バスがホテルの前に停まった瞬間、車内のテンションが爆発したみたいに跳ね上がった。
「うおお、でっか!」
「リゾート感えぐ!」
「写真撮ろ、写真!!」
シートベルトの金具が一斉に外れるガチャガチャした音と、興奮して立ち上がる足音が混ざり合う。
通路へ流れ出す人の波に押されながら、俺も慌てて立ち上がった。
窓越しに見えた白い建物は、近づいてみるとさらに存在感があって、入口前のヤシの木が太陽光を受けてキラキラしてる。
南国の風が吹き抜けて、汗ばんでいた首元が一瞬だけひんやりする。
「やば! ここ泊まんの!?」
「バス降りた瞬間から修学旅行じゃなくてバカンスやん!」
「おい伊織、はよはよ! 置いてくで!」
はしゃぎ倒してスマホを構えるみんなを横目に、俺は少し遅れてバスの階段を降りた。
その瞬間、視線の端に久保の姿が入る。
久保は先生たちと最終チェックみたいな話をしながらも、周りの騒ぎを見てふっと笑っていた。
生徒会長として気を張りながらも、ちゃんと楽しめているのが分かって、胸の奥が少しだけあたたかくなる。
――よかった、楽しめてるみたいで。
けど、それは俺だけが勝手に気にしていることで。
久保は忙しそうに先生へ返事をし、次の瞬間には別のグループの方へ視線を向ける。
俺とは目が合いそうで合わなくて、ホテルのロビーへ誘導されるまでのあいだ、みんなの声はずっと弾んでいるのに、俺の心臓だけが妙に静かだった。
――部屋に入ったら、話せるかな。
そんな期待だけが、ずっと頭の片隅にひっかかったままだった。
*
部屋割りは、六人部屋。
シングルベッドが三つ並んで、反対側にも三つ。
奥にはベッドのないコネクティングルームがあって、テーブルとソファーが設置されていた。
「はい優勝!!」
「オーシャンビュー!!」
カーテンを一気に開けた瞬間、窓の向こうに広がったのは、昼間でも光を反射する青い海。
ひとしきり騒いで、皆で写真を撮って、そのまま一斉に制服を脱ぎ捨て、私服に着替える。
リュックが床にひっくり返り、Tシャツ、ジャージ、パーカー、靴下。
部屋の中は一気に生活感でぐちゃぐちゃになった。
俺が着替え終えて振り返ると、私服姿の久保が、鏡の前で前髪を指で整えていた。
制服の時よりずっとラフなのに、それが逆にお洒落に見えるのが、なんだかズルい。
そのあとは、大広間に移動して、平和学習のオリエンテーションがみっちり一時間半。
展示の続きみたいな話。だんだんと、皆の集中力は目に見えて切れていく。
けど、その戦争にまつわる体験談を聞きながら俺は必死でメモをとった。
貴重な話。ちゃんと聴いて心に残すことが、このおばあちゃんに尽くす誠意だと思って。
「伊織、そんな書かんでも、感想くらい書けるやろ」
川内にはそう言われたけれど、その奥に座った久保もまた、真剣に話を聞いているのが見えて。
真面目ぶってるとかじゃない。
久保の中にある、誠実に向き合う気持ちみたいなのを感じて――そういうところが、人として好きだな、と思った。
平和学習を終え、待ちに待った夕飯。
どん、と目の前に置かれたのは、山盛りのタコライス。
「うまそう!」
「沖縄っぽ!」
「これ絶対辛いやつやん!」
スプーンですくって一口食べた瞬間、スパイスとチーズの香りが口いっぱいに広がって、思わず目を見開く。
「……うまっ」
みんなも口々に「うまい」「無限に食える」と騒ぎ出す。
海野がドリンクをこぼして、久保がそれを拭いて、今度は山根が笑い転げる。
食事の途中、食堂とつながったバルコニーの方から、ドン、ドン、と太鼓の音が響いた。
地元の団体による、エイサーの演舞だ。
低く響く太鼓の音、腹の奥まで振動するリズム。
揃った足さばきと、躍動感のある動きに、みんな一瞬で引き込まれていく。
「すげぇ……!」
「かっこよ……!」
やがて演舞が終わると、踊り手の人たちが、観客の方へ手招きした。
「え、参加型!?」
「行くしかなくね!?」
田中が真っ先に飛び出し、山根、川内も続く。
太鼓を持たされ、見よう見まねで叩き始め、下手過ぎて周囲は一気に爆笑の渦になる。
