翌朝。
教室に入った瞬間から、なんとなく胸の奥がそわそわして、落ち着かなかった。
深呼吸をしても、心臓の位置がいつもより高いところにある気がする。
昨日の久保の腕の重さ。
あの、微かに震える呼吸。
制服越しでも分かった体温。
――全部、まだ肌に張り付いたまま、離れてくれない。
「おはようさん、伊織」
川内がいつも通りの軽い調子で声をかけてくる。
その“いつも通り”が、今日の俺には少し眩しすぎて、
「……おはよ」
返すまでに、ほんのわずか、コンマ数秒だけ間が空いた。
席に着いても、頭の中は昨日のことでいっぱいだった。
久保はちゃんと学校に来ているだろうか。
無理していないだろうか。
今日の“いつもの顔”は、ちゃんと作れているんだろうか。
そんなことばかり、考えてしまう。
チャイムが鳴り、教室の扉が開くと、久保が入ってきた。
――あ。
一瞬だけ、目が合った。たったそれだけなのに、胸の奥がきゅっと掴まれる。
「久保、おはようさーん」
「はよ」
久保はすぐに、あの完璧な“会長の顔”に切り替わって、周囲に軽く挨拶しながら、何事もなかったみたいに席へ向かっていく。
でも、昨日俺を抱き寄せた時とはまるで違う、ひんやりとした空気を、どこかに纏っているのが分かった。
席についた、その瞬間。また、ほんの一瞬だけ、視線が重なる。
でも、お互いに逸らすのが早すぎて、逆に不自然だった。
――なんだこれ。
ただ普通に接しているだけなのに、意識しすぎて、すべての動きが少しずつぎこちない。
昨日のことを思い出すと、胸が熱くなる。息が詰まりそうになる。それなのに、どれくらいの距離でいればいいのかが、分からなくなる。
授業中も、久保はいつも通り前を向いて、ノートを取っている……フリ、なんだと思う。
姿勢も視線も完璧なのに、その瞳が、どこか遠くを見ているのが、なぜか分かってしまった。
でも俺のほうから詮索できる立場じゃないし、「慰めの言葉は要らない」と言われてしまったし。
そのあとの昼休みも、移動教室も――いつメンの輪の中には一緒にいるのに、俺と久保は一度も言葉を交わさなかった。
近いのに、遠い。それが、余計にもやもやを膨らませる。
その気持ちを抱えたまま、生物の授業ノートを職員室に届けるため、廊下を歩いていた。
曲がり角を曲がった、その先で――ばったり、久保と出くわした。腕には、生徒会の資料ファイルが見える。
「……あ」
「……おう」
二人とも、声がワンテンポ遅れた。
目が合った瞬間、昨日の腕の力、あの時の近すぎた距離……全部が一気にフラッシュバックする。
けれど、久保は、ほんの少しだけ、いつもよりも柔らかい表情をしていた。
「昨日……ありがとな」
小さく、本当に小さな声で、周りの誰にも聞こえないくらいの音量で。
その一言が、胸のいちばん深いところを、そっと撫でた気がした。
「……うん」
それだけ返すのが、もう精一杯だった。喉が少し震えていた気もする。
言葉は、ほとんど交わしていないのに。
沈黙のほうが、ずっと多いのに。
それでも――これ以上触れてほしくなさそうだと分かっているのに。
力になれないかって、勝手に考えてしまう自分がいた。



