「……伊織、」
深いところに沈んでいた意識を、誰かがそっと掬い上げるみたいに。
名前を呼ぶ声が、水の底に落とされた小石みたいに、静かに波紋を広げる。
肩がやさしく揺らされて、重たいまぶたがじわっと持ち上がった。
……え、近い。
ぼやけた視界のすぐ手前に、久保の顔があった。
ほんの数十センチ。息を吸うのもためらうほどの距離。
光の加減で、久保のまつげが長く影を作っている。
寝起きの頭でそれを見て、夢か現実か一瞬判断できなかった。
「まだ眠い?」
そう聞かれて、俺は目を擦った。
シートベルトが外される音があちこちで鳴り、頭上の荷物棚が開く鈍い蒸気みたいな音がして、通路に立つ人の気配が押し寄せている。
着陸直後の、あの雑然とした、独特のあたたかさ。
そのざわめきの中心で、俺はまだ世界に追いつけていなかった。
「……」
声が出ないまま瞬きをすると、久保の表情がほんの少し緩んだ。
緊張の糸が切れたみたいに、胸の奥で小さく息をつくのが、すぐ横で分かる。
「出発する時より、顔色よくなってる。……良かった」
その言葉で、ようやくさっきの記憶が一気に戻ってくる。
怖かったこと。
呼吸が乱れたこと。
久保がブランケットの下で、ただ黙って、俺の手を握っていてくれたこと。
「……え、いつ寝たか覚えてない」
「ちょっと揺れが収まったあと。寄りかかって、ぐっすり寝てたよ」
その一言に、心臓がドクンと跳ねて、顔から耳まで一気に熱がのぼった。
怖さと緊張で張りつめていたせいなのか、
酔い止めが効きすぎたのか、
気づけば久保の肩に寄りかかって、深く落ちていたらしい。
慌てて体を起こした俺を見て、久保は控えめに笑った。
「そんな慌てなくてもいいのに」
「いや……その……」
久保はそれ以上追及しないで、ほんの少しだけ視線を逸らした。
その横顔が、なぜか優しく見えてしまう。
「着いたよ。那覇」
「……え?」
まだ脳が半分寝ているみたいで、意味がすぐに理解できない。
ぼんやりした頭のまま窓の外に目を向けると――
さっきまでの白い雲海じゃなくて、広がっていたのは色の濃い地面と、どこか南国の匂いを感じる空だった。
見慣れない滑走路。
熱を持った光。
湿度の高そうな景色。
「……あ、ほんとだ」
驚くほど素直な声が出た。
前の席から、くるっと身を乗り出して海野が笑う。
「伊織、大丈夫?」
「顔色、さっきよりマシじゃん」
「……うん。ごめん、心配かけて。もう大丈夫」
そう答えると、みんなも「なら、えぇけど」と口々に言って、荷物を取り出し始めた。
久保は、俺が完全に立ち上がるまで、何も言わずに、ただ隣に立っていてくれた。
ブランケットの中に隠していたはずの手は、いつの間にかほどけていたのに。
その温度だけが、まだ指の奥に残っている気がして――なぜか、久保の手に視線を向けてしまう自分がいた。
*
そのままの流れでバスに乗り込み、目的地へ向かう。
エンジンの低い振動が足元から伝わってきて、窓の外には、見たことのない植生や、南国特有の濃い緑が流れていった。
資料館と祈念公園の展示を一通り見終えたあと、生徒代表として呼ばれた久保が、前へ進み出る。
その背中を見た瞬間、教室でふざけているときとは違う空気が、すっと胸の奥まで入り込んできた。
姿勢を正して献花台の前に立つ久保の背筋はまっすぐで、静かで。
俺は目を逸らすこともできずに、その横顔を焼きつけるように見つめた。
白い花が置かれ、俺たちは一礼し、黙とう。
さっきまで騒いでいたいつメンも、ここでは誰も余計な一言を挟まない。