「伊織も行こうや!」
海野に腕を引かれたけど、恥ずかしくて、なんとなく首を振った。
「いいよ。動画撮っとくし、あとでグルチャに流す」
「おっけ!」
海野も笑って三人の後に続き、先生たちまで横で楽しそうに見守っている。
エイサーを囲うように、バルコニーの石畳にみんなが座っていくのが見えた。
俺と久保は、皆のお皿をまとめ終えると、スマホを片手に、その輪のいちばん後ろへとしゃがみ込んだ。
石畳に膝をついた瞬間、ひんやりした冷たさが伝う。
前では太鼓がリズムを刻み、振動が地面を通してそのまま背骨に届くようだった。
「……みんな、楽しそうだな」
横で久保がぽつりと言う。
その横顔は、赤い提灯の光に照らされて、やわらかく浮かび上がっていた。
「うん。……久保も楽しめてる?」
俺は膝を抱え、体育座りの姿勢のまま、視界の端に久保を入れる。
ざわめきが大きくなるたび、肩越しに光が揺れて、久保の影が石畳にふわりとかすれた。
「……伊織、 」
「ん?」
太鼓の一打が重なる。
その音に久保の言葉が掻き消され、俺が苦笑して顔を寄せた。
「ごめん、何?」
聞き返した瞬間。
久保が、そっと耳元へ唇を寄せた。
「伊織のおかげ。……ありがとう」
距離が一瞬だけゼロになる。
その吐息まで、全部はっきり触れた気がして、思わず目を見開いた。
久保はすぐに顔を戻し、前を向く。
でも、耳に落とされたその声だけは、熱をもったまま離れない。
それきり、二人とも、何も言わなかった。
太鼓の音。
笑い声。
掛け声。
世界はこんなに騒がしいのに、
俺と久保の周りだけ、まるで音をなくしたみたいに静かだった。
飛行機の時は、あんなに自然に手を繋げたのに。
その前なんて、何回もハグだってしたのに。
なのに、こういう不意打ちだと、
どうしてこんなにも心臓が忙しくなるんだろう。
髪を耳にかけるふりをして、久保に悟られないように横を向く。
すると、エイサーを終えた四人が、興奮した表情で戻ってきた。
「やばかった、俺のダンス見とった!? 伊織!」
「ちゃんと見てたよ。……動画も撮っておいたし」
「ステップめちゃムズかった~! 再現こんな感じやん!」
大盛り上がりする四人につられて、つい、俺たちの喋り声も大きくなった、その時。
「こら君たち、静かにしなさい!」
生活指導の先生が現れた。
そして、真っ先に目をつけられたのは――
ひときわ大声ではしゃいでいた、田中、山根、川内の三人だった。
「ちょっと来なさい」
「え、俺らだけ!?」
「いや待って先生、今のはテンションが――」
抵抗虚しく、そのまま引きずられる三人。
……と思いきや。
「お前らも、同じ班だろ。連帯責任だ」
そう言われて、結局、俺と久保と海野も、まとめてお説教コース。
それが終わる頃には、他のグループはとっくに部屋に戻っていて、すっかり夜も更けていた。
「……だっる」
「完全に俺ら損じゃん」
「でも楽しかったから、まぁいっか」
六人でだらだらと廊下を歩く。
周りの部屋はすでに消灯準備に入っているらしく、やけに静かだった。
エレベーター前に差し掛かったところで、山根が急にニヤッと笑って言った。
「なぁ、誰が一番風呂か、階段ダッシュで決めね?」
「もー、それは流石にない。一般の人も泊まってるし。また先生に怒られるよ?」
俺は制止し、久保もポケットに手を突っ込んだまま眉根を寄せている。
「は!?やるに決まってるだろ!」
「負けねぇからな!」
次の瞬間、三人が一気に階段へと駆け出した。
「ちょ、ずるい!待てって!」
海野までそれに続く。
取り残されたのは、俺と久保だけだった。
「……アイツら元気すぎ。もう俺は説教されたくないから、離れて歩こう」
久保が苦笑する。
「だね。シャワーの順番なんてどうでもいいじゃん……」
そう言って歩き出した直後、 階段の踊り場に差し掛かったところで、不意に視界がぐらりと揺れた。
――ズキッ。
こめかみの奥を、鋭い痛みが突き抜ける。
「……っ」
思わず立ち止まると、
「伊織?」
