失くした恋のつづき

「えっと、一年の……鵜木だっけ? 上条の様子はどうだ」
 惠護が眠るベッドの横に座っていた千春に、八尋が声をかけてきた。
「先生……。まだ、目を覚まさないです」
 八尋を見上げて答えたけど、千春はすぐ視線を惠護に戻した。
 ガーゼを貼った顔が痛々しい。

「しかし、喧嘩なんてするやつじゃないのに、珍しいな。しかも向こうは三人いたんだろ? 無茶にもほどがある。喧嘩の原因は何だ?」
 眠る惠護を見つめながら、「俺のせいです……」と、呟いた。
「お前がね……。全然タイプが違うけど。どっかで恨みでも買ったか」
 図星をつかれ、千春は唇を噛み締めた。

 そうだ……。元はといえば俺の不注意で、先輩が逆恨みされたんだ。

「黙っているとこを見ると、当たりか」
 八尋をチラッと見上げると、無精髭を撫でながらため息を吐いている。

 先輩だけじゃなく、先生にも迷惑をかけてしまったんだ……。

「すいません。俺が全部悪いんです。俺が、俺が──」
 涙が込み上がってきて説明にならない。
 滲んだ目で惠護を見ると、点滴の繋がった腕に胸を締め付けられた。
 解けかけた手首の包帯が目に留まると、耐えきれず涙がこぼれた。
 
「だいたい豊浦から聞いてる。元々はあっちが悪いんだろ、わざとじゃなかったとしてもさ。けど、平和主義みたいな顔してっけど、こいつ結構荒っぽいとこあるんだな」
「……あの、先生。検査の結果はどうでしたか。なんか、画像の検査をしたんですよね」
「ああ、MRIな。殴られたのは腹とか顔がほとんどだったけど、頭も殴られてたの鵜木が見たんだろ? 今は痛みがなくても、中で出血してるとヤバいからな。でもまぁ、異常はなかったからよかったよ」
 八尋の言葉に、「よかった」と、心の底からの安堵をこぼした。
 解けた包帯を巻き直していると、八尋にポンっと肩を叩かれた。

「諸々の手続きは六人部先生がしてくれてる。上条が目を覚ましたら、看護師に声をかけろよ。そのあとで医者が診察してくれるから」
「あの、入院になるんでしょうか」
「今日帰れるか、入院になるかは診察次第だろうな。俺は帰るけど、どっちか分かったら六人部先生に連絡入れてくれ」
 椅子から立ち上がると、千春は深々と頭を下げた。

「ありがとうございます。ご迷惑をかけてすいませんでした」
「揉めてた生徒は六人部先生が話してくれた。向こうもやり過ぎたと反省はしてたらしい。けど、同じ学生で、もう大人なんだ、穏便に対応しろよ」
「……はい」
 じゃ、頼んだぞと言って、八尋は病室を出て行った。

 八尋が帰ると、四人部屋の病室には惠護と千春の二人だけになった。
 同室の患者は昨日までに退院していて、惠護一人だけが眠っている。
 その広さが千春を不安にさせ、惠護が早く目を覚ますことを祈った。
 静かに時間だけが過ぎる中、窓へと視線を移した。

 カーテンが開いたままの窓は四角く夜を縁取り、隅っこには下弦の月がひっそりと輝いていた。
 銀杏並木が月明かりのかけらで、葉を金色に染めあげている。
 窓ガラス越しに反射した明かりが、惠護の眠るベッドまで届いてシーツの白が発光したように輪郭がぼやけて見えた。
 惠護の頬に月明かりがさし、彼を包み込むように優しく照らしている。
 その光りが、傷だらけの肌を癒してくれているように思えた。

 口元の青あざや、こめかみの内出血。
 きっと体にも打撲痕のようなものがあるはずだ。

 もっと俺が早く止めに入っていれば、先輩はこんな怪我をしなかったかもしれないのに……。

 止血テープが貼られた箇所を確かめようとしたけど、千春はそこをまともに見ることができなかった。
 傷だらけの姿は、どうしたって葵留を思い出させる。
 辛すぎて、逃げるように固く目を閉じて俯いた。
 葵留を追い詰め、彼の心を抉るような態度しかできなかったのに、また自分のせいで大切な人を傷つけてしまった。

