乱気流の飛行機でパニックになり、隣の奴に手を握ってもらったら、転校先の生徒会長でした。


 修学旅行、二日目の朝。
 まだ眠気の残る廊下に、各部屋のドアが開いて、ぞろぞろと朝食会場へ向かう生徒たちの足音が広がっていく。俺もその流れに乗って部屋を出た。

「伊織、体調どう?」

 背後から聞こえた久保の声に、心臓がきゅっと縮む。
 反射的に振り返りそうになって、でも、ほんの一瞬だけ躊躇ってしまった。

「……うん。もう大丈夫」

 そう答えたけど、視線は合わせられない。
 久保も、それ以上何も言わなかった。

「え、てかさぁ。久保っていつから伊織のこと、名前で呼んでんの?」

「……へ?」

 唐突すぎる田中の一言。
 肩に腕を乗せてくるその重みより、言葉のほうがずっと重かった。

 ――いや、俺も分かんないよ。昨日、急に、だよ。

 心の中でだけ返すけど、当の久保は前をすたすた歩いていく。
 まるで話題そのものから逃げるみたいに、一定のペースで。

「わ、分かんない。気づいたら……」

「ふーん?」

 田中の声が妙に含みを持っていて、余計に落ち着かない。
 列を作って歩く俺たちの間に、ふっと空気の隙間が生まれる。
 俺と久保の距離だけが、不自然に空いていた。
 一歩詰めれば縮まる距離なのに、
 誰かが横にズレるたび、偶然みたいにその空白が守られてしまう。
 埋めたくても埋められない。
 その“空白”自体が、昨日からずっと胸に刺さっていた。

 昨日の夜の景色が、唐突に胸を締めつける。

 暗い部屋。
 静かな呼吸。
 触れそうで触れない距離。
 名前を呼ばれた時の、あの低い声。
 そして——

 ……キス、しそうになった。

 思い出した瞬間、足の裏まで熱が広がった。
 鼓動だけが、自分の身体じゃないみたいに速くなる。

 ――いや、でも。俺、キスしたことないし。
 あれが“キスの空気”だったって本当に言い切れる?

 そう反論してみるけど、思い出す久保の表情は、妙にリアルで。
 薄暗い中で見えた瞳の光。
 触れてもないのに感じた、肌の熱。
 近くで聞いた呼吸。

 ――これは記憶の脚色?
 それとも、本当に久保が俺にそういう気持ちで……?

 考えるほど、胸の奥がじわじわ熱くなる。

 ――久保……やっぱ、俺のこと……好きなのかな。

 なんで“キスしよう”なんて思ったのか。
 というか、本当にそう思ったのか。

 答えが出ないまま、バスは揺れる。
 外の景色は次々と変わるのに、俺の思考だけが同じ場所をぐるぐる。

 沖縄の有名な橋も、基地のフェンスも、見えては過ぎていくけど、頭に残るのは久保の顔ばっかりで。
 そしてパイナップルパークに着いても、降りる足は前へ進むのに、心はまだ昨晩の暗い部屋に取り残されたままだった。



 南国全開の音楽が流れる中、黄色と緑がやたら眩しい園内を、クラスごとにぞろぞろ練り歩く。

「うわ、空気まで甘いんだけど」

「本当にパイナップルの匂いする!」

 写真スポットでは自然と人だかりができて、学年中がシャッター音だらけになる。
 土産コーナーでは、なぜか全員テンションが上がって、

「これ全員でお揃いにしね?」

「サングラスのパイナップル、バカすぎて逆に欲しいんだけど」

 結局、全員同時にレジに並んで、色違いの『サングラス☆パイナップルくん』のキーホルダーを買った。

 その後は、みんな移動中のバスで見事に爆睡して、午後からは国際通りへ。
 午前中の観光で歩き回った疲れもあって、誰かのいびきや寝言があちこちから聞こえてくる。俺も少しだけ目を閉じていたけど、隣に座る久保の体温が気になって、結局あまり眠れなかった。

 国際通りに到着すると、さっきまでの静けさが嘘みたいに、土産物屋の呼び込みや観光客の声で一気に騒がしくなる。先生の号令で、予定通り買い物ペアと体験ペアに分かれて――気づいたら、俺は久保と二人きりになっていた。

