乱気流の飛行機でパニックになり、隣の奴に手を握ってもらったら、転校先の生徒会長でした。

その後、俺は祖母の家に数日間お世話になり、体調が整った両親と合流して、新居での生活をスタートさせた。
 慌ただしく過ぎていった数日間。見慣れない町の風景、整然とした家の中、レトルトのご飯。すべてが仮住まいのようで、ずっと現実感がなかった。

 引っ越しの荷物を整理し終え、自分の部屋でひとりになると、飛行機での出来事が不意に思い出されることが何度もあった。
 あの時の、包み込むような手の温もり。耳元に静かに届いた、落ち着いた声。もっと思い出したいのに、時間が記憶を薄れさせていく。

 ――多分、もう二度と会うことはないんだろうな。

 そう自分を納得させようとするたび、胸の奥に小さな棘みたいな違和感が残った。
 諦めに近い気持ちでいっぱいなのに、あの時の優しい眼差しは、ずっと忘れられないままだった。

「伊織、いってらっしゃい。新しい学校、緊張すると思うけど……頑張ってね」

 玄関で母さんに声をかけられ、俺は靴紐を結び直しながら短く返事をした。

「うん、行ってきます」

 今日は、転校初日。
 新しい制服は、前に通っていた学校とはまるで違う、黒を基調にしたブレザーだった。鏡に映る自分の姿は、どこか借り物みたいで、どうにも落ち着かない。
 まだ糊のきいたシャツは身体に馴染まず、動くたびにパリパリするのも気になる。ズボンのセンタープレスも真新しく、いかにも新品って感じだ。
 指定の通学カバンを肩に掛け、気持ちを落ち着かせるように深呼吸を一回してから、俺は玄関のドアを開いた。



 転校先は、地元の高校よりもはるかに大きな校舎だった。天井は高く、窓から差し込む光は白く、まぶしく反射している。

 その廊下を歩きながら――前の学校より、明らかに治安が悪そうなのを感じ取った。
 以前、スマホで調べたときに偏差値がそこまで高くなかったことも思い出す。仕方ないのかもしれないけれど、不安は募る一方だ。

 なぜなら、廊下の端にはヤンキー座りでスマホをいじる生徒がいっぱい居るし。
 腰からシルバーのチェーンをジャラつかせ、耳にはピアスが開け放題。
 教室に辿り着くまでの間、そんな“見るからに”な不良っぽい生徒としかすれ違っていない。

 廊下に予鈴が鳴り響いても、誰一人として急ごうとしないのを見て、前を歩く担任の加藤先生が声を張り上げた。

「こら、はよ教室入れ、アホ共!」

 怒鳴り声と共に、たむろする生徒たちを蹴散らすように進んでいく。
 そういう先生もパンチパーマだし、三本線の入ったジャージ姿だし、漫画でしか見たことのないような竹刀を右手に握っている。
 その迫力に押されて、俺はただ黙って後ろからついていくしかなかった。

「マジおもんな、加藤。アイツがどっか()ねや」
「それな」

 擦れ違う生徒たちの会話から、聞き慣れない関西弁が次々と耳に飛び込んでくる。地元でこれまで耳にしてきた言葉よりも、どこか語気が強く、なんだか怖く感じてしまう。怒っていると、なおさらだ。

 ――目立ちたくない。地元の訛り、出さないように気をつけよう。

 そう意識した瞬間、自己紹介もこれから控えているというのに、余計に口が重くなった。

 加藤先生は教室の前で足を止めると「ここで待っとれ」と言って、俺だけを残して先に中へ入った。
 開いたドアの隙間から、ざわざわとした教室の騒音が一気に流れ込んでくる。

