失くした恋のつづき

 雨が降ると、ただでさえ近寄りがたい旧校舎は、さらに人を拒む気配をまとっていた。
 裏庭の奥にあるその建物には、一人の姿も見えない。
 ポツポツと降る冬の雨は冷たく、解体業者が作業を中止にしたのもわかるなと、千春は鈍色の空の下で旧校舎を見あげた。

 雫で濡れている蔦は冬でも葉が落ちず、秋に来たときよりも常緑が濃くなっているように見える。
 周りの木々も校舎と一緒に取り除かれ、思い出と一緒に跡形もなくなってしまうのだ。

 新しく体育館が建つって、施工案内に書いてあったな……。

 傘の中で聞く雫の音は、千春の気持ちを汲んで泣いているような、そんな静かなリズムだった。
 今日の日が気になって早く目が覚めてしまったけれど、見届ける勇気はすぐには起きなかった。
 時計を見ながら悩んだ挙句、千春が母校に行こうと決めたのは昼過ぎだった。
 それでも気持ちはそぞろで、防寒対策を忘れた千春は、吐く息で手を温めながら、ずっと同じ場所で動けずにいた。

 ──最後に見に行くなら……。

 仙太郎の声が頭の中でよぎると、その言葉が千春の背中をそっと押した。
 雨に濡れた雑草が、肩や背中を濡らしても気にせず、千春はバリケードをくぐって校舎の中に入った。
 階段に足をかけると、一気に過去が押し寄せてくる。
 思わず、次の一歩を踏み出すのをためらった。

 今日の雨は明日になれば止んでしまう。
 だからきっと工事は始まる……。
 そして、ここはもうなくなってしまうんだ。
 一日、猶予ができた。
 これが何を意味するかなんて、今は考えなくていい。今日、見ておかないと一生後悔するかもしれないんだ。

 もう、しなかったことを、あとで悔やむのは嫌だ……。

 千春は再び階段を上った。
 未熟な自分が嬉しそうに、この階段を駆け上がっていたことを思い出しながら。

 踊り場を過ぎて、次の段に足を踏み出したとき、懐かしい香りがふわっと鼻腔を掠めた。

 え……これ、この匂い──

 心臓が破裂するんじゃないかと思うほど、激しく跳ねた。
 鼓動が外まで響いている気がする。

 もしかして──

 そんな言葉が浮かぶ。
 でもそれは一瞬だけで、千春はすぐに自嘲した。
 これは思い出補正で、嗅覚がおかしくなっているだけだ。

 千春は頭を振ると、気を取り直して階段を上った。
 二階にたどり着くと一呼吸置き、周りの景色を見渡してみる。
 ほとんど変わっていなかったけれど、施工業者のものか、床には足跡が残っていた。

 廊下に散らばるガラスの破片を跨ぎ、懐かしい教室まで来た途端、またスモーキーな匂いが鼻を掠める。
 教室の扉が少し開いていた。
 匂いはそこからこぼれている?
 ドアに伸ばした指先が震え、千春は思わずその手を引っ込めた。

 バカだな、俺は……。
 葵留先輩がいるわけないのに。

 きっと施工会社の人が吸った、タバコの残り香だ。
 そう自分に言い聞かせながら、千春はトートバッグを持ち直した。
 
 そう言えば、惠護先輩がどんなタバコ吸ってたのか、確かめてなかったな……。

 不意に惠護のことがよぎったのは、中庭で見た素っ気ない姿が焼き付いていたからだ。

 どうして今、惠護先輩のことを思い出すんだ。
 顔や声が少し似ていても、あの人は葵留先輩じゃないのに……。

 そんなことを考えただけで、何だか葵留を裏切っているような気がした。
 惠護の影を振り払うよう、千春は固く目を閉じて、そっと瞼を開けた。
 それでも、惠護の姿は消えない。

 小さな深呼吸をしたあと、隙間に手をかけてそっと教室に入った。
 真っ先に目が行くのは、一番日当たりのいい窓際の席。
 ほつれたカーテンのそばで、「内緒な」と笑ってタバコに火を点ける、あの姿を──

 え……。

 ただ、風で揺れているカーテンがそこにある、それだけの景色だと思っていた。
 けれど、カーテンの向こうがわの時が止まって見えて、千春は思わず目を見張った。

 古びた布越しに浮かぶ輪郭。
 それが、かつて失ったはずの面影のように見える。
 カーテンの隙間から、タバコの煙が静かに漂っていた。

 あり得……ない。そんな、はず、ない……。

 胸がざわつく。
 千春はコートの胸元を、ぎゅっと掴んだ。
 懐かしさと恐怖がないまぜになった心を振り払うよう、千春は足を前に出した。

 教室の隅。
 ボロボロのカーテンの向こうに、ひとつの影……。

 引き寄せられるように近づくと、煙草を唇に運ぶ、長い指と横顔が目の奥を熱くさせる。
 その輪郭に見覚えがあり過ぎて、心臓が止まった気がした。
 記憶にこびりついた残像を確かめるように、千春がそっと手を伸ばす。