 気まずい。
 気まずすぎる。

 胸の奥がそわそわして、今すぐ別のペアに紛れ込みたい衝動に駆られる。やっぱ無理を言ってでも、あっちのグループに……と一歩踏み出しかけた、その時だった。

「……伊織。俺と周るの、嫌だったらさ。
 あいつらの所に行ってもいいから」

 久保は俺の方を見ようとせず、通りの先を眺めたまま呟く。その横顔が、どこか突き放したようで――
 でも、同時に傷つく準備をしているようにも見えて、胸がちくりと痛んだ。

「いや……嫌ってわけじゃないよ。その……普通に、恥ずかしいだけで……」

 俺ばっか意識しすぎなのかもしれない、目を合わせられない。
 けど、久保も同じだったみたいで。ちらっと盗み見るように顔を上げると、いつもの余裕そうな表情に、わずかな照れが滲んでいるのが分かった。

「……じゃあ、行く?」

 久保が小さく息を吸って言う。

「伊織が行きたいとこでいいよ」

 肩と肩が触れ合うか触れ合わないか、そんなぎりぎりの距離で並んで歩き出す。人の波に流されながら、俺は特に行きたい場所も決めていなくて、きょろきょろと店先を眺めていると、ふと目に入った看板を反射的に指さした。

「あれ! やってみたいかも、久保と一緒に」

 久保のワイシャツの裾を、遠慮がちにきゅっと引っ張る。久保は一瞬、そこに視線を落としてから、俺の指の先にある看板を見上げた。

「シーサークラフト工房……?」

 自分で作ったシーサーに色をつけて焼いてくれる体験ショップだった。冷房の効いた店内に入ると、小さな棚に色とりどりのシーサーがずらりと並んでいて、そのどれもが少しずつ違う表情をしている。

「久保って、美術とか得意?」

「いや……あんま才能ないと思う」

 そう言いながらも、久保は意外と真剣な顔でエプロンをつけ、粘土を受け取る。俺たちは見本を横に置いて、ぎこちなく形を整えていった。
 しばらくして、やけに静かだなと思ったら、久保が信じられないくらい集中していて、声をかけるのも憚られるほどだった。

 どんなの作ってるんだろう。
 気になって、そっと顔を肩のあたりへ近づけて、覗き込んだ瞬間――

「え……ちょ、やばぁ! 久保、何作ってんのそれ!?」

「シーサーだけど……だからあんま見ないでって言ったじゃん。マジで俺、こういうの苦手なんだって」

「シーサーっていうか妖怪じゃん! 待って、いきなり面白すぎて腹いたい!」

 粘土まみれの手で制服を汚さないように注意しながら、俺はお腹を抱えて笑った。久保は耳まで赤くして、悔しそうに視線を逸らす。さらに絵付けまで終わると、そのインパクトは破壊力抜群で、俺は思わずみんなのグループラインに送ろうとスマホを構えた。

