──衝撃的な初対面から、まもなく一ヶ月が経とうとしていたころ。
 気がつけば千春の口調はすっかりタメ口になっていた。
 年下のくせに偉そうだと、自分でも思う。
 でも、こうなったのは葵留のせいだと、千春は思っていた。

「先輩、何度も言ってますけど、ここでタバコはやめてください。未成年ですよね? まだ高三ですよね? それにここ、学校ですよ? おまけに授業もサボるし、体育なんて俺が知る限り、一度も出席してないでしょ」
 いくら注意してもタバコを吸うのをやめないし、授業も平気でサボる。
 会う度に、口を酸っぱくして注意をしていだけど、いつも、わかった、わかった、と言って、暖簾に腕押し状態だ。
 挙げ句に、俺って頭いいからお咎めなしなんだと、得意げな顔でごまかされる。

 出会ったばかりのころは、三年生としてちゃんと敬っていた。けれど、こんなやり取りを何度も繰り返すうちに、尊敬の念なんてとうに消えてしまった。
 もし、ここまで先生が来れば、いや、先生じゃなくても他の生徒にでも見られたら確実に停学処分を喰らってしまう。
 成績が良くても素行が悪ければアウトだ。

 停学になれば、旧校舎(ここ)で会うことが出来なくなる──って、俺は何を考えてるんだっ。

 こんなこと言えばきっと、葵留のことだ。俺がいないと寂しいんだな、などと言いかねない。
 全くもって寂しくなどないのに。

「はいはい。もー、ちはって母ちゃんみたいだな」
 大きな手で頭を撫でられ、その手を払おうとしたのに、千春の猫っ毛はまんまと葵留の手で掻き乱されてしまった。
 言われた言葉にムッとしたのもあるけど、ただでさえコシのない髪がぺったんこになるから、頭を撫でてくる癖はやめてほしい。

「か、母ちゃんなんて言うなっ。もし見つかっても俺、知らないからなっ」
 持参した本を開きかけたけど、千春は読書を差し置いて葵留を睨んだ。
「あのね、ちは。前にも言ったけど、タバコ(コレ)は俺の小さな抵抗なんだよ。それにこの箱、ピンクで可愛くない? 味も低タールのメンソールで、桃の匂いもするんだけど、ちは的にはだめ?」

「低タールだかメンタムだか知らないけど、俺に匂いを移さないでください。桃の匂いでもタバコはタバコですから」
「あはは、メンタムって。リップじゃないんだから。あーもう、ちはって可愛いな」
 また笑ってごまかされている。
 それをわかってて、自分もわざとくだらないことを言ってみたりするけど、本当はタバコを吸う理由が気になって仕方がなかった。

 小さな抵抗──。
 初めて喫煙を注意したときも言っていた。

 誰に対しての抵抗なのか知りたいけど、聞いてはいけないような気がして、ふーん、と一言で終わらせてしまった。
 相応しい言葉がわからないのもある。けど、それ以上に千春が心配しているのは、葵留がいつもどこかしらに怪我をしていることだった。
 本人曰く、すぐ喧嘩を売られるんだ、とあっけらかんとした顔で言う。
 そんな状況そうそうあるもんか、と三年生の葵留に向かって悪態を吐いたことも何度もある。
 それも効果はなく、千春の言動に葵留はいつもニコニコしていた。

「なあ、なあ。ところで今日はどんな本? 俺、ここでちはの朗読聞くのがマジで楽しみなんだ」
 朗読──。これも違反を叱るのと並行して始まった、葵留とのやり取りだ。
 一人、悶々とする千春などお構いなしに、傷だらけの顔で、なあ、なあと話しかけてくる。
 痛々しさを感じさせない口ぶりに戸惑いながらも、千春は表紙を彼に見せた。

「今日はこの本です。ったく、いい加減自分で読めばいいのに」
「ちはの声で聴きたいんだよ。初めて読んでくれたとき、プロの声優さんみたいだったもん」
 はいどうぞ、と言いながら、いつもの椅子を引き出して、座面の埃を手で払ってくれる。
 優しさを横目に腰掛けると、千春はゴホン、と咳払いをしてから表紙を開いた。

 今日の本は、主人公が夢を見る間だけ本の世界に入り、主役と同化して共に心が育っていく、人間形成物語だった。
 話し終えた途端、すっげ面白かったと、笑顔と一緒に、ありがとうの言葉をくれる。
 お礼はともかく、頭を撫でるのはやめて欲しい。
 触れられる回数が増えるたびに脈拍の速度も増し、振り払いたい理由が変わってしまった千春の体は、熱発したように熱かった。

 この手を跳ね除けられない……。

 撫でられる心地よさをいつしか嬉しいと感じ、触れてくれることを期待している。
 遠くで予鈴の音が聞こえると、同じタイミングで葵留の手が離れてしまった。 
 名残り惜しさを隠すよう、千春はそれじゃあ、と言って席を立つ。
 教室を出ようとした背中に、「また明日も待ってるよ」と、声をかけてくれた。
 千春が振り返ると、葵留は決まって窓際に佇んだままで微笑んでいる。
 人懐っこい笑顔に素直になれず、わざとムスッとした顔で、また明日、と言った。

 それが、あのころの千春にできる精一杯の『また明日』だった。