「今日は転校生が来とるから。静かにせぇ、お前らー」

 すぐに、

「ウェーイ!」
「可愛いん?」
「イケメンやったらええな!」

 と、好き勝手に茶化す声が飛び交い、俺の緊張は勝手にどんどん膨らんでいった。

「新田、入ってええで」

 深く息を吸う。 握りしめた手のひらには、手汗が滲んでいた。意を決してドアを押すと、教室の空気と視線が肌にまとわりつく。
 黒板に書かれた名前を一度だけ確認して、俺はクラスのみんなの方へと向き直った。

「は、初めまして。新田伊織です。
 今日から宜しくお願いしま……」

 挨拶と同時に頭を下げようとした、その瞬間。
 視線が、意思とは無関係に一点へと引き寄せられた。

 やたら派手な髪色と、着崩した制服を纏う生徒たち。そのざわめきの向こう側――窓際、いちばん後ろの席。
 そこに座る一人の生徒の、横顔。

 ――あの時の()だ。

 飛行機の中で、恐怖に震える俺の手を包み込んで、ただそばにいてくれた、彼が目の前に居る。

 心臓が跳ね上がり、耳の奥でドクンと一際大きく鳴った。自分でも分かるほど、鼓動が異常な速さで脈打っている。

 目が合う。

 彼もまた、信じられないものを見たみたいに、目を見開いた。
 その瞬間、足元が揺らいで膝が笑い、体が言うことをきかなくなる。自己紹介の途中だったことすら、頭からすっぽり抜け落ちていた。

「おーい、新田。大丈夫か? 随分、緊張してるみたいやな」

 その声で我に返り、慌てて深く頭を下げた。

「新田は、ご両親の仕事の都合で仙台の公立高校から、ウチの高校に通うことになってん。
 初めての土地と慣れへん環境や。言葉も含めて、困っとったらちゃんとフォローしたってや。
 ……新田も、遠慮なくコイツらに訊いてええからな」

「は、はい……」

 声が震えているのが自分でも分かる。
 胸の奥が騒がしくて、背中にはじっとりと汗が滲んでいた。

「先生、仙台ってどこらへん?」
「このドアホ。田中は弟の地図帳借りて()ぃや。東北のニューヨークやぞ、仙台は」

 教室中の視線が一斉に突き刺さって、思わず俯いたところで、先生に肩を軽く叩かれた。

「そやけどまあ、このクラスは生徒会長がおるから安心やな。久保(くぼ)、届いてへん教科書は見せたってな」
「……はい」

 “久保”と呼ばれた彼――その隣の席が、俺の席だった。

 椅子に腰を下ろすと、緊張で両手が自然と膝に吸いつくみたいになる。
 最初の一言が出てこない。 心臓の音がうるさすぎて、喉まで震えていた。
 それでも、どうしても意識は横へ向いてしまう。
 飛行機の中の記憶。 包まれた手の感触。耳に残る、あの落ち着いた声。

「あ、あの……この前は――」

 勇気を奮い絞って声を出すと、久保はゆっくりとこちらを向き、自然な笑みを浮かべて手を差し出した。

久保(くぼ)拓磨(たくま)。……よろしくね」

 その手を、そっと握り返す。
 一瞬で確信した。間違いない。あの時、隣にいたのは、やっぱり彼だ。

 ――でも、あんな情けない姿を見せたし。
 嫌われてるかもしれない。変に思われてるかもしれない。

 話題を切り出す勇気が、みるみる(しぼ)んでいく。
 ちらりと横目で久保を見ると、彼はそれを察したように、静かに微笑んだ。
 机の中からルーズリーフを一枚取り出すと、さらさらと迷いなくペンを走らせ、俺の机へそっと滑らせる。

 “ラインのID 教えて”

 癖のない、綺麗な字。
 その一文だけで、胸の緊張が少しだけ緩んだ。

 俺は小さく頷き、自分のIDを書き込んで紙を静かに送り返す。
 久保は前を向いて担任の話を聞いているふりをしたまま、カーディガンの袖にスマホを隠しながら操作し始めた。

 ――え、それいいの……? 生徒会長なのに……?