 その瞬間、風に煽られたカーテンが大きく揺れ、振り返った〝影〟に千春は息を呑んだ。
 心臓が、喉元までせり上がる。

 風にたなびく煙の向こう、揺れるカーテン越しに見えたのは──惠護の顔だった。

 なんで……どうして、惠護、せんぱいが、ここに……。

「ちは……」

 名前を呼ばれて胸が軋んだ。
 
 旧校舎で、葵留だけが呼ぶ名前を、葵留に似た顔と声の惠護が口にした。
 世界の音が一瞬で消えたみたいに、わけがわからなくなる。

 ふとした仕草も、笑う顔も。
 そして額にある、あの同じ位置の傷痕さえも。全てが、失った人を思わせる人が目の前にいる。

 ……俺は、夢でも見てるのか……。

「な、んで……」
 呟いた声が掠れていた。
 それは自分のものとは思えないほど、遠くから聞こえた気がする。

 惠護の手がカーテンを払い、紫煙を纏って千春の前に現れた。

「千春……」

 惠護が千春と呼ぶ。
 それが正解なのに、心が否定したがっている。
 聞きたいことが山ほどあるのに、何から話せばいいかわからない。

 カーテンから出てきた惠護を前に、落胆している自分と、惠護がここにいる理由を知りたがっている自分がせめぎ合っている。

「ちは、……る」

 この場所でそんな風に呼ぶな。
『ち』と『は』だけの呼び名なんて。
 あと『る』をつけたら完成する名前を、そんな風に区切って呼ばないでほしい……。

 なぜ、あなたがここに……
 知りたい、でも逃げたい。
 過去と今が交差して重なって、ぐちゃぐちゃになっていく。

 葵留はもう、この世にはいない。
 今、目の前にいるのは、同じ大学で一つ年上の、葵留に似た先輩で、全くの別人……だ。

「け、いご……せん、ぱい」
 吐き出した声が震える。
 惠護を見た瞬間、渦に呑まれるように、上下も左右も分からなくなる。
 それなのに、鼓動だけがやけにうるさく胸を叩いていた。
 違う人のはずなのに、どうして心臓がこんなに跳ねるのか。それも、わからない。

 葵留を忘れることができず、ずっと同じ場所で足踏みをしていた。
 前に進むために、思い出を見届けるため今日、にここへ来たのに。

 どうして、惠護先輩がここにいるんだ。

 葵留の指定席で、葵留がいつも吸っていたタバコを吸って、葵留以外、誰も呼ばないあだ名をなぜ口にした……。

「ち……はる」

 後ずさりしながらも、目を離すことが出来ない。
 頭の中で否定の声が響くのに、心のどこかでは泣きそうに叫んでいる。
 何を言えばいいかわからなくなり、ただ、頭を左右に振って、瞳に映る光景を跳ね除けようとした。

「……ちは、る、俺──」

 夢の続きのように惠護が近づいて来る。
 なのに、タバコの匂いや、雨の音が現実だと知らしめて来る。
 自分の立っている場所すらどこなのか、わからなくなっていた。

「話を──」

「あり得ない!」

 叫んだ声が空気を裂く。
 壊れそうな感情が、勝手に体を誘導する。
 こんなの理屈じゃない。
 感情が決壊してしまう。
 目の前の惠護を凝視したまま、千春の足は一歩、二歩と後ろ向きに動いていた。

「千春。いくな! 話を聞いてくれ……」

 その言葉に、千春は首を唇を噛み締めた。

 ずっと、ずっと違和感を感じていた。
 額に残る傷痕、似た顔と声。
 そして、ペットボトルから庇ってくれたときに放たれた、『ちは』と言うあだ名。ケンカしたとき、庇ってくれた瞬間に出た名前。

「いやだ! 聞きたくない! こんなの、こんなのあり得ない。絶対、ぜった……い」

 両耳を手で覆った。
 物理的に声を遮断して、この場を去ればいい。
 それなのに、心が知りたがっている。
 目の前の人が誰なのかを、確かめたがっている。
 けれど千春はそれらを全部拒絶するよう、惠護に背を向けた。

「……ち、は……」

 意志を持って呟かれたその一言で、時間が止まった。

 今、はっきりと聞こえた。
 もう、誰からも呼ばれることのないその音が、何を意味しているのか?
 それを突きつけられても、受け止める勇気がない。

「行くな。頼む、行かないで、くれ……」
 掠れた惠護の声。
 言葉の端々が震えて聞こえる。
 頼む、頼むと、喉を絞るような声がまた、重ねられた。
 それでも千春は振り返ることが出来ない。
 振り返って惠護の顔を見たら、もう話を最後まで聞かずにはいられなくなる。

 千春が逡巡していると、惠護の足が近づく音が聞こえた。

「……どうしたらいいのか、わからなかったんだ」

 喉が詰まるような声だった。
 見なくても、惠護が辛そうなのが伝わってくる。
「千春、俺は、俺は……」
 言い淀んでいる惠護の声を聞きながら、千春は深く息を吸った。でもそれをうまく吐き出せず、胸を押さえながら小さな呼吸を繰り返す。
 最後に大きく深呼吸すると、ゆっくりと惠護の方を振り返った。

