久保の両親の離婚話は、ひとまず先送りになった。
けれど、家の中に漂う険悪な空気は消えるはずもなく、久保は以前にも増して疲れ切った表情を見せている。
張りつめたままの肩。どこか余裕のない姿を見るたび、俺はどうしても声をかけずにはいられなかった。
「久保、大丈夫?」
平気だと笑って返す日もあれば、ただ俯いて何も答えない日もある。
そんな時は、昼休み、二人きりの生徒会室で、俺の方から久保を抱きしめた。
これまでの回数で言えば、三回、いや、それにも満たないくらいだったかもしれない。
何度か繰り返せば、それが当たり前の日常や、ただの習慣のように感じられるようになると思っていた。けれど、実際は全く違った。
久保の首筋からふわりと香る大人びた香水や、日の当たらない生徒会室のひんやりした空気の中で伝わる、制服越しの体温。そのたびに俺の心は、どうしようもなく波立ってしまう。
「……今さらだけどさ。なんで、三十秒? 短すぎると、効果がないってこと?」
「血流がよくなって、体の中でセロトニンっていう物質が作られるまでに、それくらいの時間がかかるんだって」
「……へぇ、そうなんだ」
「あと、体の触れ合う面積を増やすといいとか、書いてあったけど……」
自分で言っていて、途中で猛烈に恥ずかしくなった。
『だから、もっとくっついてほしい』なんて、俺がそれを望んでいるみたいに聞こえるんじゃないか。そう思って、言葉を濁した。
久保はそれ以上、体を押し付けたり、ぎゅっと抱きしめ返してきたりはしない。
ただ、少しだけ屈んで、俺の肩口に顔を寄せてくるだけだ。
触れそうなほどの距離。かすかに揺れる髪の匂いに、久保をこれまでになく近くに感じる。
たまらなくなって視線を逸らすと、久保はタイミングを見計らったように体を離した。
「……ありがとう。これで今日のストレス、三割減だな」
お互いの気まずさを隠すためか、最後はいつも、久保が冗談めかして笑って終わる。
俺もまた、その空気感を壊さないようにと、精一杯の愛想笑いを返した。
***
そのあと――久保は秋の連休を、鎌倉にあるお爺ちゃんの家で過ごしたらしい。
潮の香りと静かな街の空気が、久保には合っていたのだろう。三日間を過ごして戻ってきた久保の顔色は、以前よりもずっと明るく見えた。落ち込んでいる様子を見せることも、ほとんどなくなっていた。
チャイムが鳴った直後のざわめきの中で、俺が教科書を机にしまい終えて顔を上げると、久保はクラスの輪の中に混ざって楽しそうに話していた。
「山根、また前回みたいにボール顔面キャッチしろよ」
「うっさいわ、久保。しばくぞガチで」
山根がノートを丸めて久保の頭を叩こうとし、田中がバカ笑いする。久保はそれを軽やかに避けながら、目を細めて笑っていた。窓から差し込む日差しが、久保の肩越しに揺れている。
(少しずつでも、元気になってきてよかった……)
まだ完全に元通りというわけではない。けれど、心の重荷が少しずつ軽くなっているのが見ていてわかった。久保が笑う姿を見るだけで、俺まで嬉しくなってしまう。
「なあ、今日さ。天気いいし、外で食べない?」
昼休みの騒がしさの中で、俺の声が少しだけ浮いた。唐突な提案に、グループのみんなが一瞬きょとんとした顔をする。
「え、外? 校庭ってことやんな?」
「ええやん、日光浴ってやつ?」
「修学旅行前に日焼けすんの嫌なんやけど」
口々に文句を言いながらも、結局は誰一人反対せず、椅子を引く音が重なった。その流れに紛れて、俺はこっそり久保の方を盗み見る。久保は机にノートをしまいながら、少し困ったように口を開いた。
「……俺、今日弁当ないわ。購買行くつもりだったし」
