水族館に入った瞬間、ひんやりとした空気が頬を撫で、それと同時に、人の波が一気に押し寄せてきた。
ガラス越しに揺れる青い光、天井いっぱいに映る水面の反射、足元にまで届く低くくぐもった水音。
まるで別の世界に足を踏み入れたみたいで、クラス全員のテンションは一瞬で引き上がった。
「うわ、水クラゲやば!」
「写真撮ろ、写真!」
「川内、こっち来いって!」
あちこちから声が飛び、スマホのシャッター音が重なり、誰もが先を急ぐ。
なのに、気づけば俺の周りだけが、不自然なくらいぽっかりと“間”を空けていた。
みんな同じグループのはずなのに、俺の一歩手前で、なぜか自然と足が止まる。誰も、俺のすぐ隣には来ない。
「……?」
違和感に思わず足を止めて、チラッと田中を見ると、目が合いそうになった瞬間にすっと逸らされた。
山根も、海野も、なんとなく俺の横だけを避けて移動している。
まるでそこに、“ここ、久保の席です”って見えない看板でも立っているみたいだった。
そしてそれは、ジンベエザメの大水槽の前で決定的になる。
「うわ……でっか……」
「やば、想像の三倍ある」
視界いっぱいの水、頭上を横切る巨大な影。人がぎゅうぎゅうに集まる展示の前なのに、俺の両隣だけは、信じられないくらい綺麗に空いていた。
完全に晒し者みたいで、視線が集まってくる気がして、俺は小さく身を縮める。
そのときだった。人の流れを割って、久保が何の迷いもなく、まっすぐ俺の隣に入ってきた。
肩が触れた瞬間、熱がどっと顔に集まり、耳の先まで一気に熱くなる。心臓の位置がはっきり分かるくらい、鼓動がうるさい。
久保はというと、前を見たまま本当に何でもない顔で、巨大なジンベエザメが頭上を悠々と泳いでいくのを眺めていた。
「なぁなぁ、聞いた? さっきバスん中で、久保が公開告白したらしいで」
「ホンマ? やばぁ……修旅中に失恋した奴可哀そうやなぁ。
てか、他クラの俺まで情報回ってくるの早すぎひん?」
後ろから囁きあって俺を見る他クラスの男子たちから、顔を隠すように俺は俯いた。
――噂が回るのが、早すぎる。
それだけ、久保が人気っていうことなんだろうけれど。
「久保、伊織ぃ。売店行こうや」
田中に腕を引かれ、売店の横にずらりと並んだかぶりものコーナーへ移動した。
色とりどりの動物の被り物が大量に並んでいる。
「なあ伊織、これ被れって!」
「絶対似合うから!」と、海野と山根に両脇を固められ、俺は強制的にカワウソのかぶりものを被せられる。
「ちょ、待っ……!」
抵抗する間もなく、さらに上からアザラシ。
「二段重ねは反則やろ!」
周囲からどっと笑いが起きた。田中がすぐにスマホを構え、連写音が鳴り響く。たぶん、インスタ行き確定だ。
視界の端で、久保が腕を組んだまま、明らかにむすっとしているのが見えた。
――め、めっちゃ機嫌悪そう……またブリザードになったらどうしよう。
そう思った俺は、かぶりもの姿のまま、そっと久保の方へ近づいた。
「久保、見て」
声をかけると、久保は一瞬だけこちらに視線を寄こす。
「海野がじゃんけん負けたから、これ買ってもらった」
被り物を軽く押さえながら少し照れくさく笑ってみせる。
「……にあう?」
その瞬間だった。久保の顔が、信じられないくらい一気に赤くなる。
言葉も出ないまま、視線が泳ぎ続けている。
「久保がめっちゃ赤くなってるー!」
「やばない?」
「奇跡だろ、撮れ撮れ!」
皆が一斉に騒ぎ出す。スマホが一斉に久保へ向けられた。
「撮んなって!」
「永久保存!」
「死ね!」
