失くした恋のつづき

 激しく窓を打ちつけては流れる雨粒をを見つめながら、千春は頭の中で弾き出した言葉を原動力に席を立った。
 机の上に置いていたトートバッグを肩にかけたところで、「帰るのか」と惠護が声をかけてくる。
 千春は無言で頷き、椅子を静かに机の下に収めた。 
 今、惠護の顔を見たら、気持ちが揺らぎそうだった。

 素直な思いを伝えようとしても、千春の中で、『死んだと思っていた人』と『今、惹かれている人』への気持ちが入り混じって、心臓が潰れそうだった。
 また同じ過ちを繰り返す気がして怖い。
 自分を責める記憶ばかりが、一歩、前に進むことを阻んでくる。

「先輩……。最後に、一つだけ聞きたいことがあるんです」
 最後? と、惠護が二文字の言葉を、色濃く繰り返した。

「先輩……葵留先輩が事故に遭ったのって、俺の家に来ようとしてたからじゃないですか?」
 仙太郎から聞いた話では、事故を起こしたバスの行き先は千春の自宅方面だった。

 もし、それが本当なら、先輩が事故に遭ったのは、俺のせい──

「違うぞ、ちは」
 力強い声が、その思考を断ち切る。

 両肩に手を置かれ、体の向きを変えられると、惠護と正面から向き合う形になった。
「でも! でも、聞いたんです。事故に遭った場所は、俺の……」
「確かに、俺はお前の家に行こうとした。教室に顔を出したら、ずっと休んでるって聞いたから。心配になって、お前の家を教えてもらったんだ。やっぱり、ちはに本当のことを話そうと思って。具合が悪いとわかってても、行かずにはいられなかった」

「じゃあ、やっぱり俺のせいです! あんな酷いこと言ったうえに、先輩の命まで……奪ってたかもしれないなんて、最低だ、俺」
 肩に置かれた手をそっと外し、惠護に背を向けて教室を出ようとした。
「お前のせいじゃない!」
 手首を掴まれ、千春の体が勢いよく引き戻された。そのはずみで、トートバッグが肩から外れると、バサっと床に落ちた。
 中身がばらばらと床に散らばる。

「ご、ごめん。ちは」
 慌てて惠護が拾おうとするのに気づき、千春も一緒に屈んで財布やスマホを手早く拾い集めた。すると、惠護がタオルに包まれた何かを手に取り、千春を見てくる。
「さ、さわらないで!」
 咄嗟に惠護の手からタオルごと奪い取ると、千春はそれを胸に抱きかかえた。
「す、すいません。あの、ありがとう、ございます」
「それ、葵留()だよな」

 惠護の言葉で、体中に電気が走ったような痛みを感じた。
「ち、ちがう。これは、俺の……」
「葵留のタバコだよな、最後にここへ置いていった」
 後ろめたさから惠護を見ることが出来ず、千春は背を向けて体を縮こませた。

「こっちを向け」
 怒りを含んだ声で言われても、無言で首を左右に振ることしかできない。
「いいから、こっち向けって!」
 今まで聞いたことのないような声音に、体がビクッと固まる。
 惠護を正面にしても視線は上げられず、俯くことで抵抗した。

 箱を持ったままの手首を掴まれ、惠護がそれを目の前に突き出してくる。
 そこから目を逸らした瞬間、惠護の指が千春の顎を掴んできた。
「これ、この開けかけのフィルムが、俺のって証拠だ。それに、色はピンクで変わってないけど、この箱の柄は昔のもんだ。今はデザインが変わってる」
「ち、ちひゃいまふ、これふぁおれほんで……」
 長い指で顎を掴まれたまま、顔を上向きにされる。
 頬が押されてうまくしゃべれない。
 瞬きもせずに、じっと見据えてくる瞳。
 真っ直ぐ見つめてくる視線から逃げることができない。
 
 ──だめだ。嘘なんて、つけない。もう、限界だ……。

 こっそり葵留のものを持っていたなんて。
 いつまでも持ったままで、引かれるかもしれない。
 上手い言い訳を探しても、何も浮かばない。
 惠護の視線に耐えきれず、千春はぎゅっと両目を閉じた。
 すると、ふわっと何かに包まれる感覚がした。 
 それが惠護の腕だとわかって、ますます瞳を開けられなくなる。

 抱き締められてる? な、なんで──

「嬉しいよ。俺のタバコ、ずっとちはが持っててくれたんだな」
 予想外の言葉が、鼓膜に優しく届く。

 嬉しい? 今、〝嬉しい〟って言った?