すぐ背後で、久保の声がした。
振り返るより先に、そっと肩に手が置かれる。
「ごめん……ちょっと、頭痛。疲れてるのかも」
できるだけ軽く言ったつもりだったけど、 久保の表情はすぐに曇った。
緊張で昨日はあんまり眠れなかったし、飛行機、研修、移動が重なってるのもある気がした。
「……こっからはエレベーターにしよ。こっちおいで」
「……うん」
廊下を歩く間、久保はずっと俺の半歩後ろで、転びそうになればすぐ支えられる距離を保ってくれる。
エレベーターに途中階から乗り込むと、久保は「8」のボタンを押して、ドアが閉まった瞬間に振り向いて言った。
「今日は先に休んだ方が良いよ。明日もハードだし」
ぽん、と何気なく頭を撫でられる。
俺が反応に困ったような顔をすると、その手はゆっくり離れていった。
「お、久保と伊織が戻ってきたぞ~……って、伊織どうした?」
「あー、ちょっと頭痛だってさ」
部屋に戻って久保が短く説明すると、海野は一瞬で状況を理解して、すぐに振り返って叫んだ。
「お前ら、伊織が具合悪そうだから静かにしろよ!」
「え、マジ? またなん? 大丈夫?」
「テンション下げようや」
「はい、あっち移動ー!」
ぞろぞろと部屋に戻りつつ、
結局、コネクティングルーム側ではゲーム大会が始まったらしい。
笑い声が、扉越しにかすかに聞こえてくる。
俺はベッドに腰を下ろし、そのままごろんと横になった。
久保は、俺のベッドの脇にある椅子に腰を下ろす。
「久保、みんなのとこ行かなくていいの?」
「後で行く」
それだけ言って、もう動く気はないらしい。
天井のライトが眩しく感じられて、偏頭痛のせいだとすぐに分かった。
目を細めて、瞼を腕で覆うように光を遮る。
それに気付いたように、久保は照明の灯りをひとつ落としてくれた。
「……ごめん、手ぇ煩わせて」
「何言ってんの。……こんくらい、いくらでもするよ」
……なに、それ。
一気に心臓がぎゅん、と音を立てて跳ね上がって、胸の奥がやたらとうるさい。
熱があるわけじゃないのに、顔がじわじわ熱くなっていくのが自分でも分かった。
「伊織が俺に、今までしてくれたことに比べたら……全然、だけど」
「そ、それは俺が勝手にやったことだから。
いいよ。お返しみたいな考え方しなくても」
返事をしながら、俺は視線のやり場が分からなくなる。
久保はベッドのすぐ横に座ったままで、距離がやたら近い。
ふざけて大笑いするみんなの声が断続的に聞こえてくるのに、俺たちは黙ったまま。
何度か、視線がぶつかる。
逸らして、またぶつかって。
「……伊織の、そういうとこ……」
言いかけたまま、ぐっと堪えるような表情に、心臓がまた一段とうるさくなる。
え、なに。
この空気、なに……?
じっと見ていると、久保が、ほんの少しだけ身を屈めるのが分かった。
近づく気配。呼吸の距離。
頭の中で警鈴が鳴りまくってるのに、身体が動かない。
けど、俺の頭に手を添えて、顔を近づけてくる。
え、えっ。
これって――もしかして。
内心でパニックを起こしながら、それでも俺は、そっと目を閉じてしまった。
その瞬間だった。
「おっしゃああああ!! スマブラ優勝!! 優勝賞金二千円ゲットーーーー!!!」
バーン!! と勢いよくドアが開く。
「!?」
久保がびくっと身を引いて、ものすごい勢いで俺から離れた。
俺も反射的に目を閉じたまま、布団を引き寄せて、完全に寝たふりを決め込む。
「ちょ、田中てめぇ静かにしろや!!」
「伊織が寝てんねんで!?」
四方から飛んでくる怒号に、田中はようやく状況を察したらしい。
「 あ、すまん……」
その声が少しだけ小さくなる。
俺は心臓が暴れすぎて、本当に寝られなかったけど、それでも必死に寝息のフリを続けた。
布団越しに、気配が動く。
久保は、何も言わない。
ただ、さっきまで近くにあったはずの温度だけが、少しだけ遠ざかって。
――もう、そっちに行っちゃうんだ。
それが、やけに名残惜しく感じられて、近づいて来る時の久保の顔を思い出して。
