
 目の奥が熱くなったのをごまかすよう、千春はわざと明るく振る舞うと、残りのお茶を一気に飲み干した。

「俺、酒はあんま飲まないようにしてるんだ。親父が飲むと、いつも以上に暴力的になったから、酒にはあんまりいいイメージがない」
 決して忘れることの出来ない、痛々しい葵留の顔が浮かぶ。
 あのころの自分には、葵留を暴力から守る術なんてなかった。
 ただ、どうにかできないかと、無力感に押し潰されながら、ネットや本を読み漁っただけ。

 そんなことしか俺はできなかった……。

 でも、今は違う。
 もしまた惠護の前に父親が現れても、今の自分なら戦える。
 あのころよりずっと、惠護を、葵留を守れる。

「先輩のお父さんのこと、詳しくは知らないけど……話を聞く限りでは、劣等感や無力感の裏返しなのかなって。自信のなさを隠すために、先輩にストレスをぶつけてたのかも。弱い立場の人にだけ暴力的になるのって、支配欲とかコントロールしたいって気持ちから来る──あ、すみません。俺ってば偉そうに……」

 ジッと見てくる惠護の視線に気づき、千春は言葉を止めた。
 六人部の元で学んだとはいえ、自分の言葉として語るには、まだ早いのかもしれない。
「詳しいな、ちは。そういうのも講義で習うんだ」
「あ、はい……。六人部先生の講義はわかりやすいし、難しい内容でも、あとで丁寧に教えてくれるんです」
 講義の話をしただけなのに、惠護の表情が曇った。

 あれ、何かまずいこと、言った?

 自然と眉間にシワが寄る千春に、「六人部と……仲いいんだな」と、思いがけない言葉が返ってきた。
「えっと、普通だと思いますけど……」
 首を傾げて答えると、だらりと背を預けていた惠護が、ふいに体を起こした。
 腹に力を込め、上体を引き寄せるようにして前のめりになる。そして、あぐらをかき、太腿に肘をついた姿勢で、真っ直ぐこちらを見据えてきた。

「前にさ、中庭で楽しそうに六人部と、ちはがいるとこ見た。しかも、ちはが作ってきた何かを六人部も食っててさ。百歩譲って豊浦は許せるけど、他の、六人部みたいなイケメンが、ちはの手作りを食うなんて許せない」
 言い終えた惠護が、顔をプイッと横に向けている。
 心なしか、頬が膨れているように見える。
 明らかに拗ねている態度とセリフだ。

 可愛い……。
 けど、それなら俺だって言いたいことがある。

「あれは仙太郎に作ってきたパオを、たまたま通りかかった先生におすそ分けしただけですよ。特別な意味なんてありませんっ。それを言うなら惠護先輩だって、あのとき女の人と楽しそうに食堂にいたでしょ? あのときだけじゃない。惠護先輩の周りには、きれいな女の人がいっつもいて。お、男の人からも肩なんか組まれちゃって……鼻の下伸ばして、デレデレしてるんでしょっ」
 気づけば、昔のような口調になっていた。

 けど──そんなの知るもんか。
 先生と俺の組み合わせなんかより、そっちのほうが、何倍も……許せない……っ。

 今度は千春がそっぽを向き、急須からお茶を勢いよく注いだ。
「誤解だって! それにデレデレなんてしてない。あれはツレの彼女で、隣にいたのは、その友だちだ。俺は潔白なんだよ、ちは」
「あー、ありますよね。そういうの。友だちの彼女と、いつの間にかくっついちゃうやつ」
 刺々しい言葉を乱暴に投げると、千春は「食器、洗ってきます」と言い残し、ガチャガチャと皿を重ねてキッチンへ向かった。

 なにが『六人部と仲いいんだな』だよ。
 自分のこと棚に上げて、いつだって惠護先輩のそばには誰かがいて──

 脳内で文句を言っていると、背中から勢いよく抱き締められた。
「ちょ、ちょっと先輩、なにして──」
「ちは……俺、たぶんお前が思ってる以上に、お前のことが好きだよ」
 吐息混じりの声が耳元をかすめた瞬間、心臓が跳ね上がる。
 手が震えて、皿がシンクに滑り落ちた。
 カシャン、と軽く音を立てて跳ねたけれど、それどころじゃない。