「俺のせいだ。俺が先輩を……怪我させ、た……」
 静寂の中に、千春の嗚咽だけが染み入るように響いている。 
 握りこぶしを作った手を膝に乗せたまま、肩を震わせていた。
 溢れ出てくる雫を拭うこともせず、膝の上で涙を受け止めていると、ふと、頭に重みを感じた。
 顔を上げると、いつの間にか目を覚ましていた惠護が千春の髪に触れていた。

「けい、ご、せんぱ……」
「泣くなよ、千春。こんなの何とも、ない……」
「せ、んぱい。す、いません。俺のせいで、怪我、して」
 途切れ途切れの言葉をこぼすと、髪をくしゃっと撫でられた。
 点滴のついた腕でされるいつもの癖が、また千春の涙を誘う。

「千春のせいじゃない。それにこんな傷、平気だって言ったろ? ってか、カッコ悪いよな。殴られて気を失うなんてさ」
 手で顔を覆った惠護が、参った、参ったと、はぐらかしている。
「平気じゃないです! 頭も殴られたんですよ、それで気を失ったんです。もし、打ち所が悪かったらどうなってたか──」
 言いながら声が喉の奥で詰まる。

「検査、異常なかったろ? 俺、丈夫だから」
「丈夫とかそんなの、関係ない! あ、すいません。大声、出して。さっきまで八尋先生もいて。仙太郎もいたんですけど、俺がいるからって、帰ってもらいました」
「そっか、豊浦にも迷惑かけたな、謝っとかないと──」
「先輩が謝ることなんて一つもないんです。悪いのは俺だし、先輩はあいつらが俺のことを、その……と、とにかく、俺の貞操を先輩が守ってくれたんです」
 申し訳ないと思って真剣に謝っているのに、ブハッと惠護が吹き出した。

「な、何んで笑ってるんですか。俺、真面目に言ってるのに」 
「い、いや。て、貞操って。ク、ックク……。十代の、わ、若いもんが言う言葉かってさ。あっははは、やっぱ、千春は可愛くて面白い──あ、いってて。笑ったら、腹が痛い」
「ひ、人のこと笑うからバチが当たったんです」
 恥ずかしさと怒りが混ざった声で叫ぶと、布越しに惠護の体を労った。
 布団の中で体をくの字にしているから、心配になる。

「あら、目が覚めてたんですね、上条さん。具合はどう?」
「あ、はい。平気です」
 惠護が上半身を起こそうとしたから、そのままでいいわよ、と看護師が制止して血圧を測っている。
「うん、異常なし。点滴も、あとちょっとで終わりそうね。じゃ、先生に話してくるけど、今、時間外の患者さんを診てるから、終わったらこっちに来てもらうね」
「はい、わかりました。よろしくお願いします」
 惠護が言うと、「あの」と、千春は看護師の背中に声をかけた。

「飲み物とかって飲んでもいいんですか」
「いいわよ。でも、水かお茶にしておいてね」
 そう言って、看護師は去って行った。
「惠護先輩、喉乾いてませんか? 俺、買って──」
「千春……ここにいろ」
 椅子から立ち上がった千春は惠護に手首を掴まれると、そのまま強引にベッドまで戻された。
 不意に名前を呼ばれて、乱闘していたときに惠護が口走ったことを思い出した。
 
「先輩、俺、その前に聞きたいこと──」
「あのさ! あの……。千春って六人部と、仲いい?」
 唐突に聞かれた質問の意味がわからず、首をかしげて見返すと、掴まれた手に力がこもった。
 痛いほど手首を掴まれると、千春を捉えたまま惠護が俯いている。
「……六人部先生がどうしたんですか」
 惠護の手を軽く叩いてみた。すると、言いにくそうに口を開く。

「この前……保健室に俺がいたとき、千春、六人部と一緒に来ただろ? 先生の手伝いしてたって言ってたけど、あんなことよく、あるのか……?」
 そんな些細なことをどうして聞かれるのかわからないまま、「滅多にないですよ」と千春は笑った。
「あの日はたまたま講義が中止になって時間が空いたから、本を整理するのを手伝っただけですよ」
「それだけ?」
「はい。でも、それがどうしたんですか」

