修学旅行、最終日の夜。
長かったオリエンテーションも、胃がはち切れそうだった夕食も、騒がしすぎた大浴場もすべて終わり、ようやく一息つけた瞬間だった。
時計の針は消灯時間ギリギリを指し、廊下の明かりが落とされる。ホテル全体がしんと静まり返り始めていた。
あとは泥のように眠って、明日のフライトに備えるだけ。
――の、はずだった。
「はいはいはい! そこの新婚さん、至急こちらへどうぞ〜!」
静寂を木っ端微塵にする田中のクソデカボイス。
振り向くと、田中が司会者気取りで仁王立ちし、山根がホテルの備え付け歯ブラシをマイク代わりに掲げていた。
「始まりました! 緊急特別番組! 新婚さんいらっしゃい♡イン、沖縄ぁぁ!!!」
「最悪すぎる。誰かこいつの口チャックして……」
俺の呻きなんて聞き入れられず、気づけば久保と並んでベッドの端に強制連行されていた。川内と海野は床に正座し、観客としてニヤニヤしながらスマホを構えている。
「では、まず! お互いの第一印象からいってみよーか!」
山根が歯ブラシマイクを俺の口元に突き刺してくる。
「……余裕ありそうっていうか、大人っぽくて……落ち着いてるなって、思った」
無難な、けれど正直な回答を絞り出すと、マイクは間髪入れずに久保へ。
久保は一瞬だけ視線を泳がせたけれど、観念したように手の甲で口元を覆った。
「久保は? 伊織のこと、どう思ったんや。包み隠さず言えよ?」
「……いや、フツーに、可愛いなって」
一拍の、絶望的な沈黙。
「「「「いきなし惚気んなやボケェ!!」」」」
四方向からの罵声が完璧にハモり、部屋の空気が物理的に揺れた。
「具体的に! どこが! どう可愛いんや!」
「いや……そんなの、見れば分かるだろ。可愛いし、笑ったりツッコんだり、表情がコロコロ変わって見ていて飽きない。真面目だし、一生懸命だし。でも本当は心の中で一歩引いてみてる感じも、好きでしかないかな」
その無自覚な攻撃力に、俺は顔面から火が出るかと思った。久保と目が合った瞬間、心臓が肋骨を蹴り上げる。
「ゲロ甘やな!ほな次、いつ、どこで! どっちから好きになったんか吐け!」
一気に核心へ。頭の中が真っ白になり、逃げ場を探して泳ぐ俺を尻目に、山根は容赦なく久保を追い詰める。
「……えー、わかんない。気づいたら、そうなってた……」
「逃げんな伊織! 久保は?」
「俺は、初めて飛行機のなかで会った時から」
その瞬間、部屋の温度がマイナスまで振り切れた。
「……は?」
「飛行機?」
全員の視線が、スローモーションのように久保へ集まる。俺はもう、布団の縫い目を見つめることしかできない。
「前に話しただろ。隣の席の子がパニック起こして、手を握ってくれって泣いてきたって。……あれ、伊織なんだよ」
数秒の凪のあと――。
「「「「はあああああああああ!?!?!?」」」」
「運命とかいうレベル超えとるやろ!!」
「漫画やん! 少女漫画の連載一回目やん!!」
「久保お前、それずっと黙ってたんか!? セコすぎるわ!」
部屋が崩壊するほどの咆哮。俺は枕に顔を埋め、全身を丸めて縮こまった。恥ずかしすぎて、今すぐ沖縄の海に飛び込みたい。
「……もう隠さなくていいかなって」
久保は少し困ったように笑い、トドメを刺した。
「その時からずっと、伊織だけが好きだった」
「「「「ぎゃあああああああ!!!!」」」」
阿鼻叫喚の渦。その絶頂の瞬間だった。
「ごらぁぁぁ! 六班、 またお前らかぁぁ! 騒ぎすぎや! 消灯時間とっくに過ぎとんのが分からんのか!!」
廊下に響き渡った加藤先生の雷。
反射的に全員が近くのベッドにダイブし、毛布を頭まで被る。直後、カチッという音と共に電気が消され、部屋は強制終了ムードに包まれた。
「……次に起きとったら、お前ら全員、宿直ルームでおねんねやぞ」
扉が重低音を立てて閉まり、先生の足音が遠ざかっていく。みんなが石像のように固まり、気配が完全に消えるのを待った。
しばらくして、ようやく闇の中に低い声が戻ってくる。
「……なぁ、これ電気つけたらマジで処刑されるよな?」
「当たり前やろ。配置ぐちゃぐちゃやけど、もうこのまま寝るぞ……」
「さすがに宿直室で先生と川の字は勘弁……」
暗闇の中、衣擦れの音だけが響く。慌てて潜り込んだせいで、運良く久保と同じ掛け布団の中にいた。
俺はとっさに背中を向け、ぎゅっと目を閉じる。
近い。近すぎる。触れていないはずなのに、背中越しに久保の体温が「境界線」を越えて侵食してくる。
しばらくして、布団の中がわずかに動いた。
ためらうような間のあと、久保の手が、そっと俺の腰のあたりに回ってくる。
抱き寄せる強さはない。ただ、そこに存在を確認するように置かれた、遠慮がちな温度。
けれど、その掌の重みが、俺の全意識をそこに集中させる。
(く、久保……それはさすがに、大胆すぎでは……)
でも、嫌じゃない。
むしろ、その熱が離れていくのが怖くて、呼吸のタイミングすら分からなくなる。
久保の規則的な呼吸が、背中に微かな振動になって伝わってくる。言葉なんて一言も交わしていないのに、「俺たちはもう、昨日までの俺たちじゃない」という事実だけが、鮮明に暗闇に浮かび上がっているみたいだ。
「伊織」
布団の中で、久保が耳元に唇を寄せる。ピク、と肩を震わせた俺に、久保はふっと笑いを含んだ吐息をこぼして言った。
「好きだよ。絶対大事にするし、離さないから」
「……うん」
やがて、久保の呼吸が深くなっていくのを感じながら、俺もその熱に溶けるように身を委ねる。
修学旅行、最後の夜。
背中に回された久保の温もりを、世界で一番幸せで大切な重みを感じながら、俺は静かに、深い眠りへと落ちていった。