俺の胸は、しばらくの間ずっと、落ち着かなかった。
「うおお、でっか!」
「リゾート感えぐ!」
「写真撮ろ、写真!!」
シートベルトの金具が一斉に外れるガチャガチャした音と、興奮して立ち上がる足音が混ざり合う。
通路へ流れ出す人の波に押されながら、俺も慌てて立ち上がった。
窓越しに見えた白い建物は、近づいてみるとさらに存在感があって、入口前のヤシの木が太陽光を受けてキラキラしてる。
南国の風が吹き抜けて、汗ばんでいた首元が一瞬だけひんやりする。
「やば! ここ泊まんの!?」
「バス降りた瞬間から修学旅行じゃなくてバカンスやん!」
「おい伊織、はよはよ! 置いてくで!」
はしゃぎ倒してスマホを構えるみんなを横目に、俺は少し遅れてバスの階段を降りた。
その瞬間、視線の端に久保の姿が入る。
久保は先生たちと最終チェックみたいな話をしながらも、周りの騒ぎを見てふっと笑っていた。
生徒会長として気を張りながらも、ちゃんと楽しめているのが分かって、胸の奥が少しだけあたたかくなる。
――よかった、楽しめてるみたいで。
けど、それは俺だけが勝手に気にしていることで。
久保は忙しそうに先生へ返事をし、次の瞬間には別のグループの方へ視線を向ける。
俺とは目が合いそうで合わなくて、ホテルのロビーへ誘導されるまでのあいだ、みんなの声はずっと弾んでいるのに、俺の心臓だけが妙に静かだった。
――部屋に入ったら、話せるかな。
そんな期待だけが、ずっと頭の片隅にひっかかったままだった。
*
部屋割りは、六人部屋。
シングルベッドが三つ並んで、反対側にも三つ。
奥にはベッドのないコネクティングルームがあって、テーブルとソファーが設置されていた。
「はい優勝!!」
「オーシャンビュー!!」
カーテンを一気に開けた瞬間、窓の向こうに広がったのは、昼間でも光を反射する青い海。
ひとしきり騒いで、皆で写真を撮って、そのまま一斉に制服を脱ぎ捨て、私服に着替える。
リュックが床にひっくり返り、Tシャツ、ジャージ、パーカー、靴下。
部屋の中は一気に生活感でぐちゃぐちゃになった。
俺が着替え終えて振り返ると、私服姿の久保が、鏡の前で前髪を指で整えていた。
制服の時よりずっとラフなのに、それが逆にお洒落に見えるのが、なんだかズルい。
そのあとは、大広間に移動して、平和学習のオリエンテーションがみっちり一時間半。
展示の続きみたいな話。だんだんと、皆の集中力は目に見えて切れていく。
けど、その戦争にまつわる体験談を聞きながら俺は必死でメモをとった。
貴重な話。ちゃんと聴いて心に残すことが、このおばあちゃんに尽くす誠意だと思って。
「伊織、そんな書かんでも、感想くらい書けるやろ」
川内にはそう言われたけれど、その奥に座った久保もまた、真剣に話を聞いているのが見えて。
真面目ぶってるとかじゃない。
久保の中にある、誠実に向き合う気持ちみたいなのを感じて――そういうところが、人として好きだな、と思った。
平和学習を終え、待ちに待った夕飯。
どん、と目の前に置かれたのは、山盛りのタコライス。
「うまそう!」
「沖縄っぽ!」
「これ絶対辛いやつやん!」
スプーンですくって一口食べた瞬間、スパイスとチーズの香りが口いっぱいに広がって、思わず目を見開く。
「……うまっ」
みんなも口々に「うまい」「無限に食える」と騒ぎ出す。
海野がドリンクをこぼして、久保がそれを拭いて、今度は山根が笑い転げる。
食事の途中、食堂とつながったバルコニーの方から、ドン、ドン、と太鼓の音が響いた。
地元の団体による、エイサーの演舞だ。
低く響く太鼓の音、腹の奥まで振動するリズム。
揃った足さばきと、躍動感のある動きに、みんな一瞬で引き込まれていく。
「すげぇ……!」
「かっこよ……!」
やがて演舞が終わると、踊り手の人たちが、観客の方へ手招きした。
「え、参加型!?」
「行くしかなくね!?」
田中が真っ先に飛び出し、山根、川内も続く。
太鼓を持たされ、見よう見まねで叩き始め、下手過ぎて周囲は一気に爆笑の渦になる。