久保の叫び声とシャッター音が重なる。
その混乱のど真ん中で、久保は突然、俺の手首をがしっと掴んだ。有無を言わさない、強い力で。
「え、ちょ、久保!?」
俺はそのまま水族館の通路を、引っ張るようにして走らされた。
「うわ、逃げた!」
「伊織、連行されてる!」
「ずりー! どこ行くんだよ!」
後ろでみんなが笑っている声がする。
俺は息を切らしながら、久保に引きずられるようについて行って――その手は、最後まで離されなかった。
*
水族館の出口を抜けると、強い日差しと潮の匂いが一気に押し寄せてきた。
久保は俺の手を引いたまま、迷いなく敷地の端へと走っていく。
足元の舗装が砂に変わり、波の音が近づく。
気づいた時には、「遊泳禁止」の看板が立つビーチが目の前に広がっていた。
人の気配が、ない。
久保はそこで、やっと足を止めた。
繋がれていた手が、するりと離れる。
「……はぁっ、はぁ……」
俺は膝に手をついて、必死に息を整える。
久保は海の方を向いたまま、少しだけ俯いていた。
「……アイツらのこと、嫌いじゃない」
それは、歩きながらぽつりと落とされた言葉だった。
砂浜の風に乗って、低く、かすかに震えて聞こえた。
胸の奥に届く前に、ざわりと波紋が広がる。
「むしろ好きだよ。楽だし、うるさいけど、居心地もいい」
声は淡々としてるのに、どこか苦そうで。
一拍、間があく。
波音が、その空白を埋めようとして失敗してるみたいに、遠くで揺れていた。
「……でもさ」
久保の横顔が、太陽の光に照らされて。
影と光が混ざって、表情が読めない。
読めないのに、胸が先に反応する。
久保は、奥歯を噛むようにして言った。
「伊織にもっと、俺だけを見てて欲しいって思う」
その言葉の“本気さ”が、ひりひりするほど伝わる。
久保ってこんな顔するんだ、と気づいてしまった瞬間、
視界が揺れるほど、感情が胸に詰まる。
「……余裕なさ過ぎて、ダサいけど」
久保はそれ以上なにも言わず、すっと歩き出した。
背中に残った熱だけが、ずっと俺を引っ張るみたいで。
俺は黙って、その背中を追った。
並んで歩く砂浜――風まで息を潜めたみたいに静かで、
波が寄せては返す音だけが、これでもかってほど、二人の沈黙を際立たせた。
苦しいのに、逃げ場がない。
気まずいのに、離れたくない。
ふっと、俺は立ち止まった。
スニーカーを脱いで、砂を踏んだ瞬間、ざくりと音がする。
靴下も慌てて抜いたせいで、よろけて砂がパラパラ落ちた。
「……伊織?」
振り返った久保の声は、驚きより心配が強かった。
その声音だけでまた心臓が忙しくなる。
俺は少し笑って、肩をすくめた。
「足だけなら、いいでしょ」
波打ち際に足を踏み入れる。
冷たい水が一瞬で足首を包んで、その冷たさが逆に全身を落ち着かせてくれた。
「ほら、久保も来なよ」
「……無理、制服だし」
「いいから!」
反射的に、久保の腕をぐいっと引っ張った。
意外なほど近くて、腕を掴んだ指先がじかに熱を感じる。
「ちょ、待っ――」
次の瞬間、小さな水音が跳ねる。
ズボンの裾に水滴が散って、久保が固まった。
「……っ!」
あまりに恥ずかしそうな表情が、逆に可笑しくて。
「そのいっつもクールぶった顔、崩せて清々した!」
俺は濡れた足のまま、腹の底から声を張った。
そんなことを言われるとはまるで予想してなかったみたいで、久保は驚いた顔のまま、俺を見つめている。
「修学旅行、始まってからさ……何でそいなく急に、色々仕掛けてくんの?
しかも、全然平気です、みたいな顔してさ!
