乱気流の飛行機でパニックになり、隣の奴に手を握ってもらったら、転校先の生徒会長でした。

 バスがホテルの前に停まった瞬間、車内のテンションが爆発したみたいに跳ね上がった。

「うおお、でっか!」

「リゾート感えぐ!」

「写真撮ろ、写真!!」

 シートベルトの金具が一斉に外れるガチャガチャした音と、興奮して立ち上がる足音が混ざり合う。
 通路へ流れ出す人の波に押されながら、俺も慌てて立ち上がった。

 窓越しに見えた白い建物は、近づいてみるとさらに存在感があって、入口前のヤシの木が太陽光を受けてキラキラしてる。
 南国の風が吹き抜けて、汗ばんでいた首元が一瞬だけひんやりする。

「やば! ここ泊まんの!?」

「バス降りた瞬間から修学旅行じゃなくてバカンスやん!」

「おい伊織、はよはよ! 置いてくで!」

 はしゃぎ倒してスマホを構えるみんなを横目に、俺は少し遅れてバスの階段を降りた。

 その瞬間、視線の端に久保の姿が入る。

 久保は先生たちと最終チェックみたいな話をしながらも、周りの騒ぎを見てふっと笑っていた。
 生徒会長として気を張りながらも、ちゃんと楽しめているのが分かって、胸の奥が少しだけあたたかくなる。

 ――よかった、楽しめてるみたいで。

 けど、それは俺だけが勝手に気にしていることで。
 久保は忙しそうに先生へ返事をし、次の瞬間には別のグループの方へ視線を向ける。
 俺とは目が合いそうで合わなくて、ホテルのロビーへ誘導されるまでのあいだ、みんなの声はずっと弾んでいるのに、俺の心臓だけが妙に静かだった。

 ――部屋に入ったら、話せるかな。

 そんな期待だけが、ずっと頭の片隅にひっかかったままだった。

 *

 部屋割りは、六人部屋。
 シングルベッドが三つ並んで、反対側にも三つ。
 奥にはベッドのないコネクティングルームがあって、テーブルとソファーが設置されていた。

「はい優勝!!」

「オーシャンビュー!!」

 カーテンを一気に開けた瞬間、窓の向こうに広がったのは、昼間でも光を反射する青い海。
 ひとしきり騒いで、皆で写真を撮って、そのまま一斉に制服を脱ぎ捨て、私服に着替える。
 リュックが床にひっくり返り、Tシャツ、ジャージ、パーカー、靴下。
 部屋の中は一気に生活感でぐちゃぐちゃになった。

 俺が着替え終えて振り返ると、私服姿の久保が、鏡の前で前髪を指で整えていた。
 制服の時よりずっとラフなのに、それが逆にお洒落に見えるのが、なんだかズルい。

 そのあとは、大広間に移動して、平和学習のオリエンテーションがみっちり一時間半。
 展示の続きみたいな話。だんだんと、皆の集中力は目に見えて切れていく。
 けど、その戦争にまつわる体験談を聞きながら俺は必死でメモをとった。
 貴重な話。ちゃんと聴いて心に残すことが、このおばあちゃんに尽くす誠意だと思って。

「伊織、そんな書かんでも、感想くらい書けるやろ」

 川内にはそう言われたけれど、その奥に座った久保もまた、真剣に話を聞いているのが見えて。
 真面目ぶってるとかじゃない。
 久保の中にある、誠実に向き合う気持ちみたいなのを感じて――そういうところが、人として好きだな、と思った。

 平和学習を終え、待ちに待った夕飯。
 どん、と目の前に置かれたのは、山盛りのタコライス。

「うまそう!」

「沖縄っぽ!」

「これ絶対辛いやつやん!」

 スプーンですくって一口食べた瞬間、スパイスとチーズの香りが口いっぱいに広がって、思わず目を見開く。

「……うまっ」

 みんなも口々に「うまい」「無限に食える」と騒ぎ出す。
 海野がドリンクをこぼして、久保がそれを拭いて、今度は山根が笑い転げる。
 食事の途中、食堂とつながったバルコニーの方から、ドン、ドン、と太鼓の音が響いた。
 地元の団体による、エイサーの演舞だ。
 低く響く太鼓の音、腹の奥まで振動するリズム。
 揃った足さばきと、躍動感のある動きに、みんな一瞬で引き込まれていく。

