乱気流の飛行機でパニックになり、隣の奴に手を握ってもらったら、転校先の生徒会長でした。


 飛行機なんて、大っ嫌いだ。

 中学三年の修学旅行で乗った、初めての飛行機。離陸した瞬間、ふわっと身体が浮く感覚。
 あの妙な感覚に、背中をつうっと冷たい汗が流れて、心臓は勝手にバクバクしっぱなし。窓の外の雲なんて、本来は綺麗なんだろうけど、当時の俺には“落ちたら終わり”の白いもくもくにしか見えなかった。

 両親だって、そんな俺の苦手なものをよく知ってるはずなのに――
 高校二年の夏、父さんの県外異動が突然決まった。
 その県まで、飛行機なら約一時間。新幹線を駆使すれば、五時間半。
 普通の家庭なら迷わず飛行機を飛ぶんだろうけど、俺からしたら「恐怖」でしかない。
 本当は俺だけ新幹線で行くはずだったのに、荷造りに慌てた母さんが航空券を三枚予約していて、しかもその直後に両親がインフルでダウン。

 「伊織! もう高校生なんだから、一人でも飛行機に乗りなさい!」

 なんて逆ギレされたときは、さすがに固まった。
 いやいや、一人息子を空に放り込む判断として、どうなのそれ……。こっちはマジでトラウマなのに。
 「向こうにおばあちゃんの家があるから」って言われても、安心の材料にはならない。

 そんなこんなで、半分投げやりになりながら空港へ向かった。
 建物に入った瞬間、冷たい空調と広い吹き抜けの空気に、緊張で胃がきゅっと縮む。どこからともなく流れるアナウンス、キャリーケースを引く音、係員の丁寧な声。全部が全部、非日常で、心がざわついた。
 搭乗手続きを済ませてゲートをくぐったときは、もう“逃げられない感”がすごかった。
 機内の座席に腰を下ろしてから、小さく深呼吸して持ち物を確認する。耳栓、アイマスク、気圧対策の飴。手がわずかに震えてるのが自分でもわかって情けなくなる。

 ふと横を見ると、窓際に座ってる男がいた。
 俺と同じくらいの年に見える。私服だけど、たぶん高校生。
 髪は整っていて、顔もフツーにイケメン。脚長いから背も高そう。スマホをいじってて、余裕そう。
 絶対こいつも、俺がビビってるなんて欠片も思ってない。悟られたくないけど、心臓はすでに暴走中だった。

 やがて機内アナウンスが流れて、周りの乗客がシートベルトを締める音が重なる。エンジン音がぐわっと大きくなり、機体が滑走路に向けて動き出した。
 窓の外で誘導灯が流れていく。キャビンの薄い灯りが白っぽく揺れて――離陸。
 身体がふわっと上へ引っ張られた瞬間、呼吸が止まりそうになる。耳の奥が変に詰まって、喉がひりつく。
 周りは落ち着いて雑誌を開いたり、映画を観てまったりしているのに、俺だけ心がぐらぐらしていた。

 最初の数分はまだよかった。
 でも、雲の層に入ったあたりで、機体がガタッと揺れた。

 「……っ、うわ……」

 思わず声が漏れる。情けないけど止められない。

 しばらくして、シートベルトのランプが再び“ぽん”と点いた。続いて、機内に落ち着いた女性の声が流れる。

 《ただいま前方の空域で乱気流が予想されます。念のため、皆さまシートベルトをしっかりお締めください》

 ……は? 乱気流?
 その言葉が耳に刺さって、瞬間的に背中がぞわっとなる。

 周りの客は「はいはい」みたいな雰囲気でベルトを締め直しているけど、俺はもう呼吸が浅くなり始めてる。
  “念のため”って、航空会社の“優しい言い回し”じゃん。絶対なんか来るやつだ。
 案の定、数十秒もしないうちに、機体がゴン……と一回沈んだように揺れた。心臓が跳ねて、思わず肘掛けをぎゅっと握る。続けざまに、ガタッ、ガタガタッ、と細かい振動が全身に伝わった。

「……え、マジか……!」

 キャビン全体が微妙にきしむ。頭上の収納棚がカタカタと小さく震えて、金属の軋む音が混じる。
 機内の空気が、さっきまでより冷えて感じるのは、俺の緊張のせいかもしれない。
 横目で窓際の彼を見ると、冷静な顔で窓の外を眺めている。
 俺だけが過剰にビビってるのが余計恥ずかしい。
 その揺れが一旦おさまったとき、俺はもう背中が汗でじっとりしていた。呼吸も浅いし、指先も冷たい。正直、パニック寸前だった。

 そのときだ。

 「……あの」

 すぐ隣から、小さく落ち着いた声がした。びくっと肩が跳ねる。
 ゆっくり横を見ると、さっきまで窓の外を眺めていた彼が、心配そうに眉を寄せて俺を見ていた。

 「顔色、悪いけど……大丈夫?」

 「あ……え、あー……」

 喉がうまく動かなくて、情けない音しか出ない。自分の声なのに、震えてるのがはっきりわかった。
 彼はそれに気づいたのか、少しだけ身体をこちらに向けた。
 近い。距離が近い。
 機内の薄い照明が、彼の横顔のラインをふわっと浮かび上がらせている。

 「もしかして……酔ったとか? それとも、揺れが苦手?」

 ガゴン、とまた小さく機体が揺れて、俺は条件反射みたいに肩をすくめてしまう。

 「……っ、に、苦手……です……」
 
 もう開き直って小声で言った。隠しようがない。
 彼が何か言いかけて、唇がわずかに動いたその瞬間だった。

 ――ドンッッ!!