俺ばっかし意識しすぎて……ドキドキしっぱなしで、心臓、ぶっ壊れそうなんですけど!!」
波が応えるみたいにざざっと寄せて、早く言えとでも急かすかのように、俺の足元で揺れている。
喉がきゅっと詰まって、声が細くなる。
「しかも……久保が告白してきたせいで……
俺は……お前のこと好きなんだって、嫌でも自分の気持ちを、分からせられるし……っ!」
その言葉を残した瞬間、波音が一際大きく聞こえた。
久保が一歩、ゆっくり近づいてくる。
影が俺に重なって、体温が触れるギリギリの距離。
「……俺が、彼氏じゃダメ?」
低くて、真剣で。
逃げ場なんて最初からなかったんだなって思わせる声。
「墜落する前にしておきたい、キスの相手も。
……伊織が恋人としたいこと、全部」
心臓が破裂しそうで、でもそれ以上に――
触れたくて仕方なかった。
迷う余裕なんて、もうどこにもなくて。
俺は一歩、踏み込んで、久保の胸に飛び込むみたいに抱きついた。
「……俺、本当は……もっと、ずっと前から、
久保のことが好きだったんだと思う」
波打ち際に立つ俺の声は、風にさらわれそうなほど小さかった。
けれど、久保にはちゃんと届いたみたいで、彼はゆっくりと首を傾げて、まっすぐ俺を見た。
逃げ場所なんてどこにもない。
潮の匂いと、膝まで届きそうな波が、繰り返し打ち寄せては返るだけ。
俺は、久保の腕の中でそっと顔を上げ、視線を外さないように、息を吸った。
「飛行機を降りた後も……ずっと、
隣で手ぇ握てくれった人のこと、考えてた」
声が震える。
海風にさらされてるんじゃなくて、
自分の鼓動に揺らされてるんだって分かるくらい。
腰が抜けそうで、立ってるだけで精一杯なのに、
言葉だけは勝手にあふれ出していく。
「だから、また会えたの、嬉しくて。
毎日、隣に久保が居ると楽し過ぎたし。
優しいところも、嬉しいとか思ってたけど、
それって既に『好き』になってたんじゃないかって今は思う……」
波が寄せてきて、また足首を軽く撫でていく。
それが合図みたいに、胸の奥にしまってた熱が一気にこぼれ落ちた。
「家のことを打ち明けてくれた時も、
なんとかしたいって思って……
でも、俺には……あんなことしか出来なくて。
どうにかしてやりたいって思うのに、
ずっと、ずっと、もどかしかった!」
声が最後の方で潰れた。
目の前の久保の表情が優しすぎて、俺は零れた涙を袖口で拭った。
「久保が笑ってくれると、うれしくなる……
でもそれは、友達なのは勿論だけど、それよりもっと……」
耐えきれなくて、俺は久保の胸へ顔を埋めた。
シャツ越しに伝わる体温があまりにあったかくて、
海の匂いと一緒に、胸の奥にすっと流れこんでくる。
波が静かになった気がした。
心臓の音と久保の呼吸だけが、世界の真ん中に残る。
「久保のこと、いぎなし好きになったっちゃから――」
言い終わる前に、久保の腕がそっと動いた。
ゆっくり、迷いなく、俺の背中へまわってくる。
逃がさないように、でも包むみたいに、ぎゅっと、優しく抱きしめられた。
その温度が、全部の答えだった。
顔を上げたとき、久保の息がかかるほど近くて、お互いの呼吸が混ざる。
夕暮れの砂浜は、オレンジと藍が溶け合って、波打ち際に長い影を落としていた。
そっと、久保の手が俺の頬に触れる。
ひんやりしているはずなのに、触れた場所だけが不思議と熱を帯びた。
目が合う。
潮の匂いと、胸の鼓動が近づいて――
俺が静かに目を閉じ、久保が顔を傾けた、その瞬間。
「……久保ー! 伊織ー! どこ行ったー!」
遠くから、海野たちの無駄に元気な声が飛んできた。
「っ!」
二人同時に肩を跳ねさせ、ぱっと手を離して距離を置く。
久保は照れ隠しみたいに頭を掻き、頬を赤くしたまま俺を見た。
「アイツら……。こういうタイミングだけは完璧なんだよな」
「戻らないと、先生たちに探されちゃうかも」
少しの沈黙のあと、久保は小さく息を吐いて言った。
「……じゃあ、行く?」
その声と同時に、久保の手が俺の手をつかむ。
離れると思ったのに、指先がためらうように絡まり直されて――恋人つなぎ。
顔を上げると、夕焼けの光の中で、潮風に久保の髪とシャツが揺れている。
振り返った久保が俺を見て、優しく微笑んでくれた。
さっき叶わなかったキスの代わりみたいに、その手の温もりは、いつまでも離れずに俺を包んでくれていた。
*