ぽつりと落とされたその一言が、胸の奥に小さく引っかかる。久保がいつも菓子パンとジュースだけで昼を済ませていることを、俺はずっと気にかけていた。
「じゃあ、久保はこれ」
迷うより先に体が動いて、余分に持ってきた弁当袋を差し出していた。
「え? でもこれ、新田の……」
「うん、弁当。食べきれないから手伝ってよ」
「……ありがと」
二つの弁当袋を交互に見比べてから、久保は俺の意図を察したのか、小さく笑った。
***
中庭のベンチは秋の日差しをたっぷり浴びていて、コンクリートもほんのりと温かかった。みんな思い思いに腰を下ろし、弁当箱の蓋を開けていく。
「伊織の弁当、今日も美味そうやわぁ」
「唐揚げでかすぎ」
「やって、伊織にはハムスター並みの頬袋あるもんな」
いつもの、変わらない騒がしさ。久保も自然な流れで俺の隣に座り、弁当箱を開けた。
「……すご。これ、俺の好物ばっかだわ」
焼き鮭に卵焼き、ほうれん草の和え物、ミニトマト。母さんの「万能型弁当」だ。
「父さんの分まで、俺の袋に入れちゃったみたいでさ」
本当は、『友達が困ってて』とだけ伝えて、余分に作ってもらった。母さんは詳しく聞かなかったけれど、事情が軽くないことは察してくれたようだった。俺が卵焼きを少し手伝ったことは、黙っておこう。
久保が箸を進めるたび、つい様子を窺ってしまう。美味しそうに食べる横顔を見ているだけで、ほわほわと暖かく胸が満たされていった。
「日向、ぬくそうちゃう?」
「俺、あっちの指揮台で爆睡してくるわ」
「教頭に見つかったらガチで死ぬやつ」
みんなは思い思いに散っていき、ベンチの周りは静かになった。最後に残ったのは、俺と久保だけだ。
「あー、腹くっつい」
「……何それ? また、仙台弁?」
「うん。『お腹いっぱいで、もうキツい』ってこと」
方言だと気づいた久保が、くすっと笑う。その横顔が日差しに照らされて――本当に綺麗に見えて、俺は一瞬言葉を失った。慌てて誤魔化すように口を開く。
「日光浴でセロトニンも出るから、一石二鳥だよ」
久保は小さく息を吐くように笑った。
「俺……まだ、元気なさそうに見える?」
「ううん。でも、久保にはいっぱい笑っててほしいから。知ってた? 手のひらを太陽にかざすだけでも、人は元気になれるんだって」
明るく言ったつもりだったけれど、久保は何も返さず、ただ隣に座り続けた。肩と肩がほんの少し触れている。離れようと思えば離れられる距離なのに、どちらも動かない。沈黙の中、風が吹き抜け、木の葉がさわさわと音を立てた。
「……新田さん、嫌じゃない?」
一瞬、何のことか分からなかった。お互いに、探り合うような空気になる。
「こうやって……弁当、わざわざ俺の分まで用意してくれるとか」
久保は前を向いたまま、いつもより少し低い声で言った。感情の置き場を探しているようなトーンだった。
ああ、やっぱり気づいていたんだな。隠せているつもりだったけれど、久保は本当に勘がいい。
俺は膝を抱え、視線を足元に落とした。踏み込みすぎだったかと、胸の奥で小さな不安が渦を巻く。
「本当に嫌だったら、そもそもやらないよ」
言葉はそれだけだった。言い訳も、理由の説明もしない。久保は一拍置いて、ふっと息を吐いた。
「……そっか」
会話はそこで途切れた。けれど空気は不思議と穏やかで、気まずさはない。そこに『ありがとう』という言葉がなくても、俺は全然よかった。
ただ、さっきよりもほんの少し、肩に触れる重みが増える。
(こうやって……ちょっとずつでいいから、しんどいのも分けてくれたら……)
もっと、信頼して欲しい。頼って欲しい。一人じゃないよって、側に居ることで証明したい。
