失くした恋のつづき

 初冬の空気は凛としているけど、風さえなければ陽だまりの中での読書は心地いい。
 午後の陽光の下、ベンチで読書に耽っていると仙太郎の声で顔を上げた。
「よ、待たせたな」
「全然。四限がポカって開いちゃったから、めちゃ読書できたし」
 仙太郎がリュックをベンチに置きながら、「千春、見てみろ」とガラス越しに見える食堂を顎で指している。
「今日もモテてますな、上条さんは」
 仙太郎の視線を追いかけるよう、千春も瞳をスライドさせた。

 そこには同じ二年生だろうか、食堂のテーブルで肘をついた女性二人が、惠護に熱っぽい視線を送っている。
 そばには友達らしい男性もいて、四人の楽しげな様子が離れていても伝わってくる。
 千春がいるベンチから数メートル。
 あまりじっと見ていると、気付かれてしまう。
 千春は読みかけのページに栞を挟みながら、ため息のように呟いた。

「……モテてるよね、惠護先輩は」

 本当はそんな言葉、口にしたくない。
 でも、あんな風に現実を突きつけられたら、痩せ我慢を言うしかない。

 惠護が怪我をした日から、千春の思考は自分でも手がつけられない。
 毎日、毎晩。心が葵留と惠護の間を行ったり来たりしている。
 葵留の声を思い出そうと耳を澄ますと、記憶の中の声に惠護の声が重なる。
 切ないくらい、葵留のことが大好きだったのに、惠護のことを考えれば考えるほど苦しい。

 こんなにも胸が痛むなら、最初から出会わなければよかった。葵留にも、惠護にも──。
 弱音をため息に乗せ、一点だけを見つめていると、仙太郎の視線を感じた。

「千春、お前──」
「……なに?」
 自慢のツンツンヘアが崩れそうなほど、ガシガシと頭を掻きながら眉の八の字にさせ、黙ったまま千春の横に座った。
「何だよ、何か言いたいことでもあるの?」
「いや……。それより、千春。例のものは?」
 さっきの陰った顔は消え、揉み手をしながら仙太郎が媚びを売ってくる。
 その顔に少し、癒された。

「約束のブツだ」
 芝居じみた仙太郎に合わせるよう、千春は周りを警戒しながら物騒なものを渡すみたいに仙太郎の手に乗せた。
「おー、これが奇跡の白いハンバーガーか!」
「奇跡って大袈裟だな。本物みたいに真っ白じゃないけど、そこは勘弁な。なんたって、生地はホットケーキミックスだから」
 タッパの蓋を開けた仙太郎が目を輝かせ、出てもいないヨダレを拭うふりをしている。

「いい、いい。全然、いいっ。めちゃうまそうー。しかも三つも作ってくれたんだ」
「じゃあ、僕が一ついただいてもいいかな?」
 ベンチの後ろから突然声をかけられ、千春と仙太郎が同時に振り返ると、六人部が二人の間から覗き込んでいた。

「む、六人部先生っ! びっくりしたー」
「美味しそうだね、それ。鵜木君のお手製かな?」
「そうなんですよ、先生。これ、ポオ? タオ? あれ? 何て言ったっけ」
 パオだよ、と言いながら六人部が座れるように、千春がベンチにスペースを開けた。

「へー、お手製のパオとは凄いね。これ、中身も生地も手作り?」
 仙太郎が持つパオを見て六人部が言うと、はい、と遠慮がちに答えた。
 中華街に売っているような仕上がりだったら、胸を張って言えるのに、所詮、ネットのレシピで見よう見まねに作ったものだ。
 大人で准教授という職業の人にとっては、子ども騙しみたいなもの。
 それでも、千春は言ってしまった。

「あの、もしよかったら、先生もいかがですか」
「いいのかい? ありがとう。嬉しいね、鵜木君の手作りは」
 思った以上の反応が返って来たことが嬉しくて、千春は仙太郎からタッパを受け取ると六人部の前に差し出した。

 仙太郎と一緒になって六人部が、いただきます、パン生地にかぶりついている。
 千春が六人部に抱いていた印象は、ナイフとフォークで食事するスタイル。
 もしくは漆塗りの箸と食器で、カッポーンと、ししおどしが鳴る和室で食しているイメージだ。

 なのに、今、俺の横で仙太郎と同じようにパオをかじっている。
 なんだか、先生、可愛い。

「うま! 千春、めっちゃうまいぞ」
「本当だ、うまいよ鵜木君。パンはふわふわだし、中の角煮? あ、焼き豚か。これは何枚でも食べれる味だな」
 小さな子どもように両手で持ってかぶりついている姿と、教室でマイク片手に講義する姿の差が半端ない。
 あまりのギャップに笑っていると、「おいしいよ、鵜木君」と言ってニコッと笑われた。
 口元にタレが付いているのを見ると、六人部ファンの女子は全員瞬殺だ。

「先生、これ。口元や手を拭くときに使ってください」
 リュックからウェットティッシュを取り出すと、一枚ずつ六人部と仙太郎に渡した。
「ありがと。気が利くね、鵜木君は」
 口元や手を拭きながら褒められると、こっちが恥ずかしくなってきた。

「先生、千春のリュックには手拭きだけじゃなくて、シミ取りシートまで入ってるんですよ。俺、嫁に欲しいって思いましたもん」
「へー、凄いな。僕も嫁に欲しいよ、鵜木君、可愛いし」
 ですよね、と仙太郎と六人部が笑っていた。

 シミ取りか……。
 あれがきっかけだったもんな、惠護先輩と知り合ったのって。

 こっそりため息を吐きながら、千春は食堂の方に目を向けてみた。

 ──え、惠護先輩。こっち見てた?

