失くした恋のつづき

「めちゃくちゃ美味かったなぁ。俺、実家かと思った……いや、それ以上だったかも」
 リュックから弁当を取り出す千春の隣で、惠護が頬杖をつきながら感想を口にする。
 けれど、このセリフを聞くのは今日で何度目だろう。
 初めて惠護を家に招いたときから始まり、見送りの玄関先でも、そして大学で顔を合わせるたびに、彼は決まって絶賛してくれる。
 褒められ慣れていない千春は、そのたびに返事に困って、ただ黙り込んでいた。

 仙太郎なら慣れてるんだけど、他の人に……惠護先輩に言われると、何て返せばいいかわからない。

「千春の唐揚げ、マジで美味いっすよね。俺も何回か食わせてもらったけど、金取れるんじゃね? って思いましたもん」
 胸の前で腕を組み、うんうんと頷く仙太郎に、千春は「普通の唐揚げだろ」と、つい素っ気ない口調で返してしまった。
 仙太郎には平気でなんでも言えても、惠護相手だとそうもいかない。
 千春のツン、な態度に慣れている仙太郎は、何を言われても受け流してくれる。
 今だって、千春が取り出したタッパに釘付けになっているくらいで邪険な言葉も気にしてない。

「豊浦の言う通り。照れることないよ、千春。本当に美味かったんだから」
 相変わらずの秀麗な微笑みは、知り合って一ヶ月が経つというのに全く慣れない。
 笑いかけられるたびに、心がスーパーボールのように跳ねて、うまくキャッチできない。

 それに慣れないのは、惠護先輩が美人すぎるだけじゃない。
 ふとした瞬間の雰囲気が、葵留先輩に似ているからだ……。

「で、千春様。このタッパの中にあるのは──」
 待ちきれないと言わんばかりに、仙太郎がテーブルに覆いかぶさっている。おにぎりを三つ用意して。
「はい、ご察しの通り、唐揚げでございます。どうぞ、お召し上がりください」
 千春の言葉に拍手が湧き上がると、惠護と仙太郎が腕まくりして爪楊枝を手に取った。

 唐揚げに限らず、千春は大抵の料理を作れるようになっていた。
 高一の夏休み、葵留に食べてほしくて必死で特訓した成果だ。
 そのおかげで、母からは感謝されまくった。
 けれど、一番食べてほしい人は、もういない……。

「あ、待った」
 今にも爪楊枝が唐揚げに突き刺さる寸前で、千春は二人の前からタッパを取り上げた。
 目が点になっている食べ盛りの男子を尻目に、千春はスタスタと食堂の隅へと歩いて行く。
「千春! どこに持って行くんだよー」
「トースターっ。これで温める方が美味しくなるんだ」
 食堂にはセルフで使用できる電子レンジやトースターが置いてある。持参した弁当など温めることができるのは、寒さが増す季節にはありがたい。
 特に、唐揚げやフライものはレンジではなくトースターの方が、カリッと感を再現させることに長けている。

「ふまっ! ひはふ、へんさい! なんほへもくへるわ」
 肉で口の中を一杯にしたまま、仙太郎が感想を伝えてくれる。でも、もはやその言葉は日本語とは思えず、千春は、何て、と耳の遠い老人のようにふざけてみた。
 嬉しさと同時に、また少しだけ胸が痛む。
 楽しいやり取りの合間にも、ふと今、葵留がいたらな、とか、葵留だったらなんて言うかな、なんて考えてしまう。

「あー、美味い。幸せだぁ、なあ、豊浦」
「ですね、これは飽きない味っす。腹一杯でも食える」
「それな。柚子胡椒がほんのり香るのがいいよな。でも、あれも美味かったんだよ。何んて名前だったかな、あの白いハンバーガーみたいなの」
「パオですか? 中華バーガー的な」
「そうそう。あれも絶品だった」
 唐揚げを頬張りながら、惠護が喉を鳴らしている。

「え、何それっ。俺食ってないぞ、千春!」
 三個目の唐揚げを爪楊枝で刺したまま、仙太郎が目を剥いて訴えてきた。
「あー、あれは惠護先輩が、焼き豚食べたいなって言ったから。じゃ、作りましょうかって。でも、焼き豚だけじゃ味気ないから、それならパオにしちゃえって……」

「いやいや、じゃ作りましょうかって簡単に出来るもんじゃないだろ。あの白いパンみたいなのも、どうやって出来てるのか皆無だわ」
 仙太郎が、両手のひらを上に向けたまま肩を竦めて戯けた顔をする。
 いちいち大袈裟なリアクションに、呆れてると惠護と目が合った。
 CMのように唐揚げを掲げ、百点満点の微笑みを向けてくれる。
 次は何を作れば、またこの笑顔を見ることができるのかなと、頭の中でレシピアプリを検索した。

「パオは意外と簡単だよ、ホットケーキミックスで出来るし。焼き豚も焼き目をつけてあとは煮込むだけだし。でも、惠護先輩に褒めてもらえて嬉しいです。けど、材料費を出して貰ってるのが申し訳ないんですけど……」
「それはいいんだよ。俺が頼んで作ってもらってるんだから、材料代だけであんな美味いもん食えるなら十分過ぎる」
「いやいや、ちょっと待って下さい。今の話し聞く限り、上条さん、千春と頻繁に飯を食ってませんか?」
 最後の唐揚げを、惠護から視線で譲り受けた仙太郎が二人を交互に見てくる。