久保が心を開いてくれた小さな変化に、俺の心臓は、トクントクンと嬉しさで高鳴りっぱなしだ。
「次、LHRやんな? そろそろ戻ろうや」
「せやな。おい、はよ起きー」
久保がすっと立ち上がり、俺もそれに続く。何事もなかったみたいに、みんなでぞろぞろと教室へ戻る。
今日のLHRは、修学旅行の班行動のルート決めだ。
教室に戻ると、机を寄せ合ったまま、クラスメイトたちがスマホの動画を見て笑い転げている。先生もどこか気を抜いた様子で、予鈴が鳴ると黒板の前に立ったまま、「先に班で話し合ってていいぞ」とだけ言った。
教室全体が、まるで遠足の前日みたいな賑やかさに包まれる。俺たちのグループも例に漏れず、自由行動の話題で一気に盛り上がった。
「ほんなら、班行動の時間も行きたい場所バラバラやし、効率良ぉ回るために国際通りは二人ずつ分かれへん?」
「お、ええやん。じゃあ誰と誰で行くー?」
自然と、“誰と組むか”の話になる。
「俺、買い物ガチ勢やし田中と行くわ」
「はいはい、どうせお土産爆買いやろ」
「えー、俺はここに行きたいねん。誰と行ったらええの?」
机に広げたパンフレットを指でなぞりながら、山根がぶつぶつ言う。
ああでもない、こうでもないと軽口を叩き合っているうちに、川内と田中は買い物班、山根はブルーシール班に決まった。残ったのは、海野と久保、そして俺だ。
「……どないする?」
誰かがそう呟いたあと、山根が顎に手を当てて少し考え、不意に俺の方を指さした。
「俺、伊織と一緒がえぇ」
「うん、別にいいよ、俺は――」
言いかけた、その瞬間だった。
背後から、ふわっと何かに視界を覆われ、目の前が真っ暗になる。
「……だめ」
耳元近くに落ちてきた、低くて静かな声。
次の瞬間、両目を後ろから大きな手のひらで覆われていることに気づいた。何が起きたのか分からなくて、ただ視界を塞がれただけで、こんなにも不安になるなんて思わなかった。
「な、なに……?」
反射的に声を上げると、すぐにぱっと手が離れた。急に戻った視界が、ただただ眩しい。
振り返れば久保がすぐ後ろに立っていて、何事もなかったような顔で言った。
「冗談。新田、びっくりしすぎ」
「びっくりするに決まってんじゃん! 焦った……」
俺が言い返すと、クラスのあちこちからワンテンポ遅れて、どっと笑い声が起こった。
「なんやねん久保、独占欲つよっ」
「うわー、伊織の『前方彼氏面』やん」
「後方とちゃう。前方やわ、確かに」
好き勝手にからかわれても、久保は肩をすくめるだけで、はっきりと否定はしない。
「俺と新田はデートするって約束してるから」
「はぁ? お前ら、いつそんな約束したん?」
「え、今」
そう言いながら、わずかに口元が緩んでいるのが見えた。みんなの視線が突き刺さる中、「ね?」と小首を傾げる久保に、俺は気圧されて頷くしかできなかった。
そこまで騒ぐことじゃない。ただの冗談、いつもの軽いノリだ。
頭ではそう分かっているのに、胸の奥は「デート」という言葉に大きく揺さぶられている。
目を覆われたときの一瞬の近さ。耳元で響いた声の低さ。息がかかるほどの距離。
そのすべてが、熱を持って肌に焼き付いていた。
「水族館でさ、みんなで被り物買わん?」
「俺、ジンベエザメ一択な」
「伊織は目ぇクソデカいからアザラシでええやん」
「久保は俺らのこと殺しに来るシャチ」
わあわあと話題は流れていくけれど、俺だけはうまく輪の中に戻れない。
久保はもう何事もなかったように、みんなと笑ってツッコミを入れている。
だけど――不意に視線が合った。一瞬だけ。ほんの一瞬目が合ったあと、久保は皆に見えないように、俺に向かって意味深にふっと小さく笑った。
