失くした恋のつづき

「くさくさしてるなら、バスケでもするか?」
 そう言って、仙太郎が誘ってくれたのは、きっと気遣いからだ。
 話しかけられても上の空だったことを、仙太郎は心配していたと思う。
 親友は高校のとき、ぼろぼろだった千春を知っているから。
 それなのに千春は、曖昧な返事しかできなかった。
「午後の講義が終わったら、体育館に来いよ」
 そう言ってくれたのに、どうしても気が乗らなくて中庭のベンチでボーッとしていた。

 開いたままの本も、さっきからずっと同じページ。
 呼吸なのか、ため息なのか。そんなわからない息を、さっきから何度も吐いている。
 気持ちがすっきりしない。
 惠護の顔を見ていない、それだけで……何もする気が起きない。

 今日、惠護に会えたら、いつもの通り笑顔であいさつ! そう、心に決めてきたのに、食堂で会えなかった。
 講義がすべて終わった今になっても、声のカケラさえも聞こえない。
 昨日の惠護の様子が気になって、講義の内容なんて全く頭に入らなかった。
 窓の外ばかり見ていたから、六人部にマイクで名前を呼ばれ、注目を浴びる羽目になったほどに。

「はー、もう……。こんなの俺らしくないっ」

 思わず口にした大きな独り言に、枝から鳥が羽ばたいていった。
 初冬の空へと飛び立つ姿を目で追いながら、反省する。
 今日はバイトも休み。
 そして今、猛烈に〝クサクサ〟している〟

「よしっ、仙太郎のとこに行こっ」

 鼓舞するような口調で言うと、弾むように立ち上がった。
 スマホで時間を確認すると、十五時を少し回ったところ。

 確か、十四時から二時間、体育館借りたって言ってたな。

 カバンを肩にかけると、中庭を抜けて体育館を目指す。
「体育館って、いっちゃん奥だもんな。遠いー」
 独り言をつぶやきながら歩いていると、視界の端に「B」の文字が目に入る。
 学部ごとに使う棟は違って、千春がB棟を使うことはない。
 
 普段こっちまで来ないから、なんか新鮮だな……。

 キャンパスの端までたどり着くと、B棟の横手に体育館が見えた。
 バッシュがコートを蹴る、キュッキュという音も聞こえる。

 やってる、やってる。仙太郎の他には誰が来るって言ってたっけな。

 上の空で話を聞いていたせいで、他の参加者は不明なままだ。
「ま、いっか。きっと仙太郎と同じ学部の人だろ」
 体育館に行きかけた千春の脳裏に、惠護の怪我がよぎる。

 確か、B棟の外階段って言ってたよな……。

 千春は踵を返し、B棟の外階段を探し始めた。
 棟の正面入り口を通り過ぎ、建物の裏手に回るように壁に沿って歩くと、階段が現れた。
 十段ほどで踊り場が設けられ、それが最上階まで繰り返されている造りだ。
 千春はゆっくり階段を上り、二階と三階の間で足を止めた。
 階上から下を見下ろし、再び、踊り場へと戻る。

 この高さで、まだよかった……。

 もしこれが本館の大階段だったらと、想像するだけで寒気が走る。
 ここから惠護が突き落とされたと改めて思うと、相手への怒りが再燃する。
 自分の非を棚に上げ、注意した相手に復讐するなんて。
 もし自分がそばにいたら、たとえ倍に返されたとしても、絶対に殴っていた。
 凶暴な想像をする自分に戸惑いはあっても、千春に後ろめたさはない。

 手すりに手をかけて一階へ戻ろうとしたとき、風に乗ってふわりとタバコの匂いが鼻を掠めた。

 これ、葵留先輩の匂いだ。もしかして──

 惠護からときどき香るのは、間違いなくこのタバコの匂い。
 でも、千春は惠護が実際に吸っているところを見たことがない。
 手すりに身を乗り出して一階を見下ろすと、体育館の右奥に喫煙所を見つけた。

 もしかして、あそこで惠護先輩が吸ってるのかも……。

 階段を降りかけた、そのとき──喫煙所から惠護が現れた。
「けい──」
 名前を呼ぼうとしたとき、惠護の足がぴたりと止まった。

 気付いた? いや、でも、こっち見てなかったし……。
 惠護は喫煙所を離れ、体育館の壁沿いをゆっくり歩いている。

 どこへ行くんだろ……。

 手すりへとさらに身を乗り出し、惠護の視線の先を追うように体育館横を見下ろす。
 体育館の壁をなぞり歩いていた惠護が、壁の角で立ち止まると、まるで探偵が尾行するスタイルで角の向こう側を気にしている。
 惠護の視線をたどるよう、千春も二階から体育館の方へ目を向けた。
 その先からは、数人の下品な笑い声が聞こえてきた。

