乱気流の飛行機でパニックになり、隣の奴に手を握ってもらったら、転校先の生徒会長でした。


 そのあとも俺は、どうにかして久保を励ましたくて仕方がなかった。
 だって、ずっと独りで抱え込む久保を、どうにか出来るのもまた、俺しかいないから。
 けれど久保はあのとき、はっきりと「慰めはいらない」と言った。
 だから俺は、“優しい言葉をかける”じゃなくて、“自分に何が出来るか”を考える方向に、必死で頭を切り替えた。

 家に帰ってからも、布団に寝転びながらスマホを握りしめて、片っ端から検索した。

 “ストレス 解消方法”
 “家庭 不和 高校生”
 “気持ち 楽になる方法”

 どれもそれっぽい言葉ばかり並んでいて、どれも正解みたいで、でもどれも久保にそのまま当てはめていいのか分からない。
 高校生の俺には、他人の家庭の事情の深さなんて、正直ほとんど想像がつかなかった。

 それでも、ツイッターや知恵袋を覗くと、両親の不仲や離婚問題で悩んでいる同世代の書き込みが山ほど流れてきて。
 共感の言葉、愚痴、諦め、虚しさ、怒り。
 久保の言葉と重なるような文章を見つけるたび、胸の奥がじわじわと苦しくなっていった。

 ――久保は、こういう気持ちの中で、毎日を過ごしてるのかな。

 そう考えるだけで、息が詰まりそうになる。
 何も出来ない自分が、ひどく無力に思えた。

 *

 昼休み。
 教室のあちこちで修学旅行の話題が飛び交って、その一角では、俺たちのグループがベッドの位置決めで盛大に盛り上がっていた。

「壁際は絶対俺やからな!」

「はぁ? あみだで決めるって言うてたやん!」

「いや、ジャンケンの方が熱いやろ!」

 最初はあみだくじだったはずが、「それじゃつまらない」と山根が言い出して、いつの間にかジャンケン勝負に変わっていた。

「っしゃおらぁ!!」

「うわ、田中ずりぃー! 死ねやマジで!」

 笑い声と怒号と、机を叩く音が入り混じって教室が一気に騒がしくなる。
 そんな中で、久保はその輪の少し外側に立って、スマホを片手にいつものリプトンを飲んでいた。輪には加わっているのに、どこか一歩引いて、俯瞰しているみたいな立ち位置だ。
 俺は、意を決して声をかけた。

「久保、あの……」

「ん?」

「ちょっと話したい。……ふたりで」

 ほとんど息に近い小さな声だったのに、なぜかその瞬間だけ、周囲のざわめきがぴたりと止まった。

「え、何なに?」

「伊織、まさか……久保に告白!?」

「え、ガチのやつ!?」

「修学旅行前に爆弾落とすタイプ!?」

 一斉に向けられるニヤニヤした視線。もはや定番化してる俺へのいじり。
 溜め息をつきながら、即座に首を横に振る。

「違うって。マジで違うから」

 みんなの前で言うんじゃなかった、と思ったその時だった。

「――そういうの、ガチでウザいから止めてくんない?」

 低くて、感情の読めない声。
 久保が田中を真っ直ぐ見据えたまま、無表情で言った。
 その場の空気も、さっきまでの騒がしさも嘘みたいに冷え込む。
 似たような沈黙がほんの一瞬続いて、それを断ち切ったのも、やっぱり久保だった。

「新田、生徒会室」

 それだけ告げると、俺の返事も待たずに教室を出て行く。

「久保……こっわ」

「一気に冬きたかと思ったわ。久々のガチギレやったな」

「ブリザードだわ」

 海野たちがそう呟いたのが聞こえて、俺はそれ以上からかうな、という意味を込めて眉を寄せた。
 慌てて久保の背中を追いかけ、二人で生徒会室に入る。
 ドアが閉まると、教室の喧騒が一気に遠のいた。

「……で、何?」

 少しだけ苛立ちを含んだ声。
 さっきのやり取りが、思った以上に久保の神経を逆なでしたのが分かって、俺は胸の奥がちくりと痛んだ。
 謝ったところで、機嫌が直りそうな雰囲気でもなくて。
 俺は逃げ道を断つみたいに、てっとり早く本題に入った。

「あ、あの……これ。久保が嫌じゃなかったら、使ってみて欲しくて」

 差し出した紙袋を見て、久保は少し目を見開いた。そして、恐るおそる中を覗き込む。

「……これ……」

「ホットアイマスク。使い切りだけどさ。ちょっとリフレッシュしたい時にいかなって。……で、こっちはチョコとコーヒー。久保が甘いの好きか自信なかったんだけど、甘すぎないやつ選んでみた」

 一気に言葉が溢れ出す。

「ネットで調べたら、ストレス解消には“セロトニン”とか“オキシトシン”ってやつがいいらしくて。
 リラックスとか、甘いもの食べるとか、日光浴とか……あと、音楽も効くらしい。久保、スポティファイ入れてたよな?
 プレイリストも作ってきたから、共有も出来るし……!」

 言いながら、自分でも何をどこまで説明してるのか分からなくなってくる。
 問題を解決してあげることは出来ないけど、共感したり、その重石を少しでも軽くしてあげたかった。
 でも、必死に“役に立ちたい”って気持ちだけが先走ってるみたいで、喉が少し苦しくなった。