けれど、家の中に漂う険悪な空気は消えるはずもなく、久保は以前にも増して疲れ切った表情を見せている。
張りつめたままの肩。どこか余裕のない姿を見るたび、俺はどうしても声をかけずにはいられなかった。
「久保、大丈夫?」
平気だと笑って返す日もあれば、ただ俯いて何も答えない日もある。
そんな時は、昼休み、二人きりの生徒会室で、俺の方から久保を抱きしめた。
これまでの回数で言えば、三回、いや、それにも満たないくらいだったかもしれない。
何度か繰り返せば、それが当たり前の日常や、ただの習慣のように感じられるようになると思っていた。けれど、実際は全く違った。
久保の首筋からふわりと香る大人びた香水や、日の当たらない生徒会室のひんやりした空気の中で伝わる、制服越しの体温。そのたびに俺の心は、どうしようもなく波立ってしまう。
「……今さらだけどさ。なんで、三十秒? 短すぎると、効果がないってこと?」
「血流がよくなって、体の中でセロトニンっていう物質が作られるまでに、それくらいの時間がかかるんだって」
「……へぇ、そうなんだ」
「あと、体の触れ合う面積を増やすといいとか、書いてあったけど……」
自分で言っていて、途中で猛烈に恥ずかしくなった。
『だから、もっとくっついてほしい』なんて、俺がそれを望んでいるみたいに聞こえるんじゃないか。そう思って、言葉を濁した。
久保はそれ以上、体を押し付けたり、ぎゅっと抱きしめ返してきたりはしない。
ただ、少しだけ屈んで、俺の肩口に顔を寄せてくるだけだ。
触れそうなほどの距離。かすかに揺れる髪の匂いに、久保をこれまでになく近くに感じる。
たまらなくなって視線を逸らすと、久保はタイミングを見計らったように体を離した。
「……ありがとう。これで今日のストレス、三割減だな」
お互いの気まずさを隠すためか、最後はいつも、久保が冗談めかして笑って終わる。
俺もまた、その空気感を壊さないようにと、精一杯の愛想笑いを返した。
***
そのあと――久保は秋の連休を、鎌倉にあるお爺ちゃんの家で過ごしたらしい。
潮の香りと静かな街の空気が、久保には合っていたのだろう。三日間を過ごして戻ってきた久保の顔色は、以前よりもずっと明るく見えた。落ち込んでいる様子を見せることも、ほとんどなくなっていた。
チャイムが鳴った直後のざわめきの中で、俺が教科書を机にしまい終えて顔を上げると、久保はクラスの輪の中に混ざって楽しそうに話していた。
「山根、また前回みたいにボール顔面キャッチしろよ」
「うっさいわ、久保。しばくぞガチで」
山根がノートを丸めて久保の頭を叩こうとし、田中がバカ笑いする。久保はそれを軽やかに避けながら、目を細めて笑っていた。窓から差し込む日差しが、久保の肩越しに揺れている。
(少しずつでも、元気になってきてよかった……)
まだ完全に元通りというわけではない。けれど、心の重荷が少しずつ軽くなっているのが見ていてわかった。久保が笑う姿を見るだけで、俺まで嬉しくなってしまう。
「なあ、今日さ。天気いいし、外で食べない?」
昼休みの騒がしさの中で、俺の声が少しだけ浮いた。唐突な提案に、グループのみんなが一瞬きょとんとした顔をする。
「え、外? 校庭ってことやんな?」
「ええやん、日光浴ってやつ?」
「修学旅行前に日焼けすんの嫌なんやけど」
口々に文句を言いながらも、結局は誰一人反対せず、椅子を引く音が重なった。その流れに紛れて、俺はこっそり久保の方を盗み見る。久保は机にノートをしまいながら、少し困ったように口を開いた。
「……俺、今日弁当ないわ。購買行くつもりだったし」
