乱気流の飛行機でパニックになり、隣の奴に手を握ってもらったら、転校先の生徒会長でした。

 バスがホテルの車寄せに滑り込んだ瞬間、車内の空気は沸騰した。

「うおお、でっか! マジかよ!」
「リゾート感えぐ……! 見ろよ、あのプライベートビーチ!」

 シートベルトの金具が弾けるガチャガチャという音と、逸る足音が重なり合う。
 通路へ流れ出す人の波に押されながら、俺も慌ててリュックを肩にかけた。
 バスのステップを降りると、そこには濃密な沖縄特有の熱気が待っていた。ヤシの木の葉が強い陽光を跳ね返し、吹き抜ける潮風が、汗ばんだ首筋をかすめていく。

「やば! ここに泊まれるん? 修学旅行とちゃう、バカンスや!」
「おい伊織、はよ! 写真撮るで!」

 はしゃぎ倒す仲間たちを横目に、俺の視線は自然と列の先頭へ向かう。
 そこには、しおりを片手に先生と行程表の最終確認をする久保の姿があった。生徒会長として気を張りながらも、時折、こぼれる周囲の騒ぎにふっと目を細めて笑っている。その横顔を見て、胸の奥がふわっと温かくなった。
 
(……よかった。久保も、ちゃんと楽しめてるみたいで)

 けれど、それは俺が勝手に抱いている独りよがりの安心で。
 久保は忙しそうにクラス委員に次の指示を仰ぎ、俺とは目が合いそうで合わない。
 ロビーへと誘導される間、弾むみんなの声とは裏腹に、俺の心は静かに波打っていた。

 *

 案内された部屋は、六人用の広々としたコネクティングルームつきの洋室だ。
 『オーシャンビュー優勝!』と叫びながら田中たちが窓に張り付く。
 一通り騒ぎ、制服を脱ぎ捨てて私服に着替えると、部屋の中は一瞬で男子高校生の生活感に侵食された。

 ふと鏡の前を見ると、私服に着替えた久保が前髪を整えている。
 どこにでもあるようなモノトーンのTシャツとパンツ姿のはずなのに、制服の時より少しだけ大人びて見えるのが、なんだかズルい。
 自分が着ている冴えない普段着のパーカーと見比べていると、他のクラスメイトたちが部屋にやってきて、大広間に一緒に行くことになった。

「今から講和って、ちょいダルいな」
「でもガチでふざけたらアカンやつやで」

 その言葉通り、その後の平和学習オリエンテーションでは、一転して重い空気が流れた。
 語り部のおばあちゃんの言葉を、俺は必死にノートに書き留める。
 『伊織、そんなに書かなくても感想くらいひねり出せるやろ』と川内には呆れられたけれど、その数席隣で、久保もまた一切の妥協なくペンを走らせているのが見えた。

 真面目ぶっているんじゃない。
 目の前の命の物語に、誠実に向き合おうとする久保の真面目な性格。そういうところは、やっぱりどうしようもなく尊敬してしまうし、人として好きだと思った。

 *

 ホテルで夕飯のタコライスを平らげ、バルコニーで響くエイサーの鼓動に酔いしれる。
 腹の底まで震わせる太鼓のリズム。弾けるような演舞。
 『伊織も行こうぜ!』と誘う海野を『動画撮っとくから』と断り、俺と久保は、輪のいちばん後ろで石畳に直でしゃがみ込んだ。

「……みんな、楽しそうだな」

 提灯の赤い光に照らされた久保の横顔は、夜の闇に柔らかく浮かび上がっている。

「……伊織、      」

「ん? ごめん、なんて?」

 太鼓の重低音に言葉が掻き消され、俺は自然と顔を寄せた。
 その瞬間。久保が、そっと俺の耳元に唇を寄せた。

「伊織のおかげで、俺も楽しめてる。……ありがとう」

 鼓膜に直接触れるような、熱を帯びた吐息。距離が一瞬だけゼロになる。
 心臓がドキンと強く跳ね、景色が白く飛んだ。
 久保はすぐに顔を戻し、何事もなかったかのように前を見据える。けれど、耳に残されたその声の残熱だけが、いつまでも引いてくれない。

 太鼓の音と、掛け声。世界はこんなに騒がしいのに、俺と久保の周りだけ、まるで音をなくしたみたいに静かだった。

「……うん、なら良かった」

 飛行機の時は、あんなに自然に手を繋げたのに。その前から、何回もハグだってしたのに。
 なのに、こういう不意打ちだと、どうしてこんなにも心臓が忙しくなるんだろう。
 髪を耳にかけるふりをして、久保に悟られないように横を向く。

