失くした恋のつづき

 保健室の扉を開けると、保健師は不在だった。
 代わりにいた人を見た途端、千春はシャツをはためかせながら駆け寄っていた。

「惠護先輩! どうしたんですかっ。け、怪我したのっ」
 ベッドに腰掛けている惠護へ焦った声をかけると、湿布薬の残骸が目に入った。
「千春こそどうしたんだ、デカいシャツなんか着て。それ、お前のじゃないだろ」
 華奢な体に不釣り合いなサイズを指差された千春は、保健室に来た経緯を惠護に説明した。

「それでこのシャツは先生にお借りしたんです。ね、先生。でも、そんなことより、先輩はその手首どうしたんですか。骨とか折ってないですよね」
 長い袖から指を忍ばせ、惠護の手首に触れると、いきなり腕を摘まれた千春の体は惠護の方へ引き寄せられた。
 襟元を引っ張られ、素肌の肩が曝け出されると、珈琲を被った箇所を労わるように惠護が撫でている。

「……さっき、階段でつまずいたときに手をついて捻ったんだ。それより千春は病院で診てもらう方がいいんじゃないのか」
「平気です。先輩の方こそちゃんと冷やさないと。湿布は俺が巻きますから」
 惠護の手から新しい湿布を奪うと、今度は千春が惠護の腕を掴んで引き寄せる。

「自分で出来るのに。お前こそ肩冷やせよ」
「そうだよ、鵜木君。人のこともいいけど、早く冷やした方がいい。冷蔵庫に保冷剤か氷が入っているだろう」
 二人のやり取りを聞いていた六人部が、冷蔵庫の前で呆れ顔を向けてきた。
「先生。千春の方は俺がやっときますよ」
 冷蔵庫のドアに手をかけた六人部に、惠護が声をかける。

「じゃ、上条に任せるか」
「先生っ、ほんと、今日はすいませんでした。シャツも、ありがとうございます。ちゃんと洗ってお返ししますね」
 部屋を出ようとする三揃いのベストに声をかけると、「いつでもいいよ」と肩越しに微笑んでくれた。
 保健室の扉が閉まるのを見届けると、惠護の手を掴んだままだったのに気付き、千春は慌てて手を離した。

「すいません。俺、キツく握ってなかったですか?」
 怪我した手の具合を気にしながら、千春は湿布を一枚取り出した。
「いいや、全然。千春の力くらいじゃ何ともならないよ」
 その言葉にムッとした。
「惠護先輩、俺のこと甘く見てますよね。こう見えても力があるんですよ」
 腕に力を込めて筋肉をアピールしてみたけど、「はいはい」と軽くあしらわれてしまった。
 
「本気を出した俺の底力を知って、腰を抜かしても知りませんからね。ほら、手を出してください。湿布、冷たいですよ」
「はーい」
 可愛らしい返事をして、惠護がおとなしく手を差し出している。
 千春は心の中で、よしよしと言いながら、湿布のフィルムを外した。そのまま惠護の手首に貼ると、「ひゃ」と、変な声を出すから笑ってしまった。
 包帯を巻きながら肩を振るわせていると、額を指先で弾かれるほどに。

「痛いなぁ、もう。ほら、出来ましたよ」
 惠護の腕を離すと、じゃ今度は千春の番と言って、頭をくしゃっと撫でられた。

 頭を撫でるのって、惠護先輩の癖なのかな……。

 何かあれば髪を撫でてくれる。
 だからだろうか。惠護の大きな手は、どうしても葵留を思い出させる。
 初恋の人も、同じように髪を撫でる癖があった。
 物思いに耽っていると、強引に体を反転させられた。
 抵抗する余地もなく、背中に触れながら、「どれどれ」と、ふざけた口調で惠護がシャツを脱がそうとしてくる。

「ちょ、ちょっと惠護先輩。何してんですか」
「こっち来て。火傷の具合見ておきたいから」
 平然とした顔で惠護が言うから、千春はその手を取り除き、「自分で脱ぎますっ」と、背中を向けてシャツのボタンを外した。
 スルリと、生地を肌に滑らせると、無防備な背中を晒して見せる。