「あの、惠護先輩……俺のこと、引かないんですか?」
 たどたどしく尋ねると、「ちはのバカ」と、甘く叱られた。

「だ、だって、何年も持ったままで……俺のこと、鬱陶しいとか、思わ──」
「思うわけないだろ! 好きな子が、昔置いていった俺のモンを大事に持っててくれて、しかも壊れないようにタオルにまで包んでるなんて。こんなの、嬉しすぎるだろ」

 好きな……子。今、先輩は好きな子って……言った?

 さらっと告げられた言葉で、耳から全身に熱がまわる。
 自分のタバコだと否定しようと思っても、顔がイエスと答えてしまっていた。
「耳、熱いな。それにほっぺも。顔が真っ赤だぞ、ちは」
 抱き締められた腕の中では、取り繕うことができない。

「せ、んぱ……い、お、俺……」
「ちはが好きだよ。高校のとき、この教室で出会ったときから俺の気持ちは、ずっと変わってない」
 囁かれた言葉に答えたくて、惠護の顔を見上げた。
 胸が引き裂かれるほど、惠護のことが好きだと体が、心が叫んでいる。
 なのに、どうしても罪悪感が拭えない──。

 千春の心を汲み取るよう、惠護の手がそっと頬に触れた。その瞬間、千春の目から涙がこぼれ落ちる。
 この手の温もりが、ずっと欲しかったのだと、全身で喜んでいる。
 それなのに、焦がれた胸に飛び込めない。

「俺、先輩に酷いこと、言ったのに。それなのに、俺……」
「そんなの、ちはが本気で言ったなんて思ってないよ。それに、言われても仕方ないことを、ちはにしたんだ。責められるのは俺で、俺がちはを責める理由なんて、一つもない」

 目の奥が熱くなる。
 何か言いたくても、声にならない想いが喉の奥に詰まって言葉が出てこない。
 幻でもいい……。
 もう一度会いたいと、何度も何度も願っていた。
 ずっと好きで、大好きで……。逢えないとわかっていても、忘れたことなんて一度もなかった。
 けれど、あの罵倒を口した自分を思い出すたびに、逢いたいと思うことさえ罪だと自分を責めた。

「せ……ぱい……」
 手を伸ばして、触れようとしてもできない。
 何年も引きずってきた後悔が、惠護に触れることを許してくれない。

「ちはのこと、どうでもいいなんて、一度だって思ったことない。この先、一ミリだって、考えることなんてない」
「だ、って……俺が、最後にあんなこと言ったから……先輩、バスに乗って──」
「俺は、ちはがどれだけいい子で、優しいか、ちゃんと知ってる。あのとき、ちはが言った言葉は、俺が引き出させてしまったんだ。バスの事故だって、ちはが責任を感じるのは違う。それに、事故ったおかげで、こうしてまた、ちはに会えたんだから」

「そ、んな……こと……言わない、でくだ……」
 優しいのはあなたです。そう言いたいのに、続きの言葉が音にならなかった。
 最初から、この人はずっと優しかった。葵留(むかし)も、惠護(いま)も……。
 でも、だったらどうすればいい?
 葵留を忘れられず、恋しいと泣きながら、惠護に惹かれてるなんて──。 
 そんな不誠実な自分を許せない。
 浅ましい心が、千春を深い罪悪感で覆い尽くしてくる。

「で、でも俺は惠護先輩を、す……好きになって、葵留先輩を忘れようとしてた。なのに、惠護先輩は葵留先輩で。二人を好きだなんて、こんなの、不誠実で、裏切りだ……」
 頭では答えを出したはずなのに、心が違うと叫んでいる。
 混乱した頭を惠護の胸に押し付け、否定の言葉ばかりを叫んだ。

「裏切りなんかじゃない。千春は、俺を二度好きになってくれた。それだけだ。一度目は、高校のときの葵留を。二度目は、今の俺──惠護を」
「そ、そんなの、おかしい。こんなの、許されない……」
「許されないわけない! どっちも俺だ。名前が違っても、目の形や髪型を変えても、俺の想いはずっと変わらなかった。葵留も、今の惠護も、ずっと千春だけを想ってる」