「すげぇ……!」

「かっこよ……!」

 やがて演舞が終わると、踊り手の人たちが、観客の方へ手招きした。

「え、参加型!?」

「行くしかなくね!?」

 田中が真っ先に飛び出し、山根、川内も続く。
 太鼓を持たされ、見よう見まねで叩き始め、下手過ぎて周囲は一気に爆笑の渦になる。

「伊織も行こうや!」

 海野に腕を引かれたけど、恥ずかしくて、なんとなく首を振った。

「いいよ。動画撮っとくし、あとでグルチャに流す」

「おっけ!」

 海野も笑って三人の後に続き、先生たちまで横で楽しそうに見守っている。
 エイサーを囲うように、バルコニーの石畳にみんなが座っていくのが見えた。
 俺と久保は、皆のお皿をまとめ終えると、スマホを片手に、その輪のいちばん後ろへとしゃがみ込んだ。
 石畳に膝をついた瞬間、ひんやりした冷たさが伝う。
 前では太鼓がリズムを刻み、振動が地面を通してそのまま背骨に届くようだった。

「……みんな、楽しそうだな」

 横で久保がぽつりと言う。
 その横顔は、赤い提灯の光に照らされて、やわらかく浮かび上がっていた。

「うん。……久保も楽しめてる?」

 俺は膝を抱え、体育座りの姿勢のまま、視界の端に久保を入れる。
 ざわめきが大きくなるたび、肩越しに光が揺れて、久保の影が石畳にふわりとかすれた。

「……伊織、   」

「ん?」

 太鼓の一打が重なる。
 その音に久保の言葉が掻き消され、俺が苦笑して顔を寄せた。

「ごめん、何?」

 聞き返した瞬間。
 久保が、そっと耳元へ唇を寄せた。

「伊織のおかげ。……ありがとう」

 距離が一瞬だけゼロになる。
 その吐息まで、全部はっきり触れた気がして、思わず目を見開いた。
 久保はすぐに顔を戻し、前を向く。
 でも、耳に落とされたその声だけは、熱をもったまま離れない。
 それきり、二人とも、何も言わなかった。

 太鼓の音。
 笑い声。
 掛け声。

 世界はこんなに騒がしいのに、
 俺と久保の周りだけ、まるで音をなくしたみたいに静かだった。

 飛行機の時は、あんなに自然に手を繋げたのに。
 その前なんて、何回もハグだってしたのに。
 なのに、こういう不意打ちだと、
 どうしてこんなにも心臓が忙しくなるんだろう。

 髪を耳にかけるふりをして、久保に悟られないように横を向く。
 すると、エイサーを終えた四人が、興奮した表情で戻ってきた。

「やばかった、俺のダンス見とった!? 伊織!」

「ちゃんと見てたよ。……動画も撮っておいたし」

「ステップめちゃムズかった~! 再現こんな感じやん!」

 大盛り上がりする四人につられて、つい、俺たちの喋り声も大きくなった、その時。

「こら君たち、静かにしなさい!」

 生活指導の先生が現れた。
 そして、真っ先に目をつけられたのは――
 ひときわ大声ではしゃいでいた、田中、山根、川内の三人だった。

「ちょっと来なさい」

「え、俺らだけ!?」

「いや待って先生、今のはテンションが――」

 抵抗虚しく、そのまま引きずられる三人。

 ……と思いきや。

「お前らも、同じ班だろ。連帯責任だ」

 そう言われて、結局、俺と久保と海野も、まとめてお説教コース。
 それが終わる頃には、他のグループはとっくに部屋に戻っていて、すっかり夜も更けていた。

「……だっる」

「完全に俺ら損じゃん」

「でも楽しかったから、まぁいっか」

 六人でだらだらと廊下を歩く。
 周りの部屋はすでに消灯準備に入っているらしく、やけに静かだった。
 エレベーター前に差し掛かったところで、山根が急にニヤッと笑って言った。