「お、お皿が──」
「なあ、ちは。俺……お前に、まだ言えてないことがあるんだ」
 静かな声音は、不意打ちのように胸を縮こませる。
 漫画の吹き出しのような、大きな『ドキリ』の文字となって、千春の心臓に刺さってきた。
 何を言われるのかと身構えていると、惠護は千春の肩に顔を預け、グリグリと額を押し付けてきた。まるで猫が甘えるように。

「ちは、怒らないでくれよ。俺さ、最初に会った居酒屋で……お前がトイレに立ったの、わかってて追いかけたんだ。わざと……袖、汚して」
 言い訳めいた告白に、言葉を失った。
 けれど怒るよりも、嬉しさが先に込み上がってつい口元が緩む。
 でもここは少し、フリでも怒った方がいい気がする。

「……きっかけを作るために、わざとシャツに醤油つけたってこと?」
「ごめんっ。でも、どうしても、ちはと話したかったんだ。やっと……飲み会で会えたから」

 信じられない──。

 でも、そう思ったのはほんの一瞬で、自分のそばで項垂れている恋人の姿が、どうしようもなく愛おしくて、心の底からあたたかくなる。

 そっか。俺と会えるかもって、飲み会に参加してたって言ってたもんな。

 肩越しに伝わるぬくもりは、あの旧校舎で初めて抱き締めらたときと同じ。
 千春はゆっくりと体を反転させ、惠護と向き合う。
 優しげな顔立ち、くっきりとした二重。
 やっぱりそこには、葵留の面影があって──思わず、涙が出そうになる。

 本当に葵留先輩なんだ……。
 ほんとに、生きて……たんだ。

 その頬に触れようとしたが、手には泡が残っていて、触れるのをためらってしまう。
「何で、止めるの」
「だ だって、手、泡だらけだから……」
 濡れた手を引っ込めようとしたのに強引に手首を掴まれ、千春が望むところに触れさせてくれた。

「いいんだよ、ちは」
 頬に泡が付いているのに惠護が笑ってくれたから、そっと肌に触れてみた。
 温もりがちゃんと伝わる。
 もう一方の手も添えると、確かにそこに生きていることを感じた。
 千春の仕草に応えるよう視線が注がれると、自然と二人の距離は縮まって唇が重なっていた。

 ふわりと羽のような感触が唇に触れる。
 それはとても慎ましくて、けれど、奇跡のような再会を果たした二人には、ぴったりだと思えた。
 優しいふれあいとは反対に、忙しない心音が体を飛び出して恥ずかしくなる。
 俯こうとした顔を、顎に添えられた指で上向きにされ、額にそっと口づけが落ちてきた。

 お互いの呼吸が混じるほどの距離。
 離れたくなくて、千春は惠護の背中に縋りついた。

 ──まだ、ここにいたいよ……。
 そんな気持ちを、温かい胸に頬ずりすることで伝える。

 惠護先輩の心臓……俺と同じように、トクトクって音してる。

 まるで、互いの胸の中で、スタッカートのリズムが重なり合ってるみたいだった。
 どんな表情か知りたくて、千春が顔を上げると、なぜか泣きそうな顔が目の前にあった。
「惠護、先輩……。どうしたんですか」
 悲しそうな顔をさせたくなくて、千春はそっと、その頬の輪郭に触れた。
 まるで、光を持たない人に触れるような、おそるおそるとした手つきで。

「ちは、俺が怖くない、か」
 想像もしていなかった問いに、思わず眉をひそめる。
「どうして俺が、先輩を怖がるんです?」
 思い悩んでいた唇が動くと、惠護が静かに語りはじめた。