水族館の館内に戻ると、少し開けたロビーに人の輪ができていた。
小さな子どもの声、館内アナウンスの残響、水槽から漏れる青い光。その真ん中に、俺のグループがそろっていた。
一番に俺たちを見つけたのは田中だった。
「……は?」
声というより、息みたいな音が零れ落ちる。
その視線が、はっきりと、俺たちの繋いだ手に吸い寄せられる。
高速で視線を往復させたのち、皆はゆっくり目を見開き、海野が静かに言った。
「……え、くっついたん?」
その瞬間、時間がぴたりと止まる。
今度はみんなの目線が連動して、俺たちの手へと一点集中。
俺は顔が熱すぎて、思わず久保の肩あたりに半分隠れる。
その中で唯一、平静を保った久保が、何の迷いもなく告げた。
「うん」
ロビーのざわめきとは別の次元で、俺たちの周りだけ音が消えた。
「……え、付き合っとる、言うこと?」
「頼む伊織、嘘やって言ってくれ!」
「情報量えぐいんだけど。え、マジなん!?」
「久保、情緒どした? お前そんな恋人繋ぎするタイプちゃうやろ!?」
一気に大爆発みたいに騒ぎ出す四人。
全員の声のボリュームだけがロビーで異様に響き、周りの家族連れが一瞬こっちを見る。
俺は完全に俯いて、久保は久保で、俺の手だけは決して離さない。
その手のあたたかさだけが、現実で、逃げ場ゼロ。
「いつから!?」
「……さっき」
「キスした!?!?」
「してない!!」
俺が必死に否定した瞬間、隣の久保がほんのり不満そうに眉を寄せた。
「……まだ、ね」
「ちょ、なに……そういうのいいから!!」
反射的に久保の口を塞ごうと手を伸ばすけど、久保はするりとかわす。
それを見た皆がまた、ギャアギャアと騒ぎ始めた。
「うわぁ!! 今の反応もう完全にそういう流れやん!!
お前ら、夜に部屋で内緒のチューとかすんなよ!?」
「え、マジでカップル誕生するとかバグなんやけど」
「久保が素直になるとか地球滅びる前触れかな??」
「てか伊織の顔まっか! あっっっか!!」
周りの修学旅行生までちらちら振り返るレベルの大騒ぎ。
俺は耳まで熱くて、久保は久保で「まあ、いっか」みたいな顔してるし、本当にやめてほしい。
「なに、最終日にキス? キスするん? なぁなぁ~」
「ちがっ……違うってば!! てか離して、離してー!!」
「離したら伊織逃げるからイヤや!! 答えろ!」
わちゃわちゃ騒ぎ続ける四人の真ん中で、俺はもう泣きそうなくらい恥ずかしくて、
そのあともずっと、俺と久保はいじられ続けた。
「ほら、イルカショー始まるで。カップル席行けよ〜!!」
「リア充爆発しろ〜!!」
とにかく、野次がひどい。久保も途中から頭を抱えていた。
ショーが終わると、俺達は再び売店に強制連行された。
「ペアストラップ買えって! ほらほら!!」
「このハートのやつとか絶対似合うって!!」
完全に俺だけいじられ続け、俺と久保が拒絶しまくったら、なぜかそれを海野が支払ってて。
「仲人が必要になったら、呼んでや」
とか訳の分からない、嘘か本気か分からない冗談をかましてきて。
出口のプリクラコーナーでは、狭い機械の中で俺と久保を無理やり隣同士にさせて。
「はい二人で寄って〜! ほら顔こっち向けて! もっと近づけ!」
「キース!キース!」
「絶対しない!!」
精神的ダメージで HP が常に赤ゲージ。
いつもなら怒るのに、久保は、そんな俺を横目で見て小さく笑っていた。
その笑い方が、優しくて、ちょっと照れてて、幸せそうで。
ずっと、俺が見たいなって思っていた顔をしていたのが、いちばん嬉しかった。
散々騒いで、怒鳴って、赤くなって。
うるさくて、恥ずかしくて、でもなんか全部が楽しくて。
帰りのバスで、全員が限界みたいに爆睡しているのを確認してから、俺はそっと久保の肩に凭れた。
ほんの少しだけ、久保が、俺の方を覗き込む。
暗い車内、一番後ろの席で、ふたりだけ切り離されたみたいな静けさ。
そこへ、久保の低くて甘い声が耳元に落ちてきた。
「……好き」
言い切ったあと、久保は照れ隠しみたいに肘掛に頬杖をついて、また窓の外へ顔を向ける。
俺は寝たふりのまま、腕に顔を埋めて、
ぎゅんぎゅん暴れ続ける心臓をどうにもできずにいた。
バスがホテルへ近づくほど、夜の空気は冷たくなっていくのに、
胸の中だけはずっと熱いまま。
ガラス越しに見えた夜空には、小さな星が散らばって輝いていた。