 抱き締める腕に力が込められると、千春は無意識に抗うよう身をよじった。
 自分の気持ちがわからない。
 いいのかなと、思いかけても、高校生の自分がそうじゃないと叫ぶ。

「葵留先輩が好きで、忘れられなくて、旧校舎まで来たくせに……。それなのに、目の前のあなたも好きだなんて」
「俺はもう一度、ちはに好きになってもらいたいって願ってた。それを千春が叶えてくれた。千春は悪くないんだよ」

 惠護の言葉、一つひとつが、胸に染みていく。
 足に力が入らず、体が崩れそうになる。
 その体を、惠護の腕がそっと支えてくれる。
 千春は縋るように、その腕を掴んだ。
 胸に顔をうずめると、懐かしい匂いが鼻をかすめた。

 ──葵留先輩と、同じ……香りだ。

 好きだと言っちゃいけない人から、忘れられない香りがする。
 恐る恐る顔を上げると、優しい微笑みで見つめてくる双眸と目が合った。

「俺は上条惠護って名前に変わったけど、中身は波戸葵留だ。初めてこの旧校舎でちはと出会ってから、ずっと変わらない一人の男だ。鵜木千春を好きな男だよ」
 惠護がそっと手を伸ばして頬に触れた瞬間、千春の自省が堰き止められた。
 指先の温もりに、言葉に、懐かしさに似た愛しさを感じる。
 惠護との距離が縮まると、心臓がうるさくて恥ずかしくて体が一歩も動かなくなった。

 ずっと、触れたかった。
 ずっと、抱き締めてほしいと願っていた。
 絶望的な別れを味わっても葵留が恋しくて、諦めと未練の中で揺れて、心が引きちぎられそうだった。
 それなのに、惠護と出会って、惹かれている心を持て余していた。
 答えが見つかると期待しても、惠護に惹かれている気持ちはとっくに導き出されていたのに。

 惠護の腕を掴んだまま、口をぎゅっと結んでいると、愛しい人の顔が近づいて来た。
 甘い吐息が肌に触れると、額が触れ合い、そっと鼻先が擦れた。
 次の瞬間、二人の間にあった見えない隔たりが、音もなく崩れた。
 唇が触れるか触れないかの距離で止まった。
 間近で見つめてくる瞳に、吸い込まれそうになる。

「ちは、好きだよ。ずっと、ちはだけが好きだ」
 心臓の、ドクンっと鳴った音が耳に到達すると、囁かれた言葉で最後の抵抗が崩れた。
 重ねてくる唇を、千春は素直に受け入れる。
 二度目の口づけは初めてよりも嬉しくて、心の奥からこみ上げる幸せに目の奥が熱くなった。

 葵留でもあり、惠護でもある今の『彼』を、千春はもう一度、心から愛しいと思えた。
 もう、離れたくないと願っている。
 高鳴る鼓動の中で知る、好きな人との距離感。
 現実感のない、不思議な感覚が体の中に芽生えて戸惑う自分がいる。
 夢と現実の間で揺蕩いながら、唇の温かさに身を委ねていると、世界がふわっと色づいた。
 不安も戸惑いも、その温もりに溶けていく。
「好き」という気持ちすべてが、溢れてしまいそうだった。

「ちはに、ずっと謝りたかったよ。……でも、会う度に言えなくて、ずっと苦しかった」
 唇が離れたと同時に告げられた言葉を聞き、千春は無意識に唇を噛んでいた。
 鵜木千春だと最初から知っていた惠護は、どんな気持ちでそばにいてくれたのだろうか。
 言いたくても言えない苦しみ。
 葵留だったことを悟られないよう、別人を装うフリは、どれほどの労力が必要だったのか。

 惠護の顔を見つめていると、「唇が傷つくよ」と言いながら、長い指がそっと千春の唇を労う。
 傷つけてしまった過去は、もう消せない。
 けれどこの温もりの中でなら、少しだけ、自分を赦してもいいのかもしれない──
 そんな気持ちが、心の奥に芽生えた。
 不意に手を伸ばし、千春は惠護の頬に触れてみる。

 温かい……。

 体温を感じると、今度は惠護の胸の上に手を重ねた。
 指先で感じる心音が、〝葵留が生きている〟ことを確かに教えてくれている。

「……本当に、生きてる」

 自然と唇からこぼすと、惠護が笑った。
 それがすべての答えだった。