その後、俺は祖母の家に数日間お世話になり、体調が整った両親と合流して、新居での生活をスタートさせた。
慌ただしく過ぎていった数日間。見慣れない町の風景、整然とした家の中、レトルトのご飯。すべてが仮住まいのようで、ずっと現実感がなかった。
引っ越しの荷物を整理し終え、自分の部屋でひとりになると、飛行機での出来事が不意に思い出されることが何度もあった。
あの時の、包み込むような手の温もり。耳元に静かに届いた、落ち着いた声。もっと思い出したいのに、時間が記憶を薄れさせていく。
――多分、もう二度と会うことはないんだろうな。
そう自分を納得させようととするたび、胸の奥に小さな棘みたいな違和感が残った。
諦めに近い気持ちでいっぱいなのに、あの時の優しい眼差しは、ずっと忘れられないままだった。
「伊織、いってらっしゃい。新しい学校、緊張すると思うけど……頑張ってね」
玄関で母さんに声をかけられ、俺は靴紐を結び直しながら短く返事をした。
「うん、行ってきます」
今日は、転校初日。
新しい制服は、前に通っていた学校とはまるで違う、黒を基調にしたブレザーだった。鏡に映る自分の姿は、どこか借り物みたいで、どうにも落ち着かない。
まだ糊のきいたシャツは身体に馴染まず、動くたびにパリパリするのも気になる。ズボンのセンタープレスも真新しく、いかにも新品って感じだ。
指定の通学カバンを肩に掛け、気持ちを落ち着かせるように深呼吸を一回してから、俺は玄関のドアを開いた。
*
転校先は、地元の高校よりもはるかに大きな校舎だった。天井は高く、窓から差し込む光は白く、まぶしく反射している。
その廊下を歩きながら――前の学校より、明らかに治安が悪そうなのを感じ取った。
以前、スマホで調べたときに偏差値がそこまで高くなかったことも思い出す。仕方ないのかもしれないけれど、不安は募る一方だ。
なぜなら、廊下の端にはヤンキー座りでスマホをいじる生徒がいっぱい居るし。
腰からシルバーのチェーンをジャラつかせ、耳にはピアスが開き放題。
教室に辿り着くまでの間、そんな“見るからに”な不良っぽい生徒としかすれ違っていない。
廊下に予鈴が鳴り響いても、誰一人として急ごうとしないのを見て、前を歩く担任の加藤先生が声を張り上げた。
「こら、はよ教室入れ、アホ共!」
怒鳴り声と共に、たむろする生徒たちを蹴散らすように進んでいく。
そういう先生もパンチパーマだし、三本線の入ったジャージ姿だし、漫画でしか見たことのないような竹刀を右手に握っている。
その迫力に圧されて、俺はただ黙って後ろからついていくしかなかった。
「マジおもんな、加藤。アイツがどっか去ねや」
「それな」
擦れ違う生徒たちの会話から、聞き慣れない関西弁が次々と耳に飛び込んでくる。地元でこれまで耳にしてきた言葉よりも、どこか語気が強く、なんだか怖く感じてしまう。怒っていると、なおさらだ。
――目立ちたくない。地元の訛り、出さないように気をつけよう。
そう意識した瞬間、自己紹介もこれから控えているというのに、余計に口が重くなった。
加藤先生は教室の前で足を止めると「ここで待っとれ」と言って、俺だけを残して先に中へ入った。
開いたドアの隙間から、ざわざわとした教室の騒音が一気に流れ込んでくる。
「今日は転校生が来とるから。静かにせぇ、お前らー」
すぐに、
「ウェーイ!」
「可愛いん?」
「イケメンやったらええな!」
と、好き勝手に茶化す声が飛び交い、俺の緊張は勝手にどんどん膨らんでいった。
「新田、入ってええで」
深く息を吸う。 握りしめた手のひらには、手汗が滲んでいた。意を決してドアを押すと、教室の空気と視線が肌にまとわりつく。