「待って、マジでやめろって。ほんとに()ずいから」

「えー! 絶対ウケるのに」

 結局、焼き上がったシーサーはそれぞれ紙袋に入れてもらって店を出た。それでも俺は思い出し笑いが止まらなくて、久保の肘が軽く俺の腕に当たる。

「笑いすぎ、マジで」

「いやー、あれは反則でしょ。あだに酷いと思わなかった。目力強すぎだし」

 はぁ、と息を吐いて深呼吸した、そのタイミングで、久保がポンと俺の肩を叩いた。振り向いた瞬間、ほっぺに指がつん、と刺さる感覚。

 うわ、やられた――と思った時には、久保はもうニヤリと笑って、俺を見つめたまま言う。

「さっきから微妙に訛り出てるよ。……可愛いから、黙ってたけど」

 心臓に悪い。
 顔がいいやつがそんなこと言うの、本気で反則だと思う。俺は慌ててふいっと顔を逸らした。

 その時、正面から川内と田中の買い物組が、にやにやしながら歩いてくるのが見えた。

「バカップル冷やかそう思ったら、久保と伊織やったわ」

「カップルじゃないし」

「ほっぺツンツンして歩いとったやろが。……ほれ」

 川内に向けられたスマホの画面には、ばっちり、久保が俺の頬を指で押している瞬間が写っていた。思わず俺は反射的に手を伸ばす。

「やめろ! 絶対インスタ載せるなよ! 載せたら、もうノート見せない!」

「伊織ちゃん残念でしたー。身長180超えてから出直した方がええでー」

 ひょい、と腕を上げられてあっさり敗北。ちょうどそのタイミングで海野たちのペアとも合流して、わちゃわちゃ言い合いながら、俺たちは再び六人で集合場所へと戻った。

 *

 夕飯も入浴もすべて終わって、部屋に戻ったときだった。
 六人部屋の中で、ひとつだけ――久保のベッドだけが、ぽっかりと空いている。

 「まだ戻らんのか、生徒会長様は~」

 田中がそう言いながら、久保のベッドに荷物が置いてないのを確認して、肩をすくめた。
 生徒会の集まりで、先生たちと明日の打ち合わせをしているらしい。修学旅行の夜にまで生徒会の時間があるとか、ほんとに休まる時間がないのではと、ちょっと不安になる。

「修学旅行にまで仕事持ち込む男」

「いや、働かされとるだけやん」

「社畜かて」

 口々に好き勝手言いながら、俺たちは二つのベッドを並べる形にし、五人でごろごろと転がり始めた。

 田中、山根、川内、海野、そして俺。

 最初はそれぞれスマホをいじっていたのに、誰からともなく手が止まる。
 沈黙が数秒続いたあと、川内がにやっと笑って言った。

「なあ、せっかくやし、恋バナしようや」

「うわ、修学旅行の定番来よったな」

「逃げ場なくない?」

 文句を言いながらも、全員の視線が自然と中央に集まる。
 空気が、ゆっくりと“その流れ”に乗っていくのが分かった。

「じゃあ俺からな。好きな人――いる。中学のときから」

 田中がさらっと言うと、部屋の空気が一気にざわつく。

「うわ、ガチ?」

「告んないの?」

「……まだ」

 短く答える田中に、思わず「青春やな」と誰かが呟いた。

 続いて山根は、「先月、隣のクラスの奴に告白された」と言って、
 川内は「今は推ししか勝たん」と即答して、笑いをかっさらっていく。
 そして、流れが海野に向いた。

「海野は?」

「俺? ……好きな人、いる」

「えっ!? マジ!?」

「誰やねん!? 同クラ? 他クラ?」

 全方向から一気に詰め寄られて、海野は耳まで真っ赤にして「言うかよ!」と枕を投げて応戦した。
 そのまま布団と枕が飛び交って、ギャアギャアとひとしきり騒いだあと――廊下から先生の見回りらしき足音が聞こえてきて。

「シッ……」

 海野の小さな声と同時に、全員がぴたりと息を殺す。
 足音が遠ざかっていくのを確認して、ようやく緊張が解けた。

「じゃあ最後、伊織な」

「好きな人、おる?」

 五人の顔がじりじりと近づいてくる。
 距離が近い。近すぎる。
 心臓の音が、やたらうるさい。

「え……えっと……」

 言葉に詰まった、その瞬間。
 頭に最初に浮かんだのは、教室で隣に座っている時の――久保の横顔だった。

「まぁ、このグループで伊織の彼氏ポジって言ったら、久保よな」

「おん」

「それな」

 三人が声を揃えて断言し、部屋は一気に爆笑に包まれた。

「え、ちょ、違……っ!」

「言えよ〜。実は久保のこと好きやったりして?」

「まぁ久保ハイスペやし。俺ら、偏見ないで。
 他クラスにも片想いのやつゴロゴロおるもんな」

 あれだけ顔も頭も運動神経も揃ってたら、モテないわけがない。
 俺が知らないだけで、校舎裏とかで告白されたりしてるのかもしれない。
 そんな想像までしてしまって、それを不快に感じる違和感があった。

 布団の上で、全員の視線がまた一斉に俺に突き刺さる。

「……え、伊織、まさかガチなん?」

「ち、ちがう……!」

 反射的に、勢いよく否定したその瞬間――

「ホンマかいな! くすぐって吐かせたる。ホンマのこと言え!」

「なんや、好きなんやったら俺らも手伝うたるって!」

 一斉に飛びかかってくる四人。

「ちょ、やめっ……!」

「くすぐりの刑!」

 手首を押さえられて、脇腹をくすぐられて、俺は笑い声とも悲鳴ともつかない声を上げながら、完全にベッドに押し倒された。

「無理! 無理だから! ほんとに無理だから!」

 息ができないほど笑わされ、馬乗り状態で逃げ場がなくなった、そのときだった。

「へぇ……何してんの? 楽しそうじゃん」

 低くて、静かな声が、部屋に落ちた。
 一斉に、ぴたりと動きが止まる。

 五人で恐る恐る振り向いた先には、ドアを開けたまま立っている久保の姿。
 手にはファイルとペンケース。
 軽く首を傾けているのに、空気だけが、明らかに冷えていた。
 ベッドの上で押さえつけられている俺と、その上に馬乗りになっている田中を見て――
 ほんの一瞬だけ、久保の眉が寄る。