「なぁ、誰が一番風呂か、階段ダッシュで決めね?」

「もー、それは流石にない。一般の人も泊まってるし。また先生に怒られるよ?」

 俺は制止し、久保もポケットに手を突っ込んだまま眉根を寄せている。

「は!?やるに決まってるだろ!」

「負けねぇからな!」

 次の瞬間、三人が一気に階段へと駆け出した。

「ちょ、ずるい!待てって!」

 海野までそれに続く。
 取り残されたのは、俺と久保だけだった。

「……アイツら元気すぎ。もう俺は説教されたくないから、離れて歩こう」

 久保が苦笑する。

「だね。シャワーの順番なんてどうでもいいじゃん……」

 そう言って歩き出した直後、 階段の踊り場に差し掛かったところで、不意に視界がぐらりと揺れた。

 ――ズキッ。

 こめかみの奥を、鋭い痛みが突き抜ける。

「……っ」

 思わず立ち止まると、

「伊織?」

 すぐ背後で、久保の声がした。
 振り返るより先に、そっと肩に手が置かれる。

「ごめん……ちょっと、頭痛。疲れてるのかも」

 できるだけ軽く言ったつもりだったけど、 久保の表情はすぐに曇った。
 緊張で昨日はあんまり眠れなかったし、飛行機、研修、移動が重なってるのもある気がした。

「……こっからはエレベーターにしよ。こっちおいで」

「……うん」

 廊下を歩く間、久保はずっと俺の半歩後ろで、転びそうになればすぐ支えられる距離を保ってくれる。
 エレベーターに途中階から乗り込むと、久保は「8」のボタンを押して、ドアが閉まった瞬間に振り向いて言った。

「今日は先に休んだ方が良いよ。明日もハードだし」

 ぽん、と何気なく頭を撫でられる。
 俺が反応に困ったような顔をすると、その手はゆっくり離れていった。

「お、久保と伊織が戻ってきたぞ~……って、伊織どうした?」

「あー、ちょっと頭痛だってさ」

 部屋に戻って久保が短く説明すると、海野は一瞬で状況を理解して、すぐに振り返って叫んだ。

「お前ら、伊織が具合悪そうだから静かにしろよ!」

「え、マジ? またなん? 大丈夫?」

「テンション下げようや」

「はい、あっち移動ー!」

 ぞろぞろと部屋に戻りつつ、
 結局、コネクティングルーム側ではゲーム大会が始まったらしい。
 笑い声が、扉越しにかすかに聞こえてくる。
 俺はベッドに腰を下ろし、そのままごろんと横になった。
 久保は、俺のベッドの脇にある椅子に腰を下ろす。

「久保、みんなのとこ行かなくていいの?」

「後で行く」

 それだけ言って、もう動く気はないらしい。
 天井のライトが眩しく感じられて、偏頭痛のせいだとすぐに分かった。
 目を細めて、瞼を腕で覆うように光を遮る。
 それに気付いたように、久保は照明の灯りをひとつ落としてくれた。

「……ごめん、手ぇ煩わせて」

「何言ってんの。……こんくらい、いくらでもするよ」

 ……なに、それ。

 一気に心臓がぎゅん、と音を立てて跳ね上がって、胸の奥がやたらとうるさい。
 熱があるわけじゃないのに、顔がじわじわ熱くなっていくのが自分でも分かった。

「伊織が俺に、今までしてくれたことに比べたら……全然、だけど」

「そ、それは俺が勝手にやったことだから。
 いいよ。お返しみたいな考え方しなくても」

 返事をしながら、俺は視線のやり場が分からなくなる。
 久保はベッドのすぐ横に座ったままで、距離がやたら近い。
 ふざけて大笑いするみんなの声が断続的に聞こえてくるのに、俺たちは黙ったまま。

 何度か、視線がぶつかる。
 逸らして、またぶつかって。

「……伊織の、そういうとこ……」

 言いかけたまま、ぐっと堪えるような表情に、心臓がまた一段とうるさくなる。

 え、なに。
 この空気、なに……?

 じっと見ていると、久保が、ほんの少しだけ身を屈めるのが分かった。
 近づく気配。呼吸の距離。
 頭の中で警鈴が鳴りまくってるのに、身体が動かない。
 けど、俺の頭に手を添えて、顔を近づけてくる。

 え、えっ。
 これって――もしかして。

 内心でパニックを起こしながら、それでも俺は、そっと目を閉じてしまった。

 その瞬間だった。

「おっしゃああああ!! スマブラ優勝!! 優勝賞金二千円ゲットーーーー!!!」

 バーン!! と勢いよくドアが開く。

「!?」

 久保がびくっと身を引いて、ものすごい勢いで俺から離れた。
 俺も反射的に目を閉じたまま、布団を引き寄せて、完全に寝たふりを決め込む。

「ちょ、田中てめぇ静かにしろや!!」

「伊織が寝てんねんで!?」

 四方から飛んでくる怒号に、田中はようやく状況を察したらしい。

「 あ、すまん……」

 その声が少しだけ小さくなる。

 俺は心臓が暴れすぎて、本当に寝られなかったけど、それでも必死に寝息のフリを続けた。

 布団越しに、気配が動く。
 久保は、何も言わない。
 ただ、さっきまで近くにあったはずの温度だけが、少しだけ遠ざかって。

 ――もう、そっちに行っちゃうんだ。

 それが、やけに名残惜しく感じられて、近づいて来る時の久保の顔を思い出して。
 俺の胸は、しばらくの間ずっと、落ち着かなかった。