黒板の前に書かれた名前を一度だけ確認して、俺はクラスのみんなの方へと向き直った。
「は、初めまして。新田伊織です。
今日から宜しくお願いしま……」
挨拶と同時に頭を下げようとした、その瞬間。
視線が、意思とは無関係に一点へと引き寄せられた。
やたら派手な髪色と、着崩した制服を纏う生徒たち。そのざわめきの向こう側――窓際、いちばん後ろの席。
そこに座る一人の生徒の、横顔。
――あの時の彼だ。
飛行機の中で、恐怖に震える俺の手を包み込んで、ただそばにいてくれた、彼が目の前に居る。
心臓が跳ね上がり、耳の奥でドクン一際大きく鳴った。自分でも分かるほど、鼓動が異常な速さで脈打っている。
目が合う。
彼もまた、信じられないものを見たみたいに、目を見開いた。
その瞬間、足元が揺らいで膝が笑い、体が言うことをきかなくなる。自己紹介の途中だったことすら、頭からすっぽり抜け落ちていた。
「おーい、新田。大丈夫か? 随分、緊張してるみたいやな」
その声で我に返り、慌てて深く頭を下げた。
「新田は、ご両親の仕事の都合で仙台の公立高校から、ウチの高校に通うことになってん。
初めての土地と慣れへん環境や。言葉も含めて、困っとったらちゃんとフォローしたってや。
……新田も、遠慮なくコイツらに訊いてええからな」
「は、はい……」
声が震えているのが自分でも分かる。
胸の奥が騒がしくて、背中にはじっとりと汗が滲んでいた。
「先生、仙台ってどこらへん?」
「このドアホ。田中は弟の地図帳借りて来ぃや。東北のニューヨークやぞ、仙台は」
教室中の視線が一斉に突き刺さって、思わず俯いたところで、先生に肩を軽く叩かれた。
「そやけどまあ、このクラスは生徒会長がおるから安心やな。久保、届いてへん教科書は見せたってな」
「……はい」
“久保”と呼ばれた彼――その隣の席が、俺の席だった。
椅子に腰を下ろすと、緊張で両手が自然と膝に吸いつくみたいになる。
最初の一言が出てこない。 心臓の音がうるさすぎて、喉まで震えていた。
それでも、どうしても意識は横へ向いてしまう。
飛行機の中の記憶。 包まれた手の感触。耳に残る、あの落ち着いた声。
「あ、あの……この前は――」
勇気を振り絞って声を出すと、久保はゆっくりとこちらを向き、自然な笑みを浮かべて手を差し出した。
「久保拓磨。……よろしくね」
その手を、そっと握り返す。
一瞬で確信した。間違いない。あの時、隣にいたのは、やっぱり彼だ。
――でも、あんな情けない姿を見せたし。
嫌われてるかもしれない。変に思われてるかもしれない。
話題を切り出す勇気が、みるみる萎んでいく。
ちらりと横目で久保を見ると、彼はそれを察したように、静かに微笑んだ。
机の中からルーズリーフを一枚取り出すと、さらさらと迷いなくペンを走らせ、俺の机へそっと滑らせる。
“ラインのID 教えて”
癖のない、綺麗な字。
その一文だけで、胸の緊張が少しだけ緩んだ。
俺は小さく頷き、自分のIDを書き込んで紙を静かに送り返す。
久保は前を向いて担任の話を聞いているふりをしたまま、カーディガンの袖にスマホを隠しながら操作し始めた。
――え、それいいの……? 生徒会長なのに……?
そのコソコソした仕草を横目で見ていると、俺のブレザーの中でスマホが小さく震えた。
《久保拓磨さんを追加しますか?》
同じように机の下で隠しながら画面の文字を見て、横を向く。
久保は俺を見つめたまま、口元には笑みを浮かべていた。焦りも探りもない。どこか自信に満ちた表情だった。
でも、不思議と威圧的には感じられない。
余裕があって、落ち着いていて、相手の反応すら楽しんでいるみたいな、掴みどころのない雰囲気。
それを見た瞬間、俺は気づけば指先で「追加」をタップしていた。