 布団に視線を落とす惠護が、弄ぶように千春の指を摘んでくる。
 何か言い淀んでいる顔を、千春はそっと覗き込んでみた。
「……シャツを」
「シャツ?」
「千春、六人部のシャツ、着てただろ?」
 振り絞るような声で惠護が言ったことは、保健室でも説明したことだ。
 そう言えばあのときの惠護は、少し様子がおかしかった気がする。

「あれは珈琲をかぶっちゃって、服が濡れたから先生のをお借りしたんです、けどそれがどうしたんですか」
 何かまだ言いたげなのを誤魔化すみたいに、惠護の指が千春の指を撫でたり摘んだりと動かしている。
 答えが返ってくるのを待っていると、惠護の唇が薄く開いた。
 紡がれる声を待っているのに、何も言わずにまた口を噤んでしまう。

「先輩。言いたいことがあるなら、はっきり言ってください。保健室でも何か言いたげでしたよね」
 中々口を開かない惠護の手をぎゅっと掴んだら、驚いた顔で見てきた。
 千春はさらに問い詰めるよう、瞳を覗き込むようじっと見つめてみる。
「……千春って弱そうなのに、気が強いな」
 惠護の言葉にハッとした。

 ──ちはって、弱っちそうなのに、気が強いよな。

 葵留に言われた言葉が、惠護の声に重なった。
 高校のとき、交わした言葉の全部は無理でも、千春を思って言ってくれた言葉は覚えている。
 点滴の雫を見ている横顔に葵留の幻影が二重に映り、今度は千春が下を向いてしまった。

 やっぱり聞いてみようか。
 俺の聞き間違いかもしれないことを……。

 三人とやり合っていたとき、一瞬、耳にした『名前』。

 ──ちはっ! こっち来んな、逃げろ!

 誰も呼ばない、懐かしい呼び方。
 意識して惠護がそれを言ったのか、それとも咄嗟に危険を知らせようとしたからか。

 聞きたい。でも、怖くて確かめられない。

 葵留先輩のはずないのに。
 ただ、名前を区切って呼んだか、それだけのことなのに。

 それでも、何かを期待してしまう。
 何かって? 
 葵留が実は、双子でした、とか?
 従兄弟だった、とでも?
 それとも、生き返ったとでも言うのか?

 あり得ない……。
 
 期待したって魔法や奇跡でも起こらない限り、葵留には一生、逢えない。
 そんなこと、これまで何度も想像して、何度も凹んだことだ。

 黙ったままの千春が気になったのか、惠護が手のひらを指でくすぐってきた。
「ちょ、ちょっと先輩、くすぐったいです」
 ささやかな触れ合いが恥ずかしくて、惠護の手から逃げた。

 そうだよ、名前だって歳だって違うんだ。
 惠護先輩は一つ年上だし、葵留先輩は、もし生きて大学生になっていたら、三年生のはず。
 それに声だって、惠護先輩の方がちょっとハスキーだ。

 怪我した姿を見て不安になったからって、あり得ないことを考えてしまった。
 
 名前も危険を知らせようと、慌ててたからだ。
 それか、俺の聞き間違いだ……。

「なあ、千春。帰りにメシ食って帰ろうか。心配かけたお詫びに奢ってやる。何がいい? 焼肉? それともおしゃれにパスタとか?」
 言いたげだったことを、なかったことのように惠護が言ってくる。
 
 先輩、何を話したかったの?
 そんな問いかけは、心の中で留めた。
 無理やり問いただすことは、危険だ。
 余計なことを言えば、惠護を追い詰めたり、傷つけたりするかもしれない。
 自分のことで手を出すほど、怒ってくれたことが嬉しかった。それだけでいいじゃないか。

 俺はずっと、葵留先輩のことだけを思って生きて行くって決めたんだし。

 自分の中から葵留が消えることが怖くて、そんな自分を許せなくて誓いを立てた。
 それなのに、どんどん惠護の存在が大きくなっていく。
 止められない気持ちが怖い……。