「俺さー、あいつにまだムカついてんだけど」
 苛立ったような声は聞いたことない男の声だ。
 チラッと惠護を見ると、壁に触れていた惠護の手がこぶしに変わっている。
 顔を見ると、瞬きを忘れたように見開いていた。
「ああ、あの、顔だけでモテてる男か。でもさ、お前アイツを突き飛ばして復讐したんだろ? まだ満足してないのか」

 あいつを突き落とした? え、それって、惠護先輩のことじゃ……。

 耳にした瞬間、千春の体がこわばった。
 まるで、背筋を氷でなぞられたような感覚だ。
 顔も見えない男たちの会話に嫌な予感がし、指先がじんわりと冷たくなっていく。

「でもあいつ、マジでいい男だよな。ま、俺の好みじゃないけどね。俺はどっちかってーと、下にいた子の方がタイプだなぁ。なんか、儚げで可愛かった」
「下にいた子って、あの、ペットボトルが当たりそうになった子か?」
「そうそう。あの子、確か一年だよな。上条と一緒にいるのを何回か見たことある。なぁ、もしさ、俺があの子を奪ったらそれこそ気分よくない?」

 え、ペットボトルの子って、俺の、こと?

 タイプってなんだよと、文句を言いそうになったけど、それだけではすまない言葉が男たちから放たれた。
「お前なぁ、自分がバイだからって堂々とそんなこと言うんじゃねぇ」
「いいだろ、お前らに迷惑かけてないし。それにバイってお得だぞ、選ぶ相手がお前らより倍だ」
「ぷはっ、それってダジャレか。でも俺もあの子ならいけそうだわ。顔は可愛いし、体は華奢だし。口でするなら女も男も、同じだろう」
「それなー。それに男のケツっていいぜ。ヤリまくってる女より締まりはいいし、一回ヤれば病みつきになるぞ」

 下卑た笑い声が交じるその言葉を、千春は最後まで聞くに耐えらえず、耳を塞いで体を震わせた。

「あ、いいこと思いついた。お前、あの可愛い子ヤっちゃえよ」
 男が名案だとばかりに大声で言った言葉は、耳を閉ざしていても聞こえてきた。
 悍ましい内容に、全身の血が沸騰するような憤怒が身体中に巡ってくる。
「お前、それレイプだろ。さすがにヤバいって」
「バレなきゃ平気だ。あの一年が一人のときに狙えばいい。お前もあの可愛い顔を快楽であんあんヨガらせたいだろ」
 口でならいいかと言っていた男の声だ。
 喘ぎ声の部分だけ鼻にかけてわざと言っている。
 姿が見えなくてもそこに三人の男がいて、冗談にも聞こえない卑劣な会話をしていることに千春のこぶしが震えた。

「お前が恨む気持ち、わかるな。あんとき、お前の狙ってる女が見てたもんな。お前の方を見て同情したように笑ってたし。まあ、俺はあの子とヤレるならその話に乗るぜ。あー、想像したら勃ってきそう」
「上条のやつに恥かかされた上に、告るチャンスまで奪われたんだ。あいつに仕返しする代わりに、一年をヤッたってバチは当たらないって」
 心臓が酸欠するほど締めつけられ、喉の奥がかすかに震えた。
 そのとき、階段下の視界に動く影が入る。

 ──惠護先輩! 何をする気?

 惠護が三人の男の方へ、ゆっくりと歩みを進めている。
 その後ろ姿から、いつものような余裕のあるものではないのが伝わってきた。どこか危ういのに、全身から怒りが滲み出ているのが見て取れる。
「っなんだお前!」
「なあ、お前ら、今なんて言った?」
 惠護の声が割って入る。低く、怒りを押し殺した声だ。
 空気が一瞬で凍りついたのがわかる。
 千春は目を見開いたまま、身体が固まって動けなくなった。
 壁の向こうで、乱暴にぶつかる何かの音が聞こえてくる。
 鈍い打撃音。男の呻き声や、反撃の声。
 それだけで何が起こっているのかわかり、足先から震えが駆け上がってきた。

「ってめぇ、何しやがんだ!」
「何って? やられる前にやっただけ。正当防衛ってやつさ」
 聞いたことのない、惠護の怖い声だ。けれど、なぜか千春の胸の奥は熱くなっていた。
 自分のために惠護がこぶしを上げている。それを嬉しいと思う反面、傷だらけの葵留の顔がよぎってその顔が惠護と重なった。
 拳がぶつかる音が何度も続き、指先が冷たくなってくる。

 惠護が酷い目に遭っているかもしれない。
 惠護が相手を攻撃していたら、やめさせなければいけない。

 惠護先輩を止めないと、惠護先輩を助けないと、葵留先輩のようになってしまう。もう、大切な人を失いたくない!