「どうですか。やっぱり赤くなってます?」
 背中越しに尋ねてみたが、惠護からの返事がない。
「ねえ、先輩。どうですか? 赤い?」
 惠護の表情が見えず、千春は振り返ろうとした。だが、不意に肩に触れられ、ピクンと身構えてしまう。
 触れられた部分がジワッと熱くなる。
 熱が帯びてくるのを自覚したと同時に、体の内側に小さな波がたった。

 惠護先輩、何か喋ってくれないと、変な汗がでてくるよ。

「せ、んぱい、あの……」
 耐えきれず問いかけても惠護は何も言わない。
 ただ、千春の肩を確かめるように何度も撫でている。
 無音が我慢できなくて、千春がクルッと向きを変えると、思い詰めたような惠護の顔が目の前にあった。

 もしかして、火傷の症状が思っていた以上に酷い?
 確かめようとしても、自分の背中を見ることができない。
「や、やっぱ医者に行った方がいいですか? えっと、火傷って何科だっけ。あ、そっか皮膚科か。そうだ、先輩の手首も一緒に診てもらったらいいのか。骨折でもしてたら大変だし。あ、でも捻挫は何科──いってっ」

 額をペチンと叩かれた。
 一瞬、キョトンとした千春は、すぐ睨みつけることで惠護に反撃した。
「焦るなって。ちょっと赤くなってるけど、大したことないよ。少し冷やしとけば赤みも引いてくる。ただなぁ──」
「ただ……? ただって何ですか」
 俯いて言い淀む姿が不安になり、表情を覗こうとして千春が顔を傾けた。
 でもその数秒後、自分は本当に馬鹿だと思い知らさせるのだった。
 惠護が必死で笑いを噛み殺していたのだ。

「……ちょっと先輩、なに笑ってるんですか」
「いや、千春が必死なのが可愛くて、面白過ぎるわ」
 肩を震わせて笑う態度がはらだたしい。
 千春はそっぽ向くと、散乱したゴミを無言で片付け始めた。
「千春、怒った? 怒ったのか?」
 今度は惠護が千春の様子を気にする。
 何度もごめんと顔を覗き込まれると、千春は黙って立ち上がり、ゴミ箱に丸めた湿布を勢いよく突っ込んだ。

「怒ってません。先輩こそ、痛みが酷かったら病院に行って下さい」
 わざとぶっきらぼうに言うと、千春は冷蔵庫の中から保冷剤を取り出す。
 腕を精一杯伸ばし、ぎこちない格好で痛めた箇所に当てようとした。だが、中々思うようにはいかない。
「そんなんじゃ届かないだろ。こっち来いよ、冷やしてやるから」
 
 千春は口をへの字に曲げながら振り返り、保冷剤を無言で託した。
 黙ったまま惠護に背中を向けてベッドに座ると、容赦なく冷却の洗礼を浴びた。
 今度は千春が、「ひゃっ」と、変な雄叫びを上げてしまった。
「拗ねるなよ、千春。あー、やっぱ、直じゃ冷た過ぎるか」
 独り言のように惠護が言うから、返事をしていいものか迷う。
 後ろからゴソゴソと音がするのを聞いていると、火傷の箇所に心地いい冷感が触れた。
 肌にあたった感触で、タオルに包んでくれたのだとわかる。

「……先輩。手首、本当はどうしたんですか」
 背中を向けたまま、千春が聞いた。
「どうしたって、つまずいたって言ったろ」
「先輩はそんなドジじゃないです。俺、少ししか先輩のこと知らないけど、つまずいて手首を痛めるような運動音痴じゃないと思ってます」

 言い終えても、惠護から言葉は返って来ない。
 掛け時計の秒針だけが響く中、千春は背中を預けたまま惠護の反応を待っていた。
「──ほんと、転けただけだって」
 ようやく返ってきた言葉は、さっきと似たような答えだった。
 千春は、そうですか……としか言えなくなる。
 その代わりに後ろ手に腕をそっと伸ばし、惠護の手を探した。
 指先で包帯の感触を見つけると、その手に自分の手を重ねた。
 なぜ、そんなことしたのか自分でもわからない。
 ただ、惠護に触れてないとだめな気がした。

「……千春」
 名前と一緒に吐息がうなじにかかった。
 それは指先で触れられた以上に甘く、特別な感情が含まれているような気がした。