 そのコソコソした仕草を横目で見ていると、俺のブレザーの中でスマホが小さく震えた。

 《久保拓磨さんを追加しますか?》

 同じように机の下で隠しながら画面の文字を見て、横を向く。
 久保は俺を見つめたまま、口元に笑みを浮かべていた。焦りも探りもない。どこか自信に満ちた表情だった。
 でも、不思議と威圧的には感じられない。
 余裕があって、落ち着いていて、相手の反応すら楽しんでいるみたいな、掴みどころのない雰囲気。

 それを見た瞬間、俺は気づけば指先で「追加」をタップしていた。





 午前中の授業は、古典に数学、そしてオーラル。
 どれも俺にとってはこの学校での初回授業で、正直なところ、どの教科も何をやっているのか分からないことだらけだった。
 クラスの半分以上が爆睡しているせいか、諦め気味の先生の板書はスピードも異様に速い。ついていこうと必死になるほど、余計に頭の中がこんがらがっていく。

 でも、そのたびに隣の久保が、まるでそれが当たり前みたいに、すっと身体を俺の方へ寄せてくれる。
 小さく身を寄せ合うようにして、前回までの内容を小声で分かりやすく教えてくれるのが、ありがたかった。

「――で、ここからが昨日始まった章で……」

 至近距離なのが余計にドキドキさせる。久保がページを捲るたび、その長い指まで見入ってしまう自分がいる。
 視線がふと重なると、久保はそのままじっと俺の顔を見つめ返してきた。

「……新田ってもしかして、結構頭いい? 全問正解じゃん」
「いや、全然。そんなことないよ」

 お互いに微笑み合うと、ほんのり温度が生まれたような気がして。
 このまま友達になってくれるかな、なんて期待して、俺の心臓は勝手に高鳴っていた。

「もう一人の先生の方が分かりやすいんだけどね。……この先生、発音めっちゃカタカナだし」

 机間指導で先生が前の方へ移動したのを見計らって、久保はいたずらっぽく囁いた。

『リピート、アフターミー。……インポッシブル!』

「……ほらね」

 思わず噴き出しそうになるのをこらえきれず、俺は口元を手で覆って、顔を背けた。久保も肩を小さく揺らして笑っている。
 おじいちゃん先生はそれに気付かないまま、次々に寝ている生徒に「起きや」と言って頭を叩いていく。

「この教科書もまだ持ってないよね? 一緒に見よう」
「あ、ありがとう……」
 
 俺が見やすいように、隣でテキストを持ってくれて。
 ふつうに格好良くて、めちゃくちゃ優しい。 顔も中身もイケメンな男子高校生そのもの。しかも同い年。
 漫画やドラマの登場人物みたいな人って、現実の世界に本当に存在するんだ……と、真剣に思ってしまった。

 休み時間になると、久保は色んな人に次々と声をかけられていた。

「会長ー、資料どこ置いたん?」
「久保、この前のプリント貸して!」
「俺のシャーペン知らん?」

 そんな声がひっきりなしに飛ぶ。
 そのたびに久保は、「お前に貸すとグシャるから無理」とか、「はいはい、自分で探せ」とか、軽口を叩きながらも、結局ちゃんと対応している。

 授業中も、誰かが答えに詰まるたび、先生が指名するのは久保だった。どの教科でも難なく答えると、先生たちは満足そうに頷く。そういう役回りが、すっかり板についていた。
 先生の前では信頼される生徒会長で、友達の前では、ちゃんと年相応にふざけるクラスの中心。

 こんな外見も中身も完璧な一軍男子に、俺は手を握ってもらったのか……と、授業が始まってからも視線を奪われ、さっぱり集中できない。
 そんな俺の様子に気づいたのか、先生はちょっとだけ言いにくそうなニュアンスで板書の手を止めた。