田中も山根も川内も、冗談ひとつ言わず、真剣な顔で頭を下げていた。
――そして。
「じゃあ、次は昼食休憩。
班ごとにテーブルに分かれて、着席しろよー」
店の扉を開いた瞬間、空気が一気に変わった。
さっきまでの静謐な時間が、まるごと後ろに押し流されたような、あったかい匂いの洪水だ。
かつお出汁。
湯気。
鼻をくすぐる塩気と、だしの深い香り。
「うわ、うまそー!」
「サイズでっか!」
「絶対二杯食う、足りひんもん!」
テーブルにどんぶりが置かれた瞬間、全員が一斉に身を乗り出す。
自分の前のソーキそばを見て、思わず息を呑んだ。
想像してたよりもはるかに大きいソーキ。骨付き肉が堂々と鎮座して、湯気がモクモクと立ちのぼる。
「……すご」
自然に口からこぼれた声に、右隣で箸を持つ久保がクスッと笑う。
「伊織、一口で食えるでしょ」
「うるさいなー、もう」
冗談を返しながら箸を割る。
スープをすくって口に運んだ瞬間、だしの優しさと温度が、胃から背中までいっぺんに染みてきて、思わず目を細めた。
「……うまぁ」
その瞬間だった。横から割り込む、金髪が俺の視界を遮る。
「伊織! 肉よこせ! 肉!」
「うわっ、最悪! マジでやめて!」
「伊織が可哀そうやろ!」
「黙れって! せーの、強奪〜!」
騒ぐ一同。周りの観光客が一瞬ちらっと見るくらいの騒がしさだった。
その中で、久保は深く、呆れたみたいに溜め息をついて――
自分のどんぶりからソーキをひょいっと取り上げて、田中の器に入れた。
「……マジで、店だから静かにして。……それやるから」
「ええの?」
「いいよ。さっき席交換してくれたし」
「おっっしゃあー!」
田中が無邪気に喜ぶ横で、久保は小さく笑って水を飲む。
「ああ、さっきな。伊織、完全介護されてたもんな、機内で」
川内の声に、俺の顔が一気に熱を帯びる。
「ち、違うし……介護じゃないし」
言い返しながら、そばを勢いよくすすって誤魔化す。
久保は何も言わず、いつものクールな顔で食べながら、皆の会話を聞いていた。
「なぁ、このあとって一回ホテル行くんよな?」
「おん。荷物整理して、また集合する言うてたで」
みんなは喋りながら食べている。
俺と久保は、それに言葉少なに頷いたり、目だけで参加したりしながら、そばをすすった。
「ホテルのご飯、何やと思う?」
「なんでソーキ食ってるそばから、夜飯の話すんねんお前」
「やって、今日の楽しみイベントのひとつやし」
皆がゲラゲラ笑って、田中がソーキを頬張りながら拍手している。
俺もつられて口元だけで笑う。
その、次の瞬間だった。
テーブルの下で――
久保の手が、そっと俺の手に重なった。
それに気付いてから、心臓が、一拍遅れてドン、と跳ねる。
顔は出来るだけ動かさずに、下を見る。
久保の指が、ぎゅっと軽く俺の指を掴んでいた。
顔を向けるけど、久保はこっちを見ずに、
なんでもないみたいな顔で次の話題に混ざっている。
「久保は? タコライス食える? 辛いの」
「俺? うん、食えるよ」
本当に普通の声。
普通の表情。
けれど、俺の手を握る力だけは、変わらなくて。
――これ、どういうことなの……?
――もう、飛行機は降りてるんですけど。
誰かに見られたらっていう不安と、
もう飛行機は降りているのに、安心するような温かい気持ちが胸でカチ合って、息がうまくできなくなる。
食器を片付けて、移動集合の合図がかかるまで、久保の目は、合わないまま。
そして席を立つまで、その手は一度も離れなかった。



