修学旅行当日を迎えた空港の出発ロビーには、同じ制服の集団が何列にもなって並んでいて、キャリーバッグの車輪が床を転がる音と、抑えきれない笑い声が混ざり合っていた。
「行くでぇえ! 待ってろや、沖縄ぁああ!」
「田中、朝からテンション高すぎ」
「沖縄やで!? ぼけっとせんと、テンションぶち上げようや!」
ざわざわと、学年全体が浮き足立った空気に包まれている。
旅行独特の、現実から一歩だけ浮いたような、軽くて眩しい空気。
俺もカートを引きながら、その輪の中に立ってはいたけれど、胸の内側だけは、まるで別の世界みたいに、重たい音を立てていた。
――飛行機。
その二文字を思い浮かべただけで、胃の奥がぎゅっと縮む。
若干、吐きそうまである。喉の奥に、じわりと苦いものがこみ上げてきた。
「はい、クラスごとに並べー! 出席番号順!」
先生の声で、列がゆっくり組み替えられていく。
人の流れに押されながら、俺も自分の番号の位置へと移動した。
俺の番号は、ちょうど田中と前後。
「伊織、隣やな。俺寝不足やってん、あとで肩貸せや」
「はいはい……」
田中がいつも通り、軽く肩をぶつけてくる。
――言えない。
田中に、「飛行機が怖い」なんて。
カッコ悪いし、言われても困るだろうし、絶対インスタいき。からかわれる。
搭乗が始まり、機内に入る。
独特の、金属と空気が混ざったようなにおい。
床を通して伝わってくる、低く唸るエンジン音。
それだけで、喉の奥がひりついた。
心臓の鼓動が、さっきよりも一段と速くなっているのが分かる。
座席は、やっぱり出席番号順。
窓側が俺、通路側が田中。
シートに腰を下ろした瞬間、指先から一気に血の気が引いていくのが、自分でもはっきり分かった。
「……え。 伊織、大丈夫なん?」
すぐ近くで田中の声がする。
けれど、どこか水の膜越しに聞こえるみたいに、音がぼやけていた。
視界の端で動いた川内が振り向く気配。みんなが俺の顔を覗き込む。
「うわ……顔色、やばくね?」
「白すぎやろ。貧血か?」
言われなくても分かる。
額から背中にかけて、汗がぬるく流れていて、でも全身は血の気が引いて冷えていた。
「だ、大丈夫……」
言葉がうまく話せない。
乱気流に巻き込まれるって、決まってる訳じゃないのに、どうしようもなく怖い。
呼吸が浅すぎて、胸が上下するたびに胃は浮き上がるように痛んで、捻じれそうだった。
周りでは、
「窓からの景色撮っとこ!」
「空の上でもスマホって繋がるん?」
そんな明るい声が飛び交っている。
その声が、遠ざかったり近づいたりして、音量の調整が壊れたスピーカーみたいだった。
――俺だけが取り残されてる。
大丈夫じゃないって言いたいのに、言えない。
迷惑かけたくない。情けないのも嫌だ。
「先生呼ぶ?」
「いや、でも本人が大丈夫って――」
皆が小声で相談しているのがはっきり聞こえた。
申し訳なさと情けなさが混ざって、耳鳴りの中でぐるぐる回る。
――久保。
その名前が、ふっと浮かんだ。
何の脈絡もなく。でも、確かに。
次の瞬間だった。
「どいて」
低くて、息のブレない声。
胸の奥に直接落ちてくるような、不思議な響き。
顔を上げると、久保が立っていた。
さっきまで騒がしかった機内が、一瞬で静まったように感じた。
「田中、席代わって」
久保の声音はどこまでも落ち着いていた。
「え? なに、俺……? 嫌や、加藤に怒られたないし」
田中が目を瞬かせる。
その迷いの隙間に、久保が容赦なく刺すように言葉を重ねる。
「お願いします」
短く。強いのに、必死さも滲んでいて。
その一言だけで、田中の肩の力が抜けて、苦笑した。
「……敬語て、どんだけガチのお願いやねん、お前」
「一生のお願い」
間髪いれず、まっすぐに。
久保の声が揺れなくて、その真っ直ぐさが逆に胸に刺さった。
「ガチかいな。……まあ、ええけど。
もうお前の“一生のお願い”はこれっきりやで」
田中は立ち上がり、席を交換する。
川内も海野も、変に茶化さず、何も言わず前を向いた。
久保が、俺の隣に座る。
その瞬間、さっきまで歪んでいた視界が、少しだけ、ゆっくりと元に戻った気がした。
「……久保、なんで?」
思わず、声が漏れる。
久保は、シートベルトを締めながら、こっちを見もせずに言った。
「……伊織の手は、」
カチ、とはまった音のあと、
初めて俺を下の名前で呼んだ久保は、まっすぐに俺の目を見て言った。
「俺が握ってあげたいから」
――頭が、真っ白になった。
「……な……っ」
声にならない音だけが、喉から零れる。
久保は、困ったように、少しだけ照れた顔で言った。
こんな場所で。
こんな真正面から。
こんな言葉を向けられるなんて、思ってもみなかった。
久保は、そっと手を伸ばしてきた。
触れるか触れないかの距離で、一瞬止まって、小さく、でもはっきりと言う。
「……嫌?」
俺は――それ以上、考える余裕なんて、なかった。
震える手で、久保の指を、きゅっと掴む。
その瞬間、久保は備え付けのブランケットを掛けてくれて、
その下で、しっかりと俺の手を包み込んだ。
温かくて、大きくて、確かに、そこにある重さ。
エンジン音が、少しだけ遠くなった気がした。
久保が、誰にも聞こえない声で言う。
「着くまで、離さないから」
俺は、答える代わりに、
その手を、さっきよりもずっと強く、握り返した。
――まだ、飛行機は離陸もしていないのに。
それなのに、胸の奥は、もうごちゃ混ぜの感情で、いっぱいだった。