「おーい、新田? 集中せなアカンでー」
「えっ……あ、はい! すみません!」

 転校初日から注意されるとか、どれだけ情けないんだ。顔が一気に熱くなる。
 横を見ると、久保はシャーペンを指先でくるくる回しながら、頬杖をついて俺を見ていた。そして、にこっと余裕たっぷりに微笑む。
 その笑顔が悔しいやら、眩しいやらで、下唇を巻き込みながら俯くしかなかった。



 午前の授業がすべて終わり、ようやく昼休み。
 チャイムが鳴った瞬間、張り詰めていた教室の空気がふっと緩み、あちこちから一斉に椅子を引く音や笑い声が溢れ出した。
 俺はその開放感にほっとする間もなく、久保の友人グループに囲まれ、気づけば完全に突撃インタビュー状態になっていた。

「なぁなぁ、付き合ってる奴おる!?」
「宮城のうまい食いもんて何!? 何が有名なん?」
「ニューヨーク()うたら、自由(じゆー)の女神の銅像(どーぞー)とかあるん!?」

 距離が近い。声がでかい。勢いがすごい。
 矢継ぎ早に飛んでくる質問に、俺はただ目をぱちぱちさせることしかできなかった。
 頭の中で答えを組み立てる前に次の質問が飛んでくるから、完全に思考が追いつかない。
 混乱のあまりフリーズしていると、久保が苦笑まじりに一歩前へ出てきた。

「お前ら、まず飯食わせてやれよ」

 その一言で、ようやく包囲網が緩む。俺は心底ほっとして、自分の席へ戻った。

 弁当箱の蓋を開けたときには、クラスメイトの半分ぐらいがすでに教室を出て行っていて、残った連中も廊下や窓際で思い思いに騒いでいた。教室の中は、一気に昼休み特有のざわざわした音に包まれる。

 隣では、パンを片手に久保がスマホをいじりながら、ストローでリプトンを飲んでいる。
 その何でもない仕草すら、なぜかやけに目に入ってしまう自分がいて、慌てて視線を弁当に戻した。

 ――久保は、皆のところに行かなくていいのかな?

 そう思いながら箸を動かしていると、不意に影が揺れた。

「……今、ふたりで話せる?」

 不意に、久保が席を立ち、少しだけ声を潜めて言った。
 ざわついていた昼休みの教室の中で、その一言だけは、なぜかはっきり耳に届いた。

「え、うん。全然大丈夫だけど……」

 そう答えると、久保は軽い調子で俺の肩にぽん、と触れた。
 ただそれだけの動作なのに、心臓が一拍、強く跳ねた。

「じゃあ、こっち」

 まるで前から決まっていたみたいな自然さで言われて、俺は反射的に頷き、そのまま流れに乗って歩き出す。

 この学校の上履き――サンダルは本当に慣れなくて、歩くたびにぺた、ぺた、と間の抜けた音がする。階段を上るたび踵が離れるのが心細く感じられて、俺は無意識に手すりを掴んでいた。
 三階に上がり、美術室、音楽室、視聴覚室と並ぶ静かな廊下を抜けていく。昼休みだというのに、この一角だけは嘘みたいに人の気配がない。廊下の突き当たり手前で、久保が足を止めた。

 “生徒会執行室”

 そう書かれたプレートを見た瞬間、久保が本当に生徒会長なんだという実感が湧いた。

「ここなら、ゆっくり話せるかなって思って」

 そう言って、久保はポケットから鍵を取り出した。
 迷いのない動きで鍵穴に差し込み、くい、と回す。

 ――カチャ。

 小さな金属音と一緒に、ドアが開く。中へ通され、俺が一歩足を踏み入れた瞬間、久保は後ろ手に扉を閉めた。
 その音を境に、廊下のざわめきがすっと遠のく。急に、世界が一段、静かになった気がした。

 窓からは昼下がりのやわらかな光が差し込んでいて、紙とインクが混ざったような匂いが微かに漂っている。
 どこか、落ち着くような、緊張するような、不思議な空間だった。