「……俺と、親父には血のつながりはない。でも、暴力に支配されて育った俺の中には、確かにあいつの影があって……気づけば、俺も攻撃的になってる気がするんだ」

「なんで、そんなふうに思うんですかっ。惠護先輩も、葵留先輩だったときも、ずっと優しかった。お父さんのことは知らないけど、俺の大好きな人が、そんな影響を受けるわけないっ」

「だったら──あのときの俺は、何なんだ。ペットボトルが、ちは目掛けて落ちてきたとき、俺は一瞬で殴りに行こうとした。あいつが仲間と一緒になって、ちはを襲う話をしてたときも……冷静でなんていられなかった。ちはを傷つけるやつが許せなかった。……気がついたら、俺、殴ってた。あのときの俺には憎しみしかなかったんだよ」

「違う! それは違うよ、先輩!」
「どこが違うんだっ。《《あいつ》》にされたことが……俺の中に巣食ってるんだ……」

 言葉を詰まらせ、震える声で叫んだ惠護が項垂れる。千春はもう一度、今度は思い切り惠護の体を抱き締めた。

「違うよ……。先輩のそれは、『守りたい』って気持ちでしょ。怒ったのは、俺を守ろうとしてくれたからだよ。それを怖いなんて思うわけない。その証拠に、先輩はお母さんを守って、殴られてたじゃないですか。お父さんと同じじゃない。先輩は強くて優しい人です! 俺は……惠護先輩のそういうところが、好きなんだから」

 惠護の体を揺さぶりながら、千春は泣き叫んだ。
「先輩は、ただ優しくて、傷つきやすい人なんだよ……」
 涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、訴える。
 惠護──いや、葵留が背負ってきた過去を思うと、胸が張り裂けそうで涙が止まらなかった。

 もし、惠護先輩のそれが『暴力的』だというのなら、言葉で深く傷つけた自分もきっと同じだ。

「先輩がそうなら、俺は……もっと酷い暴力をあなたにぶつけた。ずっと後悔してたんです。傷つけたまま、事故に……バスに、先輩が──」
 千春の言葉は、突然の抱擁で途切れた。
 惠護にきつく、けれど優しく抱きしめられたその瞬間、その体温に縋るように、ぎゅっと胸に顔を埋めた。

「……あの事故はただの偶然だ。そう言っただろ。もう、自分を責めるな」
 その声が耳の奥に染み込むと、千春は涙をぬぐい、濡れた手で惠護の頬を包み込んだ。
「じゃあ……先輩も、自分を責めないでください。さっきみたいに、俺の好きな人のことを酷く言わないで」
 震える声で、「…… 約束ですよ」と、千春は笑って言った。

「ちはには敵わないな。出会ったころと何も変わってない。弱っちく見えて、誰よりもしっかりしてる、俺の自慢のちはだ」
「〝母ちゃんみたい〟とか、言わないでくださいよ」
「今それ、言おうとしてたのに」
 惠護が笑った。
 その笑顔は、旧校舎で千春が恋をした、葵留そのものだった。

 嬉しくて、また泣きそうになる。
 目に涙を浮かべたまま顔を背けようとすると、「どうした、ちは」と、そっと顔を覗き込まれた。

「……なんでも、ないです。でも、ちょっとだけ。もう一回、先輩を、抱きしめさせてください」

 千春が惠護の胸に顔をうずめると、惠護がゆっくりと髪を撫でてくれた。
 言葉はなくても、伝わる想いがある。
 ──そんな確信が胸に満ちてくる。

 自然と顔を上げると、目が合った。
 言葉も前置きもいらない。
 ただ見つめ合っているだけで、気持ちが伝わってくる。
 ふたりの顔が、ゆっくりと近づいた。
 焦らず、丁寧にそっとくちびるが重ねられる。
 身体が触れ合う温もりと、駆け出しそうな互いの鼓動が混ざり合う。
 唇が離れると、千春の頬へと触れた惠護の手は、言葉よりも確かな想いを宿していた。

 見つめ合うだけで胸の奥が震える。
 二人の間に嘘も遠慮も、もういらない……。