 手摺りを掴んでいた手にグッと力を込めると、千春は震える足をもたつかせながら、一階まで駆け下りた。
 その間も、壁の向こう側からは怒りと悔しさと、守ろうとする必死さが痛いほど伝わってくる。
「ちはに……指一本でも触れてみろ。ぶっ殺す」
 体育館に着いた瞬間、千春の耳に飛び込んできた惠護の声を聞いて足が竦む。
 怖い。でも、嬉しい。涙が溢れてくる。

 でも、止めなければ。惠護先輩を守らないと。

「惠護先輩っ!」
 千春は乱闘の場に踏み込んだ。

 叫んだ声が冷たい空気を裂き、惠護の背中がぴたりと止まる。
「おー、飛んで火に入る夏の虫って、このことか」
 薄っすらと記憶している男が、狡猾な笑みを浮かべて千春を見てきた。
「ちはっ! こっち来んな、逃げろ!」
 肩越しに惠護が千春を見た瞬間、二人の男に背後を取られ、惠護の体が固定される。
「け、惠護先輩っ! お前ら、三人で卑怯だぞ! 惠護先輩を離せ!」
「『卑怯だぞ』だって。かわーいい。おい、早くコイツぶっ飛ばしてあの子を拉致ろうぜ」
 惠護を羽交締めにしている男が言うと、反対側で惠護の腕を掴んでいる男が、だな、と笑っている。

「くそ! 離せ! お前ら、ちはに触ってみろ、殺してや──ぐぅふぅ、くっそ……痛ってーな」
 自由を奪われたままの惠護が叫ぶと、ペットボトルの男が足を後ろに逸らしたかと思うと、思いっきり後ろに振り上げた。
 勢いのついた足をそのまま振り下ろし、惠護の腹部に深々と足が埋め込まれていく。
 鳩尾(みぞおち)へと攻撃をまともに喰らった惠護が、目の前でほくそ笑む男の額に思いっきり頭突きする。それを見ていた二人が惠護の両肩を抑え込み、地面にねじ伏せた。

「惠護先輩! くそ、お前ら、惠護先輩を離せ!」
 震える体を振り払い、千春は惠護の背中に馬乗りになっている男に飛びかかった。
「お、自分から飛び込んできたぜ。かわいーな。なあ。俺、抜けていい? この子といいことしてくるわ」
「お、まえ……ちは、に、触るんじゃ、ねぇ」
 顔をコンクリートに押し付けられたまま、惠護が上からの力に抗うよう、上半身を起こして男を睨みつけている。
「せんぱ、い……。卑怯者! 先輩から離れろ!」
「よ、せ……。早く、こ、こを離れ、ろ」

 惠護が胸ぐらを掴まれ、無理やり体を起こされると、ペットボトルの男が惠護の頬目がけて殴ってきた。右、左と何度も殴られ、一発がこめかみにヒットすると、ふらついた体に新たな蹴りが飛んでこようとした──そのとき、
 数人の足音ともに、「千春!」と、仙太郎の声が聞こえて来た。

「せ、仙太郎、は、早く誰か、先生、呼んで、呼んでぇー」
 悲痛なまでの声で千春が叫ぶと、他の生徒が、「先生呼んでくる」と言って、そのまま走って行った。
「おい、ヤバい。逃げるぞ」
「おい、あんた! 上条さんや千春に逆恨みすんのやめろよ! また同じことしてみろ、警察を呼ぶからな。未成年じゃないんだ、身元バレしたら、お前の人生、終んぞ!」
 仙太郎の啖呵が聞いたのか、三人の男は無言で走り去って行く。

「先輩……惠護先輩……しっかり!」
 最後のこぶしが効いたのか、惠護がぐったりしている。
 惠護の体を抱えると、千春は泣きながら何度も名前を呼び続けた。