 機体が、縦に大きく跳ね上がった。
 俺が固まっていると、隣の彼は驚いたように目を見開いたあと、すぐ落ち着いた表情に戻って言った。

 「大丈夫、大丈夫。……ただの乱気流だから」

 “ただの”って言われても、俺の中では命のやり取りなんだけど……。

 彼は、怖がらせないように意識しているのか、声を少し低くして優しく続けた。

 「今日は悪天候だからちょっと激しめなだけで、危ないわけじゃないよ」

 その“安心させるための言い方”が逆に胸にきて、涙がじわっと込み上げてきた。

 「……っ、でも……もう無理…………っ」

 半べそになりながら言葉を絞り出すと、彼は困ったように、どこか優しい目で俺を見た。

 ――その瞬間。
 まるで見計らったかのように、今度は横揺れが一気に襲ってきた。
 左右にガタンッガタンッと大きく振られ、頭上の棚がガタガタガタッと音を立てる。

 揺れが一瞬だけ弱まった隙に、俺はほぼ泣きそうな声で訴えた。

 「こんなの絶対普通じゃないって……! これって……あれじゃないの? お決まりの、酸素マスクがドーンって落ちてくるやつ……!」

 頭の中では、映画でよく見る“あの光景”がフラッシュバックして、もうパニック一直線。
 でも隣の彼は、周りのざわめきなんてまるで気にしてないみたいに、落ち着いた声で言った。

 「俺、小さい頃からよく飛行機は乗ってるけど……これくらいはよくあるよ。大丈夫だと思う」

 そのトーンがあまりに普通すぎて、逆に不安になる。

 「いやいやいやいや!! だって、ほら……周りざわざわしてるじゃん!」
 
 俺は小声で必死に訴えるけど、もう半泣きだ。

 「もしかして……隠してるだけで、なんか重大なトラブルとか……っ」

 言い終える前に、頭上のスピーカーからアナウンスが割り込んだ。

 《強い乱気流のため、機体が大きく揺れる可能性があります。客室乗務員は着席いたしますので……》

 声は落ち着いているけど、その“乗務員着席”の言葉が余計に怖い。
 乗務員が座る=本気でやばいやつじゃないの?

 そして――ドン、とまるで空の上で巨大な段差にぶつかったみたいな衝撃が連続して、身体が跳ねる。
 シートベルトが食い込んで、腰に鈍い痛みが走る。

 周りでも小さな悲鳴が上がり、荷物棚がガタガタガタッと震え、金属がきしむ。
 揺れが一度収まる気配を見せれば、次の瞬間また縦にガクッと落ちる。

 気付いたときには、もう口が勝手に動いていた。

「――あのっ、手っ、てぇ……握っても良いっ!?」

 ……言った瞬間、俺自身が一番びっくりした。

 彼が返事をするよりも先に、俺の手は肘掛けに置かれていた彼の手を――ぎゅう、と勝手に握っていた。

「えっ……」

 驚いた彼が目を瞬いた次の瞬間、

「……い、いいけど」

 そう言ってくれた。
 その声を聞いた途端、安心と恥ずかしさとパニックが一気に混ざって、感情のダムが決壊した。

「ご、ごごごごめんっ……! ほんと無理なの……っ!
 おねがい、キモイって思っても……今だけは離さないで……!
 死ぬから! マジで死ぬから!!」

 涙腺が完全に崩壊して、言ってることめちゃくちゃなのに、止められない。
 情けないとか恥とか、全部吹き飛んで、ただただ怖い。
 彼は、そんな俺を変に避けたり笑ったりせず、少しだけ目を細めて言った。

「うん。いいよ」

 そして――俺の手を、しっかりと握り返してくれた。

 その手はあたたかくて、落ち着いていて、俺の震える指を包み込むみたいに優しかった。
 けど、機体の揺れは全然落ち着かない。俺の頭の中では、さっきまで必死に押し込めていた最悪の結末が、もう現実味を帯びてきていた。

 ――これ、本当に墜落するんじゃないの?

