乱気流の飛行機でパニックになり、隣の奴に手を握ってもらったら、転校先の生徒会長でした。

 昼休み。教室は賑やかで、笑い声や机を寄せ合う音があちこちから聞こえていた。
 久保はふらりと椅子から立ち上がると、クラスメイトから目立たないように教室を抜けて行った。
 生徒会室に向かうのかな、とその背中をぼんやり見つめながら、俺は少し迷った。

 なんか……最近は、元気がないというか。
 グループの皆と話していても、時々、心ここにあらずな感じで。
 ふとした時に見える、陰みたいなののが、ずっと気になっていた。

「……久保っ」

 生徒会室の前で、鍵を開けるその背中に声をかけると、一拍止まって振り向かれる。

「あぁ、新田……」

 その顔は、いつもより少しだけ疲れて見えた。
 本当にそっとしておいた方が良かったのかもしれない――今さら不安になる。

 少し気まずさを抱えたまま、俺は久保と一緒に生徒会室に入った。
 後ろ手で鍵をかけ、長く細く息を吐いている。

「……久保、大丈夫?」

 俺がこわばった声で尋ねると、久保は驚いたように目を丸くした。

「え?」

「や、なんか……疲れてそうっていうか……たまーに、しんどそうに見える時があるから」

 そう呟くと、久保はすぐに顔を横へ背けてしまった。
 やばい。気に障ったのかも。
 親友でもないのに、今のは踏み込みすぎたかもしれない、と俺の目は泳ぐ。

「ご、ごめん! 気分悪くさせてたら謝る。……でも、なんか心配で、無理してるんじゃないかって思って、つい追いかけてきちゃった」

 言い終わった瞬間、そっとしておくべきだったかもと心が揺れる。
 ドアノブに手をかけたまま、出て行こうか迷っていると、久保は俺の背後からそのドアを片手で押さえた。
 見上げると、そこには今にも壊れそうなほど、切なさを滲ませた顔があった。

「……ごめん、まさか新田に……そういう風に言われるとは思ってなくて」

「えーと……あの、俺でよければいつでも話聞くしさ――」

 そう声をかけると、久保の目から一瞬、感情が消えたように見えた。表情が暗くなる。
 その反応に、俺の胸は焦りでいっぱいになる。
 泣きそう? 怒ってる? それとも、別の感情?
 まったく読めない。

「大丈夫? 久保……しんどかったら、ほら! ヨシヨシもするし!」

 どうにか笑わせようと、両手を目いっぱい広げる。
 すると、久保は吸い寄せられるようにして俺の肩に顔を埋めた。

「……ごめんけど、めちゃくちゃしんどい。ぶっ倒れそう」

 耳元に落ちるその言葉に、俺の心はさらにざわついた。
 原因が分からない不安で、体の力が抜けそうになる。
 広げたままの腕をぎこちなく曲げて、背中にそっとぽんぽん、と手を置いてみる。

「と、とりあえずアレか。座ろう? ねっ」

 隣にあったパイプ椅子に視線を落とす。
 けれど久保は石のように動かない。本当に、どうしちゃったんだ……?

「……今からいうこと、誰にも言わないで欲しいんだけど」

 その言葉に、俺は自然と聴く体勢をとる。
 ちゃんと、久保の抱えているものを受け止めたい――そう思った。
 切羽詰まった表情を目の前に、胸がぎゅうっと締め付けられる。

 教室の喧騒から隔絶された生徒会室の空気。
 時間が止まったように感じる中、俺はただ久保の言葉を待ち、心の準備を整えていた。

「……俺の家、今、両親が離婚で揉めてて。家に帰ると……母親の金切り声とか、父親の怒鳴り声がすごくて」

 静かな生徒会室に落ちたその一言は、思っていたよりずっと重くて生々しくて、胸の奥にズシッと沈んだ。
 一瞬、息が止まるような感覚すらあった。こんなプライベートな、誰にも触れられたくない場所を、今、俺にだけ見せようとしてくれるなんて――。

「……そっか。うん」

 それしか言えない。
 でも、逃げずに向き合いたくて、久保の話の流れを壊さないように小さく相槌を返した。

「長期休みとか、連休になれば……ちょっと離れてるけど、事情を知ってる祖父の家に逃げられるんだけどさ。……さすがに、それがないとキツいんだよね」

 久保は淡々と語るけど、その声の奥にある疲れは隠せていなかった。

「でも、俺がこんなつらいって思ってんのに、だーれも気づかないよ。
 アイツらといれば少しは忘れられるけど……勉強して、生徒会やって。家帰ったら、親の機嫌とって……マジで嫌んなる。全部投げ出したくなるくらい」

 そう言った久保の顔は、いつもの完璧な“生徒会長”じゃなかった。
 どんな場でも笑顔で、人の前に立つのが当たり前のような彼が――今は、折れそうなくらい弱っている。

 俺は知っていたつもりだった。久保は優等生で、人気者で、そつなくて、強くて、ちゃんとしてて。
 だけど本当は、そんなイメージの裏側で、ずっとひとりで踏ん張ってたんだ。

 俺の親にもウザいところはあるけど、なんだかんだ「帰れば安心できる場所」に代わりない。
 でも――久保には、それが無い。
 揺れて壊れかけている足場の上で、ずっと一人で立ってきたんだ。

「久保、あの……」

 何と言えばいいかわからず、それでも何か言いたくて口を開いた瞬間、

「俺にすらどうにも出来ないことだし。慰めの言葉は、要らないから。……もうちょっと」

 そのまま、ぐっと胸元に抱き寄せられた。
 堪えるような震えと、しがみつくような抱き寄せ方に、ああ、本当に限界なんだなって分かった。

 俺は黙って、その背中に手をまわし、そっと撫でる。
 久保に今必要なのはきっと、優しい言葉じゃなくて――ただ寄りかかれる場所なんだ。

 予鈴が鳴っても、久保の腕の力はゆるまなかった。
 顔を上げないのは、今の表情を誰にも見られたくないからだろう。

 ――ああ、いつもの顔で教室なんて、戻れるわけないよな。

 俺は言葉をかけるでもなく、ただただ、優しくその抱擁を受け止め続けた。

「ごめん。……今だけ、今だけだから……」

 まるで、自分に言い聞かせるような口調。
 落ち着くまで背中をさすって、ゆっくりと体が離れて行く。

 顔を上げた久保は、無理に笑おうとしているのが見えた。その作り笑いが余計に痛々しくて、俺はゆっくり頷く。
 言葉にはしないけど、「大丈夫だよ」って全部含めて返すように。

 友達の、いちばん脆いところに触れてしまった気がして――それは、俺の想像や経験では抱えきれないほどの重さで。
 だからこそ、安っぽい慰めなんて絶対に言えなかった。

 ただただ、久保の弱さをそっと受け止めることしか、今の俺にはできなかった。