「伊織も行こうや!」
海野に腕を引かれたけど、恥ずかしくて、なんとなく首を振った。
「いいよ。動画撮っとくし、あとでグルチャに流す」
「おっけ!」
海野も笑って三人の後に続き、先生たちまで横で楽しそうに見守っている。
エイサーを囲うように、バルコニーの石畳にみんなが座っていくのが見えた。
俺と久保は、皆のお皿をまとめ終えると、スマホを片手に、その輪のいちばん後ろへとしゃがみ込んだ。
石畳に膝をついた瞬間、ひんやりした冷たさが伝う。
前では太鼓がリズムを刻み、振動が地面を通してそのまま背骨に届くようだった。
「……みんな、楽しそうだな」
横で久保がぽつりと言う。
その横顔は、赤い提灯の光に照らされて、やわらかく浮かび上がっていた。
「うん。……久保も楽しめてる?」
俺は膝を抱え、体育座りの姿勢のまま、視界の端に久保を入れる。
ざわめきが大きくなるたび、肩越しに光が揺れて、久保の影が石畳にふわりとかすれた。
「……伊織、 」
「ん?」
太鼓の一打が重なる。
その音に久保の言葉が掻き消され、俺が苦笑して顔を寄せた。
「ごめん、何?」
聞き返した瞬間。
久保が、そっと耳元へ唇を寄せた。
「伊織のおかげ。……ありがとう」
距離が一瞬だけゼロになる。
その吐息まで、全部はっきり触れた気がして、思わず目を見開いた。
久保はすぐに顔を戻し、前を向く。
でも、耳に落とされたその声だけは、熱をもったまま離れない。
それきり、二人とも、何も言わなかった。
太鼓の音。
笑い声。
掛け声。
世界はこんなに騒がしいのに、
俺と久保の周りだけ、まるで音をなくしたみたいに静かだった。
飛行機の時は、あんなに自然に手を繋げたのに。
その前なんて、何回もハグだってしたのに。
なのに、こういう不意打ちだと、
どうしてこんなにも心臓が忙しくなるんだろう。
髪を耳にかけるふりをして、久保に悟られないように横を向く。
すると、エイサーを終えた四人が、興奮した表情で戻ってきた。
「やばかった、俺のダンス見とった!? 伊織!」
「ちゃんと見てたよ。……動画も撮っておいたし」
「ステップめちゃムズかった~! 再現こんな感じやん!」
大盛り上がりする四人につられて、つい、俺たちの喋り声も大きくなった、その時。
「こら君たち、静かにしなさい!」
生活指導の先生が現れた。
そして、真っ先に目をつけられたのは――
ひときわ大声ではしゃいでいた、田中、山根、川内の三人だった。
「ちょっと来なさい」
「え、俺らだけ!?」
「いや待って先生、今のはテンションが――」
抵抗虚しく、そのまま引きずられる三人。
……と思いきや。
「お前らも、同じ班だろ。連帯責任だ」
そう言われて、結局、俺と久保と海野も、まとめてお説教コース。
それが終わる頃には、他のグループはとっくに部屋に戻っていて、すっかり夜も更けていた。
「……だっる」
「完全に俺ら損じゃん」
「でも楽しかったから、まぁいっか」
六人でだらだらと廊下を歩く。
周りの部屋はすでに消灯準備に入っているらしく、やけに静かだった。
エレベーター前に差し掛かったところで、山根が急にニヤッと笑って言った。
「なぁ、誰が一番風呂か、階段ダッシュで決めね?」
「もー、それは流石にない。一般の人も泊まってるし。また先生に怒られるよ?」
俺は制止し、久保もポケットに手を突っ込んだまま眉根を寄せている。
「は!?やるに決まってるだろ!」
「負けねぇからな!」
次の瞬間、三人が一気に階段へと駆け出した。
「ちょ、ずるい!待てって!」
海野までそれに続く。
取り残されたのは、俺と久保だけだった。
「……アイツら元気すぎ。もう俺は説教されたくないから、離れて歩こう」
久保が苦笑する。
「だね。シャワーの順番なんてどうでもいいじゃん……」
そう言って歩き出した直後、 階段の踊り場に差し掛かったところで、不意に視界がぐらりと揺れた。
――ズキッ。
こめかみの奥を、鋭い痛みが突き抜ける。
「……っ」
思わず立ち止まると、
「伊織?」
すぐ背後で、久保の声がした。
