帰りの飛行機。搭乗ゲートをくぐり、機内へと続くボーディングブリッジを歩く。行きと同じように、厳格な出席番号順で座らされる――はずだった。
……はずだったのに。
機内に足を踏み入れた瞬間、クラスの連中の動きが明らかに不自然になった。悲壮感すら漂う「小芝居」が、あちこちで同時多発的に勃発する。
「先生! 田中が急に『沖縄シック』で過呼吸気味です! この子は環境変えないと死にます!」
「俺も! 窓際じゃないと気圧の変化で耳から魂抜ける持病が!」
「先生、海野が昨日から肩脱臼してて、通路側で誰かに支えてもらわないと座れへんゆうてます!」
「……お前ら、ええ加減にせぇよ」
通路の真ん中で立ち止まった加藤先生が、深いため息をつく。呆れ果てた顔で全員を見回し、最後は『勝手にせぇ』と言わんばかりに手を振った。
「もう席なんかどこでもええ! さっさと座ってシートベルト締めろ! 出発遅れるわ!」
「「「あざーーっす!!!」」」
統制の取れた返声と共に、席が埋まっていく。そして、当然のように俺の隣には、久保が何食わぬ顔で腰を下ろした。
……分かる。みんなが気を利かせてくれたことくらい、痛いほど分かる。ハネムーンの指定席的なやつだ。
「……あ、ありがと……」
消え入るような声でお礼を言うと、前の座席の隙間から、ニヤニヤした四つの目が覗き込んできた。
「久保ぉ、一生分のお願い使い切ったな。これは俺らからの『ご成婚祝い』や」
「伊織、もし揺れても久保が抱きしめて守るから安心せぇよ♡」
「墜落する前にキスしとくんやで」
「……田中、海野。静かにしろ」
久保が丸めたしおりで二人の頭を小突き、前を向かせる。その横顔が耳の付け根まで赤いのを見て、俺の胸もまた、騒がしく脈打ち始めた。
《当機はまもなく離陸いたします――》
機内アナウンスと共に、機体が重々しく動き出す。
三回目のフライト。もう慣れてもいいはずなのに、滑走路を滑り出す轟音を聞くと、どうしても指先が冷たくなる。身体がシートに押し付けられ、視界の端で地面が遠ざかりはじめる。
その直後、ふわっ、と浮遊感が胃を揺らした。
「……怖い?」
久保の低い声。見透かしたような、けれど包み込むような響き。
「前よりは……少し、平気かも」
強がってみせると、前の席からまたしても田中の顔がぬっと現れた。
「やって隣には、大好きな拓磨くんがおるなー! キャハッ♡」
「……田中、マジで加藤先生の隣に強制送還するぞ」
「ヒィッ! 冗談だって! 末永くお幸せに!」
久保のガチトーンに、周囲からクスクスと笑い声が漏れる。その騒がしさが、フライトへの緊張を解かしてくれた。
窓の外。エメラルドグリーンの海が、白い雲のベールに隠されていく。
沖縄の熱い風も、あの波の音も、全部が遠い思い出になろうとしている。けれど、胸の奥にある熱だけは、冷めるどころかどんどん温度を増していた。
水平飛行に入り、シートベルトサインが消えた頃。
久保が何も言わず、俺の拳を上からそっと包み込んだ。
行きと同じ、大きな手のひら。あの時は、怖がる俺をなだめるための手助けだった。
けれど今は――。
「もう……繫がなくていいの?」
久保が少しだけ眉を下げ、寂しそうに問いかける。
俺は小さく首を振り、絡められた手を一度ほどいた。
驚きに目を見開く久保の手首を、今度は俺の方からしっかりと、指を絡めて掴み直す。
「ううん。……久保の手は、俺が握ってあげたいから」
その瞬間、久保の瞳に光が灯った。
嬉しさを堪えきれないような、それでいて少し照れたような、最高の笑顔。
「……やっぱり、伊織のそういうところが好きだよ」
そう呟いて、久保は俺の指を、これ以上ないほど優しく、けれど強く握り返した。
窓の外には、どこまでも続く真っ白な雲海。
その上を、太陽の光が黄金色に染め上げている。
二人の距離も、交わした言葉も、ビーチで流した涙も。
全部を抱えたまま、俺たちは新しい季節へと向かって進んでいく。
これから先、どんなに空が荒れても。どんなに不安な夜が来ても。
――この手を離さなければ、大丈夫。
恋人として並んで、同じ未来を見上げながら。
飛行機は、まばゆい光の射す方へと、まっすぐに突き進んでいった。
Fin.



