その後、俺は祖母の家に数日間お世話になり、体調が整った両親と改めて新居での生活をスタートさせた。
慌ただしく過ぎていった数日間。見慣れない町、知らないご近所さん、引っ越し疲れした母さんが手を抜いた、レトルトのご飯。すべてが仮住まいのようで、どこか現実感がなかった。
引っ越しの荷物を整理し終え、静まり返った新しい自分の部屋でひとりになると、あの飛行機での出来事が、不意に思い出されることが何度もあった。
あの時の、包み込むような手の温もり。耳元に静かに届いた、落ち着いた声。
――多分、もう二度と会うことはないんだろうけど。
そう思い込もうとするたび、胸の奥に小さな棘みたいな違和感が残った。
諦めに近い気持ちで自分を納得させようとするくせに、忘れられなくて。
思い出すたび、現実感が薄れていく。まるで、あれ全部が夢だったみたいに。
「伊織、いってらっしゃい。頑張ってね」
玄関で母にそう声をかけられ、俺は靴紐を結び直しながら短く返事をした。
「うん、行ってきまーす」
今日は、転校初日。
新しい制服は、前に通っていた学校とはまるで違う、黒を基調にしたブレザーだった。
鏡に映る自分の姿は、どこか借り物みたいで、どうにも落ち着かない。
まだ糊のきいたシャツは身体に馴染まず、動くたびにパリパリしてて気になる。 ズボンの折り目も妙にくっきりしていて、歩くたびに意識してしまう。
指定の通学カバンを肩に掛けた瞬間、緊張のせいか、指先がわずかに震えた。
俺は、地元の高校よりもはるかに大きな校舎の長い廊下を、落ち着かない足取りで歩いていた。 天井は高く、窓から差し込む光もやけに白くて眩しい。
歩いていて、薄々気づいては居たけれど……前の学校より、治安が悪そう。
前にスマホで調べた時――偏差値もそんなに高くなかったから、仕方ないと思うけど。
廊下の端でヤンキー座りのままスマホをいじっている生徒。
腰からシルバーのチェーンをジャラつかせている生徒。
廊下のあちこちに、そんな“見るからに”な連中がウヨウヨしている。
それを担任の先生が、
「こら、はよ教室入れ、アホ!」
と怒鳴りながら蹴散らしていく。
「マジおもんな、加藤。お前がどっか去ねや」
擦れ違う生徒たちの会話から、聞き慣れない関西弁が次々と耳に飛び込んでくるたび、胸の奥がきゅっと小さく縮む。
――地元の訛り、出さないようにしないと。
そう意識した瞬間、余計に口が重くなった。
前を歩く担任の先生は、教室の前で足を止めると、俺だけをその場に残して先に中へ入った。
開いたドアの隙間から、ざわざわとした教室の騒音が一気に流れ込んでくる。
「はーい、今日は転校生が来とるから。静かにせぇ、お前らー」
すぐに、
「ウェーイ!」
「可愛いん?」
「イケメンやったらええな!」
と、好き勝手に茶化す声が飛び交い、俺の緊張は勝手にどんどん膨らんでいった。
「新田、入ってええで」
深く息を吸う。 握りしめた手に、じっとりと汗がにじむ。意を決してドアを押すと、教室の空気がふっと肌にまとわりついた。
整然と並ぶ机。
窓から差し込む光。
黒板に書かれた白い文字。
すべてが新しくて、すべてが少し怖い。
「は、初めまして。新田伊織です。よろしくお願いしま――」
そう言いかけて、頭を下げようとした瞬間、視線が勝手に一点へ吸い寄せられた。
着崩した制服の生徒たちの向こう側。 窓際、いちばん後ろの席。そこに座る生徒の、横顔。
――あの時の。
飛行機で、震える俺の手を握ってくれた、あの人。
心臓が跳ね上がり、呼吸が一瞬止まった。
目が合った途端、膝が笑ったみたいにガクガクして、どうしていいか分からなくなる。
「おーい、新田。大丈夫か? 随分、緊張してるみたいやな」
その声で我に返り、慌てて深く頭を下げた。
「新田は、ご両親の仕事の都合で仙台の公立高校から、この城南に通うことになってん。
えー、初めての土地と慣れへん環境や、言葉も含めてなぁ。困っとったらちゃんとフォローしたってや。
……新田も、遠慮なく訊いてええからな」
「は、はい……」
声が震えているのが自分でも分かる。
胸の奥がもぞもぞと騒がしくて、背中にじっとり汗が滲んだ。
「先生、仙台ってどこらへん?」
「このドアホ。田中は弟の地図帳借りて来ぃや。東北のニューヨークやぞ、仙台は」
教室中の視線が一斉に突き刺さって、思わず俯いたところで、先生に肩を軽く叩かれた。
「そやけどまあ、このクラスは生徒会長がおるから安心やな。久保、届いてへん教科書は見せたってな」
「……はい」
“久保”と呼ばれた彼――その隣の席が、俺の席だった。
椅子に腰を下ろすと、緊張で両手が自然と膝に吸いつくみたいになる。
最初の一言が出てこない。 心臓の音がうるさすぎて、喉まで震えていた。
それでも、どうしても意識は横へ向いてしまう。
飛行機の中の記憶。 包まれた手の感触。耳に残る、あの落ち着いた声。
「あ、あの……この前は――」
勇気を振り絞って声を出すと、久保はゆっくりとこちらを向き、自然な笑みを浮かべて手を差し出した。
「久保拓磨。……よろしくね」
その手を、そっと握り返す。
一瞬で確信した。間違いない。あの時、隣にいたのは、やっぱり彼だ。
――でも、あんな情けない姿を見せたし。嫌われてるかもしれない。変に思われてるかもしれない。
話題を切り出す勇気が、指先から少しずつ抜けていく。
ちらりと横目で久保を見ると、彼はそれを察したように、静かに微笑んだ。
久保は鞄からルーズリーフを一枚取り出すと、さらさらと迷いなくペンを走らせ、俺の机へそっと滑らせた。
“ラインのID 教えて”
癖のない、綺麗な字。
その一文だけで、胸の緊張が少しだけ緩んだ。
俺は小さく頷き、自分のIDを書き込んで紙を静かに送り返すと、久保と前を向いて担任の話を聞いているふりをする。
――生徒会長なのに。
久保は机の下で、カーディガンの袖に隠しながらスマホを操作している。
そのこそこそした仕草が、どうしようもなく高校生らしくて、少し笑えた。
すぐに、俺のブレザーの中でスマホが小さく震えた。
《久保拓磨さんを追加しますか?》
こっそりと画面の文字を見た瞬間、俺は迷わず「追加」をタップした。