ぽつりと落とされたその一言が、胸の奥に小さく引っかかる。久保がいつも菓子パンとジュースだけで昼を済ませていることを、俺はずっと気にかけていた。
「じゃあ、久保はこれ」
迷うより先に体が動いて、余分に持ってきた弁当袋を差し出していた。
「え? でもこれ、新田の……」
「うん、弁当。食べきれないから手伝ってよ」
「……ありがと」
二つの弁当袋を交互に見比べてから、久保は俺の意図を察したのか、小さく笑った。
***
中庭のベンチは秋の日差しをたっぷり浴びていて、コンクリートもほんのりと温かかった。みんな思い思いに腰を下ろし、弁当箱の蓋を開けていく。
「伊織の弁当、今日も美味そうやわぁ」
「唐揚げでかすぎ」
「やって、伊織にはハムスター並みの頬袋あるもんな」
いつもの、変わらない騒がしさ。久保も自然な流れで俺の隣に座り、弁当箱を開けた。
「……すご。これ、俺の好物ばっかだわ」
焼き鮭に卵焼き、ほうれん草の和え物、ミニトマト。母さんの「万能型弁当」だ。
「父さんの分まで、俺の袋に入れちゃったみたいでさ」
本当は、『友達が困ってて』とだけ伝えて、余分に作ってもらった。母さんは詳しく聞かなかったけれど、事情が軽くないことは察してくれたようだった。俺が卵焼きを少し手伝ったことは、黙っておこう。
久保が箸を進めるたび、つい様子を窺ってしまう。美味しそうに食べる横顔を見ているだけで、ほわほわと暖かく胸が満たされていった。
「日向、ぬくそうちゃう?」
「俺、あっちの指揮台で爆睡してくるわ」
「教頭に見つかったらガチで死ぬやつ」
みんなは思い思いに散っていき、ベンチの周りは静かになった。最後に残ったのは、俺と久保だけだ。
「あー、腹くっつい」
「……何それ? また、仙台弁?」
「うん。『お腹いっぱいで、もうキツい』ってこと」
方言だと気づいた久保が、くすっと笑う。その横顔が日差しに照らされて――本当に綺麗に見えて、俺は一瞬言葉を失った。慌てて誤魔化すように口を開く。
「日光浴でセロトニンも出るから、一石二鳥だよ」
久保は小さく息を吐くように笑った。
「俺……まだ、元気なさそうに見える?」
「ううん。でも、久保にはいっぱい笑っててほしいから。知ってた? 手のひらを太陽にかざすだけでも、人は元気になれるんだって」
明るく言ったつもりだったけれど、久保は何も返さず、ただ隣に座り続けた。肩と肩がほんの少し触れている。離れようと思えば離れられる距離なのに、どちらも動かない。沈黙の中、風が吹き抜け、木の葉がさわさわと音を立てた。
「……新田さん、嫌じゃない?」
一瞬、何のことか分からなかった。お互いに、探り合うような空気になる。
「こうやって……弁当、わざわざ俺の分まで用意してくれるとか」
久保は前を向いたまま、いつもより少し低い声で言った。感情の置き場を探しているようなトーンだった。
ああ、やっぱり気づいていたんだな。隠せているつもりだったけれど、久保は本当に勘がいい。
俺は膝を抱え、視線を足元に落とした。踏み込みすぎだったかと、胸の奥で小さな不安が渦を巻く。
「本当に嫌だったら、そもそもやらないよ」
言葉はそれだけだった。言い訳も、理由の説明もしない。久保は一拍置いて、ふっと息を吐いた。
「……そっか」
会話はそこで途切れた。けれど空気は不思議と穏やかで、気まずさはない。そこに『ありがとう』という言葉がなくても、俺は全然よかった。
ただ、さっきよりもほんの少し、肩に触れる重みが増える。
(こうやって……ちょっとずつでいいから、しんどいのも分けてくれたら……)
もっと、信頼して欲しい。頼って欲しい。一人じゃないよって、側に居ることで証明したい。