「お、お誘いは嬉しいけど、先輩は怪我したんだから、今日は大人しく家に帰ってください。それに、先生の診察で今日は入院って言われるかもしれませんよ。あ、でもそうなったら、俺が着替えとか用意しますから。先輩はベッドに縛られたままでいて下さいよ」
 惠護に割り込ませないよう、まくし立てるように言った。それも、わざと偉そうな口調で。
 ちゃんと普通に見えただろうか……。

「えー、もう平気だよ。それに千春と一緒にご飯食ったほうが元気になる」

 そんなことを言わないでほしい。
 俺も一緒に行きたい──そう、言ってしまいそうになる。

「だめです。ちゃんと家でゆっくり過ごして下さい。そ、それより先生、遅いですね。俺、ちょっと見て──」
「ちはっ……る。ここにいてって、俺、言ったよな」
 言いかけた言葉を遮られ、熱っぽい眼差しを向けられた。
 じっと千春を見つめてくる瞳を、愛おしいと思ってしまう。

 押さえきれない、気持ちがあふれてくる……。

 伝えたい言葉が迫り上がってきて、もうだめだ、そう思ったとき病室の扉が開いた。
「お待たせしました。上条さん、体の方はどうですか」
 スクラブの上に白衣を羽織った医師が部屋に入って来て、惠護の方を心配そうに見て言った。
「もう、何ともないです。あの、先生。今日ってもう帰れますか」
 惠護が尋ねると、医師がちょっと難しい顔をする。

「そうだな。帰ってもいい状態ではあるけど、こめかみを殴られて、コンクリートの上に倒れたからね。念のために一泊だけしてもらおうかな」
「え、もう何ともないですけど……」
 医師が惠護の目を見たり、手を触って診察している間も、惠護の視線は千春にあった。

「念のためだよ。画像検査では異常なかったけど、君、一人暮らしだろ? もし、嘔吐したり、手足に異常を感じたら誰もいないと怖いからね。まあ、大丈夫だけど僕が心配性なだけだから」
 医師が一通り診察を終えると、「あとで看護師が来るから」と言い残し、部屋を出ていった。

「マジか……」
「惠護先輩、ちゃんと先生や看護師さんの言うこと聞いて、おとなしくしてて下さい。俺、下着とか買ってきますから」
「いいよ。先生も一泊だけって言ってたし、一日くらい着替えなくても。それより、千春はここに──」

「だめですっ」
 ちょっと大きめの声で遮るように言った。

「そのままなんて不衛生です。それに、元はと言えば俺のせいで怪我させちゃったんです。早く、元気な先輩に戻ってもらわないと……」
「戻ってもらわないと?」

 もし、何かあったら……

 頭の中では事故を起こしたバスの映像が浮かんだ。家のすぐそばで騒がれていたのに、自分のことばかり考えて呑気に寝ていた自分が憎い。

「元気になってもらわないと、八尋先生も、仙太郎も、それに先輩のファンの女の人たちも悲しむんで……」
 心にもないことを言った。
 こうでも言わないと、ずっと惠護のそばで付き添っていたくなる。

「ファンの女の人って。何だよ、それ」
 そこは笑うとこじゃないって、言いたくなるほど、惠護が肩を震わせて笑っている。
 その顔に、見慣れないものを見つけた。
「あれ……先輩って、笑うとエクボができるんですね。今まで気付かなかった」

 千春の言葉に、一瞬だけ惠護の笑い声が止まった。けれどすぐに、いつもの柔和な表情に戻っている。
「そう? いやそんなことより、腹減ったなぁ」
 千春の小さな発見は、軽い口調でなかったことにされてしまった。

「……今夜は我慢ですよ。じゃ、俺、今からコンビニ行って必要なもの買ってきます」 
「わかった。ありがとう、千春。気をつけて行ってこいよ」
 惠護の指が離れると、それが合図のように千春は立ち上がった。

 扉に手をかけながら、ここにいて欲しいと言った、惠護の言葉に後ろ髪を引かれる。
 切ない思いを抱えながら、それでも千春の頭にあったのは、記憶の中の葵留の笑顔だった。
 笑うと現れる、奥ゆかしいエクボの優しい笑顔……。