「そう言われればここ最近、週末は一緒にいるかな。お互いのバイトがない平日とかも」
 な、とウィンクして惠護に言われると、なぜか返事に困った。
 そうですねって、軽い口調で返せばいいだけなのに変に身構えてしまう。

「いつの間にそんな仲良くなったんだよ、俺の方が先に上条さんと知り合いだったのに」
 最後の一個を堪能し終えると、仙太郎が不思議そうに千春を見てきた。
「いつの間にって……。そっか、仙太郎は惠護先輩と学部同じだもんな」
 タッパを片付けながら、惠護と初めて出会った飲み会も、工学部がメインだったなと思い返す。

「学部って言えば、忘れてた。上条さん、お願いしてた講義レポート、持ってきてくれました? 上条さんが一年のとき書いた、専門科目の『建築材料実験』したときの」
 リュックを肩にかけながら、仙太郎が思い出したように口にする。
「ああ、あれか。ちゃんと持って来てやったぞ。基本的特性を理解するってやつな。えっと、どこに入れたっけな……」
 惠護がカバンに手を突っ込んで、ゴソゴソと目当てのものを探している。

 そのときだった。
 ひらり、と一枚の細長い紙片が、鞄の隙間からこぼれ落ちた。

「あ、上条さん。何か落ちましたよ」
 仙太郎の声に、千春も自然と床へ視線を落とす。
 床に落ちていたのは、青い長方形の小さな紙で、紐のようなものが付いていた。
 仙太郎が何気なく手を伸ばしかけた瞬間──
「い、いいっ、自分で取る!」
 声を上ずらせながら、惠護が素早く手を伸ばし、青い紙を掴み取った。

 その動きには、不自然なほどの焦りが見えた。
 誰にも見せたくない、大切なものを慌てて隠すような、そんな仕草だった。
 惠護の背中を見つめながら、千春の胸にわずかな違和感が残る。
 何か大切なことを忘れているような、でもそれが何なのか、思い出せない。

 まあ、いっか……。また思い出すだろ。

 違和感の正体を突き止めることを諦め、千春もリュックを手にした。
 目の前ではレポートの話なのか、惠護と仙太郎が二人にしかわからない言葉で会話をしている。
 自分だけが違う学部なのが、ふいに寂しく感じた。

 最近、惠護と一緒にいることが増えた分、惠護を独り占めしたいと欲張りになっている気がする。仙太郎だけでなく、他にも惠護と仲のいい人はたくさんいて、自分でも図々しいなと、ちょっと反省した。

「じゃあな、千春。また明日」
 憂いた心を悟ったように惠護が頭を撫でてくれた。
「あ、はい。また、明日……」
「千春、白いバーガー俺にもな」
 講義へ向かう仙太郎にねだられ、「はいはい」と手であしらった。
 親友に対して遠慮のない仕草が可笑しかったのか、惠護が楽しそうに笑っている。

 完璧な笑顔に目を奪われていると、「よお、惠護」と、数人の男女が惠護の周りに集まってきた。
 惠護の肩に手を回し、楽しげに戯れあっている。
 同じ学部なのか、女生徒も惠護の腕を取って教室へ向かおうと誘っていた。

「お前ら、引っ張んなよ。じゃあな、千春。今度はチキンカレーよろしくっ」
 友人たちに拘束されたまま、惠護が手を振ってくれたのに、無言のまま顔を逸らしてしまった。
 それをしまった、と思ったときには、もう遅かった。

 返事もしなかった千春を、どんな風に惠護が見ていたのか。
 友人たちに囲まれている姿を見たくなくて、不貞腐れたような態度を取ってしまった。
 感情に任せた態度や言葉をぶつけると、後悔することになると知っているくせに。

 独占したい気持ちは危険だ……。
 誰かに執着しすぎると、それは思いではなく、心を沈める〝(おもり)〟になってしまう。

 千春は一人、別の教室に入ると席に座りながら、過去に放った言葉を引っ張り出した。

 ——先輩なんて、どこにでも行けばいいっ!

 酷い言葉を叫んだ自分の顔は、とても醜かったと思う。
 自己中な言葉と、睥睨(へいげい)した顔を大好きな人に焼き付けた自分は最低な人間だ。
「おまけに、大っ嫌いなんて……」
 組んだ腕を机に乗せ、そこに出来た僅かな空間に顔を埋めると、小さな闇に後悔をこぼした。

 意識せずとも、大好きな人のことは簡単に思い出せる。
 見る夢も、想像や妄想も、葵留の顔は傷だらけで、いつも悲しげに微笑んでいた。
 授業にも出ず、いつまでも旧校舎にいたがる葵留を千春はいつも叱っていた。
 タバコを注意したのは、真剣に心配していたからだけど、同じくらい葵留をかまいたくて、そして自分にも興味を持って欲しかったからだ。
 好き過ぎて、照れ臭くて、心にもない口調や態度で素直になれなかった幼い恋。

 ——真面目だな、ちは。

 千春が偉そうに言っても、いつだって優しく髪を撫でてくれた。
 笑顔と優しさをもらってばかりで、自分は怒った顔や拗ねた顔しか見せず、何も返せないまま、あの人は遠くへ逝ってしまった。

 愚かな自分は大切な人を守ることも、幸せにすることも出来なかった。
 心の底から悔しいと思う……。