 久保は相変わらず動かず、表情もあまり変わらない。
 やっぱり、やりすぎたかもしれない。
 俯いて、心の中で小さく後悔しかけた、その瞬間だった。

 ぐい、と肩を引き寄せられる。

「……えっと……」

 気づけば、久保の腕の中にいた。この前みたいに、何も言わずに、ただ抱きしめられている。
 俺は戸惑いながらも、ブレザー越しに背中をぽん、ぽん、と二回だけ撫でる。正解かなんて分からない。
 けど、また溜め込みすぎてるんじゃないか、とそればかり頭に浮かんだ。

「……俺なんかのために、こんなしてくれて。ありがとう」

 そう呟いたきり、久保はまた黙り込んでしまう。

 “俺なんか”。

 その言葉が、胸に引っかかって、ちくっと痛んだ。
 そんなふうに思わせたくてやった訳じゃないのに。
 俺は、ただ久保に少しでも元気になってほしかっただけなのに。

「久保……あのさ、もう一個……セロトニンが出る方法があるんだけど」

「うん」

「三十秒以上のハグ、すると……一日のストレスの三十二パーセントが軽減されるって」

 言ってから、しまった、と思った。
 流石にこれは気持ち悪い提案だったかもしれない、と慌てて体を離す。

「キショいかもだけど! う、嘘じゃないから!
 ほら、見て。ちゃんとアメリカの心理学者とか医者の論文が――」

 スマホの画面を差し出すより早く、また久保に抱き寄せられた。
 今度は、さっきよりもずっと強い力で。

「……じゃあ、しんどい時はハグ、してくれんの? 新田が」

「い、いや。俺じゃなくてもよくて……ぬいぐるみとか、ペットとか、親友でも効果あるって――」

 その瞬間、ふわりと久保の香水の匂いが鼻先を掠めて、心臓が跳ねる。

「そうなんだ。でも、俺ペット居ないし。あいつらにも言ってないし。こんなの頼めるの、新田しかいないよ?」

 それは、たしかにそうだった。
 そしてその言葉が、俺とのハグを求めているのだと、嫌になるほど分かってしまって。

「……ほんとに、しんどい時だけなら……」

 耳まで熱くなっているのを自覚しながら、俺は小さく答えた。

「笑ってる久保とさ……ちゃんと楽しく、修学旅行行きたいし」

 それ以上、何を言えばいいのか分からなくて。
 抱き合ったままの距離がやけに現実味を帯びて、鼓動の音まで伝わってきそうで、俺はそっと久保から離れた。

「……戻ろう」

 久保が先にそう言って、視線を逸らす。
 いつもの余裕ある生徒会長の顔じゃなくて、少しだけ気まずそうで、どこか照れてるようにも見える表情。

「あ、うん……」

 久保は紙袋を片手に、何も言わずに鍵を手に取って、ガチャリとドアを開けた。
 廊下のざわめきと昼休みの名残の喧騒が、一気に流れ込んでくる。
 二人並んで階段を下りる。
 さっきまであんなに近かったのに、今は妙に距離の取り方が分からなくて、自然と半歩分くらいの隙間が空いた。

「……新田、ありがと」

 不意に、久保がぽつりと呟いた。

「う、うん……どういたしまして」

 声が少しだけ裏返った気がして、俺は誤魔化すように前を向く。
 サンダルのペタペタという音ばかりが、やけに大きく響いていた。



 教室に戻ると、すでに皆は席についていて、次の授業の準備をしていた。
 俺と久保がほぼ同時に入ってきたことで、一瞬だけ視線が集まる。

「お、秀才ふたりが戻ってきた」

「伊織、現代文のワーク写さしてや」

 いつもの調子で話しかけられるけど、今日はそれに上手く反応できない。
 俺は曖昧に笑って、自分の席へ戻った。
 久保も黙ったまま隣の席に腰を下ろす。
 チャイムが鳴って、先生が入ってくる。
 ノートを開いて、教科書を出して、授業がいつも通り始まるのに。
 さっきのハグの感触が、まだ背中に残っている気がして、集中なんてどこかに吹き飛んでいた。
 手元の文字を追っているはずなのに、内容はまるで頭に入ってこない。

 ――俺が言いだしたことなのに。なんで、こんなに動揺してんだろう。

 隣を見ると、久保は何食わぬ顔で板書を書き写ししている。
 横顔はいつもと変わらないのに、たまにシャーペンを持つ指が微妙に止まるのが、なぜかやたらと気になった。

 ――ん?

 俺の視線に気づいたのか、久保が一瞬だけこっちを見る。
 ほんの一瞬、目が合って、すぐに逸らされる。
 それだけなのに、胸の奥が小さく跳ねた。

 なんだ今の。気のせいか?
 いつもより、ちょっとだけ……そわそわしてないか?

 そんなことを考えているうちに、俺のノートには意味不明な計算式が並んでいって、先生に名前を呼ばれなかったのが奇跡なくらいだった。

 昼休みに一緒にいたのに。
 抱きしめられたのに。
 今はただの「隣の席の久保」に戻っている。

 戻りきれてないのは、たぶん――俺だけ。

 そんな余韻だけを胸に残して、数学の授業は、ひどく落ち着かないまま過ぎていった。