「あ、いや、これはその……」

「恋バナの流れで……」

 しどろもどろの言い訳が飛び交う中で、俺は仰向けのまま、久保と目が合ってしまった。

「俺も混ぜてよ」

 久保が目を細めて笑いながらでテーブルに荷物を置いたのを見て、田中はちょっと焦りながら言った。

「伊織に好きな人おるか、聞いとっただけやで」

 一気に視線が、また俺に集まる。
 心臓が、さっきよりもっと嫌な音を立てて跳ねる。
 その中で、久保だけが何も言わない。
 からかうでも、笑うでもなく――ただ、真っ直ぐに俺を見ている。

「ふーん……俺も知りたいな」

 低く、落ち着いた声。
 見下ろされる形でそう言われて、体が一瞬で固まった。

「伊織の好きな人」

 空気が、ぴしっと凍りつく。
 沖縄なのに、ブリザードが直撃してきたみたいだった。

「いやいや!」

「伊織、絶対秘密らしいで!」

「聞いても無駄無駄。不毛!おもんな!」

 田中がそう言って手を叩くと、

「よし!ゲームしよゲーム!」

「オールするぞー! 今日の優勝賞金は四千円にせぇへん?」

 ぞろぞろと、みんなはコネクティングルームに戻っていく。
 急に音が遠ざかって、俺と久保だけが、静かな部屋に取り残される。
 その空気に耐えきれなくて、俺は反射的に勢いよく起き上がった。

「俺、自販行ってくるね」

 逃げるみたいにそう告げて、ドアへと向かった、その瞬間。

「待って」

 低く、静かな声。
 振り返ると、いつの間にか久保がすぐ近くまで来ていた。
 逃げ場を塞ぐみたいに立ちはだかって、こちらを見下ろしてくる。

「俺も行く。一緒に」

 拒否する理由も、うまい言い訳も浮かばなくて、
 結局、俺は視線を逸らしたまま、黙って小さく頷くしかなかった。

 ――最悪だ。
 なんで、よりにもよって一緒なんだ。

 廊下は薄暗く、天井の非常灯だけがぼんやりと照らしている。
 並んで歩いているのに、会話はひとつもない。
 久保との距離は、近いようで遠くて、遠いようでやけに近い。
 気まずさだけが、重く間に落ちていた。

 自販機の前に着き、それぞれ適当にボタンを押す。
 ガタン、と缶が落ちる音だけが、やけに大きく響いた。

「……あのさ」

 久保の声に、俺はびくっと肩を揺らして顔を上げる。

 その瞬間――

「ホテルの方から苦情入ったので、加藤先生のクラス、見てきますわ」
「すんません。ほな私も行きますわ。きっと田中たちの部屋やと思います」

 自販機の先、廊下の向こうから、聞き慣れた先生たちの声が飛び込んできた。

 ――やばい。

 そう思って久保の顔を見上げた、その瞬間だった。
 ぐいっと、強く腕を引かれる。
 気づいたときには、俺は自販機の影に押し込まれ、久保の腕の中にすっぽりと収まっていた。

「……静かに」

 耳元で囁かれる声。
 同時に、両手で鼻も口も塞がれて、強制的に息を殺させられる。
 背中に回された腕が、ぐっと力を込める。
 久保の体温が、服越しにじんわりと伝わってきて、心臓の音が、バレそうなくらい大きく鳴り続ける。

 階段の下を、懐中電灯の光が横切った。

「全く、会長の久保がおっても手に負えへんのですわー」

「念のため、他の部屋も見回っときましょか」

 足音が、少しずつ遠ざかっていく。

 ……それでも。
 久保は、すぐには離れなかった。

 腕の中は、あったかくて、さっきまでの気まずさが、逆にくっきりと意識に浮かび上がる。
 俺は息を殺したまま、ただ固まっていることしかできない。
 久保も、まだ腕をほどこうとしない。