「……新田、あのあと大丈夫だった?」

 振り返った久保は、いつもの余裕のある顔じゃなくて、ほんの少しだけ困ったような、気遣うような表情で笑っていた。
 その表情を真正面から受け止めた瞬間、俺の顔は一気に熱を持って、頭の中が真っ白になる。

「あ、あの、ごめん! 本当に迷惑かけて。しかもちゃんとお礼もせずに寝落ちしてたし……。あのあと、空港で久保探したんだけど、見つけられなくて……」

 話したかったことを一気にぶわっと言葉にすると、必死すぎて、息継ぎも忘れていた。

「いいよ。まぁまぁ揺れたしね」

 久保は肩をすくめるように言って、少しだけ視線を伏せた。

「……俺も降りたあと、少し待ってたんだけど。親から電話来てさ。すぐ行かなきゃいけなくて」

 ――え。

 降りたあとも、待ってくれていた。
 その事実が、じわっと胸に広がっていって、申し訳なさと、安心と。
 よく分からない温かさが、一気に押し寄せる。

 優しすぎるだろ。そんなの、反則だ。

 久保の株は、俺の中でさらに上がって――もはや“天井知らず”どころじゃなかった。

「あの、その……飛行機で泣いてたこと、みんなには――」
「……その件は、お互い、初対面のふりしておこう」

 軽く言われただけなのに、心臓がまた大きく跳ねる。
 優しいのがまるで呼吸と同じくらい当たり前で、ありがたすぎて拝みたくなる。
 久保は窓辺に歩み寄り、グラウンドでサッカーをしている生徒たちを眺めながら、ぽつりと聞いた。

「……新田が前に通ってた高校って、共学だった?」
「え? あ、うん。普通に共学だったよ」

 ここ城南は、私立の男子校。教室にいるのが男だけ、というだけで、思っていた以上に圧がある。
 前の学校とのギャップで、まだ気持ちが地に足がついていない。

「へぇ……」

 と、久保は少し面白そうに相槌を打ってから、

「でも恋人は出来なかったんだっけ?」
「えっ?」

 思わず素っ頓狂な声が出る。
 久保は振り向いて、どこか楽しそうで、少し意地悪そうな笑みを浮かべた。

「……忘れてんの?
 『恋人もキスもまだなのに、死ぬなんて嫌だー』って叫んでたこと」
「マジで!? いや、もうパニックで覚えてない……」
「はは。あん時すげぇ取り乱してたもんな。隣にいて俺もどうしようかと思ったもん」

 顔が、信じられないくらい熱くなる。恥ずかしさで、もう床に埋まりたい。
 そのうえ、

「安心して。それは言わないから」

 と、さらっと追い打ちをかけてくる。

(久保、どんだけ優しいんだよ……!)

 そのとき、五分前の予鈴が、廊下に響き渡った。現実に引き戻されたみたいに、俺たちは顔を見合わせる。

 生徒会室を出て、廊下で鍵を閉める。
 ――カチャ、という金属音の後、久保は俺を見て静かに言った。

「昼休み居ない時は、いつもここに居るから。……なんかあったら、来てもいいよ」
「う、うん……ありがとう」

 その一言が、胸の奥に静かにしみ込んで、ちゃんと息ができているのか、不安になるくらいだった。

 階段へ向かって歩き出す。少し前を行く久保の横顔が、どこか教室へ戻りたくなさそうに見えた。
 たくさんの人に囲まれて、人気者で、優しくて、完璧なのに―― ほんの一瞬だけ漂った、陰みたいなもの。
 理由も分からないのに、その表情が気になる。