「……言ってください。聞きます、から……」

 すぐには視線を合わせることが出来ない。
 それでも逃げずに向き合わなければ、このままでいられないことだけはわかる。
 目を見ることが出来なくても、千春の指先には覚悟が宿っていた。
 強く、強く、握りしめたこぶしが白くなるほどに。

「俺の……俺の、本当の名前は……波戸葵留なんだ」

 ドクン、と心臓が肥大する。
 次の瞬間、全身の血の気が引いて、足先から凍りついたように冷たくなるのを感じた。

「……うそ……だ」

 視界が揺らぎ、世界がぐにゃりと歪む。
 呼吸の仕方を忘れたように、息が吸えない。
 頭の中で警鐘が鳴り響くのに、足は床に縫い付けられたように動けずにいる。
 今、起こっていることに、脳が拒絶していた。
 スローモーションのような動きで、千春は惠護を真っ直ぐ見つめた。

「ほんとだ。俺は、ずっと──」

「は……はは、う、嘘です、よね。これ……何かの冗談……」

 笑ってごまかそうとしても、喉の奥がきしむ。
 皮膚が焼けるように熱くなって、真冬なのに、額に汗が浮かんでいることがわかる。
 全身から力が抜けて、立っていることもままならない。

「冗談じゃない。ごめん……言えなかった。でも、ずっと、ずっと言いたくて──」
「嘘だ!」
 千春の叫びが、古びた教室の空気を揺らした。

「ち、は……嘘じゃ──」
「葵留先輩は……死んだ! 俺、はっきり聞いたんだ、三年生の人に。先輩が事故で亡くなったってっ。俺は、確かに……聞いたんだ」

 また、声が震える。泣きそうだ。
 足元が崩れそうになるのを、必死にこらえた。
 気持ちが言葉に追いつかず、頭と心がバラバラだ。
 惠護の言葉を遮る。それしか手立てがない。
 理性に感情が追いつかなくて、可笑しくなりそうだった。

「嘘じゃない。本当に、俺は……波戸、葵留なんだ」
「嘘だ、嘘だ! だって、俺は、俺は聞いたんだ……」
 こぶしを固く握り直すと、現実から逃げるように千春は何度も頭を振った。

「……俺はあのとき、《《一度》》死んだから」
 意味を成そうとする、切実な言葉が落ちた。

 ──一度、死んだ? 

 惠護が何を言っているのか理解出来ない。
 あり得ない存在を睨みつけるように、千春は目の前の男を見た。

「ふ、ふざけてるんですか。ああ、そうか、わかった。俺の過去のこと誰かに聞いて、からかってるんでしょ。こんなとこまで来て、大掛かりな嘘を──」
「ちは! 嘘じゃない、最後まで聞いてくれ……」
 大声で〝ちは〟と呼ばれ、ビクッと体が震えた。

 二度と呼ばれることはないその音に、思考が止まった。
 叫んだ惠護の声はか細く、消え入りそうに聞こえて胸が苦しみで軋む。

「……生きてたなら、生きてたならなんで、言ってくれなかったんだよ! なんで、なんで騙してたんだっ。最初っから俺のこと知ってて、わ、笑ってたんだろ! なら、ドッキリは成功だよ。俺は、まんまと騙され──」
「違う! 頼む、頼むから、聞いてくれ、ちは……」
 制止してくる声は、叫びにも似た必死さが滲んでいた。
 嘆願するような声で言われると、千春の心の防壁が少しずつ崩れていく。
 静かに深呼吸すると、覚悟して話を聞くように、目の前の現実に目を向けた。

 惠護は何も言わず、いつも千春が座っていた椅子を引くと、座面の埃を手で払ってくれた。

 そんなことまで覚えてるのか……。

 些細な仕草が、まるで記憶の中から抜け出してきたようで、目の奥を熱くさせる。
 本当に惠護は葵留なのか……。
 過去と現実が胸を抉って、痛い。苦しい……。
 置いてきた過去が、千春の息を止めてこようとする。

「ちは、るがどう聞いたのかは、わからない。でも──今から話すことは、全部、俺の真実だ」

 目の前にいる惠護が薄く笑い、静かに机にもたれかかった。
 教室で過ごした日々の続きを、そっとなぞるように。

「事故に遭ったのは……本当なんだ。でも、〝死んだ〟っていうのは、違う。違うんだよ、ちは」

 千春は反射的に席を立った。
 心に駆け上がった感情の波が、喉までこみ上げてくる。

 やっぱり無理だ。聞きたくない!

 涙ではなく、怒りでもなく、ただただ、混乱。
 騙された、ということしか頭に浮かばない。
 葵留の死を教えてくれた生徒にまで、怒りの矛先が向きそうになる。
 信じていたものすべてが、崩れていく音が聞こえた。

「行くなっ。行かないでくれ……。最後まで聞いてくれって、俺、言ったよな」
 引き止める言葉と一緒に、手首を掴まれて導かれる。
 千春は再び、椅子に腰を下ろした。

 常識の範疇を超えた現状に、震える視線で惠護を見つめるしかできなかった。