「……さっきの」

 今度は耳元じゃなく、正面から。
 低くて、逃がさない声。

「答えて。いるの? 好きなヤツ」

 心臓が、喉の奥に詰まったみたいに苦しくなる。

「えっと……」

 言葉が、出てこない。
 出したら、全部崩れる気がして。

「ていうか……もう、離して?」

 そう言って、腕の中でほんの少しだけもがく。
 でも、抱きしめる力は、逆に強まった。

「三十秒はこのままじゃないと」

「……え?」

「さっきまで会議して、疲れてる。セロトニン欲しいんだけど」

 ここでその話を持ってくるのはズルい、と思った。
 それを言いたげに下から久保を見上げる。
 次の瞬間、さっきよりもぎゅっと、強く抱きしめられた。

「……あのさ」

 久保の声が、ほんの少しだけ、震えた。

「もう、伊織も分かってると思うけど」

 腕が、少しだけ緩んで、顔が見える距離になる。
 逃げ場のない距離で、久保はまっすぐ俺を見つめてくる。

「俺は、初めて会った日からずっと、変わらず……伊織が好きだから」

 その言葉が落ちた瞬間、頭の中のスイッチが全部ぶちぶちっと切れたみたいになって、処理落ちしたみたいに思考停止した。
 鼓動だけが妙に大きくて、体の中で何かが追いついてない感じがする。

「……伊織は、俺の事、どう思ってる?」

 名前を呼ばれるたび、意識が変な方向に引っ張られる。
 “伊織”って言い方が優しすぎて、真っすぐすぎて、逃げ場がない。
 ずるい。そんな真正面から来られたら、もう黙って逃げる事もできない。

「お、俺は……」

 口を開いた瞬間、喉の奥が勝手に詰まって、息の出し方すら分からなくなる。
 好き、とか嫌い、とか、そういう単語が頭に浮かぶ前に、体が反応してる。
 胸のあたりがずっと熱くて、苦しくて、変な汗がにじんで、
 言おうとした言葉が全部、一回ぐちゃぐちゃに溶けて落ちてく感じだった。

「久保のことは、普通に好きだし……なんとかしてあげたいって思ってたのも、ホントだし……一緒にいると、楽しいし、安心するし……」

 喋りながら、自分でも何言ってるか分からなくなってくる。

 “普通に好き”って言った瞬間、心臓が「普通じゃないくせに」ってツッコんでくるし。
 “安心する”とか言ったくせに、安心どころか今めちゃくちゃ不安定だし。
 この状況をどう処理したらいいのか、誰か説明してほしい。

「一緒に居たい、って思ってる、けど……」

 もしここで“好き”って言ったら、世界が変わる。
 久保が“彼氏”っていう立ち位置になる未来が見える。
 進んだら落ちる崖みたいでもあるし、でも落ちたら落ちたで、気持ちよさそうな気もして。
 久保は俺の躊躇を全部受け止めるみたいに、静かに言った。

「伊織も、俺の気持ちに応えてくれたら、嬉しい」

 その声が、妙に優しくて、逆に刺さる。
 期待しすぎず、でも諦めてもいない声音で。
 その“余裕みたいな優しさ”が、また心を掻き乱す。

「……ちょ、ちょっと待って……。
 今はその、心の準備が……出来てなくて、
 考えたり、整理する時間が欲しいって言うか……」

 一歩、後ろに下がる。
 逃げるっていうより、心臓を守りたくて距離を置いた感じ。
 体が勝手にそう動いた。

「返事は、いつでもいいから」

 その言葉はひどくあっさりしていたけど、
 俺の中ではまるで爆弾を落とされた後みたいに、
 ずっと耳鳴りがして、胸の奥がうるさくて、落ち着かなくて。

 久保が階段を上がっていく気配だけが、やけに鮮明で。
 その背中を目で追うことしかできなかった。
 追ったところで何もできないくせに、目だけは離れない。

 好きとか嫌いとか、はっきり言葉にする勇気はまだないけど、久保に対してだけ心の動き方が違うのは、ちゃんと分かってる。
 それを認めたら終わりな気もするし、始まる気もする。

 胸の奥が苦しいのに、どこかあったかくて。
 その“あったかさ”の正体だけは、
 気づきたくないのに、気づいてしまいそうで。

 逃げたい。
 でも、逃げようとすると足が止まる。

 それはきっと、この感情の正体に、本当は名前がもう付いているからだと思った。