 その横顔に見入っていた、その瞬間だった。
 サンダルの先端がぐにゃっと曲がり、体の重心が一気に崩れる。

 「うわぁっ!!」

 ――顔面からいく、と覚悟した瞬間。

 二の腕をがっしり摑まれて、ぐっと身体が引き戻された。

「あっぶな……大丈夫?」

 息が止まるほど、近い。久保の顔が、真正面から覗き込んでいた。
 まつ毛の一本一本が見えて、 鼻筋が、冗談抜きで彫刻みたいに綺麗で――

「おーい、新田。息してる? 顔、真っ赤だよ」

 肩を軽く叩かれて、ようやく現実に戻る。
 久保は転がったサンダルを拾い上げ、「はい」と俺の足元にそっと置いた。

「ご、ごめん……こういう“つっかけ”みたいなの、慣れてなくて」

 そう言って顔を上げると、久保はぽかん、と目を瞬かせる。

「……今、なんて言った?」
「え? つっかけ。前の学校はスニーカーだったから」
「“つっかけ”って何? 方言?」

 そこで初めて、俺は本気で驚いた。

「うそ、標準語じゃないの?」

 慌ててスマホで検索する。

「静岡と宮城の方言……って書いてある。え、知らなかった……」
「へぇ、そうなんだ」

 久保が身を乗り出して、俺のスマホを覗き込む。
 距離が、近い。さっきよりさらに、近い。呼吸が浅くなる。

 そそそ、と後ずさった瞬間、ぽん、と頭にあたたかい手が置かれた。

「新田の喋り方……たまに訛ってて可愛い。もっと聞きたい」

 胸の奥がぎゅん、と締め付けられて、一瞬、本当に息が詰まった。

(イケメン、(こわ)ぁ……。こういうのを本当にナチュラルに言うんだ……)

 男だし、可愛いなんて言われ慣れなくて、喜んでいいのか分からない。
 けど、久保のナチュラルイケメンっぷりに間違いなく心臓はドカドカしていて、俺はそれを隠すように彼の数歩後ろを歩いて教室へ戻った。

「お前ら、はよ席座れー。スマホしまえよー」

 二か月後に控えた修学旅行の行き先発表があるらしい。

 黒板に「グループ分け」と大きく書いていく久保の後ろ姿を、俺はぼんやりと目で追っていた。
 生徒会長と、学級委員を兼務しているらしく、前に立つその姿はやけに堂に入っている。まさに久保無双状態だ。

 周りのクラスメイトたちも、何人かは見惚れるような視線を向けていて――ああ、そりゃモテるよな、と内心で納得してしまう。男の俺から見ても、普通にカッコイイんだから仕方ない。

「ほな、四人以上のグループを作ったってや。上限は六人で」

 久保と同じ学級委員の声が響いた瞬間、教室は一気にざわついた。
 椅子の音が鳴り、あちこちで「こっち来いよ」「人数足りひん!」なんて声が飛び交う。
 その騒がしさの中で、俺だけが取り残されていた。

 ――俺、どこかのグループに入れてもらえるんだろうか……。

 次々にグループが成立していくのをただ見ているしか出来なくて、思わず久保の方へ視線を向けると、彼はすぐにそれに気付いてくれた。
 四人の友達を引き連れてこっちへ歩いてくる。

「新田、グループは俺達と回ろう。いいよね?」

 迷いのない声だった。

「えっと……皆の邪魔じゃなければ」

 遠慮が先に出て、そんな言い方になってしまう。
 すると、横にいた友達の一人が、即座に笑いながら言った。

「邪魔なわけないやん」
「俺ら、久保のいつメンなんよ。田中、山根、海野、川内。よろしゅうな」

 その一言に、緊張で硬くなっていた肩の力がふっと抜ける。
 チラ、と皆の喋っている横顔を見ると――系統は違えど、もれなく顔が整っている。
 しかも、やたらと派手。ピアス大量、アクセサリーも、よく怒られないなってくらい付いてる。

「おーい、新田。大丈夫? 話、ついて来られてへんやん」

 はっとして、今度は自分からもちゃんと会話に入らなきゃと、気持ちが少し前のめりになった。

 そんな空気の中、

「ほな、行先発表すんでー」

 先生が白い紙を手に教壇へ上がると、一斉に教室の視線が前に集まった。

「東京ちゃうん?」
「北海道!」
「カナダ!」

 あちこちから勝手な希望が飛び交って、教室は妙な高揚感に包まれる。まるでオリンピックの開催都市決定の瞬間みたいな盛り上がりだ。
 そんな中、久保だけは黒板の横で腕を組んだまま、どこか冷静にその様子を眺めていた。