振り返るより先に、そっと肩に手が置かれる。
「ごめん……ちょっと、頭痛。疲れてるのかも」
できるだけ軽く言ったつもりだったけど、 久保の表情はすぐに曇った。
緊張で昨日はあんまり眠れなかったし、飛行機、研修、移動が重なってるのもある気がした。
「……こっからはエレベーターにしよ。こっちおいで」
「……うん」
廊下を歩く間、久保はずっと俺の半歩後ろで、転びそうになればすぐ支えられる距離を保ってくれる。
エレベーターに途中階から乗り込むと、久保は「8」のボタンを押して、ドアが閉まった瞬間に振り向いて言った。
「今日は先に休んだ方が良いよ。明日もハードだし」
ぽん、と何気なく頭を撫でられる。
俺が反応に困ったような顔をすると、その手はゆっくり離れていった。
「お、久保と伊織が戻ってきたぞ~……って、伊織どうした?」
「あー、ちょっと頭痛だってさ」
部屋に戻って久保が短く説明すると、海野は一瞬で状況を理解して、すぐに振り返って叫んだ。
「お前ら、伊織が具合悪そうだから静かにしろよ!」
「え、マジ? またなん? 大丈夫?」
「テンション下げようや」
「はい、あっち移動ー!」
ぞろぞろと部屋に戻りつつ、
結局、コネクティングルーム側ではゲーム大会が始まったらしい。
笑い声が、扉越しにかすかに聞こえてくる。
俺はベッドに腰を下ろし、そのままごろんと横になった。
久保は、俺のベッドの脇にある椅子に腰を下ろす。
「久保、みんなのとこ行かなくていいの?」
「後で行く」
それだけ言って、もう動く気はないらしい。
天井のライトが眩しく感じられて、偏頭痛のせいだとすぐに分かった。
目を細めて、瞼を腕で覆うように光を遮る。
それに気付いたように、久保は照明の灯りをひとつ落としてくれた。
「……ごめん、手ぇ煩わせて」
「何言ってんの。……こんくらい、いくらでもするよ」
……なに、それ。
一気に心臓がぎゅん、と音を立てて跳ね上がって、胸の奥がやたらとうるさい。
熱があるわけじゃないのに、顔がじわじわ熱くなっていくのが自分でも分かった。
「伊織が俺に、今までしてくれたことに比べたら……全然、だけど」
「そ、それは俺が勝手にやったことだから。
いいよ。お返しみたいな考え方しなくても」
返事をしながら、俺は視線のやり場が分からなくなる。
久保はベッドのすぐ横に座ったままで、距離がやたら近い。
ふざけて大笑いするみんなの声が断続的に聞こえてくるのに、俺たちは黙ったまま。
何度か、視線がぶつかる。
逸らして、またぶつかって。
「……伊織の、そういうとこ……」
言いかけたまま、ぐっと堪えるような表情に、心臓がまた一段とうるさくなる。
え、なに。
この空気、なに……?
じっと見ていると、久保が、ほんの少しだけ身を屈めるのが分かった。
近づく気配。呼吸の距離。
頭の中で警鈴が鳴りまくってるのに、身体が動かない。
けど、俺の頭に手を添えて、顔を近づけてくる。
え、えっ。
これって――もしかして。
内心でパニックを起こしながら、それでも俺は、そっと目を閉じてしまった。
その瞬間だった。
「おっしゃああああ!! スマブラ優勝!! 優勝賞金二千円ゲットーーーー!!!」
バーン!! と勢いよくドアが開く。
「!?」
久保がびくっと身を引いて、ものすごい勢いで俺から離れた。
俺も反射的に目を閉じたまま、布団を引き寄せて、完全に寝たふりを決め込む。
「ちょ、田中てめぇ静かにしろや!!」
「伊織が寝てんねんで!?」
四方から飛んでくる怒号に、田中はようやく状況を察したらしい。
「 あ、すまん……」
その声が少しだけ小さくなる。
俺は心臓が暴れすぎて、本当に寝られなかったけど、それでも必死に寝息のフリを続けた。
布団越しに、気配が動く。
久保は、何も言わない。
ただ、さっきまで近くにあったはずの温度だけが、少しだけ遠ざかって。
――もう、そっちに行っちゃうんだ。
それが、やけに名残惜しく感じられて、近づいて来る時の久保の顔を思い出して。
俺の胸は、しばらくの間ずっと、落ち着かなかった。