 すると、エイサーを終えたみんなが興奮しきりの表情で戻ってきた。

「やばかった、俺のダンス見とった!? 伊織!」
「ちゃんと見てたよ。……動画も撮っておいたし」
「ステップめちゃムズかった~! 再現こんな感じやん!」

 大盛り上がりする四人につられて、つい、俺たちの喋り声も大きくなった、その時。

「コラ、お前ら! もう終わったんやから、静かにせぇや!」

 生活指導の先生が現れた。そして案の定というか、やっぱり真っ先に目をつけられたのは――ひときわ大声ではしゃいでいた、田中、山根、川内の三人だった。

「ちょっと来なさい」
「え、俺らだけ!?」
「いや待って先生、今のはテンションが――」

 抵抗虚しく、そのまま引きずられる三人……と思いきや。

「久保、新田、海野。お前らも、同じ班だろ。連帯責任だ」

 そう言われて、結局、俺と久保と海野も、まとめてお説教コース。
 全員俯いて『はい』『スイマセンっした』を繰り返し続けてそれが終わる頃には、他のグループはとっくに部屋に戻っていて、すっかり夜も更けていた。

「……だっる。俺ら損しすぎちゃう?」
「シケる時ほど、アホなことした方がえぇねん。一番風呂、階段ダッシュで決めようや!」

 山根の提案に海野たちが即座に応じ、四人が猛烈な勢いで階段を駆け上がっていく。
 静まり返った廊下に取り残されたのは、俺と久保だけだった。

「……アイツら元気すぎ。もう怒られたくないし、俺らはゆっくり行こう」
「だね……」

 そう言って歩き出した直後、こめかみの奥を鋭い痛みが突き抜けた。

「……っ」
「伊織?」

 振り返るより先に、肩に温かい手が置かれる。

「ごめん、ちょっと偏頭痛。疲れてるのかも……」
「大丈夫? ……無理しないで、こっからはエレベーターにしよう。こっちおいで」

 久保は俺の半歩後ろを歩き、俺がふらつけばすぐにでも支えられる距離を保ってくれた。エレベーターの箱の中、ドアが閉まった瞬間に久保が振り向く。

「今日は先に休みなよ。明日もハードだし」

 ぽん、と何気なく頭を撫でられる。その頭が耳へ滑ってきて、髪の毛先を避けるように指先が肌を掠めていく。
 その手つきと、そこから伝わる確かな体温に、ますます呼吸が苦しくなった。

(さ、触り方……すごいドキドキするんだけど。一応、ホントに心配してくれてる……んだよな?)

 部屋に戻ると、海野が状況を察して『伊織が寝るから静かにしろ!』と一喝してくれた。
 田中たちは慌てて隣のコネクティングルームへと移動し、扉越しに微かなゲームの音が聞こえてくる。
 俺はベッドに倒れ込み、腕で目を覆って光を遮った。すると、部屋の照明がふっと一段階落ちる。

「久保……ごめん、手ぇ煩わせて」
「何言ってんの。こんくらい、いくらでもするよ」

 椅子に座った久保が、至近距離から静かな声を落とす。

「伊織が俺に、今までしてくれたことに比べたら、全然だけどね」
「……お返しなんて、いいよ。俺が勝手にやったことだし」

 視線のやり場に困り、何度も視線がぶつかっては逸れる。

「……伊織の、そういうとこ……」

 久保が何かを言いかけ、喉の奥で押し殺した。
 静まり返った部屋。ゲームに熱狂するみんなの空気とは切り離された、二人きりの沈黙。
 久保が、ゆっくりと身を乗り出してくるのが分かった。
 近づく気配。シーツに置かれた彼の掌の熱。心臓が警鈴を鳴らしているのに、体は石のように動かない。

(え!? どうしよ、これ……キスされるやつ……?)

 パニックになりながらも、俺は抗えずにそっと瞼を閉じた。
 彼の呼吸が鼻先にかかり、意識が遠のきかけた、その時。

「おっしゃああああ!! スマブラ優勝!! 優勝賞金二千円ゲットーーーー!!!」

 バーン!! と、鼓膜を突き破らんばかりの勢いでドアが開いた。

「!?」

 久保が弾かれたように身を引き、ものすごい勢いで俺から離れるのが気配で分かった。
 俺も反射的に目を閉じたまま、心臓が口から出そうなくらい驚くのを必死に抑えて、寝たふりを決め込む。

「ちょ、田中てめぇ静かにしろや!!」
「伊織が寝てんねんで!?」
「あ、すまん……」

 ヒソヒソ声に変わる周囲。けれど、俺の心臓はもう、どんなエイサーの太鼓よりも激しく、速く暴れていた。
 布団越しに、久保が立ち上がる気配がする。何も言わない。
 ただ、さっきまで確かにそこにあった濃厚な熱だけが、遠ざかっていく。
 それがどうしようもなく名残惜しくて。
 瞼の裏に残る、近づいてきた時の久保の、あの射抜くような切なさをもった瞳を思い出して。

 俺の胸は、沖縄の熱帯夜よりもずっと長く、寝付けないまま疼き続けていた。