 次の瞬間――

「沖縄やでぇえええ!!」

 先生の声と同時に、掲げられた紙には、
 でかでかと「沖」「縄」の二文字。

 教室が一瞬、静まり返り――爆発した。

「うおおおお!!」
「勝ちやん!!」
「ガチで!?」

 机がガタガタと動かされ、クラスのど真ん中が自然と空けられて、まるで即席のモッシュ状態になる。誰かが肩を叩き、誰かが飛び跳ね、もう収拾がつかない。
 ひとしきり大騒ぎしたあと、先生が満足そうに「よしよし」と頷き、「コホン」とわざとらしく咳をしてから、しおりを配り始めた。

「新田も大変やな、越してきたばかりやのに、すぐ修学旅行なんて」

 前の席の田中が、半分茶化すように言ってくる。
 八重歯が覗いていて、目を細めてしまうような眩しい金髪。耳には大量のピアスが付いている。

「ははは……」

 乾いた笑いで返しながら、前から回ってきたしおりを受け取った、その瞬間――視界に飛び込んできたのは、赤いハイビスカス。青すぎる海。そして満面の笑みのシーサー。

 ……からの。

 飛行機のイラスト、ドーン。

 その瞬間、背中を嫌な汗が、つーっと滑り落ちた。

「三泊四日で沖縄やって! やばない? 絶対楽しいやん!」

 周りの声が、弾けるように飛び交う。笑い声、興奮した声、驚きの声。教室の空気は、一気に夏の太陽みたいに熱を帯びた。

 ――なのに。俺の心だけが、その熱と反対方向へ、全力で加速していく。
 手元のしおりを、必要以上に慎重に開く。ぺらりとめくったページの端に書かれた文字。

 “沖縄・那覇”

 それを見た瞬間、胸の奥がずうん、と重く沈んだ。

「新田? なんか固まってへん?」

 隣で久保が、こちらを見てくすっと笑っている。
 何も言わないけど、俺の反応を見て一人でウケてるっていうのが、手に取るように分かる。

「あ、あぁ……うん……たの……しみ……」

 気持ちがまったく追いつかなくて、声が情けないほど途切れ途切れになる。
 頭の中では、同じ言葉だけが、何度も何度もリピートされていた。

(沖縄ってことは……また飛行機乗らなくちゃいけないんだ……)

 楽しみなイベントが始まる前から、俺のライフは、すでにゼロになった。
 周りはもう完全に修学旅行モードだ。

「初日は研修多めやけど、ホテルでゲームやろうや」
「おん、次の日は国際通りで死ぬほど買いもんするわ」
「待ってや、新田ってソーキソバ食べれへん? 嫌いやない?」

 声はちゃんと耳に入ってくるのに、心は砂粒みたいにさらさらと崩れていく。
 頭の中で、俺は全力で叫んでいた。

(――俺の人生、どんだけ飛行機に追いかけ回される運命なんだよ!!)

 班分けがようやく落ち着き、久保はグループのメンバーの名前が書かれた紙を持って、教壇へと戻っていった。
 教室の空気は賑やかなままなのに、俺だけが抜け殻みたいな状態だ。
 ふと前を見ると、久保が一瞬だけ振り返って、こちらを見ていた。
 よく目が合う気がするのは、気に掛けてくれている証拠だと思った。
 けれど、その瞳にみつめられると、教室のざわめきが遠のいて、本当に一瞬だけ、二人だけの世界ができたような錯覚さえする。

 「てか、沖縄行の飛行機って、クソ揺れるらしいで。去年行った兄貴が話しとった」

 その一言が、次の波乱の始まりを、静かに予告している気がした。