 ガラスが反射してはっきり見えないけど、惠護がこっちを見ていた気がする。
 目を凝らして見ると、惠護の顔は横にいる女生徒に移ってしまった。

 視線、逸らされた……? 

 つま先から一気に全身へと不安に似た、寂しい気持ちが浸透してきた。
 言いようのない悲しみに打ちひしがれていると、仙太郎が胸を騒つかせる名前を口にした。
「上条さんが絶賛してたのわかるわぁ」
 今、その名前は聞きたくないのに……。
 頭の中で呟きながら、また食堂へと視線がむく。
 まだ、楽しげな会話は続いていた。

「へえ、上条もこれを食べたんだ」
 六人部の声でハッとし、「そ、そうです」と、慌てて答えた。
「先生、上条さんって千春の家に入り浸りで、これ以外にも唐揚げやら、鍋とかいろんなもん作ってもらってるんですよ。たまには俺も誘えよな、千春」

「よく言うよ。先生、仙太郎はこんなこと言ってますけど、最近彼女が出来たからって、俺の方が放置されてるんですよ」
 自分の言い分を聞いてもらおうと、我先にと二人が六人部に詰め寄る。
 そんな生徒を、六人部の穏やかな笑みが軽くあしらう。

「へえ、そうか。豊浦君、おめでとう。じゃ、僕が代わりに鵜木君に相手してもらおうかな」
「あはは、あざーす。じゃ、先生。千春のことよろしくお願いします。俺は心置きなく、彼女とイチャイチャするんで」
 娘を嫁にやるように仙太郎が六人部に頭を下げるから、慌てて止めた。

「ふふ、豊浦君って本当に面白いね。じゃあ、僕は鵜木君といちゃいちゃする役目を引き受けようかな」
「せ、先生まで何言ってるんですかっ」

 ったくもう。
 彼女が出来て浮かれるのはいいけど、先生まで巻き込むなよ。

 睨みながら心の中で仙太郎に怒りをぶつけたのに、二個目のパオを呑気にかぶりついている。

「じゃ、僕は部屋に戻るよ。鵜木君、ごちそうさま。よかったら今度、食事にでも行こうか。今日のお礼にご馳走するよ」
 立ち上がった六人部に秀麗な微笑みを向けられた。
 これがモテる男の見本なのかと、ため息が出る。

「ありがとうございます。でもそんなことしたら、先生の推しから恨まれるんで、お言葉だけありがたくいただきますね」
「あ、豊浦君。僕、今さらっと鵜木君に振られたね」
「ですね、先生。ご愁傷さまです」
 仙太郎と六人部の掛け合いで、どっと笑いが立ち込める。
 でも、千春の頭の中は、惠護に視線を逸らされた悲しみでいっぱいだった。

 手を振りながら去って行く六人部を見送ると、呑気男は彼女からの返信に夢中だ。
 タッパを片付けながら食堂に目を向けたけど、もうそこに惠護の姿はない。
 ため息をごまかすようリュックを膝に置くと、「そういえばさ」と、仙太郎が思い出したように千春を見てきた。

「高校の旧校舎が冬休みに取り壊されるの、知ってるか?」
「あ、うん。知ってる……」
「真冬に工事って、業者の人もたまったもんじゃないよな」
「だね……」
 千春の返事を最後に、仙太郎が黙ってしまった。

 高校のころ、千春が辛い恋をしていたことを知る仙太郎には、旧校舎で葵留と過ごしていたことも話していた。
 葵留本人の顔を知らなくても千春がポツポツ語ったことで、だいたいどんな人で、どんな風にこの世を去ったのかも知っている……。

「千春」
「なに……」
「もし、最後に見に行くなら、俺、付き合おうか。それとも、一人の方がいいか」
 ずっと考えてくれていたのかなと、千春は思った。
 それを口にするきっかけを、楽しい会話に織り込もうとしたくれたのかもしれない。でも、それはやっぱり無理だったと、仙太郎も千春も思っていた。

「ありがと。行くときは、一人で行ってくるよ」
「……そっか。解体現場は危ないから、気をつけて行けよ」
「うん、わかった」
 ギリギリ笑って答えると、また、二人に沈黙が訪れた。

 思い出そうとしなくても、葵留は簡単に千春の心によみがえってくる。
 旧校舎で悲しそうに微笑む姿は光に溶け込み、どれだけ手を飛ばしても二度と触れることはできない。
 思い出の場所がなくなっても、この思いは生涯忘れないのだろうと思う。