失くした恋のつづき

 キッチンと八畳の洋間。狭いけど、それぞれ独立した風呂とトイレもある。
 初めての一人暮らしには十分過ぎる部屋だ。
 特に気に入っているのは、二階から見渡す景色だ。
 川沿いの桜並木は、春になれば満開に咲いて最高の癒しをくれる。
 物件を見に来たときは蕾だったけど、契約書にサインすることに迷いはなかった。

 そしてもう一つの決めては、帰り道にスーパーがあることだった。
 自炊は好きだ。だから、夜十一時まで営業してくれるスーパーは本当にありがたい。
 駅から遠くても、学校帰りに買い物できるだけでここは充分すぎる。

 鶏もも肉、めっちゃお得だったな。久しぶりに唐揚げでも作ろうかな。

 十九時以降に貼られる、割引シールの肉しか買えないけど、チラシで特価の、普段は手が出せないもも肉がゲットできた。
 しがない学生生活は、ほんと楽じゃない。

 大学のすぐ近くにあるレトロな喫茶店、ラポールのバイト帰り、千春は特売の戦利品を手に、献立を考えながら歩いていた。
 メインは揚げ物だから、ちょっとさっぱり系も欲しい。
 きゅうりと春雨の中華サラダを作って、あとはなめこの味噌汁でいっかと、出来上がりを想像したら腹の虫も賛成と鳴った。

 道沿いに流れる川に沿うよう歩くと、ほどなくして反対側へと渡れる橋が姿を現す。この橋が見えると千春のアパートはもうすぐだ。
 川面は茜色に染まり、千春は光の欠片に見惚れながら川沿いをなぞり歩いた。
 少し冷たい風は初冬を仄めかし、パーカーだけの装いだと自然と肩が竦んでしまう。

 千春はエコバックの紐を掛け直し、さっきより歩幅の広い一歩を踏み出した。すると、今朝干したシャツがベランダではためくのが見に留まる。
 ハンガーごと揺れているのが気になって、駆け出そうと二歩目を出したタイミングで、誰かに名前を呼ばれた気がした。

 ──ちは……。

 突然、耳に飛び込んできたその声に、千春の足が止まった。
 いつもの何でもない景色に差し込まれた声に、思わず振り返る。
 けれどそこには小学生が数名、段ボールをソリ代わりに土手を滑っているだけで、他には誰もいない。
 眩しいくらいのオレンジが反射し、千春は目を細めて周りを見渡した。

 そら耳か。きっとこれは俺の願望なんだ……。

 自分にそう言い聞かせると、胸の痛みに気付いていないフリをして自宅へと向き直った。
 その瞬間、再び名前を呼ばれた。
 今度は、こっち、こっちと存在を知らせてくる言葉と一緒に。

 夕陽に染まる景色を見渡すと、明らかに自分へと手を振ってくる人影が見える。
 蜂蜜のような空を背に千春へと手を振ってくる人物は、川の反対側から橋を渡り、こちらへ来ようとしていた。

 誰だろ、あの男の人……。

 走って来る姿は、光源のせいでよく見えない。
 千春は徐々に近づいて来る男性に目を凝らした。

「鵜木千春君だよね。家こっちなの?」

 距離が縮まってくると、見覚えのある顔に、あっと声を発した。けれど名前までは出てこず、「シャツのシミの人っ」と叫んでいた。
「プッ。なんだよ、その覚え方。上条惠護だよ、忘れた? でもあれはマジで助かったな。お陰で洗濯したらシミは跡形も消えてた。ほんと、ありがとな」

 笑い顔から微笑みに移行する姿に、千春は目を奪われた。
 輪郭は光に縁取られたようにハイライトが生まれ、躯体全部が夕陽に包まれて輝いている。 
 ふわりとした笑顔は少しだけ影を帯びて美しく、とても柔らかな表情に見えた。
 葵留に似ていると思った瞬間、胸にチクン、と痛みが走った。

「おーい、聞いてる?」
 目の前を手のひらが優美に流れると、「聞いてます」と慌てて返事をした。

「で、でも、俺ってよく分かりましたね。一度会っただけなのに」
「俺って記憶力いいんだ。川の向こうから、見たことあるシルエットだなぁって眺めてたら思い出したんだ、染み抜きの鵜木君だって。君の家はこの辺なんだな」
 黄昏に浮かぶ惠護が足を交差し、ポーズを取るように千春を見つめてくる。

 この人、アイドル……いや、モデルみたいだな。

 テラコッタカラーのトレーナーに、ブラックのジャケットがかっこいい。
 スキニーパンツ姿も、サラサラと風になびかせる髪も芸能人みたいでため息が出る。

 なのに俺は、たおやかに微笑むこの人と、葵留先輩を重ねて見ている。
 少しハスキーな声の奥にも、大好きな人がひそんでいるように思えた。

 バカだな、俺は。もう、本当に重症だ……。

 意識を過去に奪われていると、「聞いてる?」と、声をかけられた。
「い、家ですよね。はい、近くですっ」
 自分でもわかるほど顔が高揚し、大声を出してしまった。
「はは、元気いいな。今から帰るとこ? 買い物してるとこ見ると独り暮らし?」
 薬味用の青ネギがエコバックから顔を出しているのを指差された。
「は、はい。すぐそこのアパートで。か、上条先輩の家もこの辺ですか?」
 今度は普通に答えられた。ちょっとつっかえてしまったけど。