 その直感が胸を締めつけた瞬間、俺は完全に壊れた。

「お、俺ほんとは……飛行機なんて乗りたくなかったの!!」

 気付けば、隣の彼に向かって、口が勝手にベラベラ動いてる。

「なのに! 親がどうしてもって言うから! 仕方なく……!
  でも、ほらっ、マジでこういうことって起きるじゃん!?
  もう終わった……絶対終わった……!!」

 涙で視界がぼやけて、呼吸がゼエゼエしてるのに、喋るのだけは止まらない。

「俺まだ高校二年だよ!?
 セブンティーン控えた華の男子高校生だよ!?
 球技大会も、体育祭も、文化祭も全部これからだったのに!」

 揺れがガタガタッとくるたびに、俺の声も跳ねる。

「好きなバンドのライブも行きたかったし!
 行きたいフェスもあったのに!」

 語尾が震えて、泣き笑いみたいな声になってる。
 でも止まらない。

「てゆーか……っ」

 次の振動で身体がふわっと浮いて、俺は彼の手をさらに強く握った。

「恋人もできてないし!
 キ、キスしたことも、ないのに……!
 そんなの嫌だぁぁぁぁ!
 死ぬなんて絶対やだぁぁぁぁ!」

 涙と嗚咽でぐしゃぐしゃになりながら言い切った俺を見て、隣の彼は――驚くより先に、なぜか困ったように優しく笑った。

 ガタガタと小刻みに震える飛行機のリズムに合わせて、前かがみになって息を荒げていた俺の背中を、彼の手がトン、トンと優しく叩いた。一定のテンポで、子どもをあやすみたいに落ち着かせようとしてくれているのが分かる。

「大丈夫だから。……ほら、落ち着いて」

 彼の声はゆっくりで、低くて、安心感があった。
 なんとなく、声の振動まで伝わってくる気がして、少しだけ呼吸が楽になる。

「ちょっと……さっきより揺れも落ち着いてきたし」

 そう言われて、彼が指さす窓のほうを見ると――

 さっきまで灰色だった空が、いつの間にか薄い青に変わっていた。
 雲の切れ目から光がこぼれて、機体がすっと滑らかに進んでいく。乱気流を抜けたのが、景色だけでもはっきり分かる。
 その直後、アナウンスも穏やかに流れた。

《先ほどの揺れは収まり、現在は安定した状態で飛行しております──》

 客席も、さっきまでのざわざわした空気が嘘みたいに静かになり、機内の雰囲気がゆっくりと元の落ち着きを取り戻していく。

 俺はというと、涙と鼻水で完全に顔面崩壊していて、袖でズビズビしながら隣の彼を見上げた。間抜けなのは分かってるけど、もうどうしようもない。
 すると彼は、俺の顔を見てふっと柔らかく笑った。

「……少し、休んだら?」

 そのまま、さりげなく肘掛け側に腕を寄せて差し出す。

「怖かったら、腕につかまっててもいいし」

 ――反則級に優しい。

「……ありがとう……!」

 声が涙でぐずぐずになって、情けなくても気にしていられない。
 俺はその差し出された腕に、ひしっと掴まった。頼りない指で握るんじゃなくて、本気でしがみつくくらいに。
 ぎゅうっと目を閉じると、彼の体温が伝わってきて、心臓の暴走が少しずつ落ち着いていく。
 まるで、“ここは安全だから” って言われてるような気がした。



 ――ふ、と瞼を開けた。

 機内の独特のゴォォという低い飛行音が、いつの間にか消えていた。
 あれほど嫌でも耳に残っていた振動も、モーターの唸りも、空気の圧もない。

 代わりに残っていたのは、妙に静かな機内と――隣の席が、ぽっかり空いているという事実だけだった。

「……え?」

 寝ぼけた頭が一気に覚める。
 その瞬間、キャビンアテンダントのお姉さんの声がすぐそばで聞こえた。

「お客さま、到着しましたよ」

 その言葉に、弾かれたように顔を上げる。前を見ても、横を見ても、後ろを見ても――俺以外、誰ももう乗っていなかった。

「っ、え!? あ、もう!? やば……!」

 慌ててシートベルトを外して、頭上の荷物棚に腕を伸ばす。
 バタバタと荷物を抱えて、近くにいたお姉さんに声をかけた。

「あの! こ、この隣に座っていた男の人は……!」

 お姉さんは、ふわっとやさしい笑みを浮かべて答えた。

「先ほど降りられましたよ。
 『具合が悪そうだったのでもう少し休ませてあげてください』と仰って……」

 その一言だけで、胸の奥がぎゅっと熱くなる。

 あんなに俺が取り乱して、泣き喚いて、手まで勝手に握って、最後は腕にひしっとしがみついて寝落ちしたのに……それでも、彼は最後まで俺のことを気遣ってくれたのか。
 思い返すたびに、恥ずかしさと感動がごちゃ混ぜになる。穴があったら入りたい。なんなら地球のマントルまでたどり着く位の深ーい穴を掘削したいくらいだった。

 俺は急いで飛行機を降り、空港に降り立つ。
 頭の中には、あの時握り返してくれた手や、彼の声が、かすかに残っていた。

 けれど。

 広い空港のロビーをぐるりと見渡しても、
 行き交う人々の中に、さっきの彼の姿は――どこにもなかった。

 まるで、初めから存在しなかったみたいに。