久保が心を開いてくれた小さな変化に、俺の心臓は、トクントクンと嬉しさで高鳴りっぱなしだ。
「次、LHRやんな? そろそろ戻ろうや」
「せやな。おい、はよ起きー」
久保がすっと立ち上がり、俺もそれに続く。何事もなかったみたいに、みんなでぞろぞろと教室へ戻る。
今日のLHRは、修学旅行の班行動のルート決めだ。
教室に戻ると、机を寄せ合ったまま、クラスメイトたちがスマホの動画を見て笑い転げている。先生もどこか気を抜いた様子で、予鈴が鳴ると黒板の前に立ったまま、「先に班で話し合ってていいぞ」とだけ言った。
教室全体が、まるで遠足の前日みたいな賑やかさに包まれる。俺たちのグループも例に漏れず、自由行動の話題で一気に盛り上がった。
「ほんなら、班行動の時間も行きたい場所バラバラやし、効率良ぉ回るために国際通りは二人ずつ分かれへん?」
「お、ええやん。じゃあ誰と誰で行くー?」
自然と、“誰と組むか”の話になる。
「俺、買い物ガチ勢やし田中と行くわ」
「はいはい、どうせお土産爆買いやろ」
「えー、俺はここに行きたいねん。誰と行ったらええの?」
机に広げたパンフレットを指でなぞりながら、山根がぶつぶつ言う。
ああでもない、こうでもないと軽口を叩き合っているうちに、川内と田中は買い物班、山根はブルーシール班に決まった。残ったのは、海野と久保、そして俺だ。
「……どないする?」
誰かがそう呟いたあと、山根が顎に手を当てて少し考え、不意に俺の方を指さした。
「俺、伊織と一緒がえぇ」
「うん、別にいいよ、俺は――」
言いかけた、その瞬間だった。
背後から、ふわっと何かに視界を覆われ、目の前が真っ暗になる。
「……だめ」
耳元近くに落ちてきた、低くて静かな声。
次の瞬間、両目を後ろから大きな手のひらで覆われていることに気づいた。何が起きたのか分からなくて、ただ視界を塞がれただけで、こんなにも不安になるなんて思わなかった。
「な、なに……?」
反射的に声を上げると、すぐにぱっと手が離れた。急に戻った視界が、ただただ眩しい。
振り返れば久保がすぐ後ろに立っていて、何事もなかったような顔で言った。
「冗談。新田、びっくりしすぎ」
「びっくりするに決まってんじゃん! 焦った……」
俺が言い返すと、クラスのあちこちからワンテンポ遅れて、どっと笑い声が起こった。
「なんやねん久保、独占欲つよっ」
「うわー、伊織の『前方彼氏面』やん」
「後方とちゃう。前方やわ、確かに」
好き勝手にからかわれても、久保は肩をすくめるだけで、はっきりと否定はしない。
「俺と新田はデートするって約束してるから」
「はぁ? お前ら、いつそんな約束したん?」
「え、今」
そう言いながら、わずかに口元が緩んでいるのが見えた。みんなの視線が突き刺さる中、「ね?」と小首を傾げる久保に、俺は気圧されて頷くしかできなかった。
そこまで騒ぐことじゃない。ただの冗談、いつもの軽いノリだ。
頭ではそう分かっているのに、胸の奥は「デート」という言葉に大きく揺さぶられている。
目を覆われたときの一瞬の近さ。耳元で響いた声の低さ。息がかかるほどの距離。
そのすべてが、熱を持って肌に焼き付いていた。
「水族館でさ、みんなで被り物買わん?」
「俺、ジンベエザメ一択な」
「伊織は目ぇクソデカいからアザラシでええやん」
「久保は俺らのこと殺しに来るシャチ」
わあわあと話題は流れていくけれど、俺だけはうまく輪の中に戻れない。
久保はもう何事もなかったように、みんなと笑ってツッコミを入れている。
だけど――不意に視線が合った。一瞬だけ。ほんの一瞬目が合ったあと、久保は皆に見えないように、俺に向かって意味深にふっと小さく笑った。