「俺の家は大学の近所。ダチの家がそこの駅の近くにあってさ、そこからの帰り。この川沿いから見る夕陽がきれいって聞いたから、帰る前に足を伸ばしてみたんだ」
「そうなんですか。でも、それ、正解かも。今日は天気がよかったから、オレンジがすごくきれいなんです。俺も景色に一目惚れして、住むならここだって──あ、すいません、一人でペラペラと……」
 同じ感覚だったことが嬉しくて、つい、テンションが上がってしまった。

 でも、本当に見て欲しいのは春だ。
 そこも言いたかったけど、長話しになったら迷惑だ。
「一目惚れか、わかるな。この木って桜だろ、春になれば圧巻だろうな」
 春になったらまた来るかなと、惠護が秋の空に伸びる枝葉を見上げている。

 ぜひ来てください──と言いいかけた口を手で覆ったまま、頷くだけに留めた。

「鵜木君って料理出来るんだな。今晩は何作んの」
 前髪をかきあげながら、エコバックを興味深く見る惠護に、「唐揚げです」と答えた。
「唐揚げかぁ。いいね、俺も大好き」
「あ、じゃあ一緒に食べま……」
 しまった。つい、癖で言ってしまった。
 味見係の仙太郎に言うように、お決まりの言葉が口からこぼれてしまった。
 迷惑にならないようにと思ったばかりなのに、名前しか知らない先輩をいきなり誘うなんて。

「す、すいません。俺、何言って──」
「行くっ!」
 千春の言葉にかぶせるよう、惠護が叫んだ。
「行きたい、行くよ。唐揚げ食べたい」
 あまりにも迷いのない返事に、千春は呆気にとられてしまった。
 ハッとして我に返ると、今度は遠慮がちに聞いてみる。
「いいんですか? 俺の飯で……」
 戸惑う声で尋ねると、夕焼けに負けない笑顔が返ってきた。

「鵜木君ともっと仲良くなりたいって思ってたから嬉しいよ。それに、手料理なんて久しぶりだし。めちゃくちゃラッキーだ」
 
 俺と仲良く……。
 それって、どういう意味だろ。
 いや、いや。深い意味なんてない。
 顔見知りになったから、社交辞令で言ってくれただけだ。

 いろんな感情を頭の中で(こじ)らせていると、「荷物持とうか」と、手を差し出してくれた。
「だ、大丈夫です、軽いですから。でも上条先輩、予定とかなかったんですか」
「ないよ。もう帰るとこだったし。鵜木君こそ家に行ってもいいの?」
「平気ですよ。ただ、俺の飯でいいのかなって……」
 肩を並べて歩く整った横顔に尋ねると、急に立ち止まって頭を下げてきた。

「ごめんな。本当はシミ取りのお礼を俺の方がしなくっちゃいけないのに。でもこの偶然を、じゃあまた、って終わらせるのがもったいなくて」
「もったいない?」
 言葉の意味が分からず、千春は首を傾げた。
「また鵜木君と話したかったからね」
 ため息が出るような笑顔を向けられると、見惚れて何も言えなくなる。

 思わず視線を地面に落とすと、「睫毛、長いね」と、至近距離で顔を覗き込まれた。
 夕焼けのせいか、惠護の瞳は黒と茶色が縞模様のように見えて、小さな空に吸い込まれそうになる。

「か、上条先輩、ち、近いです」
「あ、ごめんごめん。距離感、間違えた。けど鵜木君って何だかいい匂いするな。香水でもつけてる?」
「い、いえ、何も付けてませんよ。臭いですか?」
 千春は自分の腕を鼻に当て、確かめるように体の匂いを嗅いでみた。
「臭くないよ。いい匂いって言ったろ? なあ、それより上条先輩って呼ぶの長くない? 惠護って呼んでよ」
「えっ。そ、それは馴れ馴れしすぎます。ダメですよ」
 突拍子もないことを言われて耳が熱くなる。
 夕暮れの風が冷たくてありがたい。

「じゃ、〝惠護先輩〟にしよう。これならいいだろ?」
 一歩前に足を踏み出した惠護が、クルッと振り返って言った。
 栗色の髪が輝きを放ち、柔らかく風になびいている。
 何でもない仕草なのに、どうしてこんなに視線を奪われるのだろう。
 考えていると、返事を催促するかのようにジッと見つめられていた。

 名前を呼ばないことには、この優しい視線に囚われたままになる。
 千春が迷っていると、いつの間にか太陽は月へと空を譲り、惠護の輪郭が淡く闇に溶け出していた。
 神秘的な姿に心臓の音が落ち着かない。
 葵留を失ってから、胸の奥に閉じ込めていた感情が、重い蓋を開けて出てこようとしている。

 甘い疼きが顔を出すのを悟られないよう、千春は早足で惠護を抜かして前を歩く。
 顔を隠すように手を差し伸ばし、たどたどしく言葉を放った。
「け、惠護先輩。俺の部屋こっちです」

 先走った自分の本能に呆れる。
 それなのに心は、桜が咲くのを待ち焦がれるようにわくわくしていた。